ヤギ爺の独り言2009
最新の独り言が一番上にあります。
12月30日(水)
小説には情景や場面設定や登場人物の行動や状況の説明がある。その部分は、声にはせず、イメージで心に浮かべればいい
映像で見る方がたしかに現実感はあるが、なにかセピア色のぼんやりとした心象は、なぜかリアルである。
そして、
小説には会話がある。会話の部分は、男でも女でもその人物になりきって、声に出して読むといい
小説の作者は登場人物の心の内面を地の文で語る。その部分は、その人物になりきって、ひそかに心の中で独白するといい
人は、必ず、表の自分と裏の自分とを持っている。心にもないことを言ったり、言ってしまったこととは別のことを思ったりするものだ。
こんな当たり前の読み方を思い知る小説を読んだ。いい年の瀬だ
·
ページの先頭へ
12月29日(火)
一週間以上も前のことだったと思う。突然、YouTubeした。拓郎だった。
片っぱしから聴いた。泣いた。
学生時代、拓郎はあまり歌わなかった。だからそらんじて歌える歌はあまりない。
あまり肌が合わないような気がしていた。だが、拓郎のオールナイトニッポンは毎週聞いていた。高校生だった。月曜だったと思う。
今なぜか吉田拓郎がものすごく気になる。2009年も暮れる。
·
ページの先頭へ
12月24日(木)
友人に教えてもらった大塚ひかりさんの『ポポ手日記』というブログが好きでいつも読んでいる。なーんか自分に感性が似てるような気がしている。
面識もないのに「さん」呼ばわりするなんて失礼だし、こういうふうに「自分に似てるかも」などと勝手に決めつけるのもストーカー的思い込みでよくないな、迷惑だろう、ごめんなさい。でも、山口崇さん好きなところも同じだし、飼っておられる猫2「ポロ」がうちの猫2「マメ」とどことなく似てるし…などと、あまり根拠もなく共感している。柄にもなく大塚ひかり全訳『源氏物語』なども買い揃えたりして…まだろくに読んでないけど…
などと考えながら、あ!と気がついた
そうなのだ、ここ1カ月以上、わたしは、本を読んでいないのだ
授業関係や仕事関係の本などは、もちろん、読む。しかし、「趣味の読書」を、まったくしていないのだ。
いかん、やはり入れねば出ん
もちろん排泄の話ではなく、「独り言」が書けなくなっている理由が、なーんとなくわかったような…
とりあえず、『源氏物語〈第1巻〉桐壺~賢木』なぞを、ゆったりと読んでみよう
·
ページの先頭へ
12月23日(水)
このところ8時前には寝てしまい2時過ぎには目が覚める。ただいま朝の6時半過ぎ。落ち着いてすべき仕事などをのらりくらりとするうちに、夜が明けかけるころにもなれば、なにやらもう昼休み!ってな感じになるものだ。朝飯?を食べていないので、無性にお腹がすいてくる。
忘れないうちにと夜中に仕事のことなどで同僚にメールを送ると、夜更し組が多く、「こんばんは」の返事が返ってくる。こちらは「おはよう」で返事をする。共有する時間も人によって感覚がちがうものだ。
仕事、家のこと、娯楽、酒と、いつものようにふだんのごとくつづいていた。ただ、なぜか頭が働かない。心が揺れ動かない。書くことが浮かばない
まあこんなこともあるのだろう。年も暮れていく
·
ページの先頭へ
12月7日(月)
この一週間何をしていたのか、すでに記憶がない…
·
ページの先頭へ
11月29日(日)
カバ婆が突然「わたし、着物着る」宣言をした
たしかに、若いころから和服には興味があったようで、着付けを習っていたことがある。街を歩いていてたまに和服姿の人を見かけると「わー、いい着物きてはるぅ」とか「襟がもうちょっと出たほうがええやんなぁ」などと、しばし振り返り見ることすらある。しかし、自分が実際に着ることはそうはなかった。せいぜいが子供の卒・入学式、それから同窓会などにもときたま着て行ったかなと思うのだが、普段は着ることがない。
だが、今度は「ちょっとしたお出かけ、あんさんと梅田行くってときでも、着ていくからね」と宣言したのだ。
きっと、少し前からボケ防止で和裁教室などに通い始めたせいだ。ばあちゃんや親戚のおばちゃんにもらった着物を仕立て直したいらしい。
それに、そう言えば、2時間ドラマ『温泉若おかみシリーズ』の東ちづるさんや『京都地検の女』の名取裕子さんを見ると「あー、普段からあんな風にさらっと着物着てみたいもんだ」などと言っていた。美人女優とカバとが同じはずがない…
困ったものだ
というのは、わたしは、基本、正装が苦手で、息が詰まる。ブレザーなどにネクタイ姿は数年に1回、スーツなどは礼服と同様、ちょっとした冠婚葬祭関連行事ぐらいでしか着ない。普段から和服姿の連れ合いに適う服装など、とてもとても、できるはずがない。
「べっつに、ジーパン姿だっていいよ」と、カバ婆は言う。だが、想像するだけで、すでに、息が詰まるのだ。
なぜだ、なぜなんだ? 突然…
だが、先日、ひょんなことから理由が分かったのだ。なにも奇をてらったわけではなかったのだった。
友だちと食事会に行くとかで前の晩から着ていく服を選んでいたカバ婆、タンスを開けたり閉めたりとガサゴソ音を立てていたが、やがて「うぅ~ん」「ふぅ」と唸り声、ため息が聞こえてきた。そのうち「あー、これも着れーせん」と叫び声。
そうなのである
いつの間にか、小洒落た洋服は、みな、サイズが合わなくなってしまっているのだ。もちろん縮んだわけではない。カバ婆のカバ化がさらに進んだのである。
部屋に戻ってきたカバ婆が一言、
「いかん。無理すりゃ入るスカートだが、それでは飯が楽しめん。やっぱ着物で行こう」
(注:着物は見た目ほどおなかあたりの締め付けはないらしい)
·
ページの先頭へ
11月25日(水)
ゲイリー・スナイダーというアメリカの詩人、思想家に『野生の実践』というエッセイがあり、その最初の文章のタイトルは「エチケット」となっている。
洒落た人間社会の決まりごとを言う「エチケット」を、あえて弱肉強食「野蛮」な自然界の掟を言うのに使い、ひとつひとつの言葉に重みを重ねた味わい深い文章なのであるが、あえてその主張のひとつを短絡要約すれば、「自然(野生)の中で生きる道は、舗装された安全な道を歩くのではなく、切り立った崖、あるいは刃の先を恐る恐る慎重に歩むことのようだ」ということだ。
野生の中で生きるとはつねに死と隣り合わせなのだ
野生生物は、いつ食われるかわからない敵から身を守るべく、つねに周りに「配慮」しながら生きている。障害物があればそれを「慎重」に避けて通る道を探るものだ。弱い動物は自分の痕跡を残さぬよう「注意」し、ときに自らの糞を食らうものさえいる。
車は「弱者」である歩行者を轢いてはいけない。目の前の障害物であるドアは自動に開くのが常識である。ほとんどがその場を離れればセンサーで自動で水を流すようになっている公衆便所の男性用便器だが、いまでもときどきボタンを指でプッシュして流す手動式の便器もある。その便器の上には大きな字で「使用後はこのボタンを押して「必ず」水を流してください!」と注意書きがしてあるのだ。
文明社会での「エチケット」は、野生の掟からますます遠ざかる。「配慮」「慎重」「注意」は、野生のエチケットである…
私流にこのスナイダーの文章を解釈すれば、こんな感じになるかな
さて、アウトドアで遊ぶとは、このような自然の掟に多少なりとも触れることだ。省みて、文明社会に生きる自分たちの生き様がいかに「配慮」に欠け「慎重さ」を忘れ「注意」を怠るものになってきたかを悟ることにも、大きな意義があるのであーる!
(また始まったか…ヤギ頭…)
山道を歩けば、マムシやスズメバチなどの有毒生物に出会うことだってあるのだ。ウルシなど触れればかぶれる植物だってある。雨で地盤が緩み、崖崩れの恐れがある山道もあり、踏めば転倒の危険のある浮き石だってある。
そうなのだ!
山ではつねに足元に注意し、周りの様子に気を配り、慎重に行動するべーし!
・・・・
昨日のこと
わたしの仕事場のある言語文化研究棟の裏庭を挟み向かいの建物は共通教育の教室の並ぶ共通教育棟なのであるが、その玄関前の広場に銀行のATMがある。朝、お金をおろしに行った。
ちょいとまわれば舗装整備された歩行者用の通路があるのだが、そこはアウトドア派ヤギ爺のこと、いつも、たいがい、裏庭を横切るのである。わずか10メートルそこそこの幅の庭だが、木が茂りなかなかの場所なのである。いつものように生垣の切れた隙間を通り抜け、木々の間を抜けて、裏口から建物に帰ってきた。
しばらく2階の部屋で仕事をしていたが、プリントを作ろうと一階の印刷室まで下りて行った。すると、事務の方がうつむきかげんで廊下立っているのに出会った。
「おはようございまーす」と声をかける
いつもであれば、「あ、おはようございます」とにこやかに笑顔で答えてくれるのであるが、きょうはなぜか黙ったまま、怪訝そうな顔で私の方を振り向いたきりだ。どうしたのかな?と思った矢先、
「せんせー!靴っ!」と、わたしの足もとを指さして叫んだ。
あわてて足もとを見ると、右足の靴底に枯葉が付いている。なに?と思って足を上げ底を覗き込んでみると、そこには枯葉のついた(たぶん犬の)糞が、べっとりと付いているではないか!
「せんせー!はやくー!これ持って、外で拭いてくださいー!」とティッシュを渡された。彼女は、廊下に転々と付いている土のような臭い物体の正体を見極めていたのだ。「せんせーだったんですねぇ!」
わたしはあわてて外に出て、土やら石やら枝やら、側溝の水たまりやらで靴底をぬぐった
そういえば、部屋で仕事をしていた時、何やら臭ーい臭いが漂っていたのだ。そのときは、廊下の方から臭ってくる臭いだと思っていた。部屋ではいつも換気扇を回しているので、てっきり廊下の方から臭ってくると思い込んでいたのだった…
建物に戻ると、もう一人事務の方が出て、ティッシュやぞうきんや洗剤や消毒液で廊下を掃除していた。
「ごめんなさい、すいませーん、申し訳ない…」と平謝りし、「二階の方、見てきます!」といって二階を見に行った。幸い、二階までにはそれほど被害が広がっておらず、いくつかの跡を掃除し、おずおずと一階に戻ったのであった。
しかし、裏口から事務室前あたりの廊下はやはり被害がひどかったのだろう。ふたりはまだ、懸命に後始末を、続けていた…
「ごめんなさい、すいません、ほんとうに申し訳ない…」
・・・・
家に帰りカバ婆にこの話をした。婆は、
「ふつう、踏む前に、気づくだろ」と、馬鹿な話に鼻白む
「ふつう、踏んだら、わかるだろ」と追い打ちがかかる
そして駄目押し…
「ふつうさぁ、建物に入る前に、靴底マットで拭くでしょ…これ、ふつーの、エチケット」
文明ボケのヤギ爺、お粗末顛末記なのであった
·
ページの先頭へ
11月23日(月)
あたりまえのことを思い知り、また愕然としている
どのように?How?ということをしきりに求める世の中のような気がする。コミュニケーションにしても、その方法をいろいろと考えることに夢中になっている世の中のような気がする
でも、思えば、伝え方を考えるのは、伝えるべき何かWhatがあることが前提での話なんだよな。この前提があってはじめてプレゼン技術だ
伝えることがないならば、黙っているのが一番だな
·
ページの先頭へ
11月19日(木)
コミュニケーションとは相互行為ですよね
送り手が自分の伝えようとする意思だけが唯一だと思い込むのも傲慢だけど、受け手が受け取った意味だけが正しいと思い込むのも独りよがりだと思います
我が意に背くものはすべて抹殺、なんて、今の世じゃあだーんぜん通用しません
それに、わたしの嫌なことをする人、嫌なことを言う人、つまり嫌な人はすべていやーっ!って態度も、ぜーたい、まかり通ってはいけないよな
同じ穴のむじな…
単なる一般論ですが、
人をわるく思うもよく思うも、人の意をわるく取るもよく受け取るも
これぞ人情と心得ようと自戒するヤギ爺です
(いかん…「79.聞き手、受け手の身勝手さ」と、同じこと言ってる…いよいよきたか…ヤギ頭…:11月20日記)
·
ページの先頭へ
11月17日(火)
世の中に蔑みの言葉がなくなったら蔑みの心だけ残るのだろうか
世の中に憎しみの言葉がなくなったら憎しみの心だけ残るのだろうか
世の中に差別の言葉がなくなったら差別の心だけ残るのだろうか
世の中が幸せや平等や公正な言葉だけになったら…
どんな心が残るのだろう
詩人ヤギ(なーんちゃって)
·
ページの先頭へ
11月15日(日)
学生時代、男の友達を呼ぶのに、「○○君」とも「○○さん」とも言いにくく、どうしたものかと、ふと思いついて、普段の会話などでは、皆を「○○選手」と呼ぶことがあった。
「おっ、鈴木選手が来た、ねえ、きょう飲みに行かない?」といった風に…
あるとき指導教官の川崎先生から、「森君は、どうして「選手」と呼ぶのですか」ときかれた。
「はい…わたしも浪人してるし、いわゆる後輩なる人にも年長の人がいるしぃ…途中で抜かしちゃってわたしの方が学年上は「先輩」になってしまった人もいるし…ってことで、女性ならみな「さん」でいいですが、男は「くん」とか「さん」とかややこしいんで…いっそのこと「選手」ってことに…大した意味はないです…」というようなことをしどろもどろに言った。
「そうですか。ならばわたしは川崎選手ですね」と川崎先生は笑った。
わたしは、メールなどの文面で、「よろしくです」という変な日本語を借用している。依頼などをする場合、「よろしくお願い申し上げます」とか「よろしくお願いいたします」とか「よろしくお願いします」とか「よろしく」とか、どれもこれも上下があって、そういう感じを持たせたくないなぁ…などと思った場合、
よろしくです
とする。
これ以外にも、自分のみの感覚で勝手な変態日本語を多用するのだが、やっぱり、これ、言葉の乱れなんだろうな
いかんいかん(かな)
·
ページの先頭へ
11月13日(金)
今朝ついに『街道てくてく旅』の原田早穂さんが平城宮跡の朱雀門にゴールした。
笑顔で歩いていたのだが、最後、マジ泣き状態になって、わたしももらい泣きしてしまった。
感動っていいな
だが、いつもより5分延長の20分放送だと、NHK!
なら、昨日の放送の時言ってくれ!(言った?)今日は、「てくてく→かめ」の順番で見たから、感動の5分間、テレビを並べて『ウェルかめ』も見ることになったぞ!
ああ、忙しかった
·
ページの先頭へ
11月12日(木)
久しぶりに食べたどん兵衛のそばの麺がが改善されていたのだ
普通の麺に近づいていたのだ
だが、
わたしは、インスタント麺にはそれなりの愛着があるのだ
ラーメンなら醤油系は出前一丁、塩系ならやはりエースコックのワンタン麺なのだ
由緒正しい麺が食いたければ、ラーメン屋に行こう、蕎麦屋に行こう
せめて、蕎麦なら自分で茹でよう
インスタント麺が本物を装う必要はないのだ
まえのどん兵衛そばが喰いたくなった
·
ページの先頭へ
11月12日(木)
吸い殻の溜まった灰皿を見てカバ婆
「あーぁ!ほんと、まったく、ムカつく。けむりもたまらんが、なにぃ、この吸いさし、あんた、半分ぐらいで消しとるがね。まだ吸えるがね。まったくぅ。もったいない。腹立つぅ」
この人の怒りの種はまっこと尽きることを知らぬ
そうなのである。わたしは、ほぼ3分で煙草を吸いきるが、うまいのは最初の1分ほど。ゆっくりと味わいながら吸っていると、つい無意識にもみ消していることがある。ゆえに、煙草は半分ほど、あるいはそれより長い状態で灰皿行きとなるのだ。シケモクにはうってつけだが、あれは味が落ちる
わたしは、もし多少割高でも、今の長さの半分、あるいは3分の1ほどの長さの煙草が、倍、あるいは三倍ほどの数入っているパッケージがあったら、必ずや買う。(フィルターに工夫が必要)
と、ふと閃いた
キセルや!
以前パイプを吸っていたことがあるが、あれもよかった。だが、やっぱり、煙管だろう!
そうだ!銭形平次だ!
週末大阪、十三まで行く予定があるから、梅田あたりで探してみよう
来年、再来年あたり、煙管が売れゆき好調になるような予感がする。あるいは、先に言ったような「最初の3服楽しむ煙草」の販売が検討されるかな、あるいは、「キセル型煙草セット」のようなものの開発が始まるかもしれない。
·
ページの先頭へ
11月11日(水)
画期的ダイエット法!を転々と試してみても、
だれでも話せる英会話!に挑戦してみても
「世の中変わる」と支持政党を変えてみても、
世の中なかなかうまくいかないものです
一次的な変化に一喜一憂し
恒常的な幸せをもとめて右往左往するのが人情
動き過ぎる世の中、自分は動かない手もある
はずなのだが…
バタバタどやどや騒がしいヤギ爺であることよ
·
ページの先頭へ
10月5日(木)
まずはちょっとだけ、読解力、の続きですが、思えば、何を読み解くか、ということが問題なのである。
「読解力」って、考えれば、こんなヤギ爺の独り言みたいな文章を、読み理解する能力ですか?それとも、宇宙物理学の論文を読み解くの?はたまた、『源氏物語』をじっくり読み味わうのでしょうか?
どうも、それぞれ、ぜーんぜん、別の話かもしれないな
さて、「読解力を養成する」って、いったい、どういうことなのでしょう?
・・・・
さてさて、ところで、やはり、歩行者ヤギ爺は憤る
どう考えても、夕方、歩いて帰宅する際の帰り道、渋滞する車の排気ガスには、どうしても耐え難い。ふだん煙草で鍛えている喉、肺ではあるが、近鉄学園前から家までの道筋、特に、奈良西警察あたりまでの道(ローカルですいませんm(__)m)は、地獄である。
歩道らしきもの、白線で曖昧に路肩のあるところ(歩道はないので人はそこを歩く)を歩くわたしと、渋滞でブワンぐわんアイドリングする車との距離は、20センチ~50センチ。およそ10分ほどの距離だが、明らかに喉が痛み、胸がむかつき、吐き気のようなものを覚える。
煙草を立て続けに10本、嫌だと言っているのに無理やり吸い続けさせられた場合を想像しても、この不快感は、それよりもはるかに酷いと思う。(あくまで個人的な感想です)
「ならば別の道を歩けばいいじゃん」って?
ならば、「この道、一車線(電車で言うところの「単線」)にすればいいじゃん!」
よく、せまーい山道なんかである、あるいは、工事中の道なんかである、5分~10分ぐらい赤信号で待って(こんなに待たせる信号はないか…)、対向する車と1車線を分け合うようにすればいい。その分、歩行者用のスペースを車から離して設定してくれればいい。
排気ガス垂れ流しの車から20~50センチのところを歩くのと、2,3メートル離れて歩くのと、それだけでも気分は、おおいにちがう。そりゃー、地球規模のCO2排出量削減だとか、国民の健康増進だとかにはまったく影響しないけれど、すくなくとも、歩行者ヤギにとっては、大きな問題だ。3メートル離れてくれさえすれば、口をハンケチでふさいだり、わざと咳き込んで嫌な顔などせず、にこにこ両手を振って、車の横でも歩いて帰ろう。
普通なら2,3分で通過できるところを2,3時間かかるかもしれません。でも、車に渋滞は付き物。行列に並んで待っているつもりにでもなって、にこやかに待てばいい。(できればエンジンは止めて、本でも読みながら待ちましょう)
この際、渋滞が伸びてCO2排出量が増えようと、皆が迂回して走行距離が増え、結果大気が汚れ国民の健康に被害が及ぼうと、とりあえず、歩行者ヤギは、自分の快適歩行帰宅のみを念頭に置いているので、別問題として考えています。ひょっとして、そのおかげで車の量が減り、結果、地球温暖化のグローバルな問題に貢献することになるかも知れぬ。
「それでは駅で待つ夫、娘(息子)の迎えにならん」というならば、みなさん、「ねえ、歩けば4,50分よ、歩いて帰ってきて♡」と、愛する家族にメールしましょう。娘の夜道が心配なら、家族そろってウォーキングぅ!で迎えに行く手もある。
わたしは車の運転が大好きだから、ドライバーヤギ爺は、このように「歩いた方が早い」という道路事情になってでも、基本、にこやかにじっと我慢で、エンジンを止めて、本でも読みながら、2,3時間待つ覚悟はできています。もちろん、あらかじめわかっていれば極力車には乗りません。あるいは時間をずらすよう努めます。
共存は難しい
·
ページの先頭へ
11月3日(火)
英語教育について考えるシンポジウムや討論会や相談会では、TOEFLやTOEICによる評価体制の確立だとか、e-learningをいかに導入するかとか、短期留学制度の活用法とかが話題になるのだが、そんななか「読解力の教育方法は?」という問いがなされることがある。
わたしなどは、「読解力は教えられない」というのが直感で、広く「理解力」とは、相手の意を汲み自分の思いと付き合わせる力だから、「よーく考えなさーい」というしかないように思ってしまうのだ。
読解力を養うには、さっと読んだだけでは分かりにくい教材を使い、意味を汲み取る努力をさせ(俗に「訳させる」という)、おかしいと思ったら「ちがうんちゃう、ちょっと考えてみてよ」と促す。さらに、「どうして?」「なぜそうなる?」といった答えづらい質問を繰り返す。
といったぐらいのことしか思いつかない。つまりは、わかりやすい丁寧な説明をしない授業をするということだ
読解力や理解力を刺激できる教師というのは、「ふ~ん、そういう風に考えるのかぁ」とか「なるほどぉ、そんな読み方もあるのだな」と、目から鱗の読解力や理解力を示すことができる教師だけなのであーる
あるいは、「え?なんでそーなるの?」「まーた、何言ってるのかわからへん」となるようなとんでもない読解を示すヤギ爺のような場合でも、それなりの役割はあるのかな…
·
ページの先頭へ
10月30日(金)
言行一致は難しい、ヤギ爺の場合は、まずない
・・・・
化学物質過敏症というのがある。道を歩いていて、舗装したてのコールタールのにおいなどしてくると、もう鼻がツンとして、涙が出てくる人がいる。新築の建物には入れない人がいる。
わたしも多少その毛があるが、カバ婆は香水過敏症である。乗物などに乗っていて香水のきつい臭いが漂ってくると、わたしも嫌だが、カバ婆は思わず「クサッ」と声に出してしまうぐらい。相手に聞こえなかったかとビビる始末だ。
OLさんだったころ通勤電車で「思わず吐きそうになったことがある」という証言もある。
死刑に「糞尿地獄の刑」と「濃縮香水池の刑」があったとしたら、わたしは確実に前者を選ぶ(はずがない)
·
ページの先頭へ
10月29日(木)
生駒トンネルを抜けるとそこは石切。近鉄電車の車窓からは、小高い丘からの眺めのように広がる大阪の街が、スーッと、見下ろせるのである。
線路沿いには視界の遮りも多いのだが、それでも、帰宅どき、夕闇に大阪方面から帰るときなど、だんだんに登る電車からは大阪の夜景がきれいだ。飛行機嫌いの爺だが、この時ばかりは離陸する飛行機に乗っているような錯覚に酔う。
しかし、晴天の今朝車窓から眺めた大阪は、灰色のガスに包まれていた。しばしば散歩で登る矢田丘陵から見る奈良の町並みのほの白い靄ともちがう、山で見る深く白み霞んだ谷沿いの風景ともちがう。どす薄い(こんな言葉はない)灰色がかった街だった。
排気ガス?工場の煙?
光の関係でそのように見えるのかもしれない、科学的説明を調べたわけでもないので、何とも言えない。しかし、
ラッシュの始まった大阪の道路、絶えず煙を上げる煙突のある工場を思うにつけ、その下に向かう通勤電車に乗るのが、まこと苦痛になってきた。そのまま家に引き返したい衝動に駆られる爺であった。
(実は、ただ単に仕事に行くのが嫌な爺だったのかも知れぬ、阿呆らし)
さて、阪急石橋の駅で電車を降り、大学までの歩きの十数分、阪大下の交差点から普通皆の歩く通学路と別の住宅街の中、人のあまり歩かぬ道をくわえ煙草でゆるゆると歩くうち、目の前の緑はきれい、町並みは静か、空気は清浄、気温は快適、歩くのが楽しくなるものだ。
見えぬ脅威は忘れるがいい。実は、阪大豊中キャンパス辺りは阪神高速、中国道、能勢方面からの通勤の車で渋滞する道の集中するところだから、生駒の丘から見た灰色の下にかかっているかもしれない。
だが、実際吸う空気は秋の空気だ、渋滞する車道からわずかにそれるだけで空気は清浄としか感じない
なら、まあ、それでいいやな…
と、話は飛びます
帰りの電車でのこと。帰宅時間の時差のおかげでほどよく混む(どんな混み方や)電車の中、それでも座る席もなくちょうど優先座席のあたりに少し空いた空間があったのでつり革にぶら下がった。目の前の優先座席には若い女性が二人と端っこに中年のサラリーマンの総勢三人が座っていた。
と、中年サラリーマンのケータイが鳴った。目の前には「携帯電話の電源はお切りください」の文言とケータイ禁止のマーク。
しかし、サラリーマンはケータイをとって話し始めた。隣の女性の反対側、壁側に身をよじり、ケータイを手で覆い、小声で、遠慮がちではあるがとにかく「もしもし…はい…今電車で…ちょっとだけならいいです…」と始めたのである。
正義感あふれるヤギ爺は、キッと彼を見つめおもむろに…と、思って、あたりを見回すと、隣の女性はケータイを手にメール。その隣の女性も、ケータイかiPodだかわからぬがカバンの中からつながるイヤーフォーン(ヘッドセットと言うの?)で音楽やら何やら聞いている。
遠慮はない
さてさて、ぐるりとまわりを見回して見ても、どうやらヤギ爺よりも年寄りはおらぬようだ。それに、妊婦も障害者もおらぬ。ほどよく混んだ帰宅列車…。皆、帰宅を急ぐ。
まあ。いいかぁ…。
話は飛びます
近鉄学園前からの帰り道、例によって夜道のウォーキングの帰宅中、ガンガン車の通るバス道に交差する幅2,3メートルの脇道との間に信号がある。
赤だ
ごくたまに住宅街から出ようとする車用の信号だ。これがなければ、交通量の多いバス道に出るのはなかなか難しいのだ。しかし、今は夜、出てくる車もない。2メートルほどの道を歩いて横切るのに赤信号を待つべきだろうか…と、悩み、しばしたたずむヤギ爺なのであった。
ところで、車を運転していると、たぶん小学生の通学路なのだろう、田舎の田んぼの中の、四方八方「スキーッつ!」と見晴らしのいい交差点に信号があることがある。車で出くわせば、なぜか知らぬがそこは道路交通法の重みだろう、ヤギ爺などは、金輪際一台の車も通らぬ赤信号であっても、なぜか神妙に待つアホヤギ頭であった。目に見えぬ官権というやつか。
でも、さて。ならば、もし、そこをジョギングで通過する場合だったら…と、いつまでも悩み続ける困ったヤギ頭なのである…
「きまりは守りましょう」の小学校の教えに三つ子の魂で縛られている哀れヤギ爺であることよ
話は少し戻ります
今日の帰宅時のこと、急に煙草が吸いたくなり近鉄の鶴橋駅で電車を降りた。難波から地下を通る近鉄が外に出る鶴橋の駅には、喫煙コーナーがあるのだ。
帰宅時間の駅、ホームには人が溢れ、喫煙コーナーには紫煙が溢れる。「通る人の迷惑になりますので喫煙スペースの中で煙草をお楽しみください」というような張り紙。「マナーを守りましょう」なのである。白線で囲まれたスペースは哀れに狭い。
ヤギ爺は、むさく苦しい(このような言葉はない)人ごみと煙い空気に辟易し、とうとう、点けた煙草を打ち捨てて、そそくさとまた電車に飛び乗ったのであった。
話は飛びますが、アウトドアの出張で出かける信州のJRローカル駅。当然禁煙。喫煙コーナーはホームのずっと先である。乗り換えの電車待ちのヤギ爺のほかには人はいない。ホームの真ん中で一人電車を待つヤギ爺はケータイ灰皿を携行していた。さてさて、ここで吸ってもいいのかな…、それとも、やっぱり喫煙コーナーまで歩いて行くのかなぁ…と、ひとしきり悩むヤギ爺があった
話は戻ります
CO2排出基準を守っていない車は基本的に走っていないはずである。基準を超える有害物質を出す煙突は基本的にないはずである。だから、それらの車が走りそれらの煙突がある街に住み、その街で仕事をすることは、基本的に、「健全だ」ということになる。(ほんとかいな)
「大阪の空気は汚いから大阪での仕事を拒否します」と言えば首になるのはヤギ爺の方だろう
それからまた、別の話だが、道路交通法上赤信号を守らなければ、基本的には罰せられるのである。軽犯罪上、立ちションだって罪になる。
話は飛びます
小さいころのクマ太郎、「トイレに行ったら手を洗おう」のルールを順守する、父親似の模範児童であった。キャンプに行って連れションしたとき、臭汚い(このような言葉もない)トイレの後「とーさん、手ーあらいーやぁ!」と父を叱ったのはクマ太郎であった。どうしても野ションせざるを得なかったとき「とーさん、手どこで洗うの?」と不安げ悲しげに聞いたのも、クマ太郎であった。
「ばかやろー!自分のしょんべんの菌で病気になるような軟弱もんでどーするんだぁ!」などと馬鹿なことを言っていたヤギ父であった
さて話は終わりに近づきます
生駒トンネルを抜け石切の丘から眺めたドス薄い灰色がかったガスに覆われた大阪の街は、今朝は衝撃的であった。喫煙で「肺がんにかかった肺」と「健康な肺」を比べて見せられるのも衝撃的だし、運転免許センターで飲酒運転や無謀運転で起こった「血だらけの事故現場」を見せられるのも、ヤギ爺にとっては、かなり衝撃的なことだ
目に見える脅威は怖い
だが、その脅威にめげず生き抜くため、爺は思い直す。「いずれにせよ癌に侵された臓器はだれのものでも汚い」、それに、とにかくいかに安全運転に留意していても事故は起こりうるし「どんな事故現場もけっきょく血塗られる」マイナス思考のヤギ頭。畢竟、極論、どーせみんな死ぬ
こう想像すれば、なんとか目に見える脅威からは逃れられるものなのだ
わたしは、煙草をスパスパ吸うが数年前レントゲンを見た医者に「きれいな肺をしてらっしゃいます」と言われた。何のことはない、そのお医者は「癌とか結核だとか、そういう病の兆候らしい痕は見つからない」という意味のことを言っただけだと思うが、なんとなくうれしかった。
運転は基本安全運転のつもりだが出鱈目なところもある。しかし、いまだ血塗られた事故を起こしたことがないのは幸いだと思っている。ただ単に運、確率の問題かもしれないが、とにかくありがたい。今後も気をつけていこうと思っている。
さて、今日一日のことであるが、とりあえず豊中と吹田(阪大のキャンパスがあるところです)の、今日の緑は、まこと、きれいであった。紅葉もほのかに進み、秋の空気はすがすがしかった。乗り物はやめ、歩く街路は、お買い物帰りの主婦や学校帰りの学生さんたちでのんびりにぎやかであった。仕事もそれほど詰まっていたわけでもなく、まずまずの疲労感の一日は、まずまずであった。
わたしは大阪に通勤している。大阪の街の空気は、たぶん、汚い。しかしわたしは生きなければならない。ならばここで仕事をするしかない
のである
とりあえず、今朝生駒山の麓から眺めた大阪の街の姿は、忘れるようにしよう
何年か後、何十年か後、何百年か後、きれいな空気の大阪になるのなら、それはいいことだ
見える脅威にも、見えない脅威にも、怯えビビるヤギ爺なのだ
·
ページの先頭へ
10月25日(日)
先輩同僚ご夫妻に比良山系武奈ヶ岳登山に連れて行ってもらった。毎週のように山歩きを楽しんでおられ、自称アウトドア言語文化研究家としては、いちどごいっしょさせていただきたいと思っていたのだが、やっと実現したのだ。よかったよかった
連れて行ってもらうとき、いろいろと気を配ってもらうのもうれしいが、それよりもなによりも、そのご当人たちが楽しんでいる姿に接するのが一番なのだ。もてなしの極意だろう
ありがたい
さて、ところで、京都から近鉄での帰り道、ご夫妻と別れた後、だんだんに人が込んできた。カバ婆とふたり楽しかった一日の思い出話に花を咲かせているとき、ふと前で吊皮にぶら下る青年のジーパンの「社会の窓」(最近耳にしない言葉のひとつ)が開いているのに気がついた。どうしよう…と思っていたとき、ふと目があったので、自分の股間をトントントンと軽く指さし、
「開いてますよ」のしぐさをしてみた。彼はすぐ気づき、そそっと閉めた。
さてさて、爺はふと考える。
目の前にジーパン姿の若い女性が立っている。視線のすぐ前に開いた社会の窓…
さてて、万が一目があった時、同じ合図が送れるか…
…無理だな…
この世の中、「見て見ぬふり」も、ときには、必要なのかな
(もちろん、そっと隣のカバ婆に頼むことはできるだろうね、この場合だったなら)
·
ページの先頭へ
10月22日(木)
高校の英語の先生が言う
「うぅーん…。今のあなたの訳は、ちょーぉっと、不自然だったと、思わないぃ?はーい。そういうときはねぇ。とりあえず辞書の定義を鵜呑みにせずに、そのままあてはめるんじゃなくてねぇ…。いちどお、読んでいる文章の「ぶ・ん・み・ゃ・く」に、あてはめてみてくださーい。それで、その流れの中で、適切な意味をかんがえてみるといいわ、ね!」
いまでもどこかの高校で見受けられる風景だろうか
思えば、「訳読」とは、空気を読む訓練だったような気もする
ただし、もちろん、「訳読」で英語を習得した人が皆「空気が読める」わけでは、ない
·
ページの先頭へ
10月22日(木)
今朝は午前12時過ぎに目が覚めたので(夜7時すぎには寝てしまった…)、ちょいと長い朝飯前を過ごしました
と、朝のニュースのテレビから「若者の車離れの問題が…」などと聞こえてきた
はぁーっ!?
である。それでいいんちゃう?、である
「東京モーターショー2009」の宣伝(ではない、あくまで「報道」)だったのだが、日本自動車工業会の人が、今年は不況で参加する車会社が半数以下だったというようなことを言うと、司会者が「それに、最近は若者の車離れという社会問題が…」というようなことを言った。
それは、ちょうどおしっこがしたくなり、トイレに行こうとする後ろ姿で聞いたのだったが、残念ながら我慢ができなかったのでそのまま駆け込み、後の話は聞いていない、が、
まあ、想像はつく。社会問題はこうして作られる
へぇー、と思って「若者の車離れ」とキーワードを入れてインターネットで引いてみたら、恐ろしやウィキペディア、トップで出てきた。いろいろ説明してある。
まあ、これなどはわたしにはどうでもいいことで、おしっこの方が優先だったのだが、「若者は…」「若者が…」とか「○○離れ」が、ゆゆしき問題として語られるのが、ここまで来たか(どこまでだ!)という感じはある
若者のたばこ離れもあるし、酒離れだってあるが、これはゆゆしき問題?
元祖「本離れ」については、わたしの子供のころ40年前から「読書の秋」ともなれば毎年のように問題だし、新しい「おもちゃ」が出てこれば、何年か後には「若者のケータイ離れ」がゆゆしき問題ともなろう機運だ。
現に、「今の若者は、ケータイばかり使うのでコンピュータを見ない」といった憂いの言葉をどこか(テレビ)で聞いた覚えがある。「コンピュータ・リテラシー」の時代である。かつて、コンピュータは「若者の本離れ」の元凶と言われていたように思う。
離れてってもいいのになぁ…と思うものはいくつもある
わたしなど、興味も関心も、義理も人情もないので、たとえば「日本人のゴルフ離れ」などとなってもちっとも憂えない
関係者の皆さん、ごめんなさい。人とは、かように、薄情なものなのです
(追記:「酒離れ」「煙草離れ」で検索すると、この話題、もうだいぶ前からみなさんしているようです。「マージャン離れ」「カラオケ離れ」…なにやら、今の若者像とか時代が変わったとか憂う声もあるけど、やはり、業界、関係者の憂いが深刻でしょうね。10月24日)
·
ページの先頭へ
10月19日(月)
可能な限り、NHK放映原田早穂さんの『街道てくてく旅』と朝ドラ『ウェルかめ』を連続で30分、テレビの前で柔軟体操をしながら、にこにこ顔で見ているのである
·
ページの先頭へ
10月17日(土)
話がちとめぐりめるりますがご容赦
クマ太郎を知る若い女性の知人といっしょに旅をしたとき、(もちろん、集団旅行です!)、わたしの声に「えぇっ、森パパ、むっちゃクマ太郎君と声似てるーぅ!」と言われた。まわりの人どもからも「そういえば、トーンはちゃうけど、ほんと、似てるわ」と言われた。
留守に電話に出たときよく間違えられるとクマ太郎も言っている。親子とは不思議なものだ。
東ちづるさんの2時間ドラマ「温泉若おかみの旅情殺人推理」シリーズがくだらなく好きで、「こんな刑事おらんやろ!」の中村梅雀さんが出演している。梅雀さんはご存命の梅之助さんの息子さん。目をつぶれば、往年の梅之助さんと声が瓜二つなのだ。
前にも書いたが、わたしは中村梅之助が大好きだった
お江戸のそ~おぉらに、春を、呼ぶぅ~ぅ、花も、うれぇしいっ、とーーやーーーま、桜ぁ~~あーーーん…ごぞんじ長屋の金さんがぁ…
の『遠山の金さん』はわたしにとっての時代劇の象徴なのだ。『達磨大助』も忘れられない。テレビは魔物だ。
2007年の『どんど晴れ』以降、NHK朝の連ドラを見ている。夜、週末の再放送などで補いながら、つい見てしまうのだ。このところ『だんだん』と『つばさ』は途中で見ずじまいになってしまったが、『ウェルかめ』はいまのところ見続けている。見続けるというのにはなにも芸術的要素、感銘だけではないのである。
大村(最初、「大山」と書いてました、恥ずかし…)益次郎は湯豆腐が大好き?
大河ドラマ『花神』の梅之助益次郎がことあるごとに「これさえあれば栄養は十分」と、いつも湯豆腐を食べていたのが忘れられない。わたしも湯豆腐が大好きなのだ。
あいかわらず末節のみが残るヤギ頭
「婆ぁ、なんか、食うもんないか?」
今も今、晩飯も済んだところで、ぐだぐだと酒を飲み続けながら尋ねると、
「冷蔵庫に豆腐…」
賞味期限間近の木綿豆腐が冷蔵庫にあった。
一人用土鍋で温め、葱を切り生姜を下ろし生醤油で食す
湯豆腐はなんとうまい
·
ページの先頭へ
10月13日(火)
コミュニケーションを考えるとき、研究や啓蒙では「いかに正確に要領よく自分の意思を伝えるか」といった類のことばかり探求し教えているな、などと、コミュニケーション論に関する研究書だとか「話し上手になる法」をテーマとした本などを十把一絡げで胡散臭いと思っていたのだが、思えば、聞き手、受け手の身勝手ということがある。
あたりまえのことにようよう気がついた
「こう言えば必ずこう伝わる」と思い込むのもかなり不遜だが、「どう捉えようが勝手だろ」と考えるはじつにおこがましい。
「どんな場合でもとにかくわたしが不快だと思ったらそれは不快な行為なのだと表明していいのだ」と人に思い込ませてしまうような思想は、じつによくない。
わたしにはどうしてもこうとしか思えないけど…と、悩み苦しみ考えることはあるけれど
·
ページの先頭へ
10月13日(火)
むかし、社会言語学の専門の先生に、「Sociolinguisticsってのは、「社会言語学」というよりは、むしろ、「社交言語学」と言った方がいいと思うのです」と言って、ムッとされたことがある。
「社会」という言葉があまりにも抽象的で「人」の気配が感じられない言葉のように思ったからで、なにも卑下するつもりはなかった
ちょっと反省しているのは、「社交」には、「社交ダンス」のような「高尚な」お高くとまった雰囲気があるし、「社交辞令」のように、単なる表面的な付き合いを示すニュアンスがあり「日常の人と人との交わり」という感じがなくなってしまっているので、「日常のコミュニケーション」の分析を目指す社会言語学者には、侮辱、非難、否定と響いてしまったのであろうということである。
申し訳のないことを言った
だが、「文化」という言葉にも、場合によっては「文化的生活」「文化人」といったような、お高くとまった感じがあるのだが、「文化」は日常の人々の生き様のことだという考えもあるわけで、いま、「社交」という言葉にも、日常の人と人との交わりという意味を持たせてもいいような気がする。
「社会を論ずる」という傲慢さを思うにつけ、「社交について考えたい」という気持ちが湧いてくるものだ
まあ、「お付き合い」を考えればいいのだが、「社会」にせよ「社交」にせよ「付き合い」にせよ、人と人とのかかわりあいを言う言葉には、余計なニュアンスが付きまとう
·
ページの先頭へ
10月8日(木)
NHKの台風情報の際、新幹線が遅れる東京駅からの中継のなかでの「旅行鞄を引く乗客の姿が…」という表現を、カバ婆が聞きとめた。
そうだな、鞄は「引く」ものにもなってきたな、でも、あれ、邪魔なんですけど…
人ごみの中でしてはいけないことに加えてもいいかもしれない
·
ページの先頭へ
10月4日(日)
若いころは、たしかに、岩場に出たこともあるが、
今では、2メートルの塀の上に立ち上がることすらできない
ゆえあって、高度感に慣れる練習をしている
2階の窓から上半身を出してもあまり怖さを感じなくなってきた
まだまだ抵抗感が残るが、それでも進歩進歩
「慣れ」と「気の持ちよう」を信じ修練に励む(なさけなや)
·
ページの先頭へ
9月28日(月)
以下の「野外教育」に関する検索については、すでに井村仁氏が「わが国において「野外教育」という用語が初めて使用された時期とその内容について」(『野外教育研究』、日本野外教育学会、Vol.11 No.2、2008年4月)で行い、内容についても言及しておられます。したがって、二番(あるいは五、六番?)煎じです。(追記:9月29日午後)
ちょっとした覚書です
あいかわらず、ヤギ爺の場合は「机上の空論」ですが、国会図書館の蔵書検索システムNDL-OPACで「野外教育」ってキーワードを検索してみますると…
「野外教育」をタイトルに持つ和図書で一番古いのは、
竹丸豊次郎著『新兵野外教育計画』という本で、初版は明治40年(1907)1月刊行(国会図書館蔵書はその第4版で同年12月出版)。出版社は、あな恐ろし、軍事学指針社という。今でいう「野外教育」とはだいぶ趣がちがっている。
ちなみに、遊び・スポーツ関連の意味では「戸外」という言葉の方が古くて、最初は『西洋戸外遊戯法』下村泰大編という「ハウツーもの」だ。明治18年(1885)3月の出版。ただし、内容は、鬼ごっこの類の遊びや、サッカー、野球、テニスなどの球技、それから陸上競技の紹介だから、これも今でいう「野外遊び」とはちがうな。
しかし、なんとなんと、便利なことに、両方とも、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で家に居ながらにして読むことができるのですよ!
また、前に新聞記事にあったと紹介した「野外学校」(72.アウトドアと健康と教育 9月16日(火)参照)については、大正8年(1919)のブロートン著、大阪結核予防協会訳『野外学校』(大阪結核予防協会出版)がある。
さらに、大正11年には日本人医師小田俊三によって『野外学校の学理と実際』(弘道館)という本が書かれ、結核に限らず、体力、健康、知力に劣る児童達のための「野外学校」の必要性を説いている。ちなみに、その結論には、「体格体質体力乃至は智力に於いて劣性なる児童を塵埃の巷に於いて他の健康児と相伍して同様の学課体操運動技芸等を課して果たして影響なきものなりや」(218)とある。隔離矯正教育ですな。
これらも家で読めちゃうんだから、デジタル社会恐るべし
さてさて、「野外教育」のNDL-OPACでの検索の話に戻りますが、和図書でヒットするのは42件。出版年の古い順に5つだけコピペすると、
1. 新兵野外教育計画 / 竹丸豊次郎. -- 訂正増補(4版). -- 軍事学指針社, 明40.12
2. 野外教育百科全書 / 軍需商会編纂部. -- 軍需商会, 明45.4
3. 実際的歩兵騎兵野外教育. 巻1 / 安西理三郎. -- 菊地屋書店〔ほか〕, 大正2
4. 野外教育 / 江橋慎四郎. -- 体育の科学社, 1964
5. 野外教育 / 斎藤仲次. -- 明治図書出版, 1968
となります。
3番目と4番目、大正2年(1913)から1964年(昭和39)の50年間のブランクが気になりますね。2つの大戦争を挟んだこの50年間に何が変わって何が変わっていないかだな。
遊び呆けるヤギ爺だが、やっぱり、「軍役」「矯正」「教練」「教育」(英語では "discipline" という便利な言葉があって、こんなような意味をぜーんぶあわせもちます)などにも、目を向けにゃあ、いかんな
·
ページの先頭へ
9月24日(木)
世間では「シルバーウィーク」で、あちこち賑わいを見せたり、渋滞やら帰省ラッシュ、Uターンラッシュなどと、あいかわらずレジャーも帰省も皆いっしょで「ごくろうさま」状態だったようだが、わが家は、とびとびで何やら用事もあったし、だいたい基本出不精なので、休みの間ぐだぐだと家で過ごした。
22日はわたしひとりでちょっとだけ出かけた。三重県のいなべ市に「クライミング遊」というインドアクライミングジムがオープンし、オーナーの後藤さんはにいちゃんがとてもお世話になった方で、「いちどおいでよ」と誘っていただいていたので、「クライミング歴30年その間ブランク20年のド素人」ヤギ爺は、いちど行ってみたのだ。
(ちょいと宣伝をしてしまうが、ド田舎にある「クライミング遊」は、御在所岳に近いのであるが、ド素人にとっても面白いルート設定があり、後藤さんの人柄もあり、奥様の人柄もあり、わたしとしてはすばらしい場所を見つけた感があります)
話せば長くなるが、(本題はまだまだ下の方)、関東を中心に活動している「モンキーマジック」というNPO法人(視覚障害者と晴眼者とがいっしょにクライミングを楽しむことをめざす団体:代表小林幸一郎さん)の仲間たちがシルバーウィークを利用して関東方面からわざわざ三重に来ていたのだ。三重県には御在所だけでなく名張とかにもけっこう有名なクライミングエリアがあるのである。
モンキーマジックの活動には数年前からときどき参加させてもらっている(といっても、ほとんど「見学」)。代表の小林さん自身が視覚障害なのであるが、クライミングがやたらうまい。また、活動の中心であるクライミングスクールに参加している視覚障害のメンバーさんたちもみごとなクライミングをするのだ。とにかく、そこでインストラクターをしている亮子さんとわたしは腐れ縁で、にいちゃんを通じて亮子さんと後藤さんも知合いで、このたびは亮子さんからも誘われて、後藤さんのクライミングジムにうかがうことになったわけである(と、個人的なわけのわからない話ですいません)。
ということで、22日は、東京方面に帰る人たちもいるので、岐阜の瑞浪にある屏風山というクライミングエリアに行く予定になっていたのであるが、あいにくの雨のためそれが中止になり、午前中クライミング遊の人工壁で「遊ぶ」ことになったのであった。
亮子さんや後藤さんから初心者向けのルートやムーヴを教えてもらい、ちょっと頑張って登ってみた。クライミング歴30年その間ブランク20年のド素人ヤギ爺は、数度のチャレンジで腕の筋肉はパンパン、ホールドに引っかける指の力は激減、足はガクガク。やがて、しずかに、本来の見学者のポジションに戻るのであった…。「すごいすごい!よくあれでバランス取れますねぇ、すごい!」「なんでみんな、そんなに何回もトライでけるわけぇ?わしなんか、腕、すぐパンパンだがね…」
まこと情けなや
ということで、午前中でクライミング終了。高速の渋滞も考慮し、関東帰る組は帰路につくことになったのだ。
再会を約束し皆と握手して見送るヤギ爺。さて午後はどうするか…
ということで、やっと本題に入ります。そのまま帰るのも何なので、ちょいと藤内小屋まで皆の顔を見に行こうと思ったのでした。
天候が悪かったため小屋再建の手伝い人数はそんなに多くはありませんでした。「ゆうちゃん、なにぃ、来たの。Gちゃん(カバ婆のこと)は?なーんだ、ひとりかね」と、あいかわらず、「Gちゃんの旦那さん」状態(アーカイブ2008「5月18日(日)アイデンティティ」および「8月18日(月)続・アイデンティティ」参照)。
藤内小屋での作業はここしばらく、小屋の前に立てる新築の「はなれ」の組み立て作業が中心となっている。すでに屋根近くの作業になっており、地上5,6メートルか。「わし、高所恐怖症だで、上には登れんでねぇ」「午前中クライミングしたで、腕力、握力ゼロだで、重いもんは持てん」ということで、基本見学と奈那ちゃんたちとのおしゃべりを決め込んだ。
小屋の二代目看板娘レイちゃん(初代看板娘だった奈那ちゃんの娘さん、小2)が、建築中の小屋の壁にかかる梯子の上に顔を出す。沖縄出身の若主人神谷さんによく似たきりりとした眉と母親奈那ちゃんに似た愛くるしい笑顔で「おっちゃーん、登ってきーやぁ」と言う。「たわけぇ、怖いで、いかんわ」
その後ろで、杭を打ち込むハンマーを振るうワタル(神谷家長男、将来の3代目主人、小4)が見える。こちらも父ちゃん似のキリリ太眉毛。真剣なまなざし、しっかりと腰の据わった姿勢、正確に振り下ろすハンマー。「こりゃ、ちょっとした大人よりはるかに役だっとる」との声がかかる。
ふと梯子を下りてくる少年が目に入った。手にはボルトとか何やら持っている。「ヒロノブ、それ神谷さんに渡してや」とタツミさんの声。タツミさんは若主人神谷さんの家のご近所で、去年の9月以来小屋再建の功労者の一人。長い休みなど、奥さんと子供たちを連れて家族でお手伝いなのだ。ヒロノブはその長男(小4)。ふとタツミさんのそばを見ると、弟のヒロキがなにやら父を手伝っている。
楽しみながら作業をする大人たちの周りで、こどもたちは遊びながら作業を手伝っているのだ
そういえば、お盆のとき、珍しく土砂運びを手伝っていたヤギ爺は、タツミ家弟ヒロキとパートナーを組んでいた。土砂や石をシャベルでかき出し、一輪車に乗せて運ぶのであった。ヒロキはレイちゃんと同級なので小学校2年生。そこはやはりか弱い子供のこと、小さめのスコップでちょろちょろと土砂をかき出す。
「ふん、やはり子供は子供だな」
一輪車の置ける場所まで土砂を運ばなければならないから、わたしが上から下へ、ヒロキのいるところまで土砂を落とす。ヒロキはそれを一輪車に放り込むのである。二人の流れ作業だ。「ヒロキ、疲れるからゆっくりやればいいからな」と声をかける。ヒロキは「うん」と言いながら小さいスコップで黙々と土砂をすくい出す。
しばらくして、ふと、気がついた。二人はちょうどいいペースなのである。なぜ?
大きいスコップで土砂をかき出すヤギ爺は、「エッサ、ホイサ」と4,5回振るうごとに一休み。息を整えるのである。時には一服小休止。一方のヒロキはといえば、休みなく懸命に、コツコツと土砂をすくい続けるのであった。
しかるに、わたしの落とす土砂の量とそれを一輪車にすくい上げるヒロキの仕事量とは、ぴったりと、一致する道理なのである。
休憩のとき、タツミさんに言った。
「わし、ヒロキとパートナー組むのが一番や」
タツミさんは笑った。
「ゆうちゃん、また、わけのわからんこと言うてからにぃ」
·
ページの先頭へ
9月19日(土)
門灯の上、カーポートとアカメガシワの生垣の間、コノテヒバの垣根の上と、庭じゅう蜘蛛の巣だらけだ
カバ婆もわたしも、蜘蛛の巣が払えない
·
ページの先頭へ
9月16日(火)
わたしのたまたま知っているもっとも古い文献でアウトドアでのウォーキングが心身に健全な影響を与えることに触れているのはプラトンの『パイドロス』だ。紀元前4世紀。
ソクラテスに出会い「どこいくの?」と聞かれたパイドロスは、「ずっと座って話し込んでいたんで、市壁の外に出てちょっと散歩でもと思いまして…アウトドアで歩くのって心身にいいってお医者も言ってますし…」と答える。
なんてことはない、「ウォーキングの歴史」などというが、人が家に籠って座す生活が増えてこれば、ちょっと外に出て体を伸ばしてこーっとなるのはあたりまえ。「おー!チョーいーきもちーぃ!体にええわぁ」となるのは必至。さらに洋の東西の文献をたどっていけば例などいくつでもどっさり出てくるだろう。
とにかく、近代化が煮詰まり制度化が進む19世紀の末ごろから「アウトドアでの健康と教育」ということが社会的に強く意識されるようになったことはまちがいないだろう。
YMCAが、産業革命以降ロンドンに集まってくる若者たちの劣悪な生活環境のもたらす悪影響を何とかしようと、ジョージ・ウィリアムズらによって創設されたのは1844年。健全な精神は健全な肉体に宿るのだ!
「ワンゲル」でおなじみの「ワンダーフォーゲル」の運動や、あ、僕も入ってた!の「ボーイスカウト」運動(わたしは入ってませんでしたが、ちょっとうらやましかった記憶がある)は、ともに、ドイツとイギリスで19世紀後半の萌芽期を経て20世紀初頭にはじまっている。健全な肉体は健全な精神を宿すのだ!(なお、ともに、屈折した形でではあれドイツ・ナチスのイデオロギーに組み込まれていったことはここでは言わない)
以上、ウィキペディアでもわかります(とほほほ…)
さて、あまり知られていないと思うが、学校教育で「野外」「戸外」「アウトドア」が注目され始めたのもこの時期のようだ。
1909年(明治42年)12月19日の読売新聞朝刊3面に「楽しき野外学校」という短い記事があり、「仏蘭西の小児(こども)の愉快な学校生活」を紹介している。
「日本でも野外散歩とか野外教授とか云ふことはあるが伯林(ベルリン)なぞでは天気の好い日には小児は朝早くから其野外学校に出掛ける樹陰に椅子や机が並べてあって生徒は其処で楽しく授業を受ける事になって居る…」
え?ベルリン?というのはご愛敬で、そのあと洪牙利(ハンガリー)へ寄り道してから、ちゃんと仏蘭西リオンの話になるからまあよしとしよう。どうせ読者にはわからない
さて、少し経って1916年(大正5年)8月11日から13日にかけての朝刊に、(上)(中)(下)としてかなりまとまった文章で欧米の「戸外学校」について紹介した記事が出る。
「二十世紀の新産物中に戸外学校あり」という書き出しのこの文章は、ドイツの教育制度で実験的に始まった「戸外学校」の制度が成功をおさめドイツ国内に普及し、さらには、イギリス、アメリカに広がっていった様子を紹介し、日本での普及を願う件で終わっている。
なお、「戸外学校」には片仮名で「オープン、エアー、スクール」とルビがあり、最終的にはアメリカに広がったことまで言及しているので、この記事の元情報はアメリカ経由のものであろう。私の手元にはLeonard P. Ayresというアメリカの教育者が1910年に書いたOpen-Air Schoolsという本の復刻版があるが、記述が似ているのでこのあたりが情報源なのかもしれない。また、このOpen-Air School(ドイツ語ではWaldschule「森の学校」)はOutdoor Schoolとも呼ばれている。(詳しくは別に譲ります)
1904年に「伯林市外なるシャーロッテンブルグにおこりし」この学校の目的は、「病弱児童の教育的及び肉体的必要を充たさんとする」もので、つまりは、屋根のない(少なくとも壁のない)教室での午前中授業、午後はできるだけハイキングや運動で過ごす、食べ物は栄養のあるものを十分に、といったような「カリキュラム」を立て実践して、その教育効果をみるというものだ。それは目覚ましい成果を上げたという。
この成功を受け1907年に始まったイギリスでの実践も、「個人教授の長所を加味」したりした変更はあるが基本は同じ。また、翌1908年のアメリカの例では、ちょっと「趣を異にし当初よりして結核予防運動と連合し」とあるが、まあ似たり寄ったり。
さて、日本においては、いくつかの萌芽的実践例はあるがまだまだ不十分。「…吾が国民保健調査上の事業が漸次その結果を国民の眼前に暴らけ出すに於いては、国民一般は永く今の如き呑気なる考へを維持する能はざることを悟るなるべく、一日も早く国家が児童期よりして其の国民体格の向上に新工夫を構ぜんことを切望し…」ということで、日本人は本来「漫然たる野天生活」を好み「簡易生活」に適した国民であるが、そこに、西洋流の「大に科学的なる施設と用意と苦心」を導入して独創性を発揮しよう!と言うのである。「今の子供たちは体力がない!」とは、100年前にも言われていたのですね
さて、ここでは、「国民」「国家」「保健」「科学」「新工夫」がキーワードであった。なんか、軍靴も聞こえる雰囲気…
今から100年前「アウトドア」と「健康」と「教育」は、数十年後に訪れる暗黒の時代を知るや知らずや、過剰に喧伝されていたのである
「アウトドア」には「不潔」「不純」「不健全」「逃避」「出鱈目」「いいかげん」をともなう「漫然たる」遊び心もあるのだがな
・・・・・
おっと、そういえば、イチローは1894年~1901年にウィリー・キーラーがマークした8年連続200本安打を108年ぶりに更新したのだった。アメリカ人は野球に浮かれてもいたのか
·
ページの先頭へ
9月16日(水)
小学生のころ居間のこたつで宿題をしていると父親によく叱られた
「ゆうじ、間違えたところは消しゴムでしっかり消しなさい」
不器用かずぼらか、わたしは、消しゴムを使うのが下手だった。筆圧が強いせいか、消し残りの下の字がダブり、ノートが汚くなってしまうのだった。言われて消しゴムでゴシゴシすると、きまってノートが破れた。そしてまた叱られた
・・・・・
消し去りたいまちがいはある。しかし、言ってしまった、書いてしまったことを、消し去ってはいけないのではないかという気持ちもある。
メールにしても、このようなホームページの記事にしても、インターネットを利用したコミュニケーションに付随する恐怖は、誰の目に留まるかわからないということ、それに、しまった!と思って消去しても完全に消し去ることはできない、という不安であろう。一度送信、あるいはアップしてしまえば、それは、永遠にどこかに痕跡として残り続ける可能性がある…という事実だ。
・・・・・
ふと思い出した。中学校の社会の先生が言った。
練習問題をやって、答え合わせをしたとき、まちがえた答えを消しゴムで消してはいけません。線を引いておくだけにしなさい。やり直したとき、またまちがえたら、それもそのままにして線を引いておきなさい。自分がどうまちがえたかを消してはいけません。
・・・・・
「恥の上塗り」というが、恥も間違いも上塗りしていく覚悟が必要か
·
ページの先頭へ
9月15日(火)
どこから漏れるか個人情報(うちは野放図で、どこからでも漏れる)。子供が二十歳になれば振袖、大学卒業の年ともなれば「袴はいかが」のダイレクトメール。近頃の電話では、「完全介護の老人ホームは…」
あのー、親は両親とも死にましたけど…
年齢層に合わせたキメの細かい広告だ。日本的だのう。
今朝のこと、大手眼鏡店からのダイレクトメール。カバ婆宛てだった。
「お、こないだうちの話、聞いてたかな。老眼進んだからそろそろ買い換えねば、とりあえずフレームは新しいでレンズだけ交換するか、って話…」
と笑いながら、封を切った。
チラシを見たとたんカバ婆は憮然と言った。「そっちはまだだよ!」
投げ捨てたチラシを見ると、それは、最新式の補聴器の広告であった。
·
ページの先頭へ
9月11日(金)
子供のころ、自転車は男の子は「おとこ乗り」女の子は「おんな乗り」と決まっていた
フレーム上部の低い自転車に乗っていると「やーい、おんな用おんな用!」といって冷やかされた。そんな自転車にけんけんで足を前から回して乗ると「おんな乗り、おんな乗り、やりないこやりないこ(やり直しやり直し)」とやられた。
乗りやすいように乗ればいいが、と思った
フレーム上部の高い「男の子用」の自転車でわざと「おんな乗り」をして遊んだ覚えもある
今のヤギ爺は愛車がママチャリなので、基本、おんな乗りである
·
ページの先頭へ
9月9日(水)午後11時5分
ちょうど11時に帰宅した。学園前に10時15分だったから、まあ、普通の歩行速度だったようだ。でも、とても充実した、酔っ払い歩行なのであった。
わたしは、つねづね、アルコール濃度に関係なく正常な歩行ができない状態での歩行は立派な犯罪だと思うので、飲酒量に関係なくふらふら無様な千鳥足「酒酔い歩行」は、公道では極力しないよう努めている。
阪急石橋駅近く、いつもの居酒屋で楽しくたらふく飲んだ後、いつものごとく近鉄では特急(乗車券430円のところに特急券500円+発泡酒160円)でさらにほろ酔いで、近鉄学園前駅を出た時は「バスにすっかぁ」と迷うほど、ちょいとでき上がっていた。
歩き始めしばらくは「わたしセージョーでーす!」を装い、懐中電灯片手に「わたしゃ、健康のために、毎日歩いて40分!清く正しく夜中も歩くウォーキング・サラリーマンです!」という風を、なんとか装い保とうと、必死に努力せねばならなかった。
(通勤のリュックには、非常時に備え、懐中電灯、超薄型デジカメ、さらにアーミーナイフをつねに携行ている。電車の中で職務質問にでも会い持ち物検査などされたら、やばいかも…)
しかし、歩き始めて十数分、無理した早足でサッサと歩いていると、かなり涼しくなったとはいえ背中に汗がにじみ始める。さらに少しすると、額、こめかみのあたりに汗の粒が滴る。
そして、このころになると、「確実に体に悪いぞ、頭はふらふら動悸もするぞ。足は重いし、まっすぐ歩いているつもりなのだが、はたしでどうか…」状態だった歩き始めが嘘のように、すっかりウォーキング・モードになってくるのだ
煙草を出し歩行煙草。歩きながらの煙草はうまい!(夜中、まわりにはビュンビュン走る車しかいないので、お許しを…)
10時過ぎの近鉄学園前付近は、駅にはまだ塾帰りの子供たちも交えまだまだ人がたむろするし、残念ながら歩道の整備が遅れるこの一帯は車天国。酔っぱらったとーちゃんを迎えに行くのだろうか、奥様風の運転する高級車や、タクシーやバスやその他、ガンガン通り過ぎる。が、歩く者はほとんどおらず、意識を夜空と懐中電灯の照らす一帯に集中すると、なんといくぶん「外歩き」の感覚が生まれる。煙草を吹かし足を止めると、道端の草むらから秋の虫の声も聞こえてきた。
家の近くに来て住宅地手前あたりになると、もう車の数も減り、心地よい冷たい風と背中を流れ始めた汗と、「帰ってもう一杯!」の気分とともに、
健康ぉー!ウォーキングぅー!状態に突入するヤギ爺であった
だが、しかし、酩酊、くわえ煙草(3本)の歩行が、健康であるはずがない
·
ページの先頭へ
9月8日(火)
『現代用語の基礎知識』では、1972年拡大版の「マスコミに出る外来語・略語総解説(上野景福・監修)」で、「アウトドア」という言葉がはじめて見出し語になっている。
「アウトドア(outdoor)戸外の,屋外の」「アウトドア・スポーツ(outdoor sports) 戸外運動。インドアスポーツの反対」といったあっさり記述だ。
ただし、前にも書いたが、少なくとも国会図書館所蔵の本で「アウトドア」をタイトルに持つ本の初出が翌1973年(『アウトドアクッキング』主婦の友社、料理カラーブック) のことなので、このころ「巷で」この言葉が使われるようになってきたという雰囲気だけは伝わってくる。
さらに、1973年増補版の「マスコミに出る外来語・略語総解説(上野景福・監修)」では、
「アウトドア・スポーツ(outdoor sports)陸上競技・野球・サッカーなど、屋外運動競技をいう。反対はインドアスポーツ(indoor sports)」と、ちょっとケッタイな付け足しがある。以下1980年までは少なくとも、1979年に監修が堀内克明(明治大学教授)に代わっても、この陳腐な「アウトドア」の解説は変わっていないのだから、まったく、噴飯ものである。
(恥ずかしながら、本日図書調べ時間切れ(ビールが待っていた!)で、1980年までしか見ていません。あいかわらずリサーチが中途半端なヤギ爺…)
いつになったらそれなりの「アウトドア」解説が出てくるのかはそれなりに興味のあるところで、インドア派学者先生までも知るところとなりやっと更新されるのは、いったい、いつのことなのでしょうか…今度図書館に行ったときに調べますので、しばしお待ちください
m(__)m
とにかく、書物はあてにならない、いや、あてにならない書物を参考にする者の哀れか
しかし、たしかに、明治時代には、英国人の「フートボール」(もちろんサッカーのこと)、それから、日本人にすでに知られていたらしい「テニス」「ベースボール」などが、「戸外遊戯」として、剛健なる気象(気性)を生み、学校時代を過ぎても継続すべき遊戯として慫慂されている。(読売新聞明治36年(1903)朝刊)
だから、戸外遊戯として、外でおこなう西洋のスポーツを意味する伝統は確かにないわけではない。
それにしても「日本人には外で遊ぶ習慣がない!」という反省が、明治時代の一般感情としてあったように見受けられる。こりゃおもしろい
・・・・・
さてさて、アウトドア研究家を自任するヤギ爺としては、最近野球などには全く興味がないのであるが、しかしながら、イチローの打席の結果と楽天の試合の勝敗だけは、毎日のようにチェックする、今日このごろなのである
·
ページの先頭へ
9月6日(日)
きのうまではそうも思わなかったのだが、網戸の外からの聞こえる虫の音が、今夜はひときわにぎわっている。
秋だ
クマ太郎が、夕方、クラブ(弓道やってます)の試合から帰ると、
「体調悪りぃー、最悪。今日昼飯弁当全部吐いた。目眩がする。寝る。飯いらん」と言って二階に上がる。
今の時期新型インフルエンザか、ということで、熱を計らせてみると38度ちょい。パートから帰って奇跡的にアルコールフリーのカバ婆が、「これはやばいかも」と、近くの救急可の病院まで車で連れて行っている間、すでに飲んでしまっていた爺の方は、仕方なく申し訳なく、寝転びながら、それでもビールだけは自重し、テレビを見ていた。
虫の音が涼しい
やがて、婆とクマ太郎が帰る。
わからんがとりあえず病院で測ったら37度1分だったと、やたら体力のみ自信ありっ!「病気とは無縁でっス!」体型のクマ太郎が、よわよわしい猫なで声で、「かあさん、お粥作ってほしいなぁ…」とカバ婆に頼む。
カバ婆は「しゃーないなぁ、病気の時だけだぞ」と言って、お粥を作る。
一人用土鍋一杯のお粥と、今日本来のおかずの脂ギッシュ!スペアリブ3本、ポテトサラダ一皿と爺用のタコの刺身2,3切れを喰い、「なんのためのお粥やねん!」と母子で突っ込み合って、それでも、チョイと早めに、クマ太郎は床についた
虫の音が喧(かまびす)しく賑やかで朗らかだ
あれは何?
カバ婆とヤギ爺は、YouTubeで「コオロギ 鳴き声」「鈴虫 鳴き声」「マツムシ 鳴き声」と検索し、ビールを飲みながら、外の虫の音との合奏を楽しむ
午後9時。虫の音がパタリと止んだ
秋
·
ページの先頭へ
9月1日(火)
計画というものは、単なる遊びの登山計画でも、大学のような教育機関の今後5年間の中期計画でも、国の行く末に係わる政権政党のマニフェストのようなものでも、一旦立ててしまうとなかなか中止や変更がしにくくなるものなのだろう。
「撤退する勇気!」などと簡単に言うが、これが実にむずかしい
「これは無理な計画だったなぁ」「状況が変わったな」ということがわかっても、「中止!」あるいは「予定変更!」と言えば、不満や批難が待ち受ける
かと言って、
そのまま実行すれば、命が危ないかもしれないし、マイナス効果が出ることは必至
したがって、いずれの選択でも判断は誤っていたとされる。
まさにジレンマである
むろん、場当たり的ないい加減な計画は問題外だ。しかし、いかに綿密に立てた計画であろうともこのようなことは起こる可能性がある。信頼できる立案者かどうかは、おそらく、納得できる形で、立てた計画を変更したり中止したりする決断ができるかどうかだろうな。マニフェスト選挙による政治の醍醐味も危険性もそこにあるような気がする。
「計画どおりやってもらわにゃ困る」とは、儲け主義に凝り固まる登山ツアー企画会社の社長さんか「官僚主義」のお役所が、はたまた地に落ちた元与党の野党が、考えることだろう。
それから、国民も?
·
ページの先頭へ
8月25日(火)
マメが網戸越しに庭の様子を窺っている。また野良猫か!植え込みの一画ががさごそ揺れた。
と、陰からイタチが飛び出した
一瞬左右をきょろっきょろと見まわし、やがて外壁の死角に消えていった。
何しろ丘陵地を開発した住宅街だから、ところどころに申し訳程度の林(ほとんどが竹林)がまだ残っているので、当然の如くタヌキやイタチはいる。道を歩いていて遠くを横切るイタチや、溝から側溝に消えるタヌキなどを、見たことはある。
だが、我が家の庭に現れた(のを目撃した)のははじめてだったので、ちょっと感動した。
「しかしカバ婆、庭を悠々と横切る野良猫には腹が立ってしかたないのに、イタチには感激する、人の心も不可思議よのう」
·
ページの先頭へ
8月25日(火)
子どものころ家から歩いて10分ほどの所にある村上神社の境内でひとりで遊んでいた。友だちと遊ぶこともあったが、ひとりで外をうろうろすることが多かったヤギっ子である。
蝉取りなどもしたが、わたしは、よく蟻を見ていた
村上神社は住宅地内にあるちいちゃな神社で、境内の広さはテニスコートぐらいだろうか、それでも、ヤギっ子の目には大木とうつる木が何本か茂り、夏になればジャージャーアブラゼミやミンミンミンミンゼミが、ジャージャーミンミンジャーミンミンじょわんじょわんと反響していた。
そんな夏、わたしは、蟻が巣からでて、干からびたミミズの死骸や虫の死骸まで行列行進し、また巣に戻る様を、飽きもせずながめていた。ときには一匹の蟻の後を追うこともあった。
どれくらいの時間ながめていたんだろう
あるときなど、一旦家に帰り、空き瓶(インスタントコーヒーだったかな…)を持ち出し、中に詰め込めるだけ蟻を詰め込もうとしたことがあった。大して埋まらなかったがそれでもごぞごぞと気味悪く蠢くほどには根気よく詰め込んだように記憶している。
・・・・・
「わたしらインドア派」を自認する同僚家族と毎年夏キャンプに行っている。2003年から始めているので、今は5年生のお譲ちゃんがまだ幼稚園年少さんのころだったか、年子のボクはまだ幼稚園にも上がっていなかったことになる。
週末大阪能勢での一泊キャンプに出かけた
とにかくテントを張りビールを開け「それでは」と乾杯しテーブルなどを準備してさて火でもおこそうかという段、「そうだ、蚊取り線香持って来たんでつけましょかね」とヤギ爺が言う。「そうですね、でも、そんなに蚊はいないようです」「そうですね、そう言えば、アブとかブヨとかも飛んでませんね、ま、でも、とりあえず点けときましょ」となったとき、奥さんが「でも、蟻がいっぱいいますね」と言った。
天候に恵まれ、果てしなく飲み、定番カレーに挑戦する子どもたちとじゃれ、手当たりしだいに焼き、食い、飲み、話し、がなりのキャンプの夜は過ぎていった…
翌朝、例によって夜明けとともに目が覚めたヤギ爺がおしっこに3度、大の方に2度便所に出かけ、インスタントコーヒーを二杯飲み、煙草をすぱすぱ吸っているうちに、ちょうど6時半、
「朝だぞぉー、ラジオ体操の時間だぁー、チャンちゃーちゃ、ちゃっチャちゃチャ、ちゃーんちゃーちゃちゃっちゃちゃちゃぁ…」
二日酔い親父のとぼけ声がテントの中から聞こえてくると、家族のお目覚め、ひとりまたひとり、一同ボーっと寝ぼけまなこでイスに座する。
キャンプ至極の時
火をおこし直し、だらだらしゃべり、今日何するの?なーんでも、トイレ、洗い物、コーヒーを入れ(挽き立て本格コーヒーを持って来てくれたのだ)、シイタケやらハムやらを火にのせ、ボーっと焼けるのを待ち、子どもたちはバトミントンなどはじめ、ヤギは煙草を吹かしながら、ふとコンロの脇にそろって座る自称インドア派同僚夫婦に目をやった。
ふたりは、じーっと、ずーっと、蟻たちを見ていた
「こぼした食材、ごちそうだね」「これは大きいから運べないでしょ」「どこからくるんだろう」…
わたしは、しばらくの間、そんなふたりを、じーっと見ていた
·
ページの先頭へ
8月21日(金)
「リュックは腰で背負ひ雨具は必ず持つ ハイキングのご注意」という見出しの記事が載っている。リュックサックの背負い方や歩き方等について「ハイキングの知識」を専門家にインタビューした記事だ。
時は1941年。この年冬には、日本は真珠湾攻撃を決行するという、戦時下…
なんとまあ、お気楽な記事がまだ載ることか、とも思った、が
その書き出しは次のような文章
「物見遊山的な酒を飲む(ちょっと活字が不鮮明で読めません…)ハイキングが翳をひそめて、民族的な強歩ハイキングが増えてきたことは、最近の憂ふべき一つの特徴です。…」
アウトドアでの活動は「教育」「健康」「健全」が特徴であるがそれらはすべて「軍隊」とも結びつく。健全な精神は健全な肉体に宿り従順な兵士をつくる!のだ
アウトドアには「享楽」「堕落」「不健全」もあるのだがな
「物見遊山」とは、それ自体が堕落した、いい言葉じゃないか
·
ページの先頭へ
が、
狩野舞子が、すごくいい
8月19日(水)
·
ページの先頭へ
8月9日(日)
暑い。うえに、雨。藤内に行くつもりだったが、家でゴロゴロ、昼からワインを飲んでいる。ワインは日本の夏には合わないかもしれない。が、うまい!そして、
暑い
・・・・
にいちゃんとのことを思い出していて、にいちゃんはけっきょく、勉強は捨てたが、にいちゃんの捨てた勉強のおこぼれを、いただいていたことを思い出した。
わたしは、当時から、「早わかり!」「図解!」「10日でマスター!」類の受験参考書を、いーっぱい買って、積読して、また新しい参考書買って…のような、短絡高校生だったが(いまもちっともかわっておらん短絡教師)、にいちゃんの部屋にあった受験参考書が、実は、一番、印象に残っているのだ。
とくに、国語関係のものは、今でもタイトルを覚えている。
『古文研究法』と『新釈現代文』
英語では『総解英文法』
どれも「定評」のある参考書だった。どれも、つい「読んでしまった」参考書だった。読み物としておもしろかった記憶がある
にいちゃんは、伝統的「岩登り」を否定し、にゅーうぇーぶの「クライミング」アメリカ式スタイルに走ったが、じつは、ものすごく「伝統」に固執した人間だったのかもしれない。たぶん、当時の「伝統的」岩登りが伝統を忘れていただけなのかもしれない。(受験参考書選びで、そこまで言うかっ!)
なつかしい
今読んだらおもしろいのだろうか
・・・・
(追記)
アマゾンで調べてみたら、なんと!
小西甚一『古文研究法』改訂版(といっても1965年)は、いまでも売っている!
『新釈現代文』(高田瑞穂)は、なんとなんと、ちくま学芸文庫で復刻しているではないか!1959年(わたくし1歳時)の刊行だという。
『総解英文法』が今でもあることは知っていた。
ちなみに『古文…』の初版は1955年。『総解英文法』(高梨健吉)は1970年発行。
なーんだ、みんな、知らないと思ったら、いまでも知ってるのか…井の中のヤギ爺
·
ページの先頭へ
8月9日(日)
にいちゃんとわたしのことであるが、この4年間には、大きな隔たりがある(個人的経験および感想です)
1月生まれと4月生まれのわたしたちは5学年差、にいちゃんが小学校6年生のときわたしはピッカピカの1年生。
にいちゃんの在学中、わたしたちの通った名古屋市立の小学校には、プールも体育館もなかった。にいちゃんの卒業式がすぐお隣にある中学校の体育館兼講堂を借りて執り行われたことを覚えている。
プールも体育館もわたしが小学校在学中(何年生の時だったかなぁ…夏の体育にプールがあるのが普通だったように思うし、5年生のときの卓球部の練習はもう当然のように体育館だったので、すでに低学年のときにできたのではないか…)完成した。
日本の学校は、1960年代後半(わたしは、1965年、昭和40年小学校入学)急速に「箱もの」の戦後復興を果たしていったのだ
さて、中学生と言えば丸坊主。にいちゃんが新中学生となったとき、近所の散髪屋で丸刈りされた頭をさすりながら、恥ずかしげに写真におさまったことを懐かしく思い出す。
ところが、名古屋市の中学校では、1971年、昭和46年4月の新中学生から丸刈りの校則を撤廃したのだ。わたしの入学写真には、坊ちゃん刈りでおちょぼ口、しかめっ面の「長髪可」詰襟ヤギ少年が写っている。
1970年(昭和45年)ごろ、日本の学校は、急速に文化的「民主化」を進めていったのだ(ちなみに、我が家は行くはずもなかったので、大阪万博にまつわる記憶はほとんどないが、小6のヤギ少年が用事で職員室に行った時、テレビの前に集まり先生方が三島事件のニュースを見ていたのははっきりと覚えている、と思う…とほほ)
(以上、学校の整備、発展については地域差があることはご了承ください。たとえば、カバ婆(大阪府池田市出身)の思い出とわたしの思い出には、すでに、ずれがあります)
中学三年のとき(1973年、昭和48年)、英語の時間で、なにやら自由発表をするような授業があったことをはっきりと覚えている。けっこうまじめ学生だったので、にいちゃんの部屋にそのまま置いてあった英語の参考書(高校生用の文法の本だったように記憶している)を見た記憶があるからだ。
たしか、アメリカ英語とイギリス英語のちがい(綴りとかShallとWillの使い方とか単純なこと)について話したように思う。授業の中で、英語の先生が、「新しい教科書ではアメリカ英語が基本に大幅改定されているから注意するように…」というようなことをしきりに言っていたように思う。にいちゃんの参考書は確かイギリス英語中心の説明だったことに新鮮な驚きを感じたように記憶している。
(このへんのところは、『大日本英語教育史』の類の本で確認すべきだが…)
とにかく、わたしの記憶では、1970年代前半に、日本は、教育(つまり人材育成、思想統制)において、「アメリカ化」を果たしていく
「アウトドア」というカタカナ用語は、こんな土壌から必然として生まれてきたのだな。胡散臭さが付きまとう言葉だが「同時代」を生きてきたもの同士、付き合うほかはあるまいて
·
ページの先頭へ
8月8日(土)
新田次郎『孤高のひと』で加藤文太郎が行動食で噛むのは「乾し小魚」とありました。めざし?にぼし?
漁師町兵庫県浜坂町(例によっていまは合併により新温泉町などという名になったそうです)の実家から送ってくる乾し小魚をポケットの中に入れてぼりぼり食べていたようです。
それから、甘納豆!これはすっかり忘れてました。
乾し小魚と甘納豆を、歩きながら、そして雪山で、食べるのです!ただし、カバ婆に言わせれば、これは昭和50年代前半ぐらいまでの山屋さんたち(登山する人)には有名な話とのこと。インターネットで見て見てもけっこう話題になっている。
ただ!ありました、ありました、例の「刺激的な」シーン!
上巻の終わりごろ、「単独行の加藤文太郎が完成」する(つまり登山家として立派に成長する)までの試練、成長のごたごたの出来事のひとつだったのです!
ただし、文太郎の行動ではなかった。場所もバーではなくホテルのレストラン、お酒はカクテルではなく「強烈なアルコール分を持っている洋酒」だった。(この小説、日常のリアリティに欠けてます)
園子という名の、文太郎初恋の、一目ぼれ、片思いの女性が、佐倉秀作という大学出エリートの積極的なアプローチを受けていたのですが、賢く優しく親切な佐倉にひかれつつも、どこか不安を感じていました。そんな園子が、結局この人と結婚するのかなぁ…と思いながら、ある日デートに誘われて、ホテルのレストランに連れられ、ブドウ酒と偽った甘い強い酒を飲まされ、フラフラに立つこともおぼつかなくなり、シマッタと思いながらも、ホテルの一室に連れ込まれ、とうとう無理やりに…佐倉の目的は女の体だけだったのです…
文太郎は、そんなことは知る由もなく、突然に姿を消した園子への思いを断ち切り、山に専心するのであった…
という、まあ、今読むと内容はともかくちょいと表現が陳腐な感じのする場面でした。
それにしても、登山と人生と社会をテーマにした小説の、こんな瑣末な場面しか覚えていないヤギ爺、しかもいい加減にしか記憶していないヤギ頭、困ったもんだ
それにしても、この小説、リアリティがなさすぎる気もする
·
ページの先頭へ
8月7日(金)
暑い
ビールを飲む爺の目の前、ベタリとテーブルに腹をつけてゴンが寝そべる
足元フローリングにダラーっと体を伸ばし、マメが横たわる
二匹がそろって爺を見る
猫たちが、とてもとても可愛らしい、暑い夏
·
ページの先頭へ
8月6日(木)
図書館の雰囲気が嫌いだった。わたしが中学生のころから、すでに、受験勉強を図書館でするという友だちがいたが、わたしは、あの雰囲気が嫌いだった。知っている人がまわりにいるのに、黙ったままで、黙々と、(くどい!)、ブースのような机に向かうのが嫌だった。
おとなになってからは、煙草も吸えないようなところでゆっくりと本をながめるなんて、できるはずもなかった。「禁帯出」のような資料をどうしても調べなければならない場合は、しかたなかった。貸出可のものはさっさと借り出して家で読むのがあたりまえ、だった。
しかし、無常なるもの人生哉
人の心は空蝉の…(意味不明)
昨日までどうも苦手で悪酔いするからと敬遠していた日本酒が、ある日突然「これぞわたくしの味っ!」となるがごとく
奈良県立図書情報館にハマってしまった
奈良公園近くの奈良県立図書館が移転して大安町というところに、「ゆったりと、無駄に、こんなところに税金を使って、もっと他にやることがあるだろ」風の文化施設「奈良県立図書情報館」なるものが2005年にできたのであるが、これまで必要がなかったので行ったことがなかった。
このたび、ちょいと必要ができ、先日カバ婆といっしょに出かけたのであるが、いい。
無駄なスペースふんだんで、煙草も吸えず(喫煙所は外にあり)、近所の(かどうか知らないが)中高年(の出没先はアウトドアだけではない!)が、ステテコ姿(に近い軽装)で新聞やら雑誌やら読み物やらを読んで「クーラー涼み」で自宅の電気代を節約し、例によって受験生風の若者が席を占拠し、開いたままの受験参考書とだらしなく口を開けた筆箱とシャーペンを置いたまま「おい、おめー、どこへ行って何してる」の空席もある、大嫌いだったはずの空間が、いい。
この夏は、自転車で図書館通いの爺が、またひとりふえるかもしれない
·
ページの先頭へ
8月4日(火)
いいーぞぉー、いいぞーーとぉ、おだてぇられーーーー
死に物ぉーの、狂ぅいーーでぇ、来て、みーーーれぇばーーーーーー
朝かーらぁ、晩まーでぇ、飯ぃ炊ぁーきでぇーーーー
景色ぃ、なんぞーは、夢ぇのーーうちーーーーーー
(軍歌「可愛いスウチャン」(「初年兵哀歌」)の節で)
肩ぁのぉザぁイーールぅーに、すがぁーりーーつきーーー
連れていきゃんせ、岩、登ぉりっ
連ぅれーーて、いくのは、易けーれどっ
女ぁーーにゃ、できない、岩登りーー
(軍歌「軍隊小唄」の節で)
高校の山岳部に入ったにいちゃんが隣の部屋で歌っていたのを聞き、合わせて歌っているうちに覚えた「山の歌」の一節だ。軍歌の響きが山岳の響きと重なり合う…
これも山などに行くとは思っていなかったころの思い出…
しかしながら、その後ふらふら山に行くようになった「なんちゃってアウトドア派」ヤギ青年にとって、山小屋でギター片手に歌う歌は何と言っても「なごり雪」だ!
きしゃおまつきみのよこでぼくわー、とけいーをきにしてるぅ~う…
にいちゃんとわたしは4歳(5学年)の差であるが、この差が「山岳」と「アウトドア」の分かれ目となっている。
そして、1970年代後半、にいちゃんは「山岳」と決別し、わたしは「アウトドア」に出会うことになるのだ…
1972年
あさま山荘事件
にいちゃん、高校を卒業
1973年
『アウトドアクッキング : 海・山・庭先で』(主婦の友社)出版(国会図書館所蔵で「アウトドア」をタイトルに持つ最古の出版物)
1974年
にいちゃん、単身でアメリカのヨセミテを訪れ、従来の「岩登り」とまったくコンセプトのちがう「フリー・クライミング」というスタイルに出会い衝撃を受ける
つまり、にいちゃん「山岳」と決別す
1976年
雑誌「Outdoor」(山と渓谷社)創刊
1978年
ヤギ青年のはじめての登山
1980年
『BE-PAL』(小学館)創刊
この数年は、「岩登り」に対して「クライミング」、「野外」に対して「アウトドア」という新たな概念が生まれる転機であった
どうしてあさま山荘事件が入っているか…については、聞かないでください。「左翼」が終わり「戦後」が終わって、「アウトドア」がやってきた、なんていう暴論雑論は、とりあえずここでは吐きません
·
ページの先頭へ
8月3日(月)
『孤高の人』を、ほんと、久しぶりに読んでみたいと思った。帰りの電車での思い。
まだ山登りなどするとは思ってもいなかったころ、東京に行ってしまって久しいにいちゃんの部屋の書棚に山の本がいっぱいあった。とくに興味はなかったが、人名と地名を飛ばしながら(アーカイブ ヤギ爺の独り言2008「9月22日(月) ならば、何のために読んでるんだ!」参照)、時々読んだものだ。
新田次郎の『孤高の人』は、なぜか心に残った。ただし、残ったのは「黙々と早足で歩く」「行動食にめざしを噛む」というところだけ
文太郎はめざしを噛みながら黙々と歩くのだった…
それと、刺激的な(と、オクテ中の晩熟高校生だったヤギ青年は思った)バーで強いカクテル(だったかな?マティーニだったかな…)を飲んで酔っ払った女性と寝る(寝なかったかも…)シーン(別の本との混同かも知れん…)
(記憶かまったくない、本来読み直してからこの独り言を書くべきだとも思ったが、リアルに思い出せなかった今日の帰りの電車での歯痒い思いが伝えたい…だれに?)
ところで、本当にリアルに思い出したのは、そのとき高校生ヤギのとった行動だ
無口がいい!めざしがいい!と感激したヤギ青年は、母には「めざしが食べたい、おやつはめざしにしてほしい」と頼んだ。そして、「いってきまーす!」と家を出てからバス停まで、バスの中、地下鉄までの道、地下鉄の中、高校までの通学路、教室までの道、そして教室に入ってから、ずーとずーっと、黙々と、早足で歩き、静かに座し、「孤高の人」加藤文太郎を気取ったのであった。
無口がいい!
今でもそうだが、わたしは、人といっしょにいるとき、たった10秒間の沈黙すら、耐えることができない性質だ。人と会えば、「おはよー!」の挨拶から馬鹿与太話まで、会話が途切れることを許さない、ざわつきドタバタの人間性だ。
当時からそうだった
そんな高校生ヤギが、ある日突然、教室で黙って席に座る。クラスメイトの「オッす!」にも目で応えるのみ。
黙して語らず、無口がいいのだ!
記憶では、数日は我慢して気取り続けたように思っていた。しかし、今日の帰宅の電車の中、よくよく思いめぐらした挙句の結論は…
クラスメイトの「森君、どうしたの?体調悪いの?」の質問攻めにあったヤギ青年の文太郎気取りは、どうも、半日も持たなかったのではないか…
無口になりたい!
恥ずかし甘酸っぱしの記憶が、身ぶるいと共に突然よみがえるヤギ爺であった
·
ページの先頭へ
7月30日(木)
朝の通勤時間帯。地下鉄から阪急への連絡路となる地下街で、カッカッカッカッっと不気味に鳴り響き反響する靴音の合奏を聞いていると、そのまま引き返し家に帰ってしまいたい気持ちになるものだ。
石橋駅を出て阪大に向かう途中に小さな葬儀場がある。先日、その前に、霊柩車が止まっていた。葬式だ。
そういえば、金色、屋根付きの派手な霊柩車を、最近、あまり見かけなくなったな、と何気なく親指を隠そうとしている自分に気づき、あれあれ、両親とももうとっくに死んでるわ…
ふと前を歩く阪大生らしき青年の指先に目をやると、両手の親指を人差し指と中指の間にしっかりと挟み込み、こぶしをギュッと握りしめながら歩いている
きっと親思いの優しい息子さんなのであろう
わがクマ太郎であれば、両の親指突き立てて、ガッツポーズなどしながら、へらへらと闊歩するであろう、情けない…
それにしても、このような迷信、語り継がれるこそありがたいというものだ
·
ページの先頭へ
7月22日(水)
「カバ婆、うちらが、「アウトドア」ってことば、意識し始めたの、いつごろだっけ…?」
「うぅ~ん、アラバマから帰って、子どもらがまだ小さい頃、合宿(国家公務員合同宿舎、いわゆる官舎)のご近所誘って、キャンプやら行き始めたころでしょ…やっぱ…それまでは、「山行く」「キャンプする」って言ってたもん」
1992、93年頃のことである
座してリサーチ可能な「国会図書館蔵書検索システムNDL-OPAC」で、ちょちょーいっと調べてみる。
「アウトドア」をタイトルに持つ(副題、シリーズ名に含むものも含む)書籍数を、単純に数値的に並べると、各年の出版冊数は、以下の表のようになりまする。まこと、真のリサーチができないヤギ頭にも、便利な世の中になったものです
年
|
冊数
|
1973
|
1冊
|
1976
|
2冊
|
1977
|
2冊
|
1978
|
1冊
|
1979
|
3冊
|
1980
|
1冊
|
1981
|
3冊
|
1982
|
11冊
|
※
|
1983
|
7冊
|
|
1984
|
6冊
|
|
1985
|
23冊
|
|
1986
|
13冊
|
|
1987
|
15冊
|
|
1988
|
11冊
|
|
1989
|
15冊
|
|
1990
|
15冊
|
|
1991
|
17冊
|
|
1992
|
22冊
|
|
1993
|
27冊
|
|
1994
|
42冊
|
※
|
1995
|
33冊
|
|
1996
|
54冊
|
|
1997
|
36冊
|
|
1998
|
40冊
|
|
1999
|
40冊
|
|
2000
|
47冊
|
|
2001
|
31冊
|
|
2002
|
14冊
|
※
|
2003
|
13冊
|
|
2004
|
25冊
|
|
2005
|
14冊
|
|
2006
|
13冊
|
|
2007
|
12冊
|
|
2008
|
14冊
|
|
さてさて、1973年、なんと主婦の友社刊行の『アウトドアクッキング : 海・山・庭先で』の出版を皮切りに、ぼつぼつと出始めた「アウトドア」をタイトルに持つ本の出版数に、まずは、1982年ごろに、「ちょぼっ」と目立った変化が見られる。
ちょっと増えたかな…という感じでしょ
ちなみに、瀬沼克彰、薗田硯哉編・日本余暇学会監修の『余暇学を学ぶ人のために』(世界思想社)(またしても安易なヤギ爺であることよ!)によると、「すでに様々な論文等で引用されているが」という著者の説明を孫引きするが、総理府(当時)による1983年の『国民生活に関する世論調査』では「今後の生活の力点」で、レジャー・余暇生活(26.3%)が住生活(25.2%)を初めて上回ったらしい。(第7章「余暇産業と余暇消費」中藤保則, p.115)
またまた、ちなみに、まさに1982年という年は、わたしとカバ娘(当時)は、はじめて山奥ででおうた年じゃ…(関係ないっ!)
ほんらい、さらなる「リサーチ」が必要であろうが、この増加には、ヤギ頭の記憶に頼る限り、1979年のダイヤモンド社『地球の歩き方』の刊行開始や、1980年の『BE-PAL』創刊、同じく1980年に出版された椎名誠の『わしらは怪しい探険隊』とその続編の人気との相関関係があるという事実、また、このころの一般化した「ホームセンター」での買い物ともかかわりがあるということは、実に、考察するに値する深淵なるテーマであろう(どこがじゃ!)
そして、である
なんと、カバ婆の指摘した1992~93年から1年の時差をおいて、1994年に、またまた、「有意」なる統計上の差異が、見られるではないか。この年から2001年までの8年間、年間平均40冊という「アウトドア」出版の「黄金期」を迎えるのであーる!
いま50代に差し掛かったような親の世代の「ファミリーアウトドア」が支えた、「アウトドアブーム」であったことか…「新人類」(ふる~っ!)初期の世代である。
ちなみに、バブル崩壊は1991年ごろのことであった
まこと、我が家の「アウトドア生活」は、まさに、このとき、はじまったのであーる!
(たんなる「流行チョイかじり」ってだけだろが!)
ちなみに、わたしが大学の紀要(研究報告書)なんかに書く文章で、「アウトドア」を使いだしたのも、このころである(1993年「ロマン主義とアウトドアブ-ム」、1995年「アウトドアズマンの遊びと倫理」)なんとまあ、これもまた、流行追っかけだけの浅はかさ
さてさてさて、ちなみに、2002年以降の状況は、2004年を除き、出版数は年間10数冊に、ふたたび下降し低迷しているではないか…
思うに、これは、(ゴホン)、おそらく、「アウトドア」という言葉が巷に定着したゆえ、出版業界が、もはやこの手の本では「もうけ」が薄い、と判断し、おそらく、たぶん、もっと細分化された出版戦略が必要であると判断したためであろう。(たんなる推測じゃ!)
ところで、小泉政権は2001年から2006年。また、ちなみに、実感を伴わない「いざなみ景気」と呼ばれたうかれ時代は、2002年後らから去年(2008年)まで…。
今年からまた、「アウトドア」は増えるのかな…
が、ちなみに(おいおい、ちなみちなみの連続かぃ!)、この2002年という年は、我が家にとっては時代を画する年であった。つまり、ブタ子高校入学、クマ太郎中学入学の年…なのである。
ヤギ父 「なあなあ、おめーたちぃ、あのな、今度の週末、久しぶりに、キャンプでもいこーやぁ」
ブタ子 「ごめん、あのさぁ、クラブあるから…」
クマ太郎 「え、陸上の試合だって言っただろ」
2002年とは、愛する息子、娘の無下なるNO!の連続で、我が家の「幸せアウトドアファミリー生活」が、とうとう終焉を迎えることとなり、わがヤギ爺はといえば、ひとり、もんもんと、机上で「アウトドア」を考える季節が、まさに始まった、その年なのであった…
時代は巡る
·
ページの先頭へ
7月21日(火)
きょうの英語の授業の教材として使うアメリカの新聞記事なのであるが、ビデオゲームが新しい教材として注目されているということだ。クエスト系のゲームでアメリカ史を学べるような類のものがすでに実用化されているという。
CALL教室というのが一種花盛りのようであるが、Computer
Assisted Language Learningの頭文字をとったもので、パチンコ台のようにコンピューターが並んでいる教室である。コンピューターによる学習支援システムだ。LL教室(わたしぐらいの年齢以下の方なら大方の人が一度は入ったことがあると思います)の没落の後を受け、「語学教育の新兵器」だと、一部で、注目されている。
いまではもうコンピューターを何らかの形(たとえば教材選びや参考のホームページの紹介など…)で学習支援に使うことは当たり前となっている(と思う…)が、10年ほど前阪大にCALL教室ができたころには、まだ、画期的なことだったんだなぁ。
わたしも、ゆえあって、2002年度の授業からこのCALL教室を使っている。それで、その年の9月発行の大阪大学サイバーメディアセンター刊行の『サイバーメディア・フォーラム No.3』に「CALL教室の終焉」などという文章を書いている。「CALLシステム担当教官の声」というコーナーの一文で、「本年度4月よりCALL教室を使い始めたばかりの人間が実際的な提言や提案などできるはずもないのであるから、「たら」「れば」の希望的観測に基づく夢のような話として「すべての教室がコンピュータ室になることでCALL教室がなくなる日」を語りたいと思う。ありきたりの話です。 」などと断っているが、使い始めて数か月で「終焉」を語るのだから、まったくとんでもない話であった。
『サイバーメディア・フォーラム No.3』の目次はこちら
http://www.cmc.osaka-u.ac.jp/j/publication/for-2002/index.html
ヤギ爺の文章はこちら
http://www.cmc.osaka-u.ac.jp/j/publication/for-2002/39-41.html
相変わらずぐだぐだと主旨のわからない文章であるが、けっきょく、「語学の授業でのコンピューターは大変役に立つ道具で、「黒板、筆記用具の延長」「学習教材、参考書、辞書等の延長」として少しでも使いこなしていけるよう努力を続けます。ただ、「CALL教室」などというものが大金を叩いて作るほどの価値のあるものか疑問です」ということだ。
あれからまだ10年もたっていないが、学習教材や参考資料としてのコンピューターの有効性はわたしのみならず多くの方がすでに認めておられると思う。また、記憶メディアの発達や利便性の向上、講義室のコンピューター環境の整備(阪大では多くの教室で無線LANでのインターネット接続が可能です!)、インターネット上でのコミュニケーション手段の発達(Webメールや各種グループの設定機能、チャット機能、文書共有機能等のこと)などにより、「黒板、筆記用具の延長」および「学生との連絡機能」という点でのコンピューターの利便性も明らかなものとなってきており、その結果、わたしが「終焉」と呼ぶような状況もあながち嘘ではなかったと思える事態となっているかもしれない。大阪大学でも「WebCT」というインターネット上の学習支援システムを開発しており、「教室」という空間を超えた学習支援が進んでいる。
現に、わたしにとっては、授業をする空間として、インターネット接続可の普通教室の方がCALL教室よりもずいぶんと使い勝手がいい
さてさて、ビデオゲームによる「学習支援」だが、これとて、なにも新しいものではない。CALL教室にともなう自習型学習ソフトの開発にも、利用者の興味を引くような工夫を重ね限りなくゲーム感覚を重視する方向性があるようだし、授業教材として開発されているソフトにも同様の工夫がある。
それよりも、いわゆる学習参考書の「発展」の歴史を見てみれば、学習者の利便性および興味関心を引く工夫を追求することに専心してきたことがわかる。チャート式が現れ、その後もさまざまな方式が現れ(わたしはチャートで終わってる…)、マンガの参考書まで出てくるのである。コンピューターによる学習支援も、このビデオゲームによる学習支援も、この延長にあると考えればいい。
学習者は自分に合った教材を選ぶべし
さて、ところで、パチンコ屋のようにコンピューターの並ぶCALL教室がほんとうに終わってしまった後には、ゲームセンターのようにゲーム機の並ぶVGALL教室(ビデオゲーム支援語学学習教室 Video Game Assisted
Language Learning)が、できるのだろうか
·
ページの先頭へ
7月17日(金)
きのうの出勤時、阪急梅田駅で通勤の人の流れを乱す一団と遭遇した。総勢20名ほどのハイキング団体だ。
中高年のリュック、ハイキングブーツが改札内すぐのあたりでうろうろしている。改札を入ろうとするサラリーマン、OLの渋滞ができる。やがて、「ツアーガイド」のような男性が「みなさーん、こちらですぅー、こちらぁ!」と、京都線のホームに上がる階段の方に旗を振る。どこに登りに行くのやら…
と、今朝の大雪山系での登山事故のニュースを聞いて思い出した。
トムラウシ山での遭難は旅行会社の募集したツアー19名のパーティーだという。山が荒れて気温も0度になったという。軽装の登山だったらしい。さぞ寒かったことだろう。
と、ふと、10数年前、家族で北海道旅行をした時のことを思い出した。
名古屋から苫小牧まで行くフェリーに乗り、まずは網走、知床の北の果てまで走り、そこからあちこちの「温泉とキャンプ場」をめぐって南下する旅だった。ほとんどのキャンプ場が無料(あるいは数百円)で、ほとんどのキャンプ場の近くに無料の露天温泉があった(まあ、そういうところを選んだのだが)のには感激した。親たちは大いに楽しんだが、子どもたちはとにかく付き合った。
ちょうど子どもたちの夏休みに入ってすぐの1週間の旅だったが、この時期の北海道の天気は「わけがわからない」ことを実感したものだ。梅雨はない、はずの北海道であったが、われわれのいた期間ほとんど毎日が雨だった。幸いなことに日中には晴れ間がのぞくのであるが、夕方キャンプ場を探してテントを張り始めると必ず雨が降った。寒かった。無類の寒がりヤギ父(当時)一行は、まさかと思って持ってきた冬装備を着込み、
おーいぃ、これが夏かよぅ!さぶ~
麓にあるキャンプ場ですら寒かったのだから、山の上はさぞ寒かったことだろう
そう言えば、屈斜路湖畔の露天風呂に入ったとき、長袖がいるほどの寒さの中、ブタ子とクマ太郎がそのまま湖の方に泳ぎ出て、わたしなどは足をつけておくこともできないぐらいの冷たい湖水の中はしゃぎながら水遊びしていたことを思い出す。横にいた観光客が「見てごらん。泳いでる子がいるよ。元気だねぇ。やっぱり地元の子はちがうねぇ」と言っていたことを思い出す。ちょっと自慢で「あれ、うちの子らですぅ。奈良から来ました」と声をかけたい衝動に駆られた。
そういえば、最近のアウトドア産業の特徴で、バスツアーなどを企画する「一般の」旅行会社がハイキングやちょっとした山歩きのツアーなどを企画することがあるようだ。実は、カバ婆とよく利用する旅行会社のひとつもそんな企画をしており、一度、御在所でその会社のそろいのバッジ(ツアー参加者は目印で付けるのです)をつけた一行に出会い、「おー!○○旅行社ですか!わたしらよくバスツアーに参加するんです!登山の企画もあるんですかぁ!」と、思わず添乗員さん(いや、ここではツアーガイドとでもいうのでしょう)に声をかけた。わたしの知る「山岳ガイド」のカテゴリーにはどうも入れ辛い雰囲気を持った男性であった。
ホームセンターでの廉価な野外用グッズの販売が一種「アウトドアブーム」をもたらした(その逆もありの相乗効果)ことを思う。「ホーム」センターで「アウトドア」グッズとは、こうしてあらためて考えてみると、おかしな話である。
「アウトドア」という言葉にはどうも「ホーム」と「アウェイ」の感覚が乱れた雰囲気がともなうようだ
(ただし、ヤギ爺があえて「アウトドア」という言葉を使うのは、実は、この「ホーム」と「アウェイ」の、つまり「ドア」という境界線の曖昧さを考えたいからなのですが…)
今回の事故を起こしたツアー会社は、どうやら逆に、もっぱら「アウトドア系」のツアーを専門にしている会社のようだ。もちろん、事故はいくら慎重にしていても、熟練していても起こるものである。だから、性急な判断は禁物であるが、「アウェイ」側を担う人たちの感覚も乱れてきたのだろうかと思ってしまう。
ガイドは何名ついていたかわからないが、19名のツアー(2000メートル級北海道の山の2泊3日の縦走です)というのは、単純にちょっと多すぎるような気がする。たとえ温泉泊まりの縦走だったとしても、歩く道筋には何もない。こんな悲劇が起こると、旅のカタログの楽しげな記述が空しく響く…
「個性ある変化に富んだ登山を楽しむことができます。もちろん宿泊はすべて温泉!山の疲れを癒しましょう!…」
(訂正:パーティーは男性5人+女性10人と男性ガイド3人の計18人だったという。この人数が多いのか適切なのかはわたしにはわからない)
「登山専門店」などでも、日常使用のバッグやアクセサリーやホームセンターで売るような廉価な道具を揃えるようになってきたことを思う。「専門」という言葉もいまや怪しい。
いずれにせよ、山岳事故やアウトドアでの事故一般に対する世間の反応と当局の対策を見守っていきたい。やがて、北海道大雪山系には、1時間間隔で、暖かい室内とお風呂、風呂上りのちべたーいビールが用意してある「避難小屋」が、できるかもしれない。「ホームにいるのと同じ手軽さで楽しめるアウトドアツアー!」産業花盛りだ。
ならば山奥になど行くのはやめて、家でビールを楽しもう
·
ページの先頭へ
7月14日(火)
ひょんなことから、YouTubeで夏川りみの「涙そうそう」を聞いて見た。しゃきっとした声ですっきりとなかなかよろしい。
ふと、関連動画に BEGIN の「涙そうそう」もあったので聞いて見る。うん、これもまた味があっていい。
「カバ婆、「涙そうそう」っていいよな。口ずさんでると涙出てくる」
「あ、そ」
ふと友人の「にわかジャクソンファンになった」というメール通信を思い出し「マイケル」で検索してみる。若いころ見た「スリラー」「Bad」など有名どころのプロモーションビデオは鮮烈だったが、わたしもとくにファンというわけではなかった。
いくつかのプロモーションビデオや舞台での踊りを見るうちにこりゃなかなかだとあらためて感心した
「おい、婆、マイケル・ジャクソンいいよ」
「ほー、そっ」
"We Are the World"を聞いて見る。懐かしいとともに涙が出てきた。歌のリレーと掛け合いが絶妙だ
「婆っ、いいいいっ!」といってイヤホンをはずしもう一度聞く
「ほう、いろんな人が歌ってるんだよね、有名歌手でしょ、知らん人もいるよねいっぱい」
「おう。最後の方、スティービー・ワンダーとか…ほれ、あれ、もう一人、大御所、名前でてこーせん、ピアノ弾きながら歌う人」
「ああ、あれ、えーっとぉ、『ブルース・ブラザーズ』で楽器屋さんやってた人でしょ」
「そうそう」
ということで、二人とも、レイ・チャールズの名前が出てこない。「顔はくっきり思い出してるのにぃ~!」という例のいつもの初期老化夫婦会話をしばらく続けた挙句、やはり「ウィキペディア」のお世話になった。
「おー Ray Charles やん」
「そうだ」
ということで、懐かしのサミー・デーヴィス・JRまで、突然の黒人歌手特集をYouTubeするうちに、つまみ(晩飯)の準備を終えたカバ婆が食卓に座る。テーブルの角にL字型に座り(カウンセリングポジションと言うらしい)ビール(第3の)やつまみ越しに二人で小型コンピュータをのぞき込みながら、「やっぱ、『ブルース・ブラザーズ』でしょ」「え、そんなんも見れるの」「おう、全部じゃないけど有名どころのシーンはあるはずさ」と、ご存じテーマや、Cab Calloway の "Minnie The
Moocher"など、さんざん楽しんだ。
「テレビいらんね」
「だろー。YouTube 恐るべし、やろ」
いつの間にやら、「こんなんもあるで」ということで、懐かしのグループサウンズ、思い出のフォークソングなど、飯も忘れてさぐりまくった
わたしの発見は、三田明の白虎隊の歌(「燃ゆる白虎隊」)が、YouTubeで見つかったことだ
明治ぃ、がんんねーん、あきぃーなーかばぁーーっ、コジョーを、まーああもーる、ういぃじーんにー…
おー!
·
ページの先頭へ
7月8日(水)
外を自由に闊歩していたときのゴンは、トカゲ、カエル、鳥、ネズミなどの小動物の狩猟の達人(猫)であった。鳥にいたっては、幼鳥から成鳥まで、各種取り揃えて捕まえてきた。
『What's Michael?』をご愛読の方はご存じだと思いますが、猫は、あたかも飼い主に褒めてもらいたがっているかのように、ときに半殺し、ときに全殺しの「獲物」を、意気揚揚と持ち帰ってきては、「みゃー、みゃー」と飼い主を呼ぶ。
カバ婆は、「ひや~ぁつっ」と叫びながらも、「ごんちゃーん、えらかったねぇ~」などとわけのわからないことを言っては、トングでゴンの獲物をつまみあげ、引き離す。そうしなければ、たぶん、最終的には食うのだろう。
幸いにしてまだ生きている場合は、無事快復を祈り庭の片隅へ、ご他界した場合には穴を掘り丁重に埋葬することになる。その際、自称都会派平和主義者ヤギ爺は、横であたふたするばかり、けっして作業に手を貸すことはないのであった…
思うに、自由と平和の両立とは、いつもかようにむずかしい
·
ページの先頭へ
7月3日(金)
最近しばしば話題になるが、座っておしっこをする男性が増えている。トイレ掃除との関連だ。洋式のトイレで立ったままおしっこをするとどれくらい飛び散っているかを実証した実験をテレビでやっていたこともある。「飼い慣らされた猫」との連想で語るのは性急かもしれない。
・・・・
70歳を過ぎたころ胃癌が見つかり胃を全摘した父は5年を過ぎ再発もなく「癌を克服した」と自慢であった。しかし喜寿を過ぎたところで肝臓への転移が見つかり、医者はすでに手遅れと言い、母は高齢による進行の遅延を信じ、父には隠したままの看病となった。「肝臓の機能が弱ってるらしいんだわぁ」
しばらくの父は居間で座ったままの生活がほとんどとなり、やがてベッドを居間に持ち込んでの寝たきりの看病となった。亡くなる半年ほど前からだったろうか。
それでも父はおむつを拒んだ。尿瓶も使わなかった。
血行の悪くなった父の足は寝たきり状態でますます衰え一人では歩けない。そんな父を母はトイレのたびに抱え支え、便所まで連れて行った。
上体を起こすこともままならなくなったころ、母は尿瓶を買った
「あんた、これでしてみん。病人は尿瓶でしょう」
「だめだ。寝たままでおしっこが出るか」
定期的に奈良から名古屋まで様子伺いに行っていたわたしは、父が初めて尿瓶でおしっこをする場面に居合わせた。それはお漏らしをしてしまう子どものような悲しい姿であった。
それでも父はおむつを拒んだ
大きい方をもよおしたとき、父は、体を起こし立ち上がり一歩一歩歩く苦痛を押してトイレまで連れて行けと言い張った。
まだ元気なころの父は洋式トイレを嫌っていた。「しゃがんで踏ん張らねば出るもんも出ん」と豪語した。そんな父に寝たままおむつにしろというのが無理な話だった。
死ぬ数か月前わたしが見舞ったときも父はトイレに連れて行けと言った。母を制し「わしが連れてったるわ」と父を抱き起こし立たせようとした。「痛たたたたっ」と父は苦しんだ。「どうしたの?やっぱりかあさんじゃなきゃだめかね」「痛たたたたた…」
「ちょっとまて」と言う父を抱き起こしてしばし止まり、ベッドに座らせひと休み、立ち上がらせては「痛たたたた」、一歩ごとに「うぅ~」と、数メートルの距離のベッドとトイレの間を何十分もかかってやっと往復した。全身に転移した癌は体を動かすことも許さなくなっていたのだ。
その後の母との電話で「とうさんおむつ使うようになったわ」と聞いた。やがて父は入院した。入院して2週間、母とわたしの目の前で、父は最期の息を静かに吐いた。
・・・・
さて、その息子のヤギは、あいかわらずの頻尿に苦しんでいた。カバ婆と日帰りバス旅行にはまったころ、精神的脆さはズタズタで、尿意への恐怖も最高潮に達していた。されど旅行は楽し…
ヤギ爺はカバンに空のペットボトルを常備してバスに乗るようにした。お守りのようなものだ。素知らぬ顔で上着を膝にかけその陰ですれば気づかれずにすむ…と思うだけで大丈夫!しかし、いまだ、実用に供したことはない。
もちろん、A型ヤジ爺、500mlのペットボトルに実際することができるか、また、容量は十分かなど、事前に家で実験済みである。できる
しかし、それでも不安は募るばかりであった。不自然な動きはあきらかに隣に座る人に気取られる心配がある。カバ婆には言ってあるから大丈夫。しかし、問題は、通路をはさんで隣の人たちだ。何せ手元が見えない状態での行為である、もし外れたら…
そこで、おむつの登場だ。わたしは大人用おむつを試してみたのだ。これはいける!もちろん、これも、結局は実用化に至らなかった。履いているだけで安心だったからである。
さて、当然のことではあるが、このおむつに関しても、ヤギ爺は事前にチェック済みであった
できる
·
ページの先頭へ
7月3日(金)
昨夜ゴンがひさびさに網戸を開け脱走した
かつてはどんなことをしてでも脱走を試みたゴンだったので、夏になり網戸になる季節を心配していたのであるが、猫の脱走対策についていろいろネットを調べ「先人の知恵」を頼りに百円ショップで買ったビニールコーティングの格子網を組み合わせ網戸の手前に挟み込むようにした。こんなもんでは以前のゴンならものともせず逃げ出すはずなのだが…
3月から3か月家中に囚われの身でいたゴンには、もはや「逃げ出す」という覇気が失せていた
というなかで、昨夜はヤギ爺が庭で七輪!だったため、出入りの都合で「防護柵」をしっかりと設置していなかったのだ
実を言えば、これまでもうっかり網戸だけにしていたりしてゴンがこそりと逃げ出したことがある。「あ!」と気がついて飛び出したら、庭の隅のあたりで立ち止まりうずくまっている。そーっと忍び寄る。「ごん~」と言いながら手を伸ばしさっと取り押さえると、難なく捕まった。
その時感じた何とも侘しい悲しい気持ち…
以前外を練り歩いていた頃のゴンは、家の外では決して捕まえることができなかったのだ。家の中では甘ったれのゴンも、戸外では野生に帰っていた。
昨夜はすでに飲んだくれて床(ゆか)に寝そべり高鼾の爺の鼻先からゴンはまんまと脱走した。カバ婆は後片付けで台所。誰にも気づかれずの久々の外出であった。
婆は「ひょっとしてもどってこんかも…」と少し心配になったという。爺は再び高鼾。あとで聞いたのだが、ゴンは数十分してのそのそと戻ってきたそうだ。もはや縄張りを失ったのであろう。
飼い慣らされた猫
ゴンの鳴き声は、このところ、覇気のない「ぅぅにゃあ~ぁごぅぅぅ」のみになってしまった
·
ページの先頭へ
7月1日(水)
人間寄れば喧嘩が始まるというが、わたしなど、ひとり「ああでもない、こうでもない」「こうするか、ああするか」と葛藤ばかりのヤギ頭なので、人間は一人でも食い違いや悶着は付きものだと思ってしまう。
そこで妥協が肝心なのだが、人間とはこのようにいざこざが絶えないもので、すっきりときれいな関係、まっすぐな付き合いなどないものだと思うのがよさそうだ。
落とし所を求めなくなった時代?
いやいや、日々の政治でも、商売交渉ごとでも、みなさん、こんな妥協点を探ってやまないはずだ。それでもなかなかことがおさまらないのは、やはり、「折れる」ことは負けることと思うからかな。「折れ合う」ことは難しい。「慣れ合う」ことに通じると感じられるのかもしれない。正しい政治やまっとうな商売をしなければならない時代にはとくに探るに難しい解決策なのだろう。
さてさて、「落とし所」とはつねに胡散臭さを纏う言葉だが、よくよく考えてみれば、ここは、つまりは折れた挙句に落ちた場所、碌なところじゃないのだな、ははは
そう心得ればこそ、さぐってみたくもなるものだ
·
ページの先頭へ
44.このところつまらなく、ちょっとは楽しいこともあったけど…
6月25日(木)
おもしろいことが何もない
·
ページの先頭へ
6月19日(金)
前にも書いたが、おそるべし「三角フラスコ体形」のアメリカ人女性が、カフェテリアでの食事ではさすがに食べ過ぎは禁物、皿はサラダ中心にかわいそうなくらいの「小盛り」だったのであるが、食後おもむろに立ち上がったその女性、デザートのコーナーに行き、大盛りのケーキ2つと「ダイエットコーク」なるもののL(ラージカップ)を買って、ムシャムシャゴクゴクやりはじめた。
いまでは糖質0パーセントなんてのもあるが、いずれにせよダイエットが気になるなら水でも飲むがいい
駅の喫煙コーナーなどにはゴテゴテとデカたばこの写真付き宣伝広告があったりするが、そこには「疫学的な推計によると…」とか「死亡する危険性が高まる」とか、ちょっと意味が分かりにくい表現が連なる。なかでも、「マイルド」「ライト」の表現に関する「パッケージに記載されている商品名の…」という但し書きは、「健康に及ぼす悪影響が小さいという意味ではありません!」となっているが、疫学的な推計が出ていない。
いずれにせよ、「マイルド」だから「ライト」だから「体にいい!」と思って吸っている人間はいないだろう
ここ数日、エコカーの話題が新聞、テレビをにぎわしている。結局は開発、販売を担う車会社が、ジャーナリズムという「広告板」を利用しているのだろう。なんせ広告料無料っ!ありがたやありがたや
さて、この「エコ」という言葉には、但し書きはいらんのだろうか?
各自で身の回りの「エコ」のついた商品を思い浮かべてみればいいのであろうが、本当に環境に留意しているのであればもともと買うな!というものが多いはず
たとえ排ガス50%減のエコカーでも「禁車」するよりは環境によくないだろうことは、わたしでもわかる
ましてや、「うちの車、エ・コ・カーっ!だーんぜん環境に優しいから、週末、せっかくの高速1,000円利用してぇ、一日でどこまで遠くいけるか挑戦しちゃった!」なんてのであれば、ニコチン、タール半分だからといって普段1箱を2箱吸っても大丈夫!と思うおバカ喫煙者と同じだ。
政府は、減税や補助金などやめて、車会社に対し、
「本製品のパンフレットに記載されている「エコ」という表現は、本製品の環境に及ぼす悪影響が他製品と比べて小さいことを意味するものではありません。乗りすぎに注意しましょう」
という但し書きをつけるよう法整備をすすめるほうがいい。わたしにはどんな脅迫にもめげず車に乗る自信がある。
·
ページの先頭へ
6月7日(日)
クマ太郎(息子)の誕生日、二十歳になったのだ
おめでと
きのうからあちこちで言っているのだが、とにかく、ヤギ爺にとっては、特別な日のような気がする
「庇護」すべき人間が、もはや、いなくなったのだ
いや、これまでも庇護などはしていない。うるさく親をしていただけであろう
しかし、いずれにせよ、制度的にも象徴的にも、わたしには「子ども」はいなくなった。
おめでとう
·
ページの先頭へ
6月6日(土)
どこがちがう!!!!
という声が「39.野蛮、無礼」を読んだ方から聞こえてまいります
この「独り言」はいわゆる「ブログ」のようにコメントやらトラックバックやらない、一方通行(独り言だも~ん!)の垂れ流しですから、(とりあえず上のメールアドレスは間違ってはいません)、フィードバックの部分も爺の独り言
ある種の研究(たいがいの?)では、まずは用語やキーワードの定義をして、その論文(など)での使い方をはっきりさせなければならないことになっている。論文の審査などの正式な場ではなくても、たとえば授業でのコメントなどでも、「〇〇さんは「アウトドア」を鍵概念として用いているようだけど、いったい、どう定義して使ってるの?」という質問は、教師が、必ずする。
これは、大切なことだと思うけど、往々にしてこの種の形式的手続きは弊害も生むものです。その典型は、どこかのだれかが使った借り物の「定義」をお借りして、ずーと論を展開して、結局その定義にしばられてしまって、ちっともほんとうの「展開」がない、なんて文章を書くことになる。
おもえば、ある種の研究者(たいがい?)は、たとえば、「ハーバーマスは「公共圏」って言葉をどのように考えて、どのような意味で使ってるんだろう…」などと思いながら、『公共性の構造転換』をメモ取りながらしこしこ読むわけで、言葉の意味っていうのは、その人の使っている意味っていうのは、話を聞いてみなければわからない。
たとえ、「はじめに言っとくけどねぇ、ぼくにとって「愛」とは…」なんて始まった話を聞いていても、そのひとの「愛」についての考え方は、話を聞いたり、行いを見たりしているうちに感じ取れてくるもの
わたしも、論文指導の時などには、「まずはキーワードの定義をしっかりね!」などというけど、「でも、論じているなかで、その定義とははみ出すような部分がいっぱいあるような文章が、ぼかぁ(と気取って)読んでてたのしいなぁ」などと、つぶやくのである。
「そりゃあ、ひとことで言うのはむずかしいなあ」とはつねに思うことならば、是非とも先行研究が「序論」で示した定義だけをもとに自論を展開するようなことはやめよう。
というわけで、「アウトドア」は遊びです
(では、「遊び」はどういう定義?と、きかないで…一生かけて償います…)
·
ページの先頭へ
6月5日(金)
ブタ子(娘)からケータイに電話。よもやま話
「あのさぁ、やっぱ、わたし、あのばあちゃんから生まれたかあさんとあのじいちゃんの子どものとおさんから生まれたんだわぁ、って、つくづくおもうんよ、最近」
「そうか、いいんじゃない」
「むかし、とおさんにすっごく叱られたこととか、しっかり覚えてんのよぉ、鮮明にね。そんなこと思い出してると、つくづくね、思うわけ」
「わすれろ!わすれろよ、そんなこと、おねがい~」
「シイタケ食べなくて怒られたこととか、クマ太郎なんか、なんか、おじちゃんにもらったお年玉を大事にしなかったって、すっごく怒られたこととか」
「わしゃ、へんなことで突然おこるでなぁ。「人の顔色うかがう人間になれ!」なんて、バカ言ってたよなぁ」
「そうそう。そのくせ、とおさん、突然キレるんだよなぁ、あの野沢でのことも、はっきり覚えてる」
「ああ、それ「独り言」に書いたもんなぁ、去年か」
(注:バックナンバーヤギ爺の独り言2008「12月24日(水)続・ひねくれもの」参照)
「そうそう、忘れてたんだけど、あれで思い出した。くっきりとね」
「ええっ、しもたぁ。書くんじゃなかった。忘れろ、忘れろ!
でも、なにかいいことだって覚えてるだろ?とおさんの、よかったところ」
「いいとこ?うん、覚えてるよ。たぶんね」
「なになに?」
「・・・・」
なかったようである
·
ページの先頭へ
6月5日(金)
ひさびさに、池澤夏樹の『母なる自然のおっぱい』を読み返しているのだが、さすがなのはあいかわらずです。ただ、ちょっと「思い入れしすぎ」って感じが、今回読んでいて、する。文庫版のあとがきに「センチメンタルな自然賛歌ではなく、告発調の文章でもなく、根源に返って両者(人間と自然)の仲について考えてみたい」とあったのが「よろしい!」と気に入っていたのだが、ちょっとセンチメンタルな感じとちょっと告発調な感じも、今読むとする。でも、それも程度の問題で他と比較すればじゅうぶん根源をついてます。
読む側の気分が変わると書いてあることがちがって見えるものであるが、前(10年ぐらい前)にはそんなに思わなかったけど、この本、「アウトドア」研究の本でもあるんだ。わたしのヤギ頭が必死になって考えていることなんて、池澤さん(親しげっ!)、もう、とっくにじっくり考えていたんだ。まいったまいった。
それはさておき、きょうはアウトドアとは関係ない話
「狩猟民の心」という章で池澤さん(失礼)が言いたいことのひとつは、狩猟民が動物を殺すから野蛮で残虐で、農耕民は畑の物を食べるから温和だという「常識」がまちがっているということだ。けっこう「そうだ!」と思っている人も多いとおもうけど、それを上手に書いているところがさすが。「人は畑を作ることでひたすら攻撃的になり、貪欲になり、残虐にもなった」(新潮文庫版61ページ)といって、農耕→冨→収奪→戦争、といった感じで、文明史をまとめる。もちろん、農耕民だって狩猟民だって争うし、平和的でもあるわけだが、狩り=残虐、農耕=融和という短絡を戒める意味はある。
章を締めくくりにあたり池澤は(という論文調はちょっと気分にあわないなぁ…)、タイトルを借用したポストのブッシュマンについての本 The Heart of
the Hunter (読んでない、読んでみよう)に触れて、ブッシュマンの「礼儀」について紹介してくれている。
アフリカを旅するポストが砂漠の真ん中で飢え渇き苦しむブッシュマン一族を救ったという。銃も持ちランドローバーに乗っての旅だから、水を与え動物を撃って与えることもそんなに苦労ではなかったという。池澤さんの要約ではよくわからないが、たぶん、ポストの心の中にはとうぜん感謝されて「ありがとう!」の言葉が返ってくることへの期待があったが、実際にはなんにもお礼がなかったのだろう。ポストに同行する(たぶんブッシュマン、ガイド?)の一人がポストに言った言葉が引用されている。「まさかあなたは、われわれがやったあれくらいのことに彼らが感謝すると思っているわけではないでしょうね?」云々
つまり、困っているものをみたら余裕のあるものは助けるのが当然、ということだ。これはけっこう一般的な常識だと思う。だけど、目から鱗は、最後の言葉。
「その場で「ありがとう」ということは、あなたがそんなことをしてくれるとは思っていなかったとほのめかすこと、つまり遠回しにあなたを侮辱することなんですから」
うぅ~ん、まいった。これだって言われればそのとおりなんだけど、ふだん忘れてます。つい「ありがとう」を求める気持ちには、逆に言えば、「わざわざしてやった」とか「こんなことあんたのためにしたくはないんだけどね」とかいった気持ちがあるのだね。たしかに、「(まあ当然のことをやってもらっただけだけど、そこはひとつ、「え!まさかわたしのためにわざわざそんなことしてくれるとは思ってもいませんでした」という気持ちを伝えるために)ありがとう!」というのが常識の人間同士の関わり(社会)もあるが、そうでない関わり方もあるのだ。
「礼儀」は大切だし、コミュニケーションを研究するとき重要なテーマだけど、たしかに、このような(お礼の言葉を言わないといった)「礼儀」も考えに入れるのならば、大切な研究だとおもう。
野蛮で攻撃的だ思われることが実はそうでない、無礼と思えることが実はそうでない、あたりまえがあたりまえでないのがあたりまえ(また、くだらん言葉遊びだ)、ということを教えてくれる本はいいな。
·
ページの先頭へ
5月28日(木)
「独り言」を始めた際、その下書き用に「ヤギ爺日記」を始めた。初めは文字通り下書き用、書いたすべてが「独り言」になっていた。
ふと気づいたら、途中から、そして最近とみに、「独り言」にならない、できない、思考の残余が増えてきた。思いつきやらふと知った事やら個人的なことやらがコンピュータの中に残っている。ここにきて日記の習慣ができたのか…
生まれてから51年数か月、これまで、日記やらメモ(作家の創作ノートのようなもの)など、まともに残したことがない。まとまった文章を書くための資料やメモなども、書き終わるとすぐに散り散りバラバラ、ごみの山の中にに消えてしまう。何年かに一回「ゴミ屋敷」と化した研究室を一気に整理する衝動に駆られたときなどに、そのほとんどが廃棄となる。メモなどは印刷ミスの紙の裏や広告の切れ端などに付けてあるので、どれがどれやら何が何やら本人すらわからない状態になるのである。
思考の蓄積ができないヤギ頭に文化はない
「日記」を読み返していて、いくつかの記事を削除した。やはり、昔(といっても「ヤギ爺日記」の場合はまだ1年そこそこだが)考えたことは、「お!こんなことを考えていたのか」でも「あれれ、こんなことしか考えておらんかったのか」でも、やはりどちらも恥ずかしい。ときにすっぱり消し去りたくなってしまう。
うぅん、これは、やはり突然の事故死は絶対に駄目だな。飛行機はやめよう。車も、極力乗らないようにしよう。しかし、自転車、歩行者が一番危ないか…困ったものだ。
心臓、血管関係の病にならぬようにも注意せねばなるまい。突然意識不明の重体はまずい。血液サラサラの玉ねぎを食うか。
すべてを消し去る時間が欲しい
·
ページの先頭へ
5月22日(金)
NHKの「街道てくてく旅」が好きだ。とくに、今年の「山陽道編」は、旅人原田早穂さん(シンクロ)が素朴でとてもいい。
「ぶらり旅」系、「各駅停車」系、「ローカルバス」系の旅番組や、鶴瓶さんの「家族に乾杯」系の番組もよく見る。ローカルな話で申し訳ないが、奈良テレビで「気ままに歩こーく!」というのがあり、毎週奈良県内の小学校の校区内をあちこち歩き回るのだ。今年の3月までは「気ままに駅サイト!」という番組で、奈良県内にある鉄道の駅の周辺を気ままに歩く番組だった。
思えば、デジカメの普及が大きい。わたしは芸術的才能が皆無だが、そのくせカメラマンなどにあこがれる気持ちがあり、フィルムのカメラのときも、ときに、「カメラを手に…」などと思ったことはあったが、なんせ、高いお金を出して現像した写真の、すべてがみごとに哀れなことか…長続きはしなかった。
数年前、カバ婆がなぜか突然「スルッとKANSAI-3DAYチケット」の旅を始めた。これは近畿一円のスルッとKANSAI加盟各局の電車・バスが提携し、期間限定で年に数回観光シーズンオフに、全線の1日乗り放題チケットを3日分5,000円で売り出しているものだ。売り出し開始から期限までのおよそ2カ月ぐらいのうちの連続でない3日間でも使用できる。つまり、関西圏日帰り各駅停車の旅が季節ごとに3回楽しめるのだ。
「わたしももうりっぱなおばはん。雨の京都の中年女ひとり旅も風情だぜぃ!しかも一日1,700円で楽しめるとは、経済経済っ!がははは」
ということで、京都などへひとりで出かけた。それがなかなか楽しそうだった。
「わしもついてったろかぁ」「つれてってほしいなら、そういいな」
ということで、ふたりで姫路やら京都やら和歌山やら吉野やらへ出かけた。それがなかなか楽しい。
前にも書いたが、私は頻尿で、トイレのない急行や快速急行の類はどうも苦手だ。駅と駅の間がたかだか20分ほどでも精神的頻尿に陥る。その点、各駅停車はうってつけだ。
むむ…まてよ…「デジカメ、格安、頻尿」旅ぃ…うむぅ…わたしは、やはり正真正銘、すでに爺ぃだ
ということで、以前は海外情報やら、秘境、奥地への旅といった番組を好んで見ていたが、今では、自分でも実現可能で手ごろなものに惹かれるようになった。夢も野望もない、ヤギ爺の楽しみである。夢も野望も他に持つかな
·
ページの先頭へ
5月21日(木)
カバ婆と映画『トゥルーライズ』の話をしていて、ふと、にいちゃんに『スティング』を見に誘われたことを思い出した。すでに東京にいたにいちゃんが名古屋の実家に帰省したときのことだった。わたしは高校1年だったと思う。
「詐欺師の映画で、ポール・ニューマンがでているし、最後のどんでん返しがすごいと話題の映画だ、見に行かないか」と誘われた。わたしは、恥ずかしながら、映画を映画館に見に行くことはほとんどなかった。にいちゃんは、話題の映画で自分の気になるものは必ず見に行っていた。
見終わったあとのわたしたちはまるで三流ドラマの大根役者のようだった
にいちゃんとわたしは、最後のどんでん返しを見終わり、エンディングとなり映画館に明かりがついたとき、皆について通路を歩き、顔も見合わせず一言も言葉を交わすことなく、うつむいて無言のまま、ただとぼとぼと映画館の玄関を出た。
光がまぶしかった。わたしたちは額に手をかざしながらお互いの顔を見た。そのとき、どちらからともなく、笑いが込み上げてきたのだ。ちょうど、とても怖い思いをしたときなぜか思わず漏れてしまうあの含み笑いのような笑いだ。
あとはもう、帰り道、にいちゃんとわたしは、「なんだったんだ、あれは!」「すごい」「おどろいた」「面白い」というようなことを夢中で語り合い、感動し合った。
そういえば、大学1年だったか2年だったか、昭和53年か54年のことだ。「東京見物がてら、演劇を見に来ないか?三島の『近代能楽集』をやっている。いい女優が出ている」と言われた。わたしは、東京に出るのも億劫だったし、恥ずかしながら、演劇を劇場に見に行くことはほとんどなかった。三島は『仮面の告白』ぐらいしか読んでいなかったし、肌に合わない気がしていた。「いくよ」と返事をして、あわてて文庫本を買い『能楽集』を読んだ覚えがある。
その女優は、遠目だから顔はよくわからなかったが、それほど美人だとは思わなかった。(いや、たしか、パンフレットか何かの写真を見たのだった)しかし、舞台の上の彼女は、とても素晴らしかった。生き生きしていてわたし好みの色気があった。わたしは夢中で彼女を追った。
その女優は当時まだ世間ではそれほど知られていなかった藤真利子だった
そういえば、マラマッドを教えてくれたのも、にいちゃんだった。これは、わたしがまだ高校生の頃だったか、浪人中か…。大学の教養部の英語の授業で『マラマッド短編集』などというのを読まされたとき、すでに知っていたのでちょっと自慢だったことを覚えている。
「ゆうじ、サリンジャーは読んだか?」と聞かれ、ううん、まだ、と答えたとき、「俺はマラマッドという作家の方が好きだ。泥臭い。読んでみるといい」とにいちゃんは言った。
当時、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』という翻訳の書名がちょっと有名になっており、名前は知っていたが、わたしは読んでもいなかった。わたしはあわててサリンジャーとマラマッドを読んだのだ。
リチャード・ブローティガンを知ったのもにいちゃんからだった。「ゆうじ、『アメリカの鱒釣り』知ってるか?」
授業関係以外でちょっと夢中で読んだのはこのブローティガンだった。卒論でヘミングウェイとブローティガンの比較をしようと思ったくらいだ。書いていたら日本では早い例になっていたのかもしれない。いずれにせよ、どちらも英語が平易という理由だけで選ぼうとしていた駄目学生ヤギのことだから、碌なことはなかったはずだ。ブローティガンの話は難解で手に負えなかったのが事実だ。
また別の時。にいちゃんは、英語の歌を覚えたと言い、ギターを弾き歌いはじめた。後でわかったのであるが、Badfinger というロック・グループの Without You だった。
へたくそだった
にいちゃんは、なにやらアメリカで歌っていたことのある女性歌手のライブだかコンサートに行ったらこの歌を歌っていて、すごく感動したのだという。その歌手はものすごい歌唱力で朱里エイコなど目ではないらしい。それでさっそく楽譜を見つけ出し覚えたという。だからといって、にいちゃん、だれが歌っても感動するわけではないよと、心の中でちょっと笑った。しかし、同時に、にいちゃんはえらいとすごく思った。
その女性歌手がしばたはつみだった。記憶がちょっと定かでないが、しばたはつみの「合鍵」を聞いた時、わたしはすでに彼女を知っていたように思うので、にいちゃんが聞いたしばたはつみの
Without You は、彼女がこの芸名でレコードデビューする前か、その直後だったことになる。(ウィキペディアによるとピンポイントで1974年のことになる)
にいちゃんはクライマーにしておくにはもったいない人であった
·
ページの先頭へ
5月17日(日)
カバ婆の職場での職員さんたちの会話
A嬢:「こんど入った○○くん、ほーんと、草食系男子やんなぁ」
坊主頭体育会系のチョビメタB氏:
「ほんま僕なんか、どこからどう見ても肉食系!やもんなぁ」
すると、にやりと笑ったカバ婆、瞬時に口をはさむ
「うんん、あんさんは雑食系」
手当たりしだい昆虫からマンモスまでなんでも食べる、食べる物がなくなったら雑草でも生きていける、そんなバイタリティー溢れる雑食系が、カバ婆のお気に入りである。
・・・・
昨日、大和十三佛霊場めぐりの一環で奈良の南桜井阿部文殊院と橿原おふさ観音に出かけた。これで7か所を巡拝した。半分を過ぎたことになる。
途中三輪素麵で有名な三輪山大神神社(おおみわじんじゃ)も訪ねたとき、水神を祭る鎮女池(しずめいけ)のほとりに立つ立札を見たカバ婆の一言。
「池に物を捨てないでください」とは…悲しいね
たしかに、観光気分で一杯ひっかけたような詣で客の目立つ有名神社が一般だが、ここ三輪山大神神社は、万物に宿る神々にあちらこちらで恭しく頭を下げ拝礼する人々が多いのが印象的であった。しかし、ここでも必要なのか、言わずもがなの世俗的警告…
・・・・
ちょこちょことあちこち立ち寄りながら近場をぐるぐるまわるだけでも、けっこう充実した心地よい疲れの週末の過ごし方になるものだ。しあわせ、しあわせ、ビールが旨い
「おい、爺ぃ!起きろ!ちゃんと風呂入って寝ろ!」
·
ページの先頭へ
5月12日(火)
森さんの話って、まわりくどいですよね、ぐるーとまわって、「いったい、なにがいいたいねん?!」って感じですよね。
「思うところを述べろ!」「はっきりものを言え!」「言いたいことをいわんかぃ!」と迫られても、それを言ったら叱られる。「言え!」というのは「黙れ!」という意味だ、と、思いこんで育った人間には、ぐるーとまわってものを言うしかない。
そんなコミュニケーションの「掟」(ひとによっては「コード」などという)が身にしみている人間には、遠まわしにものをいう習慣が身についてしまう。
いや、そうではない。ヤギ爺は「保身」のための遠まわしを使うのみです。これもコミュニケーションの「難問」です
·
ページの先頭へ
5月12日(火)
というのが、父親の口癖だった。父は、特ににいちゃんが、時にわたしが、おとなになってからもとうちゃんの意にそぐわない行いをしでかすと、いつも「三つ子の魂…」と愚痴っていた。育て方が悪かった、ということだ。
と、そんな言い伝えの真偽を問う話ではないのであるが、わたしが英文科の学生時代、卒論、修士論文の対象としたアーネスト・ヘミングウェイの話なのである。前にも書いたが、翻訳より原典の方が簡単だ!と勝手に思って、卒論に『老人と海』を選んだ情けない英文科学生の頃の気持ちが、いまだに続いている、という話である。
とにかく、ヘミングウェイの短編小説が好きだった。理屈抜きで、なんか自分のことを書いてくれているような気がしていた。もちろん、「こんなん、関係ない」というものも多かった。でも、キャンプに連れて行ってもらい、とうさんとおじさんが出かけて行ってしまい、ひょんなことから夜中ひとりでテントの中でひとり帰りをまたなくちゃならなくなって、そのうち、すごーく怖くなって、孤独になって、「非常事態が起きたら3発撃て。すぐ戻ってやる」と言われた鉄砲を撃ってしまう、という子ども心を書いている"Three
Shots"(もちろん、わたしは銃は撃ったことがないが)や、まだ酒初心者の若者(だと思った)が、友だちとウィスキーなど飲みはじめ、野球の話などするうちに、だんだん、酔いがまわってきて、なんか饒舌になり、舌がしどろもどろになり…ぐだぐだになり、なんか意味もなく落ち込む、という"The Three-Day
Blow"なんていう話が、独断的に好きであった。
まともに考えてみたこともなかったが、やはり「三つ子の魂」、ヘミングウェイがわたしの原点のひとつなのだと思う。本でも書くか。
冗談はさておき
カバ婆がヘルパー先のおばあさんと交わしたらしい会話の要旨
そのおばあさん、テレビで、出産に夫が立ち会って「ひーひー、ふーふー」妊婦の手を握り、ご主人がいっしょに「がんぱってる」シーンを見たらしい。「あれってねぇ…」と感想を言うおばあちゃんに、ヘルパー・カバは、即座に反応したという。「わたしもいやです。やっぱり、出産って、なーんか、旦那は廊下でやきもきしながら待ってるもんだって感じで、直接立ち会ってもらわなくてもいいかな…。出産は「私の仕事」って言うかぁ…。やっぱり、ちょっとはずかしいしぃ、って…言うかぁ。うまく言えないけど、やっぱり、ひとりのほうがいい、って感じがしますぅ」といったようなことを言ったらしい。すると、そのおばあさん、「そうでしょ!そうだわよねぇ」と独自に納得。「なんか、みっともないって感じがして、いやだったわぁ」というようなことを言ったらしい。
さて、この話をわたしにしたカバ婆、突然、学生時代英語の授業で読まされたヘミングウェイの短編 “Indian Camp”を持ち出した。
「あのさぁ、帝王切開の出産で苦しんでる妻の傍で、自殺しちゃった夫の話だったっけぇ、ヘミングウェイの話、男ってやっぱりそんなもんだっていうの、ありじゃない?出産ってそんな神聖なものっていうかぁ、おおげさじゃなく、すごいもんだって、思いたいよね。男には耐えられないっていうか。そんな、女の仕事!って感じがする」
古臭いおばあちゃんに付き合った、古臭いカバ婆。
考え人それぞれだが、古臭いのもいいものだ
·
ページの先頭へ
4月26日(日)
わたしも、きのうで、満51歳
おお!イチローの背番号とおんなじやんかぁ!おお!今年は、おれにとっても飛躍の年になるかも!
などと考えるのはもうすでにとっくに金輪際やめている
今年51歳の人間がみな飛躍するはずがない
·
ページの先頭へ
31.表象・代弁(representation)の力
4月26日(日)
ずっと前(2008年9月20日付 「こりゃ、あかんわ」)マンガを読むのが苦手だと書いたが、結婚してしばらく、子どもたちが小さいころまで、親主導でマンガ本を買い漁った時期がある。
娘のころからカバ婆は、絵本・童話のたぐいや、歴史もの、SFファンタジーなどの読書好きで、OLさんのときなど通勤電車で本に夢中になるあまり、スカートを切られていたことに気づかなかったくらいだ(どれくらいだ?!)。それからマンガも好きで、名古屋人のわたしと付き合い始めたころ、名古屋弁を習得するための教本として『Drスランプ アラレちゃん』を利用していたほどだ(どれほどだ!?)。ただし、正確には、わたしとのコミュニケーションを円滑にするためというより、ふたりの共通の山の恩人小坂さんの強烈魅力の名古屋弁に惹かれ対抗するための学習であった。
(追記:そういえば、ふと思い出した。大学院の修士課程に入学したときの最初の授業で、川崎寿彦先生が、『アラレちゃん』の「語り」の問題を取り上げた。ミルトンの『失楽園』の講読の授業だったと思うが、もう一つ担当していた「文学理論」の授業と絡めて、ふととつぜん作者の鳥山明が野球帽姿で登場することを『失楽園』の作者ミルトンと重ねていた。もちろん手塚治虫にも言及されたが、当時話題の『アラレちゃん』をまずとりあげ、当時の院生は『アラレちゃん』をあまり見ていたかったことが印象に残っている。川崎先生とはそういう人であった。)
さて、そんなカバ若妻(当時)の指南のもと、わたしもマンガを読み始めた。『ドラゴンボール』は「う~ん、これは、壮大な叙事詩的ファンタジーの傑作じゃ」などとバカなことを言いながら読んだ(ただし、文字と絵の圧倒的情報量に疲れ切った)。『タッチ』は、ご多分にもれず南ちゃんの魅力と、ちょっと差し挟まれる細部の会話や仕草の妙に感心しながら、何度も目を通した。『らんま1/2』はわたし好みのエロティシズムだ。とうとう、釣りの教本だと称し、自ら、古本屋で『釣りキチ三平』を漁り集めはじめだす始末だ。
そんな中、実家で猫を飼っており猫好きのカバ妻(当時)が、「おもしろいよ」ということで買い始めた『What’s Michael?』は猫を飼ったことがなくどちらかと言えば毛嫌いしていた当時のわたしにも猫の生態やまわりの人間たちの生活を上手に描き込んだなかなかおもしろい作品に思えた。
今では「表象芸術論」などという大学の講義でマンガなどが論じられているようだが、当時、たしかに猫が踊るはずがない、こんなマンガを取り上げて文化を論ずることもできるのかなぁ、などと、思ったものである。どれもこれも、基本、原作のマンガ本の方がよくて、テレビのアニメは、南ちゃんの声以外は、どうも「イメージとちがうぅ」といった感じだった。オリジナルとコピーの問題も孕む。
(注)「表象」というのは英語で
“representation” だが、この言葉は、基本(この言い方、基本、好きではない)、「表現」という意味でいいけれども、「誰かが何かを表現する」際、その「何か」がもの言えぬ(もの言わぬ)ものであるときに「勝手に表現してしまう」(代弁する)という問題を孕む。遠く海の向こうの「未開」の地の住民を良かれ悪しかれ宣伝、紹介した昔のヨーロッパの旅行者(探検家)、学者などの行為が典型だが、代議士先生(英語でrepresentative)が、わたしらちーっともなんとも思ってないのに、「庶民の皆さまが泣いておられますよ、総理っ!」などと勝手な代弁をする場合などを想起するといい。したがって、representationをその複合的意味を汲んで「表象・代弁」などと訳す場合がある。
・・・・
ゴンとマメが追いかけっこをしている。ゴンがマメを追いかけ、目の前を「ダダダダッ」と駆け抜け和室に消える。と、今度はゴンがマメに追いかけられてダダダダッと戻ってくるのだ。「オメーら、なにやっとるだぁ、はははは」
コロリと仰向けになったマメにゴンが近づく。ヒョイヒョイと前足を振りながらマメがゴンの鼻先にジャブを食らわす。ゴンがマメの懐に頭を突っ込みお腹あたりをアマ噛み食いつきする。マメは目の前にあるゴンの頭に上からヘイイェイと両手を振り下ろし後頭部を狙う。
突然、フシューッっと声を上げて背中丸めの猫背で飛びのいたゴンが、「ごん」とテーブルの角に頭をぶつけた。太くなった尻尾が急に垂れ、びっくり顔のゴンが、慌ててこちらに向かって飛び跳ねる。ヒョイ、ヒョイと手足を交互に、ブル、ブルブル、ブルルと一本ずつ振りながら、歩くように飛び跳ね跳ぶように歩きながら。
ゴンが踊った
『What’s Michael?』の洗礼を受けた目には、猫は踊るとしか映らない。表象・代弁の力である。
座りこんだゴンは何事もなかったかのように両の手を舐め髭を撫でる。猫に戻った。
·
ページの先頭へ
4月25日(土)
「きょうは無礼講だから、腹を割って本音で語ろう、飲もう。遠慮は無用だ。」と上司に言われて、本気で腹を割って本音を言ったら、とんでもないことになる、はずだ。
人は腹を割っては話せない
だから、わたしは、にいちゃんもそうだったが、基本限りなく本音で人と対峙しようとする人がうらやましく、また、すばらしいと思う。
わたしが一番恐れているのは、科学捜査で使う嘘発見器や、「ホンネ吸いだしポンプ」のようなドラえもんの道具だ。前にどこかで書いたことがあるが、こういうものを使われたら、わたしの本音が人に知れたら、わたしの家庭は崩壊し、わたしは友をすべて失うであろう。
本当の無礼講があるのなら、わたしはいっさい参加しない
わたしの母もそうだったのだが、わたしは、人と話をしていて、人の話を聞いていて、だんだんに人に合わせて話をしているうちに、自分がいったい何をしたいのか、何を考えているのかがわからなくなってしまうのだ。「それで、森さんは、いったいどうしたいと思っているの?」というのが、一番困る質問だ。
わたしの父は、いつも、「ゆうじの思っていることを言え。確固とした自分の考えのない奴は人間の屑だ!」と言った。わたしは、自分は屑だと思った。
腹を割れない、割る腹がない、困ったヤギ爺であることよ
ちなみに今日はわたしの誕生日、屑なりの、楽しい人生が続く
·
ページの先頭へ
4月22日(水)
けさ、また、マメをふんじゃった
ネコは足もとにまとわりつく動物だ。音も立てずに忍びよる。
思えば、あのメロディーにつけられた「ねこふんじゃった」という歌詞(わたしとしては、とくに、阪田寛夫作の方)は、生活のリアリティにもとづく事実を反映した実感をともなうなまの感情を表現した、秀作であった。
ねこふんじゃった ねこふんじゃった
ねこふんづけちゃったら ひっかいた
ねこひっかいた ねこひっかいた
ねこびっくりして ひっかいた
わるいねこめ つめをきれ
やねをおりて ひげをそれ...
すごいすごい
・・・・
なぜこの歌詞が「すごいすごい」のか
・「ねこふんじゃった」は偶発的事故への人間の自己認識である
・「ねこふんずけちゃったらひっかいた」は「後悔」「謝罪」という人間の主観的感情の表現である(したがって、これを「ねこふんずけたらひっかいた」と歌うのはまちがい)
・「ねこひっかいた」は1行目から続く必然的帰結への人間の他者認識である
・「ねこびっくりしてひっかいた」は人間による猫の行動に対する客観性を旨とした理性的解釈である
・「わるいねこめつめをきれ」は「恨み」「憎しみ」という人間の主観的感情の発露である
このように、この詩は、偶発的出来事とその必然的帰結に対する人間の認識が、それによって引き起こされる相矛盾した感情的判断とともにふと差し挟まれる理性の瞬間によって、たんなる「出来事」を人間的「行為」として再解釈する過程をみごとにとらえているのである。
ふ~ぅ…
つまりですな、「マメっ!この、糞ねこぉー!なんでひっかくっ!ツメ、しまわんかぃ、くそぉ~。みてみて婆っ、このひっかき傷ぅ、いた~っ」といってカバ婆に前腕の袖をまくって見せるヤギ爺が、そのすぐあと10分もしないうちに、「マメちゃ~ん、あんた、かわいい顔ちてるねぇ~、ちょっとこっちおいでぇ、マメちーん」と猫なで声を出す、そんな矛盾をみごとに歌ってくれているのだ。
愛憎相半ばするのが人情だということだ
あたりまえあたりまえ
(4月25日付記)
·
ページの先頭へ
4月20日(月)
英語のruleには「支配」という意味がある。“British rule” と言えば大英帝国の植民地支配のことであるし、“Japanese
rule” と言えば台湾や朝鮮半島での日本の植民地政策のことになる。
インターネットでの英語遊びはなかなか面白いもので、Googleなどの検索で “japanese rule” と “japanese rules” とを入れてみると(検索で “ ” を使うといわゆる「フレーズ検索」つまり語の順番も含めて完全に一致する検索になります)、前者は明らかに「支配」、後者はもっぱら「(ゲームなどの)ルール」という意味になることがわかる。碁や麻雀のルールのことだ。
日本語の話に戻りますが、「ルールに従う」と「支配に従う」とでは、なにかまったくちがうことを言っているような感じがしますね。話は簡単で、決まりごとや規則をだれが作りだれが守るかというちょっとしたちがいで、「当然でしょ!」と思ったり「絶対反対!」と感じたりするのだ。納得ずくのルールに従うことには誰も文句は言わない、言えない、はずだ。みんなで決めたことなのだ。
だけど、自分がその「みんな」に、入らない、入れないことも、あるのだな
人は管理や規制を嫌うが、同時に大好きでもある。「管理社会」や「表現規制」は容認できないが、同時に、「自己管理」や「自主規制」は大いに奨励される現代のキーワードだ。これも話は簡単で、自由で自立した自分や自分たちが行う管理や規制ならばオッケーなのである。
「管理」とか「規制」とか「ルール」とか、人に言われ押し付けられるのはやはり忌々しき問題だろう。自ら律し自らの行動を支配すべし!
だけど、自分で自分の首をしめちゃう、ってことも、あるのだな
·
ページの先頭へ
4月18日(土)
いま、庭に、ムスカリが咲く。紫色の小さい花が連なって咲き、なかなかきれいだ。
しかし、カバ婆に何度名前を聞いても、すぐに忘れてしまうのである。人の名前でもそうだが、どーしても、なかなか頭に残らない言葉というものがある。咲き始めてから庭で2回聞いた。数日前たまたまテレビで紹介しているのを見て、「そうか!ムスカリだ!よーし、もう、ぜったい忘れんぞ!」と思ったのだが、いま、また思い出せない。カバ婆は目の前にいるが、もう聞けない。「あんさん、何回きくのぉ、いいかげんに覚えや」と、嫌味を言われるにきまっている。
ならば、「球根」「紫」「春」でGoogleの画像検索だ。みごと2ページ目に発見。
そうだ!ムスカリだ!もう忘れんぞ!
便利な世の中だ
·
ページの先頭へ
4月11日(土)
ちょっと自慢
こごみ(胡麻和え)、蕗(煮びたし)、ミツバ(わさび和え)、ヨモギとスズメノエンドウ(天ぷら)、ギボウシとワラビ(お浸し)
今春これまでに食した山菜。ワラビは近所の宅地用空き地、それ以外は我が家の庭産である。カバ婆があちこちでもらったり採ってきたりして移植したものだ。ふつう山菜は「ちょっと添えて」でてくるものだろうが、うちでは皿ごと丼鉢ごとでてくるのだ。
ヤギ爺はビールおよび山菜腹である
·
ページの先頭へ
4月8日(水)
4月6日の朝日新聞の夕刊三面(11面)の一番下に「イタリアでM6.3の地震」という一報が小さく載っているのをカバ婆が見て言った。
「イタリアの地震の記事読んでふと見たら、すぐ下に「アモーレ!イタリア8日間 199,000円~339,00円」だと…旅行会社の宣伝だ…」
·
ページの先頭へ
4月3日(金)
スーパーなどの駐車場の車いす専用駐車スペースに平気で止めている車などを見るととても腹が立つ
だが、車いす専用スペースに止めた車いすマークのステッカーのついた車から出てきてサッサッサと歩き出す人を見ると、もっと腹が立つ
そんな人ばかりではないと思うが、身近に身障者がいないのにこのスペースに止めるためだけにわざわざホームセンターかなんかでステッカーを買ってきている人もいるのかもしれないと思うと、さらに腹が立つ
わたしはズルをするのが大好きだが、こういうズルはしない
·
ページの先頭へ
3月31日(火)
別れがあって、出会いがある。引き続きよろしくねもある。
おめでとう。またな。よろしく。
春だな
身近にもこの節目
人生の大きな節目を迎える人たちがいる
みなさん、お世話になりました、楽しく過ごせました
そして、これからもぐだぐだよろしくね
それから、ありがとうございました、と言うべき人もいる
来る日も去る月も、だらだら爺のぐずぐず一年だが、
思いを馳せれば
節目節目はあるし…
つくれるものだ
·
ページの先頭へ
3月28日(土)
国立大学が法人化されて、大学の教育研究社会貢献の目標を中、長期的に計画を立てて実行していくことが求められるようになった。いいことなのかもしれないが、
しかし、わたしなど、小学生の頃の「夏休みの計画」を思い出し、ほろ苦く赤面恥ずかしの気分になってしまう。
大目標 「1学期の学習を復習し2学期の学習のための予習をしっかりする」
中目標 「お盆までには「夏の生活」を終え、夏休み後半に宿題が集中しないように注意する」
日々の目標 「毎日午前中涼しいうちは勉強する。午後は元気よく外で遊ぶ」
計画は実現可能で具体的でなければならない。なによりも、将来の姿を見越して進むべき方向づけができるようなものでなければならない。5年先、10年先、次の世代につながる孫子の代までの幸福、繁栄をめざして…
誰もが感じることだと思うが、中期的長期的計画の問題は、一度立てた計画が時を経て実情と合わなくなったときに起こるであろう。一度計画してしまうと、しかも「説明責任」のためにもっともらしく正当化しまった場合には特に、「やーめた!」とは言いにくい。これは、これまでも、ダム計画や道路建設、「開発」一般で、実感してきた問題点だ。つまりは、人間はそれほど先を見通して考えられるものではないし、世の中とは、つねに、無常なものなのだ。
立案者の醍醐味の中には、「けっきょく、先のことはわかりゃぁせん、わかりゃせん」と、とりあえず、「まあ、こんなことでもしてみましょうか!」ということもあるのではないか。どうなるかは、なってみなければわからない。「首尾一貫」を通そうと頑なになれば、当然必要な変化を止めてしまうこともある。
しかし、逆にまた、「臨機応変」も困ったものだ
今日の新聞(うちは朝日)の一面トップはやはり高速道路1000円!の記事だった。テレビの朝の情報番組でもしきりにこの話題だ。ときどきは目に耳にしたのでわたしでも知っているのだが、これはとりあえず2年後見直しの時限立法だから、国の施策としては短期計画である。しかし世の気分は「値下げ、値下げだ。万歳、バンザーイ!」一色の感がある。まあ、急場の景気対策のようなものだから、とりあえず2年後のことは忘れて、「今を楽しもう!」ということだ。
わたしのヤギ頭では、ふつうに考えうるマイナス面しか浮かばない。
1.得をするのはとにかく車を乗り回すのが好きな「ドライブ」愛好家?そういう人たちは、観光地などでは金を落とさない。飯はコンビニ、休憩は駐車場!
2.車以外の交通機関はやはり打撃かな…
3.休日車を使って働く人、とくに割引のない大型の運転手さんたちには、渋滞だけが待っている…
4.大幅値上げで予想される赤字を補てんするために2年間で5000億円の国費を予定しているらしい。つまりは税金が使われるわけだから、(車を使わない、あるいは休日高速道路をあまり使わない)一般納税者はどう考えても損をする?
5.とにかく2年後の見直しらしい。万が一「はい、これで終了。またもとの料金ね!」なんてことになったら、暴動がおこり、日本は破滅する!(なんてなるはずない!)
がしかし、先のことなど考えていなくても、とりあえずやってしまったことが運よく「いい効果」を生むことだってあるだろう。伊丹十三さんなら、きっと妙案を思いついてくれただろうに…。渋滞に辟易した日本国民はいよいよ脱車社会を本気で目指すようになった、とか、日本国中に蔓延した排気ガスの煙害でようやく排ガスの健康被害を実感した国民はヒステリックに「嫌車権」を主張するようになり、自動車会社は車の目立つ所に「車に乗ることはあなたやまわりの人たちの健康を害する恐れがあります」と表示することを義務づけられ、ついには、「くるま税法」が成立し自動車購入に高額の税金がかかるようになった、とか…
ところで、今朝の朝日新聞の5面には、ひっそりと2009年度予算の成立関係の記事と、温室ガス削減の中期目標に関する記事が載っている。景気回復、経済成長と福祉、環境、教育への施策を両立させようと必死にがんばるというのであるが、この両立が困難なことは、1面のトップ記事内容と5面に載る温室ガス削減の中期目標の記事内容との両立が難しいことでも容易に知れる。
やはり、「先のことはわからぬ」としても、どうなるかをあれやこれやいろいろとさまざまに考えたうえで、「とりあえずこうしてみましょか!」と施策することが必要なのだろう。中期計画、長期計画は、みんなで顔を突き合わせ相談することに意味がある。だから、出来上がった計画などは公表などせず、破いて棄てるがいい。
·
ページの先頭へ
3月27日(金)
マーク・トウェインに Roughing It という、一応旅行文学(Travel Literature)などと分類されているけれども、とにかく面白い文章がある。
2つほど翻訳が出ているようだが(『西部放浪記 上・下』彩流社、『苦難を乗りこえて―西部放浪記』文化書房博文社)、わたしは、便利な世の中、プロジェクト・グーテンベルク(Project
Gutenberg)の電子図書で読む。短いエピソードの寄せ集めなので、暇なときにながめるのに最高だ。
“roughing it”というのは、前回の独り言のタイトルと同じ「耐乏生活」といった意味だが、実はこの言葉が喚起するイメージは「アウトドア」なのである。アウトドアで「楽しむ」つらい生活のことなのである。
(英語の授業で学生たちにも勧めているのですが、言葉の意味をイメージとして掴むためにも、わたしは、Yahoo!やGoogleなどの検索エンジンの「イメージ検索」「画像検索」という機能をよく利用しているのです。必ずしもいつもうまくいくとは限りませんが、たとえば、“roughing it”と入力するとこの言葉がどんなイメージを伴った言葉か視覚的に掴めます。)
わたしがこの作品の面白さを知ったのは、恥ずかしながら教師になってまもなく、20数年前になるが、英語授業の教材に選んだ大学教科書の中に抜粋されていたひとつのエピソードを読んだときだ。
トウェイン(本名クレメンス)は二人の連れと共に大荒れの吹雪の中を旅している。銀山を見に行くのが旅の目的だが、それはまあいいだろう。カヌーは転覆するし、馬上の陸路は一寸先も見えない猛吹雪、いわゆる「ホワイトアウト」というやつだ。旅は困難を極める。
一面の銀世界で途方にくれていると、仲間の一人が確かな馬の足跡を見つけた。よし!とばかりにその跡を追う。しばらく行くとだんだんにその跡がはっきりと、しかもかなりの数がある。相当大きな隊列だ。ひょっとしたら軍隊か?三人は期待に疲れも忘れ、必死にその跡を追う。追うごとに馬の数は増すようだ。
しかし、どうもおかしい…そろそろ追いついてもいいころだ…。やがて、彼らは、ついに悟るのである。馬の足跡は自分たちの馬のものだったのだ。彼らは、自分たちの馬がつけた足跡を追い続け、ぐるぐるとただ円を描いて同じところを回っていただけだったのである。
すこし端折るが…
もう駄目だ、彼らはいよいよ雪のビバークを覚悟する。まずは火をおこそう。しかしマッチはない。彼らは本で読んだ知識をもとに、銃で火をおこそうとする。小枝を折り集め重ね、仲間の一人がえぃ!とばかりに引き金を引いた。結果は悲惨…集めた小枝はみごとすっかり吹き飛んでしまい、さらに悪いことに、馬たちは驚いて逃げてしまったのだ。誰もアウトドアでのサバイバル経験がなかったのである。本で読んだ知識では実地の役には立たない。
また端折るが…
彼らは、ついに、「死」を覚悟することになる。この際だ。この世の最後に、よきことをしよう。そうだ、ということになり、連れの一人はウィスキーの瓶を投げ捨て、酒に溺れた自らの人生を思い、懺悔する。彼は酒に目がなかったのである。それにつられるように、もう一人の仲間は、持っていたカードを投げ捨てるのである。彼はカード遊びが大好きなのだ。そしていよいよトウェインことクレメンスの番がきた。彼は、大切にしていたパイプを投げ捨て、自らの喫煙の悪徳を詫び、涙を流す。三人は互いに肩を抱き合い、涙を流し、そして、最後の別れの言葉を交わすのであった…
ふと正気づいたクレメンスはこれが死後の世界かと悟る。しかし、だんだん意識がはっきりしてくると、仲間たちも眼を覚まし出すのだ。ふと目をやると、なんと、わずか十数メートルの所に、駅馬車の駅舎があるではないか!かれらは、暖かな暖炉燃える建物から目と鼻の先で「死のビバーク」を決行したのである。生還の喜びはばつの悪さで完全に打ち消されてしまうことになる。
さて、朝食をとり一息入れると、やはり生きていた喜びが込み上げてくるものだ。よかった、よかった。すると必然、むむむむ…。た・ば・こ!煙草が、す・い・た・いいいい!
クレメンスは、ひとり、こっそりと駅舎を出て、捨て遣ったパイプを探し、火をつける。しかしやはり人に見られるのは今更ながらに恥ずかしいと、隣の納屋の陰に身をひそめ煙草を楽しむことにするが…
角を回ったそこには、ウイスキーの瓶をぐびり口にした男と、一人夢中でカード遊びに興じる男とが、揃っていたのである…
こんな話題を、ちょっと古めかしい英語を、教科書にするいい時代もあったものだ
・・・・
昨年の11月、北アルプス立山の室堂で男性が遭難した。発見されたとき男性は室堂山荘の軒下に頭を突っ込んだ形で凍死していたらしい(正確には旧山荘だという)。そのときちょうど立山にスキーに行っていた藤内小屋の仲間から正月聞いた話だ。
カバ婆とヤギ爺は昨年5月、恒例格安バスツアー「アルペンルート、雪の大谷ウォーク」で室堂に行った。晴れていればこのあたりは一面の雪原、見晴らしのいい絶景の地だ。それに、室堂駅から室堂山荘まではほんのわずかの距離だ。数百メートル…。男性はスキーツアー参加のために、前日に、集合場所である室堂山荘までひとりで歩いたという。わずか数百メートル。しかし、その日はまったくの「ホワイトアウト」で、かなり山に慣れているわたしの友人も「方向が分からなくなる」危険を感じたという。一面の雪原…が逆に命取りになったのだ。男性は吹雪の中、いったい、何キロを、ぐるぐると歩き回ったのであろう…
これは笑いごとではない
·
ページの先頭へ
3月23日(月)
東京マラソンのニュースをちらっと見ていてふと思い出した。30代前半のころ、同僚に誘われて篠山マラソンに挑戦したことがある。3度。1回目は中間点まで、2回目は25キロ地点、3度目は35キロ地点の関門まで行ったが時間制限でリタイア。結局完走はしていない。いいペースで走り始めるのであるが、ある地点までくるとふと気が萎える。すると突然足の運びが鈍るのだ。やがて「もう止まらなければ、死ぬ…」と思い込んでしまう。駄目だとなったら気力が失せる。精神的敗北。
「止まろうか…走ろうか…」とヨタヨタ迷い走りが始まるころ、ゆったりもったりスタートしていたおじいさん、おばあさんランナーたちが、エッサホイサと抜いていく。なかにはバナナをかじりながら「おなかすいちゃったわ」ととぼけながら抜いていくじじぃがいる。元気盛り壮年ヤギの屈辱感は最高潮に達するのである。
「森君は、体力もありそうだし、走り方も悪くないんだけどねぇ…」
さて、わたしは、マラソンを走る際もリュックを背負う。それほどたくさん入れるわけではないが、水とビタミンCなどのサプリメント、タオル。篠山マラソンは3月初旬に開かれるが、まだまだ冬の寒さが残る。わたしは途中でリタイアした際急速に体が冷えてしまうのを恐れ、薄手でも暖かいウインドブレーカーを入れておくのだ。(心構えからしてすでに弱気…)
「森君は、アウトドア派だから、装備をしっかりするのかねぇ…」
本来、必要最低限の軽装で臨むのがアウトドアの真髄であろう。耐乏生活が醍醐味だ。「持ち込まず持ち帰らず」が自然に入るひとつの理想でもある。しかし、これには、かなり優れた遊び心が必要だ。無理を覚悟の高度なスタイルなのだ。やはり「持ち込み持ち帰る」が人間と自然との常に変わらぬ関係だった。
カバ婆は学生時代のワンゲル顧問山口先生のザックを「まるでドラえもんのポケットのよう」だったと回顧する。ちいさいザックなのに「もってこればよかった…」と思うものが「ざっくざっく」出てきたという。
わたしはと言えば、どうもいけない。旅の楽しみは持ち物準備とパッキングであるが、一泊山小屋の山行であってもザックは満杯、いったい何が入っているのか状態になってしまうのだ。
小屋には火もありお湯ももらえるが、朝一番でひとりでコーヒーが飲みたいな。よし携帯ストーブを持っていこう。ついでに小瓶のインスタントコーヒーとカップ、いつもひとまとめにしてあるから入れておけ。そうそう、誰かがワインでも持ってくるかも知れん、コルク抜きはあったかな?マルチナイフを持っておこう。面倒くさい、箸とかスプーンとかも入っているが一式バラすとあとで戻し忘れるから、ご自慢のキッチンセットごと(一人キャンプ用に必要なものをまとめていつも袋に入れてあるのです)まとめて持っていくか。わたしは汗かきだから下着の替えは必要だろう、Tシャツも2枚ばかり入れておくか。まてよ、雨でも降るかな?Gパンが濡れると寝るとき不快だ、しかたないジャージでも持っていくか。傘で十分だが、ひょっとして明日は上まで登るかも。雨具が必要か。おやスパッツもはいってる、いっしょに入れてしまえ…
「ゆうちゃん、なにぃ、すごい荷物だねぇ、どこいくのぉ?」
だが、小屋泊まりの場合、わたしは、ザックに入れたもののうち、酒とつまみ以外は、ほとんどいっさい何も出すことなく、そのまま、いつも、帰宅するのであった。
「爺ぃ、洗濯物は?洗濯機に入れといてや」
「ああ、これだけだ」と言って、
着ていったままの服とパンツを脱ぎ棄て、それだけ洗濯機に押し込み、シャワーを浴びに風呂場に入るのであった。
·
ページの先頭へ
3月12日(木)
タイに生息するカニクイザルの母親が子ザルに歯磨きを教えるらしい。厳密には人間の髪の毛をデンタルフロスのように口に入れ歯を上下させる「スナッピング」行動というそうだ。子ザルがいる場合にはそうでない場合よりその回数も時間も増えるという。つまり「大げさに」やって見せるのだ。京都大霊長類研究所の研究チームが突き止めたらしいが、このような行動はこれまで人間以外では確認されていないそうで、どうもこれは「しつけ」らしい、「教育」らしい、子ザルに「習得」し易くしているらしい、というのだ。研究成果がアメリカの学会誌の電子版に載ったらしい。
サルの気持ちはサルに聞いてみたいものだ
子どもたちが小さい頃。ヤギ父(当時)が砂場で遊ぶ子どもたちを見ている。退屈になり、煙草を取り出し、吹かし始める。うまい。ふと気がつくと、子どもたちが、近所の子どもたちがじっとこちらを見ているのだ。きっと親が煙草を吸わないのだろう。もの珍しいのだろう。ヤギおっちゃんは、おもむろに勿体をつけて「すぅーっ」と吸い込み、口をすぼめて「すぽぉーっ」と煙を吐き出すのであった。二度三度、子どもたちの方をちらっと見ながら、スパスパと繰り返すのである。
これは教育ではない(いや、教育になってしまっていたのか?)
たしかに、人は、じっと見つめられるとぎこちなく大げさに勿体ぶって行動することがある。うちの猫たちの観察によれば、じっと見つめられるとやめてしまうこともあるが、たとえば爪とぎの最中、あるいは毛づくろいの最中、ふと目があって見つめている私に気がついたゴンなどは、ときに、やたらおもむろに爪とぎ、毛づくろいを繰り返すことがある。猫も見つめられると繰り返す。しかし、これは、わたしに教えているつもりではないだろう。(いや、教えるつもりなのか?)
ゴンは竹輪が大好きだ。チーズと味付けのりも好きである。普段はキャットフードをやっているのだが、時々、好物をあげるのだ。
「ゴンちゃーん、ちくちく(竹輪のこと)あげよっかぁ!?こっちおいでぇ!」
ゴンは「みゃぁあ」と泣きながら寄って来て千切った竹輪を食べ始めるのだ。どこからかマメがダダダッと駆け寄ってくる。
「マメちーん、きたのぉ!マメちんも、ちくちく(竹輪)食べるぅ?」
と言って、千切った竹輪をマメの鼻先に置くと、「うっ?なんだ、なんだこれは?」と猫らしく、前足でひょいひょいと摘まみながらにおいを嗅ぎ始めたマメが、そのとき、「ちらっ」とゴンの方を見た。ゴンはうまそうに食べていた。マメは「おーぉ、これは食いもんか」と納得した体で、むしゃむしゃとちくちくを食み始めるのであった。
これは、見よう見まね、であろうか…
母ザルめ、ちびザルが目の前で見つめるもんだから、勿体ぶって、「ふん、お前らにこんなことができるかぁ!?」と自慢したかったのかもしれない。猫には、人間にも、しばしば、そんな自慢げな行動が見受けられる。
しかし、それが、結果的に、教育になっているのなら、それはそれでいい
·
ページの先頭へ
3月7日(土)
深夜の番組のコーナーで「方言美人」などというのがある。女の子がバリバリの地元言葉で話すのだ。
しかし、わたしは、駅で切符を買うとき、道を尋ねるとき、観光案内所で空き宿を教えてもらうとき、地元の女性が仕事柄「標準語」をしゃべろうとするけれど、どうしてもその抑揚などにあらわれてしまう地方のなまりに、この上ない魅力を感じるのである。
·
ページの先頭へ
3月7日(土)
奥秩父に小川山というロッククライミングで有名な山があり東京からは車が便利でいわゆるオートキャンプなども楽しめるので多くの人が集まるアウトドアスポットだ。
ヤギ爺は仕事ということもあり関西から電車で出かける
まずは新幹線で名古屋まで。名古屋でJR特急ワイドビューしなのに乗り換え塩尻へ。中央本線甲府行で9駅目の小渕沢からはJR小海線小諸行に乗る。ご存じ野辺山、軽井沢のある観光路線にはさすが大きな旅行カバンを持った合宿旅行であろうか若者たちの集団やリュックを背負った中高年の旅行者が目立つ。だがわたしの下りる信濃川上で下車するものはいない。改札を出てあたりを見回しびっくりした。何もないのだ。
便利な世の中で、Googleの地図などを調べたら駅を出てすぐにスーパーがあるということだったので、そこでちょいと買い出しをしてからバスに乗ろうと考えていたのであるが、そのスーパーはすでにつぶれていた(いまGoogle地図にはもう載っていない)。
途方にくれてバス停のあたりにいると軽自動車に乗った子供連れのおかあさんがなぜか止まった。あのぉ、すいません、と声をかけ、最寄りのスーパーについて尋ねる。「どこに登られます?」と聞くので「小川山」と答えると、あぁ、そっちの方だと、ここから車で10分そこそこのところにスーパーがあります、と教えてくれた。「道沿いにありますか?」と聞くとほかにどこにあるといった怪訝顔で「はいありますよ」と笑った。
車で10分なら歩いても1時間はかからないな、と、歩きの時間買い出しの時間を計算してバスの時刻表をながめる。しかし結論は簡単、もうすぐくるバスに乗り、途中下車して買い物をし、少し待って2時半のバスに乗るしかないのだ。それをのがすとのこるバスは5時半の一本だけ。バス停からの初めての道を暗くなってから登るなんて常識はずれだ。わたしはそのように行動した。スーパーの駐車場は車でいっぱいで地元の人だけでなく週末キャンプの買い出しのグループでにぎわっていた。ここは都会と変わらぬ雰囲気だ。わたしは一人分のわずかな買い物をし、スーパーの前のバス停で待つ。時間はたっぷりある。「しかたない、のどが渇いた」と缶ビールをあけバスを待ち、終点の川端下(かわはけ)行きのバスに乗った。乗客はひとり。
川端下から廻り目平キャンプ場までは1時間半ほど車道を歩くのだが、その間キャンプ道具を積んだ車がビュンビュン通るのでわたしはちょっと参った。廻り目平のキャンプ場にある宿泊施設の金峰山荘に着くころには夕暮れも間近だった。
レジャーの活性化を念頭に置いた「土日高速道路1000円ポッキリ法案」は、バブル期のいわゆるリゾート法や定額給付金と同様のばら撒き政策だったふるさと創生とおなじ、われわれの遊び方にとっても悪政だ。自動車産業が支える国などやはり健全な国家とは言えない。電車やバスで遊びに行く人、歩く人を優遇する政策を望む。
おーい、カバ婆ぁ。定額給付金出たら、休みに車でカンテキ(七輪)買いに行こ!能登半島や輪島や、高速1000円や!
バカ
·
ページの先頭へ
2月27日(金)
美空ひばりはすごい
・・・・・・・・
美空ひばりも石原裕次郎も52歳で死んだんだ。にいちゃんも
晩年のひばりさんが歌う姿は母を思い出させる
涙
·
ページの先頭へ
2月24日(火)
世の流れに乗ろうとするヤギ頭、しかし乗り切れずに終わる怠け者
地球温暖化が叫ばれ始め、新たな環境意識の沸騰を予感させる1990年代初め、私は環境主義者であった。もちろん「なんちゃって環境主義」である。自然はすばらしい!自然は大切だ!と浮かれていただけである。
わたしの名大時代の指導教官だった川崎寿彦先生は晩年「庭」とか「森」とかの自然が文学作品にどんなふうに用いられ、それが時代時代の人間の生き様をどのように写しだしているかを研究していた。助手をしていたとき、先生が助手室に来られ、著書の『森のイングランド』(1987)の扉裏に署名のあるのをくださった。そのとき、ニヤッと笑って、
森くんは、「森」だから、「森」の研究をするのかな
当時のわたしは、修士論文でした「テクスト分析」などという、単に批評理論を振り回しただけの文学研究で身を立てることをめざしてはいたのだが、心のどこかで行き詰まりを感じていた。
もともと文学が読めていないわたしのようなものにとっては「批評理論」を応用援用するだけで文学作品(「テクスト」なんて言うんですよわざわざ)を分析、解釈するというのは、まこと、安易に受け入れやすい方法だったのだ。もちろん、批評理論にはそれが生まれる必然もあり意義もあるのであろうが、たとえば2年間で論文を出さねばならない、しかも下地のない修士課程の学生にとっては、まさに「チャート式の問題集」、ちょいと頭をひねればそこそこのことは書けてしまう。わたしはそんな学生だった。それは自分でも気づいていた。川崎先生はもっと気づいていたはずだ。
「3年で出て行ってもらわねばならぬよ」(3年任期ということ)と言われて助手になったわたしは、その間も業績作りに励んだ。それなりに。ヘミングウェイについての修士論文をもとにした論文と、それをちょっと発展させた論文、それから「チャート式」をメルヴィルの『タイピー』という作品に当てはめた論文を出していた。
川崎先生がどんなつもりでおっしゃったのか、生きておられたら、今なら聞いてみたい。しかし、「森君は「森」だから…」という先生の言葉は、たしかに、わたしの転機となった。その年(1987年)の秋には、わたしは大阪大学に赴任することが決まっていた。わたしは、川崎先生がわたしの研究の方向についてアドバイスしてくれたのだと、勝手に思いこんだ。「いまのままではだめですよ」と言ってくれたのだと思いこんだ。先生はわたしが山に行っていることを知っており、自然の中で遊ぶことが好きなのはわかっていてくれた。
「チャート式」を続けていればどうなっていただろう。そのつどの流行りテーマをかじった方法でアメリカ文学の作品をめった切りして論文を量産するアメリカ文学研究者になっていたか、おそらくは、時代についていけず「森先生、いまだに構造主義やらデコンストラクションやら言ってるよ、けっ」と学生に陰口される過去の遺物になっていただろう。
おっと、思わず胸痛む思い出話…。とにかく、そんなわけで、わたしは、「森」をやることを決意して大阪大学に赴任したのだが、ここから話を端折ろう
赴任してすぐ家族で1年間、アメリカで生活する機会を得た。1989年夏から1990年夏のことだ。素養のないわたしはとにかくこの間に何とか頑張ろうと決意した。(だいたい、1年で学問の下地などできるはずもない、まったく「チャート式世代」のあさましさ…)
いろいろ読んだ中に、Bill Mckibbenという人のThe End of Nature があった。わたしはこの本で地球温暖化やオゾン層のことを知り、アメリカのリベラルな環境思想について学び、ディープ・エコロジーなどという「新しい」運動(ほんとうはそれほど新しくはない)があることを知ったのだ。わたしは、自然、環境についての本を漁った。アメリカの1年、それからの数年は、わたしは「環境の森」であった。
あのまま「環境」をテーマに勉強を続けていたらどうなっていただろう…(などと考えるのはやめた)
ろくな成果も発表せぬまま、わたしは数年で「環境」をやめた。理由は簡単。
カバ婆の言を待つまでもない、わたしは自然について何も知らないのだ。(「爺ぃ、ルッコラも知らんのかぃ!」)山へ行く、川へ行く。自然をながめる。だが、わたしには、「木は木、草は草、虫は虫、鳥は鳥」としかわからないのだ。植物をよく知るカバ婆や自然をよく知る人たちの見る世界と全くちがう抽象的、一般的な自然しか、見えていないのだ。わたしが学んだマッキベンの本にも同じような空虚さを感じた。
そう思ったとき、わたしは環境について語るのを止めました。
(詫び言:数年前一度だけ「環境」を振り回したことがある。請われてのことだったが、いまでは後悔している)
・・・・・・・・
テレビで近大農学部のサークル「生物研究会」というのが、わたしの家のすぐ近くの矢田山の虫たちと遊ぶのを見た。楽しそうだった。夕方たばこを買いにでたら、鶯の鳴き声が聞こえた。今年初。去年は2月29日だった。
ひとつずつひとつずつ…
何年かかけて下地ができたら、ぼちぼちと、また自然については、語ってみたい
·
ページの先頭へ
2月21日(土)
立ち寄り温泉を紹介するテレビ番組で熊野古道の近くにある「つぼ湯」を紹介していた。日本各地から人が訪れるようで「東京方面から…」などと答えている観光客の中で「安曇野から来ました」という人がいた。うっ!と思って、いっしょに見ていたカバ婆を見た。と同時に「安曇野から熊野なら安曇野の方がいいやんねぇ」とのご発言。
「わしもいまそう言おうと思っとったがぁ」
熊野は素晴らしい土地であるし、一度ゆっくり訪ね歩いてみたいとは思っているが、カバ婆ヤギ爺にとっては信州安曇野の方が今はよほど旅の目的地としてふさわしい。もちろん、安曇野市にも住宅街はあるし交通量の多い大通りだってあろう。しかし、関西に住むわたしたちにとっては「安曇野」には、やはり、なかなか訪ね難い旅情を誘う響きがあるのだ。
わたしは奈良に住んでいる。寂れてしまっているとはいえ、日本有数の観光地である。散歩の範囲内に西の京があり、薬師寺と唐招提寺をつなぐ近鉄沿いの細い道(観光バスで通った記憶がある人、歩いて移動した記憶がある人も多いと思う)などは、ホームセンターに買い出しに出かけたときなどに車で通る生活圏だ。シーズンには修学旅行の制服を着た学生さんたちや団体旅行のおじさんおばさん、季節外れの時期でも首から一眼レフデジタルカメラをぶら下げ三脚を手にしたおじさんや、リュックを背負ったハイキングの中高年夫婦などとすれ違う。「そうかぁ、みんな観光に来てるんやぁ…」
人により風景は変わる
藤内小屋のある御在所岳の登山道「裏道」へは鈴鹿スカイラインの途中から入ることができる。冬場は雪のためスカイラインが通行止めになるので下の方にあるゲートが閉まり、そこから30分程度舗装道を歩くことになる。雪が多いときにはこのゲートのあたりも雪が積もり子供連れの家族などがそり遊びやら雪だるま作りやらを楽しんでいる。名古屋ナンバーの車もあり、わざわざ1時間以上もかけてやってくるのだ。
ヤギとカバはそこで靴を長靴に履き替え、よいしょと酒瓶の入ったザックを背負い、ゲートをすり抜け、えっさほっさと歩きはじめるのである。あと1時間も歩けば一面の銀世界、奈良から数時間で楽しめる別世界が待っている。「もうちょっと行けばいいところあるのにねぇ」と口には出さないが「ちょっと自慢!」の気持ちがよぎるのは否めない。
登山基地には温泉地も多い。観光客たちが温泉街をたむろするなか、重いザックを背負いピッケル片手に黙々と雪山を目指す「山屋さん」に「ふっ、わたしら、これからきみたちとはちがう世界に行くんだもんねぇー」という一種の優越感がわくのは、道理かもしれない。
「ゆうじぃ、おまえ、一度ぐらい冬山行かんかぃ。おまえ、藤内小屋ばかり来とっても山やっとることにならんぞぉ。こんど連れてったるで、行こまい」
「だって、寒いし、怖いし…」
「おまえぇ、なにをたるいこと言っとるぅ。世界がちがうてぇ、世界が!」
·
ページの先頭へ
2月19日(木)
「森さん、焼けたねぇ、まっ黒だよ」
「え、そうです?まずいなーあ」
「僕も人のこと言えないけどね、はは」
「いやぁ、わたしなんか、仕事がら、日焼けしてるとサボってるって、遊んでるって思われちゃうんですよ、「英語教師に太陽はいらねー!」ですよ…」
「そうか、ははは。そうですね。わたしらなんか日焼けしたら「よっ、しっかりやってるね!」ですからね、はは」
先週、信州の戸隠に行っていた。ここ数年信州大の平野先生の知己を得て、野外教育の現場をいろいろと見させていただいている。今回は共通教育のバックカントリースキーの実技授業だ。先のは平野先生との会話。
語学教育と野外教育とはまったく異質な分野のように思うが、実は、大いに参考になっている。英語も「実技」なのだから参考になって当たり前なのだ。
今はやりの「コミュニケーション重視の英語教育」とか「ペアワーク練習の導入」とかいうプラクティカルな教授法について言っているのではない。もっと単純な、あたりまえのことに気づくのだ。つまり、技能はだれもが同じように習得できるものではない、ということ。
なーんだ
向き不向きということがある。必要かどうかということがある。また、教えれば犬でも木に登る!ということはあり得ないのである。(もちろん、木に登る犬はいるだろう)ただし、誰もがそれなりに!ということはある。(これについては言語能力、運動能力ともに厄介な問題があるのだが、それについてはまた別の機会)
実技の現場で、できる、できないを目の当たりにしないとこんなことも分からない、ヤギ頭爺であることよ…
アウトドアのさまざまな現場で教えたり教えられたりに注意して見ていると、指導者の個性、学習者の個性、指導者と学習者の相性、個別指導、習熟度別指導、達成感・達成度の評価等、いろいろと考えさせられるのである。
同僚たちよ!わたしは無駄にアウトドア現場に出ているのではなーいのだ!
「森さん、また信州行くんですかぁ?蕎麦喰いに行ってるだけちゃいますかぁ?」
「なにを言っておる。わしは、アウトドア現場におけるコミュニケーションの諸相を研究しに行っておる!」
「そんなぁーあ。キャンプとかスキーとか、楽しんでるだけちゃいます?」
「なにを言う。それを言ったら、野外教育の先生たちに失礼だぞ。そんなこと言ったら、彼らだってスキーしたり、山登りしたり、スキューバ・ダイビングと、遊んでるってことになってしまうぞ!」
「それはちがうでしょ。彼らはちゃーんと教育してるじゃないですか!」
「…」
たしかに、わたしは、役に立つことが何もできていない
·
ページの先頭へ
2月16日(月)
昔、にいちゃんと「クライミングの指導者」について話したことがある。
岩登りに惹かれ、恐れ、固執し、迷い、しかし不甲斐なく挫折したわたしは、30歳を過ぎたころからにいちゃんと岩場に行くことはなくなった。しかし、関東に住む兄と関西に住む弟は、まだ健在であった両親の住む名古屋の実家で年に数回顔を合わせ、安普請の、かつては母親の洋裁の仕事場であった板の間に、不釣り合いに置かれていた応接用の革製のソファー(安物)で、それぞれの連れ合いを交えて夜を明かして話をした。わたしはがばがばビールを飲んだ。にいちゃんは酒は飲まなかった。持参のエスプレッソメーカーでコーヒーを淹れて飲む。カバ妻(当時)は屁理屈こきの兄弟の話に飽き飽きし「ねむたーい、おさきにしつれいしまーす」と言って先に寝るのだ。東向きの窓が薄明るくなり空が白むころ「祐司も飲むか」と入れてくれたコーヒーの横にはキリンラガービールの缶(基本350ml)が1ダース以上は転がっていた。「ゆうじさんは酔わないんですね」とにいちゃんの連れ合いが言う。「カバは「水でも飲んどけぃ!」っていいますよ」
いろいろなことについてとりとめもなく話をした。ただ、わたしには、なにがしかもやもやした何かを、年に数回のにいちゃんたちとのこの「面会」で確認したいという思いがいつもあったようだ。にいちゃんにもそれはあったと思う。お互いにそんな気持ちをぶつけあったように思う。楽しかった。
指導者についての話はわたしから持ち出したのだと思う。わたしは英語教師である自分のことを考えていた。何と言うことはない、そのころ(いまでも?)「英語の授業はぜんぶネイティブ・スピーカーにしてもらった方がいい」というような「神話」が蔓延し、学部の先生たちからのそんな要望が盛んだったころだ。NOVAの全盛期でもあった。
「名選手、名監督にあらずと言う。クライミングの指導者も、自分が5.12(「ファイブ・トゥエルブ」と読む。クライミングの難易度(グレード)をあらわす単位で、20年ぐらい前ではトップクラスのクライマーのみが登れるルートだったと思う。今では5.13、5.14、5.15 …とグレードが上がっているようだ)を登れなくても、最先端に挑戦できる人間を育てることはできるのではないか」というのがわたしの趣旨であった。にいちゃんは即座に否定した。「限界ぎりぎりに挑戦しそれを知る者のみがその感触を人に伝えられる」というのがにいちゃんの言いたいことだったと思う。わたしは、できない、挫折、習得の苦しみを知る者もいい教育者になれるのだとこだわった。兄は達成した者のみがその達成について伝えられるのだと言い張った。
わたしは、同業者の英語教員の多くが英語を得意とし英語が大好きであるのに対し、自分が語学習得にいかに苦労し、いかに向いていないかということに頭を巡らせ、それでも英語教師をしている自分をなんとか正当化しようとしながら話していたのだ。にいちゃんは、おそらく、臆病な自分がいかにそれを克服し、体格にも運動能力にもはるかに恵まれた一流クライマーたちのなかで自分がいかにクライミング技術を磨いていくかに心底立ち向かう自分を見つめながら抗弁していたのだと思う。
わたしはいつも後ろ向き、現状肯定的、兄はいつも前向き、現状打破的であった。
·
ページの先頭へ
2月3日(火)
(…「8.一人暮らし」のつづき)
一人ぼっちの暮らしに飽きて 仲間のいるところへ
寂しい気持ちになったとき 僕はここへ来る
そこには素敵な仲間がいて 悲しみを遠ざけてくれる
悲しい目をして笑っていた あいつのために歌おう
ラバーソールの靴底で 岩肌を感じるために
すべて忘れてよじ登って ビールで喉をうるおす
(森 正弘)
20代のころのにいちゃんが作った歌の一節だ。無題だったが、「ここ」とは藤内小屋のことで、当時、にいちゃんは足繁く東京からやって来て、御在所の岩場でルートづくりなどをしながら、夜には小屋でギター片手によくこの歌を歌っていた。やがていつのころからかそれは「藤内小屋の歌」と呼ばれるようになった。
何度か東京のにいちゃんの下宿に行ったことがある。今ではもうほとんど見られないのではないだろうか、4畳半一間、裸電球、共同トイレで風呂なし、隣の住人はほとんど不在だが、居る時には咳払いで知れる。そんな部屋でにいちゃんが作った歌だ。
兄は人には「孤独」とは無縁のように映った。特に、関東でクライミングの基盤を築き、伊豆の城ケ崎という海岸の岩場を拠点にスクールなどを始めてからの彼には、賛同者や仲間がいつも回りにいたようだ。その分、敵もいっぱいいた。だから、そんな兄ちゃんを知る人がこの歌詞を読んだら、「うっそでしょぉ!森さん、昔はセンチメンタルだったんだぁ」などと、笑い飛ばすことだろう。
「藤内小屋の歌」(作詞・作曲・歌:森 正弘)
・<藤内小屋の歌のダウンロード>はここ!
いずれにせよ、件の歌詞は、1970年代から1980年代前半にはまだほのかに残滓漂う「都会での一人暮らしの孤独」を語った、ある意味陳腐な拙い文句であろう。「寂しい」「悲しみ」「悲しい」の繰り返しは凡庸である。(むむっ…きたかぁ…)
ただし、当時の若者のある種の感情構造を代弁するだけの一般性は備えているようだ。(あれあれ…久しぶりの似非文学研究者…)
ただ、その凡庸さを穿ってみれば、コミュニケーションというものの本質が見えてくる。つまり、(ゴホンっ!)自らの「悲しみ」を癒すために山にきた詩人は(おいおい…)、そこに居合わせた「仲間」の「悲しい目」に注意を向け、そこに反響(echo)する「共感」を咄嗟に感じた共同体意識を表現するために「歌おう」とする。「悲しみ」「悲しい」の凡庸な繰り返しは、(グヘグヘ…)このように見てくると、(なんだぃ!)えへん、コミュニケーションというものは相互的なものであるという普遍認識への素朴な「気づき」を示唆する逆説的「技巧」にも、思えてくるのであーる。(…)
したがって、この詩は、歌うこと自体がコミュニケーションによるコミュニティ意識の回復のための「装置」となっているという、まさーに、「セルフ・レファレンシャル」、つまり、自己言及的「語りの構造」を持つがゆえに、その「平凡さ」が、かえって一定の割合で、人の心を打つ結果になるという、文学の謎めいた(そこまでくるか…)独自の効用を、作者自身の気づかぬままに利用しているという結果になったのであーる。(…バカバカしい)
とにかく、一人ぼっちで孤独な状態とは、永遠に続くものではない、いつかは必ず終わるものだと認められなければ、人間は悲しい。言語とか文化を研究する分野で「相互作用」とか「コミュニケーション」がキーワードとなるのは、人はひとりでいると悲しい、という現実を考えろということだ。
わたしはひとりではない。現にこうして「独り言」を書いているときにも、カバ婆が横にいるのだ。なにやらテレビで浅間山の噴火のことをやっている。
「爺ぃ、昔、浅間山の噴火で、村一つが埋もれちゃったことがあるんだってぇ、すごいねぇ、悲しいねぇ」
「あ、そう」
「わたし、どこかで、それ、読んだことあるかなあ…」
「ふ~ん」
さて、「孤独」の話に戻るが、仕事仲間、遊び仲間、飲み友達、旧友やけんか相手。メル友、マイミク…と、身の回りにはたくさんの、しばしば、あまりにたくさんの人間関係が渦巻いている。ロマンチックな考えの中には、こういった雑多なかかわりのなかでこそ人は孤独を感じる、という見方がある。「孤独な街」というのがそれだ。さらにロマンチックな考えでは、そのような孤独の意味を突き詰め、「孤独」を人間存在の本質だとする向きもある。ひとり自然に入り「孤独」を見出し、人間関係の網の目の中での「孤独」の意味を逆照射するというわけだ。
「新田次郎かなぁ…なにやら『怒れる富士』とかなんとか…そんな…」
「へ~え、そう」
思えば、人のおこなう行為で「相互的」でないものはありえない、というよりも、あってはならないのかもしれない。「無視」という行為がいじめの最も深刻な悲劇的な状況であるのは、この行為こそが相互的であるはずの人間の諸行為の意味を否定する、限りなく非相互的行為だからであーる。
「そっか…富士…んなわけない…ばっかぁ…」
レイモンド・ウィリアムズという人は、「コミュニケーション」という行為の相互性に注意を向ける必要性を語ったのであるが、たとえば、小説を書くといった一見著者から読者への一方通行的メッセージの伝達に思える行為までも、「コミュニケーション」としてとらえようとしている。いわゆる「読者論」とか「受容理論」とか「オーディエンス研究」いった文学批評や文化批評の先駆け的発想だと評価されるようだが、つまりは、人は話を聞いてもらいたいのだ。そして、人の話を聞くということは、とても大切なことなのだ。「独り言」とか「無視」とかは…
「ちょっとぉ!聞いてる?」
「え?なに?」
「あのねぇ、相槌打っておいて、最後、突っ込めよぉ!」
「え?」
「爺ぃ。聞いてなかったらよいよ、もう」
「ごめん、「独り言」書いてて…なに?」
「もういいよ」
「ごめんごめん、なにさ?」
「あのねぇ、浅間山の噴火で…」
「聞いた聞いた、村が一つ…」
「それで、新田次郎だか誰だかの…」
「そうそう、読んだことあるんでしょ」
「『怒れる富士』だったかなぁ、なんて言って、今のは浅間山の話じゃん、「富士ってわけないよね、わたしバッカみたい…」って言ったんだが、あんさん、そんな時は、なんか突っ込み入れるもんさね!だろぉがぁ!」
「そっか…そうだったか、ごめんごめん、「おめー、ばかちゃうかぁー!」」
「もういい!」
ヤギ爺とカバ婆は、最近、お互いの話を聞いているようで聞いていない、「ふんふん」相槌を打ってはいるがちっとも頭に入っていない、聞き流してしまっていることが多くなった、などと、お互いのコミュニケーション不全傾向を反省し笑い飛ばし、「コミュニケーション」にまつわるself-referentialな話題に花を咲かせるのであった…
(つづく…)
付記:新田次郎の小説のタイトルは『怒る富士』だった。
·
ページの先頭へ
2月3日(火)
マザー・テレサが来日したとき(ふる~っ)、新幹線の紙コップを使って水を飲んだ後、大事そうにしまって持ち帰ったという美談がしきりに報道されたという記憶がある。「もったいない」の心を外国人に教わったという自省であろう。同じくノーベル平和賞のケニアのマータイさんの「もったいない」への思いもすでに英語教科書の題材になるほどの教訓話になっている。「使い捨て」大好きの日本人にとって、買い物袋をじゃんじゃんもらい、ペットボトルをどんどん捨てる経済大国日本への警鐘は外からの声に耳を傾けることでジャンジャン鳴る。
「奥ゆかし」の意味を知らしめられた思いがしたのだろう、「もったいない」は平和への近道!
ところで、わたしは、正月の2日、藤内小屋に泊まった。他のヘルパーさんが手薄になるこの時期「いいですよぉ、どーせ、家でぐだぐだしてるからぁ」と臨時のケアを引き受けたカバ婆は残念ながらいっしょではなかったが、小屋を継ぐ神谷さん家族が泊まるというので、ヤギひとりで出かけたのだ。出発が遅くなったこともあるが予想以上の渋滞で夕方明るいうちに着くつもりがすっかり暗くなってからの到着になった。
なにぃ!ゆうちゃん!きたのぉ!ほんとに来たのかなぁ、びっくりしたぁ
ということで、冷えた夜だが風もなく、ダルマストーブの暖かさでほっこりと、神谷夫婦(奥さんは藤内小屋の佐々木さんの娘奈那ちゃん)と二人の子どもたち、闖入者ヤギ爺の正月の宴が始まった。「なにもないんやわぁ」ということだが、フライパンですき焼きもどき焼肉もどき(なんじゃそりゃ?)の料理を楽しむこととなった。
「ごめん、食器もあるんやけど、洗わなほこりまみれやしぃ、これでええかなぁ」とテーブルの上にあったのは、使い差しの紙皿(といっても発泡スチロール系の立派なやつ)。「ごめん、やっぱり、洗ってくるわ…」と奈那ちゃん。
ええええ。水、冷たいがね。わし、かまわんで
神谷さんが苦労して湧水の水源から通してきてやっとつかえる水のパイプは小屋の外に通じている。外は寒いし水は冷たい。
ごめんなぁ、なんもないで、しかたないわ。ほんとごめんな
主婦として、小屋の将来のおかみとしての思いやりと、わが辞書に「清潔」という言葉はない無縁無頓着なヤギ爺との、微笑ましい場面であったことよ。
ものがなければ「もったいない」はあたりまえ
さて、我が家は、ヤギもカバも、娘のブタ子も息子クマ太郎も、食器や食べ物の共有には無頓着なのである。子どもたちは親の使った皿や箸でふつうに飯を食うし、逆もまた然り。親は「うんまぁ~ぁ!ちょっと、これ、食べてみ!」と言って、かじりかけのケーキなどを子に食べさせる。実を言うと、ヤギ爺のみが、若い娘との「共有」にちょっとだけ抵抗を感じてしまうのであるが、それを知ってか、娘の方は「なに、とーさん、わたしの食べたのいやなん?」などと皮肉る始末である。
わたしは立食パーティーが嫌いだ。嫌いな理由の一つに、食べかけの皿を置いておくと係りの人が片付けてしまうことがある。それも目の前でだ。「あっ!すいません、それ、まだ、食べてますぅ」
つぎつぎと皿を、フォークを取り換えて料理を食べるあの形式が、わたしにはあさましく映る。食べ残しを置いたまま次の料理を取りに行き、そこに積んである新しい皿と新しいフォークを取るのは性根が腐っているように思えてしまうのだ。滅多に機会はないが、結婚式などで「フルコース」の料理などを食べると、わたしなどはそれだけで緊張し、フォークなどを落としてしまうことがある。見とがめて(咎めているわけではないのです)サーっと近寄り拾おうとする係りの人に、
あ、いいです、いいです、使えるから
と言って拾いまた使い始めると、係は怪訝そうな顔をして引っ込んでいく。しかし、しばらくして、「お取り換えいたします」と言って、新しいのをもってくるのである。
あさましい
さて、もちろん、衛生上の問題は重大である。ずーと前にも書いたが、わたしたちはただ単に運がいいだけか、細菌にやられていても気づかなかいだけかもしれない。けっして人に勧められる所業ではあるまい。
ただ、爺は、わたしのこの性癖は、きっと、あのマザー・テレサやワンガリ・マータイにも通じる「もったいない」の精神を体現したものではないかと、ひそかに自負しているのである。これは平和への近道でもありうるのだ!
日本には茶道があり、茶道には「回し飲み」がある。回し飲みは平和への近道なのだ!(そんなわけはない)
だいぶ前になるが、職場の仲間と花見のバーベキューをしていたとき、わたしは、テーブルの上に食べかけでまだいっぱい肉を残したままの紙皿を見つけた。わたしは、何も考えず、自然に、その紙皿の中身を鉄板の上に戻したのである。もちろん、温め直しは自ら自分で食べるつもりだった。
そのときの皆の非難怒号罵倒叱責は、わたしの想像を超えていた。「森さん!なにすんのぉ!」「わーきたなーっ、もー、わたし、これ、たべられんぅ」さすがに、シマッタと思った。カバ婆にあとで話すと、「それは、あんさん、やっぱり、時と場所、状況を把握する力に欠けてます」
ちなみにわたしは、立食パーティーなどがお開きになり、余韻でぐずぐず居残り駄弁っている仲間に入ったときなど、係りの人がそこここに残っている皿を片づけ始めるころ、残り物を指でつまんでは口に運び、だれの飲み残しかわからぬビールのコップなどに口をつけ、ガッハガッハと笑っていたりなどする。
じつにあさましい
·
ページの先頭へ
2月2日(月)
このところ遅くなったり、疲れたぁと感じたりで、「帰宅歩き」をせずにいた。きょうは久しぶりに歩いた。しかも、朝も夕方も!家と駅までの距離はほぼ4キロ、45分のウォーキング。今の季節、ちょっと汗ばむぐらいでまことに心地よい。歩くと書きたいことが頭をめぐる。
通勤途中、大阪御堂筋線地下鉄での目撃談
難波で乗り、いつものように梅田まで開かない側のドアの隅にもたれかかっていると、心斎橋でおばあさんが乗ってきた。わたしの前に立った。身長167.8センチメートル(公称170センチ)のわたしの顎あたりに頭がくる小柄のおばあちゃんだ。私に背を向けてバーをつかんで立っている。
次の本町を過ぎるあたりで、ふと向かいの座席に目をやると、50代だろうか、わたしより少し上かな…といったかんじの女性が、そのおばあちゃんに目と目で、表情とジェスチャーで、コミュニケーションをはかっていたのだ。
わたしの翻訳
「おばあちゃん、こちら、座る?かわりますよ」
「いいえ、いいいい。すぐ下りるから。ありがとねぇ」
「そうですか…すいませんねぇ。じゃあ、座ってます、ありがと」
二人はそのまま何もなかったかのように乗り合わせ、淀屋橋を過ぎた。気がつけば、そのおばあちゃん、かなりのお年のようだが、よろけることもなく、しっかと立って乗っている。二人は、ともに、わたしとおなじ梅田で地下鉄を降りた。
カバ婆が若いころOLだったころの話
電車でも本に夢中になるカバ娘(当時)は、ご多分にもれず痴漢的被害にもあったそうな。財布を抜かれたこともあったらしいし、スカートをカッターナイフのようなもの(だと思う)で切られたこともあるという。満員電車での通勤だ。
そのカバ婆の証言であるが、一日中歩き回り、立ったままの仕事をして、心底、疲れ切った、やっとの帰宅電車、たまたまの空席に座れて「ほっこり」しているとき、目の前にお年寄りが吊皮にぶら下るのが、たまらなく嫌であったという。体全体から「ふんっ!わかいもんが、座って、本を読むかぁ!わたしゃ、口が裂けても、席替わってください…なんて、言えんが、あんた、どうぞぉ、と替わってくれるかと思って前に立ったが、ずうずうしぃ、今度は下向いて寝たふりかぃ!へっ!」オーラがみなぎっていたと言うのだ。
カバ婆は「ほんとうに座ってもらった方がいいなぁと思うような人だったら、ちゃんと席、替わったのよ…」と済まなそうにつぶやいた。
いいのだ、わたしは、俄然、カバ婆を弁護するのだ
わたしの母は父の死期を早めたかもしれない。しかし、これは嘘だ。母は、70を過ぎて胃がんを発病した父も、胃の全摘手術を生き延び、しかし、以後めっきり老けてしまい、白内障の手術までした父も、それから、「5年を過ぎたから再発はない!」と安心したあと、やはり癌が肝臓に転移していたことが分かり、寝たきりになり、おむつをし、意識も朦朧として、79歳で没するまでの父も、見事に、献身的に、子どもたちの手を煩わせることもなく、しかもあっけらかんと看病をし尽くした。
しかし、母は、やはり、父を甘やかせすぎたと思う。父親は足腰が弱かった。年と共に人並みに…であったかもしれないが、60、70で父より元気な老人は、やはり、足腰がしっかりしている。80、90でも、ずっとしっかりした者も多い。
足腰は長寿の秘訣!である
父は「めし!茶!風呂!寝る!」のいわゆる関白亭主ではなかったが、わたしがまだ小さいころの母は、「ただいま~っ!」と大きな声で帰ってくる父を「おかえりー!」と迎え、次々と脱ぎ捨てる父の背広を拾い畳みタンスにしまい、後ろから和服を羽織らせ座イスに座った父にお茶を出す。父は仕事帰りから寝るまで何もせずくつろぐのであった。さすがに年を経て、和服がジャージと半纏(はんてん)に変わり、家に持ち帰った仕事を老眼鏡でこなすようになった父が、「しまったぁ、たばこ切らした…、母さん、買い置きあるかねぇ?」というころになっても、「なにぃ、知らんがね。あんた、けむいしくさいし、煙草一晩ぐらい我慢せりん!もおぉ!」と言いながらも、ミチコチャン(両親が飼っていたヨークシャ・テリア(メス)の名前)を連れて散歩がてら、夜の自動販売機まで煙草を買いに行くような母であった。
だから、歩くことをさせなかった母は、父の足腰を弱め、父の死期を早めたのである(滅茶苦茶)
とにかく、筋肉は使わなければ老化する。世の高齢者は、わざわざ山にまで出かけ、老体に鞭打ち若返りのために運動に励んでいるのではないか。ならば、なぜ「お年寄りに席をゆずりましょう」なのだ!「ひと駅前で下りて歩きましょー!」などと薦めるくらいなら、「電車で立って足腰健全っ!」となぜ言えない!
カバ婆の言うように、立っていると揺れる電車の中では危ない老人はいる。痛めてしまった足腰はいたわらねばならない。ならば、これほど「認定」「免許」「許可」「弱者の権利」にやかましい世の中なのであれば、後期高齢者の運転に「もみじマーク」を義務付けるのであれば、恥ずかしくはない、老若男女を問わず「座席占有優先者マーク」を認定すればいい!
だが、
今朝の地下鉄での、50半ばの女性とおばあちゃんとのコミュニケーションは、まこと、心底、見事であった
ならば認定マークなどいらないはずだ
・・・・・
カバ婆、うまい!きょうのチヂミ、サイコーっ!ビールがすすむっ!…。で、チヂミにはぁ、やっぱぁ、カラシでしょ、ね~。でぇ、取って来て、くれないかなぁ…
あ、そ、冷蔵庫っ、じぶんでね
·
ページの先頭へ
2月1日(日)
わたしは「箱入り息子」だった。気持ち悪い…
生まれてから、大学生時代、大学院生時代まで、ずっと名古屋で両親と暮らしていたのだ。カバ婆と知り合い結婚してからは(大学院博士後期課程1年のときなのでとりあえず「学生結婚」だった!)、3年間の同居生活の間にブタ子が生まれ、奈良に越してからも、一度の別居もなく、旅行は別として、唯一「家」というところで一人暮らしをしたのは、クマ太郎の出産でカバ婆が実家に帰った数週間だけであった。
恥ずかしい話であるが、3日間の出張旅行に出かけたりすると2泊目には家が恋しくなる。安心して家を空けられるのは1泊が限度である。
大学を選ぶ際、わたしも「人並みに」下宿を考えた。にいちゃんは、親の圧力、名古屋という田舎の閉鎖性を疎い嫌い、「とりあえず東京」に飛び出していった。同級生にもやはり「とにかく一人暮らし」ということで大学を選ぶ者がいた。父は、ことあるごとに「井の中の蛙大海を知らず!」「ゆうじは世間を知らんおぼっちゃんではいかん!」「引っ込み思案では人生負けだ!」と人生訓を語った。父の目には、にいちゃんは地に足つかぬ放蕩鉄砲玉、わたしは「グジグジめめしい」(註:父の口癖だったのでそのまま書きました)引っ込み思案で、ともに心配の種であった。わたしにもそんな父から飛び出したいという気持ちは人並みにあった。
一浪のすえ、東京の私大と名大に合格したが、わたしが「やっぱり名古屋にする」と言ったとき、父は内心喜んだはずだ。すでに還暦近くになり(父は晩婚だった)わたしが高校に入るときにはすでに中小企業を退職し(当時の定年は55歳だった)、昔のつてで安サラリーの事務仕事に再就職していたが、家計は正直苦しかったはずだ。わたしは自分ではそんな家を思いやる優しい心からの決断であったと納得していた。
案の定、父は「それはそれでいいが、冒険心を持たない人間は屑だ」と言った。母は、「いいがねぇ、ゆうじが決めたんだで、それでいいがね、ねぇ?」と言った。「家のことは心配せんでいい。家計のことはかあさんがちゃんと管理しとるで、お前が東京に行くぐらいの金はなんとかなる」と父は言った。「下宿代もだけど私学は学費が高いでねぇ」と母は正直であった。「世間は、なぜ行かせんのぉ!?と言うだろうが(たしかにその大学の方が世間で有名であった)、父さんはやっぱり公務員になるなら地方の国立大学だと知っとる。おまえは安定志向だから公務員がいい。そのつもりなら名大が一番だ」と、父は、あくまでひねくれていた。
あとで、二人になったとき、母は「ゆうちゃん、ほんとうは、下宿したいんでしょう、ならいいよ」と言った。わたしは「なにいっとるのぉ、わしが一人暮らししたらどーなるかわかる?毎日チキンラーメンくっとるがね、きっと。めんどくさいで、ほんとーにいやなんだわ」と答えた。
毎日のチキンラーメンはそれでよい。しかし、一人で暮らしている自分を想像することは、やはり、戦慄であった。「引っ込み思案」「グジグジ」「臆病者」とレッテルを貼った父は正しい。わたしは孤独を愛せない。
日曜の午前、子どもたちは出かけ、カバ婆はパート。猫たちと孤独を楽しむヤギ爺である。ああ、やはり、あくまで「家」で独りでいるがよい。
しあわせ、しあわせ
(つづく…)
·
ページの先頭へ
1月28日(水)
わたしはあまり人のブログを見ていない。文章が刺激的でついつい読んでしまうもの、山行記録が気になりしばしばチェックするもの、ときどき更新される写真が可愛く楽しみにしているものなど、知人や友人のものがほとんどだ。
有名人のブログや話題の人のブログなども見てみるのだが、たいてい長続きしない。いまよく見るのは国井律子という人のブログで、「なんちゃってアウトドア」(などというとご本人は怒るかもしれないが…)関連で見つけたものだが、毎日、ときには日に数回も更新するバイタリティーには脱帽だし、文章が軽くてここちよい。水野裕子さんのブログも、同郷ということもあり、これもなんちゃってアウトドア関連で時々見ている。男っぽい口調がなかなかよい。眞鍋かをりさんのブログは、一時有名だったということでしばらく見ていたが、あまりわたし向きではないので、やめてしまっていた。昨夜、ふと、「お気に入り」に残っていたので、本当に久しぶりに開けてみた。
話はまったく関係ないのであるが、「眞鍋」で突然思い出したことがある。
年をとると、ふるーい昔の記憶の断片が突然よみがえるというが、わたしはそんな年でもないはずだが…脳の中身はそこまで来たのかも知れない。
中学生のころ、ちょっと小説に夢中になり小説家になりたいと思ったことがある。前にも書きましたが遠藤周作から始まって、じつは、そのころ、ちょくちょく、いろいろ読んでいたのだ。しかし、深くのめり込むという感じでもなかったと思う。なにやら、読んでいる自分に酔っているといった感じの、軽薄字面追い文学青年だったような気がする。が、
それでも小説家になりたいと思ったのだった。で、
まずは形から入るA型人間(かどうか知りませんが)、筆名を考えるところから始まった。いろいろと考えたと思う。そして、昨夜ふと思い出したのが、
「真鍋真悟」
というペンネームであった。今見ても売れそうにない名だ。
おもしろ恥ずかしいのは、その命名の謂われである。それまで思い出してしまった。
赤面ものなので、やめてしまいたいが、ここまで来てしまったので、書きますが、
「真鍋」は音をとり「学べ!」の意、「真悟」は意味で、「真(真実、真理)を悟れ!」…
なんと糞まじめな洟垂れ中学生であったことか。
こんなペンネームしか思い浮かばない人間は、ぜったいに、小説家にはなれない
·
ページの先頭へ
1月23日(金)
じつは、わたしは、スキンシップが嫌いだ
一部嘘がある。カバ婆にはベタベタするし、ゴンやマメ(猫たち)のお顔とはスリスリしながら「ゴンちゃぁん、マメち~ぃ~ん」とやっている。子どもたちが小さいときは、頬ずりをしてよく嫌がられたものだ。
だが、スキンシップは得意ではない
数年前から、学生が話しかけてくるときの距離間に違和感を感じている。授業が終わり教壇で後片付けをしているときなどに「せんせぃ~」と寄って来て質問などあるときに、妙に「ぐぐっ」と寄ってくる学生がいるのだ。男子学生にも女子学生にもいる。
おそらく中年の体臭と口臭を無意識に気にしているのだろう。しかし、それだけではない。わたしの距離感はおそらく「伝統的」な日本人のものなのだろう。そうですねぇ、けっこう親しい人でも、90センチぐらいは離れて話すのが、ちょうどいいのです。真正面よりはちょいと斜交い(はすかい)がいい。
だから居酒屋や、とくにカウンター席ですぐ隣に人がいると、なんだか落ち着かないのです
親しくなると、わたしがばか話などすると、「ちょっとぉ」などとおどけて、腕や肩などを軽くたたく人がいる。親しみを込めてくれているのはわかるのだが、それが苦手だ。とくに女性などにそうされると、わたしは思わずサッと身を引き「肩すかし」を喰らわせてしまうことがある。「ごめん」と謝るのはわたしだ。けっして嫌いではないのです。腕組合って手を取り合って喜びを分かち合いたい気持ちはあるのです。
しかしそれが苦手だ
であるから、中高生時代のヤギ青年は、ひそかに思う女生徒と接近できるフォークダンスに内心ワクワクドキドキしながらも、肩を抱く手はセーラー服の襟をかすり、つなぐ片手は、あたかも猫糞を丸めた新聞紙をつまむ手のように、なにげに触れるのみなのであった。ああ不甲斐ない
·
ページの先頭へ
1月16日(金)
マメ(飼い猫2匹のうちの下の方)が新聞紙でくるんだ鍋の上にほっこりと丸まる
ガス代をケチり、かつ、煮物をやわらかく仕上げるための、保温の知恵だ。カバ婆の仕業だが、「おぃ、見て見て、これ、湯たんぽやん!マメは、やっぱ、暖かいとこ、よー知っっとるわ、野生の知恵やね、ハハハ」と嬉しがるヤギ爺。
そういえば、湯たんぽが見直されているらしい
そんな中、今日の夕方の情報番組で、「復権!湯たんぽ」と題し湯たんぽを使用する際の注意点を話題にしていた。どうも、蓋をしたまま湯たんぽを加熱し、爆発させる事故が増えているようだ。電子レンジで温めるケースもあるという。閉じ込めた水を加熱すれば体積を増し破裂するのは常識だ。
「おいぃっ、婆、いまテレビでやっとったけど、湯たんぽフタしたまま加熱する馬鹿がいるんだってよ!ばっかじゃないかなぁ!えぇっ!」
当然、「えぇっ!ばっかじゃないぃ!常識はどこへいった!」と、憤慨罵倒する婆を想像した。しかし、
「それはそうだけど、わたし、ついうっかりすることあるかもしれん…わかっててもやっちゃうこと、あるもんねぇ…」
カバ婆の勝ち
まえに自動ドアのことを書いたけれど、常識はずれの仕組みがいまや蔓延しているのだ。目の前の障害物(ドア)が手を使わず取り去られる(開く)のはどう考えても道理に反する。指で「ぴっ」とおして、レバーを「ひょい」と上げればお湯が出てくるとはまさに非常識だ。地上数十メートルに上がれば、よほど訓練を積んだ者以外は、眩暈がして当然だろう。
自戒すべし
こうすればああなる、ああすればこうなる、という道理を見直さねばならないのだと思う
と言いつつも、「お~いぃ、何で灯油ないのぉ!買ってこなあかんがなぁ!ストーブがつかんがやぁ!さっぶ~うぅぅぅ」と愚痴る、爺であった。
·
ページの先頭へ
1月10日(土)
わたしは血液型A型、信じてはいないが、性格はまさに典型的A型人間で生真面目几帳面なのである。
以下は秘密の裏話
わたしは、学会の発表などの準備では、原稿をばっちり書き、レコーダーを使って何度もリハーサルをする。原稿には「ここで間を入れる」「この言葉はもったいつけて」などの指示や、途中で差し挟むべきジョークなども書き込んである。わたしは、ふつうに自由に話すと、一本調子の張り上げ声で早口機関銃スタイルになってしまうので、「ここで「あ~、う~」と考え込む」などというメモもある。わたしの発表を聞いて、「森はたらたら、準備もせず、下らん話をした」と感じた方は、このようなリハーサルの結果だと思っていいです。ただし、内容が薄い場合はしかたない。
学生時代、お酒を飲み始めたころ、友達とコンパなどに行くようになって、わたしは自分がどれくらい飲めば潰れるのか知る必要を感じた。わたしの取った行動は、酒屋でウィスキーを買ってきて(初めて買ったのがトリスのポケット瓶だったことをはっきり覚えている)夜、寝る前に、自分の部屋で「実験」することであった。
たしかキャップを使ったと思う、ウィスキーを注いでぐぃっと一飲み。まずは大丈夫。もう一飲み。しばらく待つ。自分がどれくらい酔うのか様子を見るのだ。
ほろ酔い気分でとりあえずやめて、寝る。次の夜は少し量を増やしてみる。飲む間隔を変えてみる。きっちりと計測するほどの几帳面さはないが、どれぐらいのペースでどれぐらい飲むとふらふらになるのかは、なんとなくつかめたように思う。飲みすぎて吐くとは一体どんな感じかを試したのもこの「実験」でのことであった。
その後、藤内小屋でつい飲みすぎ、思わず気持ちが悪くなり便所で吐くことも増えたが、わたしは基本、吐くほどに飲むことはない。(体質からか吐く前には眠ってしまうのだ)
以上、わたしと飲む機会のある方は、読まないでください
ところで、2009年は吐いて始まった
大みそか夕方、カバ婆の友人で木津川沿いの土地で一種自然生活をおくっているご夫婦の家に牡蠣を取りに行った。ややこしいので端折るが、とにかく川沿いでも牡蠣なのである。
セイちゃん、ケイコさんのご夫婦は、新婚時代軽自動車のボックスカーを改造したキャンピングカーで日本中を旅行したこともあるつわもので、酒も好きだ。カバ婆とケイコさんが仲良しで、以前からこの夫婦の話は聞いていた。わたしは昨年の春「庭のタケノコ掘りに来て」というお誘いで初めて会った。婆から聞いていたとおりの人たちであった。「どう!飲んでって!車?いいじゃん、泊ってってよ!明日休みでしょ!」との、立て続け、まくし立てのケイコさんのお誘いに、セイちゃんが、「おう、いいじゃん。ケイコちゃん、酒持ってこいよ」と絶妙にとぼけた優しい声で合の手を入れる。わたしたちは困った。カバ婆の目も「いいよ!飲みたいでしょ!」と語っていた。しかし、はじめて伺ってのお呼ばれ甘えは、やはりとりあえず差し控えようという心にもない遠慮がようやく勝り、その日は飲まずに帰ることができたのだ。
さて、大みそかの話。わたしたちは、「ひょっとしたら誘われるかも知れん…どうしよう…大みそかだし…やっぱ、家族ですごすのがふつうかも知れんし…だが、もし誘われたらどうする?…あまり断るのも水臭い気がするし…」などと、ちょっと考えた末、「もし誘われたら、今回はカバ婆が酒を我慢し帰りの運転をすることにして、とりあえず、泊るのだけは辞退しよう」ということになった。
かくして、わたしは、ビール、焼酎、日本酒と、次から次へと注がれる酒を片手に、囲炉裏端で美味いものを焼き、喰い、セイちゃんの沖縄の話、ふたりの自動車旅の話、今の生活について聞き、語り、至福の大晦日を過ごすことになったのである。セイちゃんとケイコさんは、知り合いの恩人から竹林の中に立つこの田舎家を借りていた。その恩人は陶芸家ということで、ここは趣のある家である。離れに囲炉裏の西阿(あずまや)があるのだ。ふたりはしばらく使われていなくて住める状態ではなかったここをふたりで金をかけずに修復しながら生活を楽しんでいるのだ。隙間風の冷たさも囲炉裏の炭の暖を気持ちよくさせるのみ。わたしたちは時を忘れて話した、飲んだ。
カバ婆は酒を飲まなくても場に酔える。一人素面(しらふ)なのだから時間を覚えていてもいいのだが、彼女も夢中で話し込んでいたのだ。わたしが、「そろそろやばい…」と感じはじめ、「おっとぉ、もう遅いでしょ、かえろっか…」となって、ようようお暇することにした。わたしはかなり酔っていた。
帰りの車で時間をみると、12時50分を過ぎている。「なんだ、もうこんな時間だったん…どーせなら、いっしょにカウントダウンしてから帰ればよかった」とカバ婆は言った。テレビもない、時計もないところで酒を飲むのはいかにも楽しい。わたしは、相当に酔っていたが、頭は昂揚し、カバ婆と、セイちゃん、ケイコさんの話をしながら、「じゅう、きゅう、はち…」と新年を迎えた。車での年越しは、たぶん、初めてだった。わたしは、そのまま眠りについた。
ふと目覚めると、まだ車の中にいた。カバ婆は一人ハンドルを握っていた。ふと、わたしは、駄目だ、と感じた。胃の上のあたりに気配を感じた。車はちょうど赤信号で止まった。「婆、わるい、ちょっと回ったところで、車とめて、まってて」と言うが早いか、わたしは、助手席から車外によろけ出た。それはもうそこまできていた。わたしは、路肩の空き地の土の部分を探し柵に寄りかかりながら静かにかがみこんだのである。
去りし年の悪徳と不浄のすべてを吐き出し、幸先のいい元旦となった
·
ページの先頭へ
1月9日(金)
正月早々暗い話ばかりで申し訳ない。しかも、このホームページのタイトルは「言語文化の森~遊びとアウトドアの世界~」だし、大学教員のページなのであるから、研究とか思索とかの内容であるべきだと思う。「関連テーマ」ということでお許しください。
兄が死ぬ前、病院のベッドでまだとりあえずまともな会話が交わせる状態だったとき、見舞ったわたしに兄が言った。
「祐司、おやじもそうだったし、おれもそうだ。(注:胃がんが肝臓に転移したこと)家系だし、お前も俺も親父似だから、健康にはくれぐれも気をつけろ」
抗がん剤治療と痛み止めのモルヒネで意識も朦朧とするガン患者が、いまだ健康タバコがうまい!酒はうまいし食欲旺盛!の弟の健康を気づかうのだ。このときばかりは涙を堪えた。
兄は52歳で死んだ。わたしは、今年、51になる。兄が闘病生活を始めた年だ。
死にたくない
·
ページの先頭へ
1月7日(水)夜
しかし、やはり、カバ婆の抱擁だけでは十分ではなかったのである。やはり、名医にかかるのが一番なのである。
次の年の夏、時々おとずれる「発作」に怯えながらも、恒例の夏の古座川遊び旅3泊4日に車で出かけた。思えば、このときのわたしの「病」は、やはり、どう考えても「身勝手病」としか思えない。
車の運転はまったく大丈夫だったのだ。しかも、お酒を飲むと、いつもかならず、すっきりした。
心と体は不可分だが、まさに「病は気からを戒めるべし」の「病状」だった。発作が起こるのは、きまって、何もしていないときだったのだ。とりわけ、自分で運転できる車以外の乗り物がいけなかった。もともと閉所恐怖症気味だったのだが、わたしはますます電車を恐れるようになった。
さて、1年後の夏、車で和歌山の古座川まで向かうとき、奈良の山地を越えあと少しで和歌山の海に出るというところで、突然来たのである。もやもやとした不思議なめまい、動悸。
わたしは、「ごめん、カバ、ちょっと止まる…」と言った。路肩でしばし休んだが、もう運転をする気にはならない。「どうしてだろう…運転は大丈夫だったのに…」
いいよ、わたし、運転できる、というカバ婆に任すしかなく、残りの1時間あまり、助手席で休む。皆の集まる古座川についたのは夜も更けていた。事情を聴いた仲間はすぐ近くにある古座川病院に電話してくれた。幸いにも、か、田舎の総合病院だからいつもなのか、夜間の緊急診察ができるという。わたしは、「もう大丈夫だと思うけど…」と言いつつも、婆の運転で病院に行ったのである。
薄暗い廊下にカバ婆を待たせ、わたしは診察室で医師に向って1年前からの症状について一つ一つ説明した。普段は全然なんともないこと、ただ、突然おかしくなること、今日も運転中、わけもわからず急に気を失いかけたことを、必死に、懸命に、まくし立てた。当直の医師は、当時の私よりも若い、おそらく30代後半の優男だった。彼は黙って聞いていた。
わたしは話し始めると止まらない性質(たち)である。よく人から「森は人の話を聞かん」と言われるがそうではない。聞いてはいるのだが、見てはいるが、それでも口が止まらない。自分を語り始めれば自分でもどうしようもないのだ。しかし、そんなわたしが思い返しても、あの時のわたしは、異常だった。
わたしは自分の症状についてまくし立て続けた。白衣の若医師は黙って聞いていた。うなずきながら聞いていた。すると、「ちょっと失礼します」のようなことを言って、彼は立ち上がり、静かにわたしの背後に回ったのだ。
「失礼」と言いながら、わたしの肩を、優しく、ゆっくりと、揉んだのである
わたしは黙った。彼は、「ううん…」「ふぅう…」といった感じで肩をもみながら、
「だいぶ凝ってますねぇ、固いわぁ…」と言った。
デスクに戻った彼は、ゆっくり黙ってカルテに何かを書きながら、「まあ、大丈夫でしょう、心配だったら家に帰られてから、もう一度お医者に相談してみてください。心配いらないと思います。とにかく、今日はゆっくりするしかないから、とりあえず、安定剤のようなもの、かるーいのですがね、出しておきます。必要なかったら飲まなくてもいいですよ、大丈夫です」
この医師の「見立て」をリアルに再現することはわたしの腕ではぜったいにできない。ただ、わたしは、それまで何度、誰に、「大丈夫です」と言われても、どうしてもそれを疑ってかかっていたのに、このとき、肩をやさしく触られた若い白衣医者の「大丈夫です」には、心から、心から、納得せざるを得なかったのだ。
わたしは、これ以来、私の病気は肩こりである、と納得して、その病を克服したのである。
おそまつな患者が名医に出会った瞬間であった
·
ページの先頭へ
1月7日(水)
もう10年前になる。41歳、前厄の年の夏7月のある日、朝コーヒーを飲んでいるとき、突然のめまいを覚えた。
「あれ…ちょっとおかしいわ、すこし横になっとる」と言って、和室に行った。大丈夫?と心配げに声をかけるカバ妻(当時)に、「おお、大丈夫思う、ちょっとめまいがするだけ…」と答えるが、横になっているとますますおかしくなった。なにやら動悸がする。不安になり起き上がり食卓に戻りちょっと深呼吸をしてみる。「大丈夫?」とカバ妻(当時)が言った。
「おかしい。動悸がする」
「どうしたん?顔色は悪くないけど…」
「わからん。おかしい」
「大丈夫?」
動悸が激しくなった。「いかん、ちょっと横になる」と、和室に戻る。横になっても頭がふらふらする。ますます動悸がする。なにやら、すーっと、意識が薄れるような気がしてくる。「いかん、おかしい!」と言って食卓に戻る。ブタ子とクマ太郎が心配げに見ている。
「いかん、おかしい!病院開いてるか」
「今日は休みだから…どこか、救急さがす?」
「たのむ。おかしい。病院だ!」
大声でおかしいおかしいと繰り返す夫の様子に動揺したカバ妻(当時)は、「ちょっとまって」と慌て顔で電話帳を探し始める。「わからんわぁ…どこかに休日診療の表があったけどなぁ…」と書類置きを探し始める。
「いかん、おかしい!意識がなくなる!まだか!」
「どーしよー…佐藤さんに聞いてみるか…」
「だめだ、おかしい!変だ!早くしろ!」
「大丈夫?!どーしよ…」
「いかん!だめだ!救急車呼んでくれ!めまいがする!おかしい!」
「とーさん、大丈夫!?」と不安がるブタ子の声も、遠くで聞こえるような気がする。
「早く呼べ!」
「もしもし、すいません、主人が急病で…救急車、おねがいできますか?」というような声が聞こえる。「なんでもいいから、早く来いと言え!」
わたしは突然立ち上がり大股で両手を振りながらドカドカと足踏みをして家の中を歩き回り始めた。「いかん!気を失う!」
「大丈夫?!」と訊く妻に「止まると気を失う、こうしてれば大丈夫だ!」というようなことを叫んだ覚えがある。
救急車のサイレンが聞こえ、「こちらです」と案内されて入ってきた救急隊員の前で、わたしは、大股両手振りで足踏みをドカドカ続けながら「こうしていないと気を失うような感じです」云々と症状をまくしたてていた。
カバ妻があとから言うには、その時の救急隊員の呆れ顔はとても恥ずかしかったらしい。「大丈夫だとは思ったのですが、夫が呼べと言うから…」というような言い訳をしたらしい。隊員は「とりあえず病院まで運びますか?」と困り顔で言ったらしい。「お願いします!」というわたしの声がまた恥ずかしかったという。
救急車に座り(そうです、わたしは、歩いて救急車まで行き、救急車の後ろの椅子に隊員の横に座ったのです)、最寄りの病院についた頃には、相当落ち着いていた。ただ、早く医者に診てもらいという思いは募っていった。血圧を測り、心電図をとり、レントゲンを撮りと診察が進むうちに、動悸はおさまりめまいは去った。わたしは「とりあえず様子を見てください」と言われ、カバ妻に電話し、迎えの車に乗って家に帰った。
今でも原因はわからない。自律神経失調症とかはどんな病気なのか…とにかく、それから1年ほどの間、わたしは、突然の動悸やめまいに苦しんだ。どうしてだか分らないが、会議中突然心臓がバクバク鳴り出すのだ。素知らぬふりで研究室に戻りしばし横になる。地下鉄に乗っているとき突然襲っためまいで駅長室をたずねソファーに寝かせてもらったこともある。
原因がわからない。いくつもの病院を訪ねた。心電図は何回もとった。脊椎の異常かもと友人に言われ整形外科でレントゲンを撮ったが、「いい骨をしていらっしゃいます」と言われた。どこも異常がないのだ。異常がないとますます「おかしい」と思い出す。どこかがおかしいはずだと思い込む。医者へ行く。それが異常だった。生まれて初めて鍼灸院にも通った。
そんなとき、恥ずかしい話であるが、わたしは、妻を頼った。わたしは、カバ妻(当時)の前に立ち、子どものように、「ぎゅーっと、してくれない?」と、聞くのであった。カバは両の手で、わたしをぎゅーっと抱きしめた。なにやらこころがすーっとするのであった。
·
ページの先頭へ
|