あいりん地区(釜ヶ崎)の思い出
あいりん地区(釜ヶ崎)で日雇労働者を援助する仕事に携わったことがある。狭い地域に労働者が溢れかえり、ドヤと呼ばれる簡易宿泊所が立ち並び、居酒屋は昼間から営業していた。ドラッグの密売、路上強盗の多い犯罪多発地区だった。
労働者は毎日何十人も相談に訪れた。
高齢になって仕事ができなくなった者、病気にかかった者、中・軽度の知的障害を持つ者、犯罪の前科のある者、事業に失敗して借金取りから逃げている者、社会的適応力を欠く者、教育を受ける機会を奪われた者、ひとりでいることを好む者、博打を好む者、生活設計のできない者、アルコールやドラッグに蝕まれた者。そういう人たちだった。
私が着任した直前には、暴動が発生しており、不穏な雰囲気が漂っていた。
働けなくなった労働者には、入院してもらうか、施設に入ってもらうかだった。若ければそこを出て、再び仕事に就き、高齢であれば老人ホームに入ってもらった。
中には施設や病院に何回も入所、入院を繰り返すリピーターもいた。そういう人にとっては、施設や病院は一種のバカンスだったのだろう。
資本やヤクザに使い捨てにされた人を私たちがフォローしていた。
日本の社会保障制度は捨てたものではないと思った。
しかし、職場は勤務条件が厳しく、賃金も低かった。施設での夜勤もあった。そして、相談に来た労働者から何度かナイフを向けられたこともあった。実際、傷害を負った仲間もあった。
そういう職場だったので、雰囲気が険悪で、仲間どうしのいがみあいもあった。つらかったのは、上司が粗暴で攻撃的な人物だったことだ。大学院で社会学を学んだインテリだったが、性格がゆがんでいて、その人にはいつも恐怖を感じていた。
そんななかで私を支えてくれたのは、隣に座っていたH君だった。音楽が大好きで、バンドでギターを弾いていた。出世にはまったく興味がないが、勤務は熱心だった。当時の私ときたら、音楽と年に1、2回の外国旅行が楽しみなだけのぐうたらな人間だった。休暇をもらって、英国に旅をした間も、H君がすべてフォローしてくれた。もう聴かないからと言って、古いLPレコードなんかをくれたりした。
H君もその職場がきらいで、私と同じように早く転勤することを希望していた。そして、2年ほどで希望どおり別の職場にかわっていった。その時にも私に気をつかってくれて、「先に出ていくことになりました。恨みっこなしですよ」などと言ってくれた。
京都、洛南高校出身のM君にも世話になった。H君と同じように、自分の趣味を大切にし、必要なだけ働き、出世には欲のないタイプだった。苦労して夜学に学び、学生自治のための運動の経験もある人だった。
「こんなところで働くなんて痛ましいことですよ」などと言いながらも、仕事には一生懸命で、宿直の時などはいつも眠らずにがんばっていた。頭は切れるが、物腰がフレンドリーで、やさしくしてくれた。
私は、ささいなことで職場の同僚から密告され、上司から恫喝を受けたことがあった。その時、私をかばってくれたのがM君だった。M君は、その上司に私には何の罪もないと言い返し、そして、密告した同僚を罵倒してくれた。
S君とも気が合った。彼は以前、子どものための施設で働いていたことがあり、そこでかなり辛い目にあったようだった。そして、借金もあるようで、勤務を休みがちだった。そういうことで、上司から「おまえ、辞めてまえ」などと言われていた。批判的精神が旺盛で、日本の現状をとても憂えていた。
S君の奥さんはスリランカ系のタイ人だった。当時、私はタイが大好きだったので、よくタイの話をしたものだった。一度、奥さんとも一緒にタイ料理屋で夕食を食べたことがあった。とても楽しかった。日本語、英語、タイ語混ざっての会話だった。私は、奥さんにスナリー・ラチャシマーのカセットテープを贈った。喜んでくれた。
S君の宿直の日に、その奥さんは女の子を産んだ。日本、タイ、スリランカの血を引く目のぱっちりした子だった。
私はそういう仲間に支えられて、なんとか任務を終え、別の職場へ転勤することができた。
当時は疲れきっており、思想にも宗教にも興味がなかった。しかし、貧しい人を助けなさいということが、多くの宗教の大事な教えになっている。私はそのとおり、義務を果たしたと思っている。