北陸から阪神地方へ 10代の思い出
ぼくは10代のころ北陸の富山と兵庫県の西宮(阪神沿線)で暮らしたんだ。まるで別の国のような思いがした。そのことを語ってみるね。
ひとことで言って天国と地獄だな。
北陸には豊かな日本があったし、阪神地方は抑圧された者の邪念に満ちてたな。まったくぼくの人生の記憶から消し去りたいような10代の孤独の日々。阪神工業地帯での日々にはそんな印象しかない。
北陸富山県の庄川に沿った田園地帯の中の越中大門というまちは、田んぼの中に島が浮かぶような防風林の景色が広がるが、けっこう大きな工場なんかもあった。12月から3月にかけては空が暗い。きっとヨーロッパの冬はこれなんだという実感。雪降る朝には寒さに顔しかめながら、長靴で遠い道を登校したものさ。あの清潔な雪の景色の中で閉ざされていると、ちょっと美的感覚にも影響があるんだな。雪の夜の息を飲むような美しさを知る人はひとつの別の世界を生きたのと同じ。そんな冬が終わって春が来たら、いっせいに花が開いた!少年のぼくははじめて季節というものに身体で触れた。春のはじまりのころ、工場の空き地で見上げた空の色は、まるで空を生まれてはじめて見たように輝いていた。
富山の人々は実直で勤勉。都会的なぜにもうけのセンスではなく、ちまちまと節約しながらため込んでいくというかんじ。多くは子供たちの家は兼業農家だった。とにかく住宅が充実していて、だだっ広い敷地に立派な家をたててゆったり暮らしてた。パチンコ屋の騒音も商店街の芥もとどかない環境。そんな場所で育ってきた子供たちの純朴さは新鮮だった。だいたい子供どうしの会話のなかで、両親のことを『お父さん、お母さん』と呼ぶのは、ちょいとした驚きだった。関西では『おとん、おかん』だもんね。
みんな都会育ちのぼくを反感をもちながら一目置いているという受け入れ方だったな。そのころからぼくは偏屈野郎と言われていたけど、仲のいい友だちも3人くらいいてね。好きな音楽や本のことよく話したりしたものさ。学校ではことあるごとに体罰を加える体育の教師を恐れ、憎んでいた。でもそれ以外の教員は実に見事だった。郡部において教員になる人いうのは、優秀な人材が多いんだろうな。子供たちに接する姿は全般にクールだが、職務に忠実で、教育に対する熱心さに満ちあふれていた。あれやこれやの教材を与え、ひんぱんに模擬テストなどを行い、優秀な成績をあげた子を表彰したり、才能のある子には最大限可能性を与えようとしてた。それに学校の設備はすごかったな。ぴかぴかの体育館には文部大臣の手になる『体 徳 知』という大きな書が仰々しく掲げられていたっけ。いつも反発をおぼえてたけど。
国からたくさんの金をとってこれたんだろうな。地方交付税やら補助金やらなにやらでうまくやってたんだろうな。それに中学生が県民手帳なんて持ってたりする土地がらだ。郷土意識が深く、政治家との結びつきなんかも強く、陳情やなんかも熱心なんだろうな。ぼくにはふるさとなんかないんだ。高度成長の子さ。だから、ふるさとに根付いて生きる連中がうらやましかった。
中学3年生のときそんなまちを出ていったよ。別れ際にね、美術の先生がみんなの前で言ったんだ。
『長年教師をやってきたけど、きみがいちばんの才能だった』
そのたった一言が、今までずっとぼくを支えてきた。先生は、最後のあいさつだからって、そんなふうに言ってくれたのかもしれないけどね。
人間って単純だね。
人生の暗黒時代は中学3年の夏にはじまった。ようするに思春期における環境の激変というものが、最悪のかたちで作用したわけだ。阪神沿線の人たちに憎悪を向けてるわけじゃないけど、阪神工業地帯のこどもたちは、攻撃的で邪念に満ちていた。とげとげしい物腰や声音の隅々にいたるまで、北陸の子供達とはちがっていた。それは特に身体に障害のある子に対して露骨だった。北陸では障害のある子のための特別な学級はなかったが、同じ仲間として日常を共有していた。だが、阪神地方におては、陰険とはこういうことを言うのかと思う程、障害を持つ子に対する攻撃はひどいものだった。
それに学力は低いくせに変に大人びており、素直さが全然なかった。そんななかで自慢じゃないが友だちと呼べるようなやつは一人としていなかった。ぼくは不幸にして『自分は人のためになにができるか』っていうことを学ぶ機会を逸したわけさ。今でも時々、夢を見るんだ。教室に座ってる自分が、卒業のまぎわになって大事な科目をたったひとり履修してなかったことを知って、愕然とする夢を。
子供達に輪をかけてひどかったのは教員だ。その地域の公立高校は総合選抜制度というのを採用しており、ようするに生徒が学校を自分で選べず、一種の行政処分として進学する学校を選定されるというかたちだった。それは工業化の進んだ風土の阪神地方に根付いた、もっとも忌わしい社会主義の影響だな。大体テストの採点さえしないような社会科のやつとかまったく授業をやらない美術のやつとかの存在には、おそれいったよ。きっと教員の労働組合がそういうやつをのさばらせてたんだろうな。ふん、そういえば社会党や教職員組合のビラなんかが教室でまかれてたもんな。
これらの相違は究極的には、都市と郡部の環境によるものだが、我が国の場合は特に、郡部に対して相対的に議席が配分される選挙制度にあると思う。いわゆる一票の価値である。税金をとられるだけとられて、その配分をもらえない都市部には、それに対するやっかみが渦巻いている。住宅事情は最悪。どんなに働いたって、家1件さえ買えない。そこには先進国と呼ぶには見るもおぞましい密集家屋が並んでいた。治安の悪さも、ぼくには恐怖の種だった。家から半径200メートルの範囲内で、4年間の間に、交通事故3件、障害事件2件、放火1件、一家心中1件が発生したっけ。
そして忘れてはならないのが、阪神地方の貧富の差だろう。所得の高い北部の住宅街と南部の工業地帯の格差はあまりにも露骨だ。地理的にその距離はわずかなため、格差がはっきりして見えるんだ。こんな環境では誰しも、素直じゃいられなくなるよ。日々劣等感とフラストレーションにさいなまれるわけだもんね。
環境が違い過ぎたんだ。昔からそんな場所にいたんなら、当然適応できたろうにね。ぼくはあまりにも豊かな世界から抑圧された場所にたたき出されたんだ。
高校2年生の夏。富山に旅行した。今でも涙の出るくらい楽しい思い出だよ。真夏の農道を自転車で山のふもとにある神社へ出かけたり、夜遅くまでモダンジャズのレコードを聴いたり、好きだった女の子の家まで行って高校出たらどうするのか話し合ったり。あの夏だけ友だちがいたんだ。
ぼくは北陸にけっしてとりかえせない何かを置いてきたんだと思う。