人権ってなんのこと


人権は弁護士のめしの種か。

2001年大阪池田の小学校でたくさんの子供達を殺した男は、裁判のはじまった現在、拘置所の中で死刑囚の心境をつづった本(『無知の泪』)などを読んで過ごしているらしいです。読書三昧というところでしょうか。

死んだ子供達の多くの家では、生きてた時と同じ状態で机のうえに教科書や本がそのままに置いてあります。死んでしまった子供達は当然ながら、それらを読むことはできません。あの子たちは、たくさんの本を読むことができたでしょう。ちょと前までなら、ママに絵本を読んでもらってたのが、もう自分で読めるようになってきたところでした。ママもパパも、つい最近まで寝る前は絵本を読んであげてたのが、もう必要なくなって、そのことちょっとさびしくて、ちょっと嬉しかったでしょう。

この対比はどういうことなのか。

なぜ、子供達はなにも読めなくなったのに、あの男は『無知の泪』を読んでいられるのか。

人権というのは『人が生まれながらにもっている権利』と説明されます。

わたしはそんなもの本当はないと思います。

権力をいかにコントロールするかの、長年にわたる知恵としては、民主主義とか、法治主義とか、三権分立とかがあります。それに加えて人権という考え方があります。人権とは、たとえばいまここで暴力団が政権を掌握したような場合、身の安全をはかるためのおまじないのようなものだと思います。ないがしろにしたら罰があたりそうな、ただごとではない、ちょっとどきっとするようなムードを持ったもの。それは、古い時代、『王の権利は神かろ賜ったもの!』というタブーがあったころ、王に挑戦した人々が掲げた旗。それが基本的人権というものだったと思います。王の権威を覆すために作り上げられた、まことしやかなイメージシンボルなんですね。たしかに当時はそれが必要だったのでしょう。

でも、もう古いんだよ!いったい何百年前のことなんですか。憲法、民主主義、法治主義、社会保障制度、医療制度の確立された今の時代において、そんな昔の、精度の低い装置がそのまま使えるのか。それに、個人が自立し、人と人が対立的な社会を背景にした欧米諸国の制度をそのまま東洋のこの国にあてはめるのも無理がある。

あの男が勝手気ままに外をうろつくのが人身の自由だというなら、子供達の人権はどうなるんだ!

この世界には、必ずある一定の確率で、あの男みたいなのが生まれてきます。その現実を直視しないといけない。

人は生まれながら尊厳を持っているなんて、いったい何を根拠にそんなこと言うのか。ぼくにはまったく理解できない。人は生まれながらにではなく、他の人の命を奪わず、人のために生きてはじめて尊厳があるんじゃないのか。だとしたらあの男に人身の自由なるものを与えることは適切ではない。本来保護すべきでないものまで保護し、それによって、何の罪もない子供が犠牲になるのだから。

自動車というものがすべての人に恩恵を与えると同時に、毎日交通事故でたくさんの人が死んでいってる。このとき、事故で死ぬ人は、一種の社会的コストと言えます。でも、それで片付けていいはずない。

実証的な刑事学や精神医療の発達した現在、あの男みたいなのを社会から排除することは不可能ではないはずだ。昔よりも洗練された道具があるのに、それを使おうとせず、亡霊みたいな人権意識がまかり通る。もう観念論はいらないんだよ!

チャンスを与えて、同じことを繰り返すやつは社会から退場してもらうって、あたりまえのルールじゃないか。憲法の前文には人権というものを『不断の努力』によって洗練させろって書いてる。だから、本来保護すべきでないものを保護しても、その不都合を補ってあまりあるんだから、まあ、よしとしようなんて、そんな無責任なことは言えないはずです。

それに、人権、人権というが、国家権力からの自由ということだけが強調されているようです。学生のころ、既に絶滅状態の左翼系学生運動のなかで刑法改『正』反対、保安処分粉砕なんていうことが言われてました。マニアたちの視点はまったく説得力がありませんでした。ごく一部の者たちの警察に引っ張られることをたえず恐れる強迫観念は切実なのだろうが、みんなそんなものとは無縁であり、当然ながらだれもそんな運動なんか見向きもしてなかったことを思い出します。

人権として保護すべきものは、もっとほかにあるんじゃないのか。国の無策がああいうけだものを野放しにしたせいで、子供達を失った家族をみんなで支えることとか、仮にあの種のやつが釈放されたりした場合、あんなのが近所をうろつくのは身の危険を感じるからって、予防措置を国家に請求できる権利。そっちのほうが大事じゃないのかと思います。日常を平和な気分で暮らすことって正真正銘の人権じゃないのか。

インテリさんや新聞の人たちはこんなふうに言うかもね。

『多少の不便はあっても、長い目で見ればしかたないことだ。偶発的な事件を言い訳にして、基本的人権自体を後退させてはならない。』

ぼくは言い返す。

『ああそうかい。それじゃ、てめえの子供をあの種の男のいる学校に通わせな。』

基本的人権というものを認めれば、時にそれが悪い結果をもたらすことがある。ある一定の確率で誰かが犠牲になることがある。犠牲者は、全体のための楯になって死んだことになる。その犠牲はあまりにも大きい。そしていつもぼくたちに語りかけている。その責任はぼく自身も負っていかないといけないのでしょう。

あの子たちはあんなに小さいのに、みんなの楯になってくれたのかな。

あの事件から思い続けてきたことです。