わたしの音楽歴
学校では音楽の時間がありました。リコーダーで曲を吹くのが大の苦手で、楽典のことなどもよくわかりませんでした。とても魅力のない授業でした。あんなくだらないことを無理矢理やらされ、おまけに点数をつけられたら、死ぬまで音楽ぎらいになってしまうかもしれない。
でも、よくしたもので、ぼくらのまわりにはテレビとラジオがあり、ちょっと余裕のある家庭には大きなステレオセットがありました。1970年代には歌謡曲という世界的に通用するエキゾチックなジャンルの音楽が暮らしのなかにあふれていた。今や日本のポップには尾てい骨的に日本情緒を残しているのみだが、歌謡曲には絶妙のバランスで東洋と西洋とが混交していました。いっぽう、男の子向けのテレビアニメーションでは、軍歌と同じような旋律、歌いかたのテーマソングが、高度成長の応援歌のように、ぼくらの心を煽り立てていました。それらこそは、音楽の力にみなぎっていました。
長じるに及んで、御多分にもれず、アングロサクソンのロックに没頭しました。アメリカという国は植民地支配という形をとらず、より効率的に外国を意のままにあやつるようです。かの国の最強の産業はエンターテインメントですが、それは国策によって強化された面があると思う。そんなことは知らなかった。レコードなんかあまり買えないのでいっしょうけんめいラジオを録音して、白人の髪と手足の長いミュージシャンにあこがれてました。当時は音楽雑誌もあまり出てなかった。それでもミュージックライフとか音楽専科などを購読してました。そして渋谷陽一の番組をいつも聞いてました。はじめて買ったレコードはレッド・ツェッペリンのセカンドアルバム。あの時のドキドキした気分は今でも忘れません。
ロックのいいところは、若者が独学で音楽を習得し、自分達で作詞、作曲、編曲、演奏をやってたということですね。
ギターもやりました。親戚がギタリストだったので、最初ちょっと教えてもらい、NHKの『ギターを弾こう』などを見て勉強しました。バンドを組んで、レインボーやディープ・パープルをやっていました。公民館で演奏したり、文化祭に出演したり、オリジナル曲を作ってテレビアサヒのコンテストに参加したりしました。ぼくはその学校のギターヒーローだったのです。
03
お気に入りのレコード
高校生も終わりになって、ニ−ル・ヤングを弾き語りしました。アメリカンロックに興味がありました。そして徹夜でウッドストックの映画などを見に行っては、そういう時代にあこがれていました。
でも、大学生になってみると時代は軟弱なニューミュージックとやらが流行っており、みんなマルクスなど読まず『なんとなくクリスタル』を読み、ゲバ棒振らずテニスラケット振ってた。あまりふだんから音楽を聞いていない人たちがこぞって同じレコードを買っていた。
そういうなかで、ぼくはきみたちとはちがうんだとばかりにUKのロックに惹かれてました。1980年代のロックには力があった。
U2は賛美歌のような歌詞を闘争心に満ちた演奏に乗せた。スミスは「友だちいない、身体弱い、仕事する気ない」などと、それまでのロックでは考えられなかった、心に訴えかける唄を歌いました。モリッシ−は税務署を首になって引きこもりを何年も続けたあげく逆転勝利し、ジョニー・マーはいつもコンサートの前にはステージフライトのため、吐きながらギターを弾いていた。ハード・コア・パンクもよかった。かっこいいコスチュ−ムで身を固め、のたうちまわりながら、反戦・反核を叫んでいた。その他にもたくさんの、特にインディーズ系統のバンドが出てきて、それらのレコードを聴いていました。
そして忘れてはならないのが、大阪生野出身の憂歌団。親しみやすく、それでいて演奏能力が非常に高い。関西のミュージシャンは気取ったところがなくていいですね。
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演奏する大学生の時のわたし
いっぽう、その当時はちょうどジャズ喫茶なるものがまさに絶滅しつつある時代で、河原町のビッグボーイなど、ある日突然カラオケ屋に変わってたりして、世の無情を感じたものです。やたら音数と不協和音の多いその音楽は、距離を感じたがゆえに魅力的でした。就職してからはっこうジャズを聴きました。新宿のなんでしたか、たしか木馬という名前の雰囲気のいいジャズ喫茶に通ったり、有名なピットインというライブの店があって、そこで聴いた演奏が印象に残っています。でも、インストよりも、歌もののほうが親しみやすいですね。音楽の基本はやっぱり歌ですからね。
少ない給料のうちから時代順に名盤と呼ばれるものを買い集めるのも楽しかった。それにしても、ジャズというすばらしい音楽がアメリカ本国よりもヨーロッパで芸術としての高い評価を受けていたというのは、やはり人種差別のもたらした悲劇でしょうか。アメリカでは、わけのわからない連中がわけのわからない音楽をやっとると思われたのでしょうが、ヨーロッパでは人種的偏見から距離を置いて、ほんとうに音楽の値うちを見定めることができたのだと思います。
アメリカの音楽とえば、フォークも好きです。夏の北海道をキングストン・トリオとかピート・シーガーとかを聴きながら旅するのがよかったです。それらは1970年代に日本で流行った陰気くさいフォ−クではなく、もともと布教や労働運動のなかでみんな集まって合唱するためのものでしたから、心を明るく強くかきたてるものでした。そういえば、音楽の生まれた主な場所は教会と売春宿でしたが、いづれも心浮き立つ非日常の場所ということで共通してますよね。キリスト教、特にプロテスタントが栄えたのは、教会でカンタータを聴いたり賛美歌を歌ったりすることができたからです。
昔はよく旅をしました。旅をした国には特別の思いができます。世界にはすばらしい音楽がなんとたくさんあることでしょう!
わたしはインドとタイの音楽が好きでした。日々の暮らしの中でもインドの旅を続けているような気分を味わいたくて、シタールを習いに行きました。勤務してた場所の近くに弘雄介先生のインド音楽教室があって、毎週木曜日には練習しに行きました。楽譜のないインドの古典音楽はぼくの楽譜complexをやわらげました。世界の多くの音楽には楽譜というものがないのですね。先生はラビ・シャンカールので弟子で、カルカッタで修行され、環境音楽の作曲などもされていました。上達しないわたしのような者にも熱心に教えていただいて、ほんとうにすばらしい先生でした。
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スナリーのカセット
タイの音楽、特に演歌調のルークトゥンとかモーラムというものもよかった。スナリー・ラチャシマという歌手に入れこんで、たくさんカセットテープを買い集めたものでした。まさに水のほとりの音楽という風情の、心癒される音楽でした。
当時はちょっとしたワールドミュージックのブームでしたが、その盛り上がりは実に一瞬でしたね。なんですか、クラブとかいう若者たちの夜の遊び場では、アフリカの音楽なんかがよく流れてたらしいが、けっきょくはみんな格好つけてただけなわけだ。そういえば、インドネシアではファッションという言葉は音楽のことを意味するらしい。なんとなく、ぴったりしますね。
やがて公私ともに忙しい時期がやってきて、旅に出ることもかなわず、腹いせに世界各地の音楽のCDを買い集めていた。世界音楽の旅をやっていたのです。タワーレコードや上新にはたくさん品ぞろいがあって、ひまさえあれば通っていました。ラテン、アフリカ、中東、アジア、それと忘れてはならない日本の古い音楽。
そして西洋のクラシックもグレゴリオ聖歌からライヒまで聴いてみました。やっぱりさほど好きになれません。西洋の音楽はバロック以降は、親しみにくいです。でもマーラーはよかった。泣きながら子供のように微笑んでいる音楽ですね。すべての芸術は音楽に嫉妬すると言われますが、心を揺り動かす9番のシンフォニーなどを聴くとほんとうにそう思います。
低俗なものが市場を占有しているのが少し悲しくはなりますけど。ほんと、あの松田聖子なんかのコンサートチケットが1万円以上もするなんて、そんなことだから西欧の人たちにコケにされるのです。
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いろんな音楽を聴きます。好きなピーターバラカン氏のラジオ番組などをまるまる録音しwalkmanで通勤中聴きます。それは満員の4月の通勤電車の苦痛をやわらげてくれる。春は民族音楽、夏はアメリカの音楽、秋はクラシック、寒い冬には60年代のロックでしょうか。最近お気に入りなのは、インド音楽、15世紀16世紀の合唱音楽、バロック音楽、ジャズですね。
人前で演奏する機会も増えています。主にエレクトリックギター1本でオリジナル、クラシック、ラグタイムなどを弾き語りします。でも、チケットノルマというのはきついです。もし、わたしの音楽に興味を持ってくれるならメールでコンタクトください。よろしくお願いします。
音楽はいつでもわたしを支えてくれました。いつも心の中にさまざまな旋律が鳴っています。そして人と人のつながりを与えてくれました。
音楽は心、音楽は力、音楽は人生。
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学園祭で路上演奏する大学生の時のわたし