三足烏と八咫烏
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本稿は高鴨神社の項で少し触れたことに関係します。

以前に奈良国立博物館にて「誕生!中国文明」を見ました。目玉の展示、その他諸々が興味深かったのはもちろんのことすが、目的の内1つは「三足烏」についての何かを展示していないかということでした。

三足烏は「さんそくう」と読み、太陽の中にいる3本足のカラスのことです。記紀神話に登場することで知られる八咫烏(ヤタガラス)ではありません。

八咫烏(または頭八咫烏)の名の意味は「大きなカラス」ということであり「3」に関わる意味はありません。成立時の八咫烏は実は3本足ではなく、その後の時の経過の中で三足烏と混同され、3本足とされたことが非常に強く推測されます。日本の各地で八咫烏が3本足と考えられているのも、混同され変形した姿が定着した例の1つといえそうです。

一般的に3本足といわれている八咫烏ですが、実は八咫烏の初出となる古事記・日本書紀の神武伝承には、八咫烏の足が3本だという記述はどこにもありません(このことは以前に神社系の某巨大サイトの掲示板でかなり勉強させて頂いた記憶があります)。記紀だけでなく、古語拾遺・先代旧事本紀・山城国風土記逸文などにも同様にその記述はありません。

そして、記紀の成立をもって八咫烏の成立と見ることができます。



記紀の中で八咫烏が登場する神武伝承は全く史実とは認められていませんが、仮に史実かもしれないと考える場合でも西暦紀元前後から西暦200年代くらいの期間の出来事かと推測されます。

日本書紀のいい加減な年代記事を無批判に鵜呑みにした場合は、神武伝承は紀元前660年の出来事となりますが、例えば神武帝の即位が西暦〇年、崇神帝の即位が西暦△年と推測できたとしても、〇年や△年に記紀に書かれた史実があったというわけではありません。

重要なことは、記述されていることがいかに古く見えたとしても、古事記は西暦712年、日本書紀は720年、先代旧事本紀ならば西暦800年代前半の成立であり、その時点での古伝承を集めたものだということです。本稿に関連付ければ、記紀に記述される八咫烏の描写は8世紀初頭の知識階級によって理解されていた姿だということになります。

日本書紀の編纂には中国前漢の「淮南子」(えなんじ)や後漢の「魏志倭人伝」が参照されているのは明白と指摘されており、とりわけ「淮南子」には射日神話(後述)が記載されているのですから、日本側の記紀を編纂した知識階級にも古代中国の三足烏のことは把握されていたでしょう。

けれど記紀の八咫烏に3本足の要素は取り入れられませんでした。さらにいえば神武紀には、光り輝くという意味で八咫烏より三足烏に近い「金鵄」が登場しますが、金鵄が3本足とされることもありませんでした。

記紀は文字資料であり、同時代の図像資料としての八咫烏は存在しません。古代天皇の礼服・法隆寺の「玉虫厨子」【Link:Wikipedia画像】などには太陽の中にいる三足烏が描かれます。三足烏は多くのケースが太陽と月の1セットで描かれますが、月とセットになるという要素も八咫烏にはみられないものです。

記紀により八咫烏が成立した時、三足烏と八咫烏は混同されていなかったこと、八咫烏は3本足とは考えられていなかったことが強く推測されます。
●八咫烏神社●
奈良県宇陀市榛原区

古代中国(や古代韓国)に伝わる三足烏の伝承は、記紀成立よりはるかに古い時代のものが見られます。古代中国の伝承で知られるものが、三皇五帝と呼ばれる神話的な王たちの時代のこととされる「十日神話」・「多日神話」あるいは「射日神話」がそれです。

射日神話の舞台は五帝のうち堯(ギョウ)の治世のこととされ、10個の太陽が1個づつ交代で空に上り、その太陽を弓矢で射るという筋書きです。

前漢の「淮南子」に、カラスは3本足と見られる記述がすでに表れますが、「日本人の死生感:吉野裕子著」によれば三皇五帝に続くとされる夏王朝(紀元前2000年頃〜紀元前1600年頃)の時代から、王の礼服に太陽の中にいる三足烏の模様が使われていたとのことなので、古代中国で太陽の中に3本足にカラスがいると考えられ始めた時期は、あるいは文字資料によってさかのぼることができないほどの過去からだったのかもしれません。いずれにせよ中国では、非常に早い段階で太陽の中にいるカラスは3本足だと見られるようになったのでしょう。

この射日神話は、記紀の説話と同様あくまで神話的な王に仮託したという編集方針でしょうが、紀元前2000年をさらにさかのぼる堯の時代を舞台とする出来事が春秋戦国時代(紀元前770年〜221年ごろ)の「山海経」などに記載されているものであることから、年代的には記紀よりはるかに古い伝承であることは間違いありません。

そのほか、前漢の「史記」、後漢の「論衡」の説日など様々な古文献に、太陽の中にいる三足烏や西王母に仕える三足烏の記述がなされています。



奈良国立博物館の展示物の中で三足烏を探すと、漢の時代の壁画「日月図」に、太陽の中にいる黒い鳥(おそらくはカラス)が描かれていました。残念ながらやや不鮮明で足の数までは分かりませんでしたが、紀元前100年頃〜西暦100年頃の物だそうで、夏王朝とまではいきませんが記紀成立の時期に比べても充分すぎるほど古いものです。中国の古代史は次の【Link:中国通史】が参考になります。

三足烏の成立が古代中国のいつの時期であったとしても、三足烏は八咫烏の成立より年代的に確実に古いものです。そして、前述のように「淮南子」等の中国史書が記紀の編纂に際して参照されていることから、日本側の知識階級は三足烏の存在を把握していたことが充分考えられます。

記紀成立の時点で三足烏と八咫烏は、それぞれが関係を持たず双方独立して成立していたことになります。共通項は“カラス”という要素のみで、三足烏は道案内をするわけではなく、八咫烏に太陽や月との関係は説かれません。
【参照:中國哲學書電子化計劃 山海経:大荒東経 サイト内26】
【参照:中國哲學書電子化計劃 淮南子:本経訓 サイト内6】

こうしてみると、八咫烏が3本足だという考え方は、記紀が成立して以降ある程度の時間を経た後世に流布した話なのでしょう。

日本ではいつごろから八咫烏が三足烏と混同されるようになったか? 「熊野八咫烏:山本殖生著」を参照すると、その最古の記録が記紀成立から100年ほど経った9世紀以降だったことが分かります。以下、引用させていただきます。

*******引用始め*******
銅烏鐘の烏は、後述する神武東征の八咫烏(三足烏)と結びついており、『続群書類従』公事部所収の「淳和天皇御即位記」(弘仁十四年四月<八二三>二七日辛亥)に、「立八咫烏日月形」とあるのが初出とされる。(熊野八咫烏 P98:山本殖生著)・・・@

めでたい三足烏が、神武東征の「八咫烏」に比定されたのは、前述した弘仁十四(八二三)年の「淳和天皇御即位記」に次いで、一〇世紀前半に源順が編集した百科全書「和名類聚抄」が早い例である。(同書P122)・・・A
*******引用終り*******



引用文中の2書を、国立国会図書館デジタルコレクションで確認してみましょう。

@【Link:淳和天皇御即位記 147/236】
  右ページ下段右から3行目

 ■立八咫烏日月形・・・

A【Link:和名類聚抄 9/50〜10/50】
  左ページ左端

 ■陽烏
   暦天記云日中有三足烏赤色今
   案文選謂之陽烏日本紀謂之頭
   八咫烏田氏私記云夜太加良須

@は、『(おそらくは三足烏が描かれているであろう)八咫烏の日月形が立てられている』という描写、Aは「陽烏」の説明として、『暦天記に 日中に赤色の三足烏が有ると云う 今思うに 文選でのいわゆる陽烏であり 日本書紀でのいわゆる頭八咫烏であり 田氏私記に云う夜太加良須であろう』という推測となっています。これらが、三足烏と八咫烏が混同される最古の記録とのことです。

ですが、2書共に八咫烏が成立当初より3本足だったということの説明にはなり得ず、現代人が3本足の烏の図像を見て「あれは八咫烏だ」というのと変わらない考え方を示すのみです。これは資料を基にした推理ではなく勘違いを基にした構図であり、古代日本において三足烏と八咫烏の結びつきは強いものではなかったことが推測されます。

寺社の縁起は記紀が基になるケースが多々あります。八咫烏に関して寺社の縁起や民間伝承が組み立てられようとした時、その時代(平安期以降か?)の知識人によって中国の三足烏と記紀の八咫烏が混同して考えられたのでしょう。

その混同、つまり勘違いは現在まで1000年以上も続いているのでしょうから、八咫烏は3本足だということが定着しているものと見なして良いのも知れません。しかしながら繰り返しますが、記紀の神武伝承には八咫烏が3本足という記述は無く、これをもって成立時の八咫烏は3本足ではないということができます。

(成立時の)八咫烏は3本足ではない、これを受け入れることができない人は多いと思います。では、受け入れられない人になぜ八咫烏が3本足だと思うかと問えば、「皆がそう言ってるから!」「昔からそう言われてきたから!」という答えになるのではないでしょうか? それ以外の答えを見いだすことは可能でしょうか? 結局、資料的なものではなく心情的な部分に答えがある問題になってしまっているでしょう。

本稿筆者は八咫烏に思い入れは無く、神道を信仰していないからいえるのですが、こういった神々の成立事情はかなり適当なものに思え、適当であるがゆえになお信仰心を持つ気になれないものがあります。苦笑せざるを得ませんね。



では、いくつか余談的なことをお話して本稿を終わりましょう。


奈良国立博物館の展示から。殷王朝や周王朝の鼎(てい・かなえ)と呼ばれるダイナミックな形の鍋型の青銅器がほとんど3本足なのが印象的でした。【Link:Wikipedia】 容器としての3本足は姿勢を安定させる形態です。なお、鼎には竜や饕餮(とうてつ:中国神話の怪物もしくは神)の装飾がなされていることが多く、鳥類(特に三足烏)と結びつけるのはいささか無理があるようでした。が、3本足のルーツが文献的にさかのぼれないなら、それを立体物に求めるのも面白いような気がします。


もう1つ。現代日本においては、日本サッカー協会のシンボルマークに3本足のカラスのデザインが使われています。が、上記のような話を知ってか知らずか、解説では三足烏と八咫烏の関係が注意深く区別されています。【Link:日本サッカー協会】の、ページの最下段をご参照下さい。文脈中に、そのモチーフに八咫烏ではなく三足烏が使われていることがハッキリと記述されます。


最後に表現について。言葉尻をとらえることになりますが・・・・
■次の言い方は間違いです。
・太陽の中にいる3本足のカラスはヤタガラスだ。

■次の言い方はかなり曖昧となります。
・ヤタガラスは3本足だ。
・3本足のカラスはヤタガラスだ。

■次の言い方なら、冗長ですがマシというものでしょう。
・ヤタガラスは3本足のカラスのうちの一者だ。
・神武帝を道案内したヤタガラスは3本足ではなく、記紀以降、3本足の姿が流布した。





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