千と千尋と遊郭と

●前置きとして●


当サイトへご来訪下さった方は、本稿筆者が古代史・民俗学や日本神話などに興味を持っていることがお分かりかと思います。その関連もありどちらかというと寺社を良く訪れる方かもしれません。

また本稿筆者は、沖浦和光(元桃山学院大学名誉教授)の著書から示唆を受けることも多くあります。沖浦は被差別階層の人たち(いわゆる賎民)の研究を数多く発表されており、それらを参照することで、中世から近世の寺社において、被差別民の範疇に含まれる人たちの活動が寺社やその祭事と密接に関わっていたことが分かります。



一例を挙げれば中世から近世の奈良県内においては、被差別民の多くは興福寺の管理下にありました。その一つ「奈良坂の非人」は、鎌倉期に京都清水寺の管理下にあった「清水坂の非人」と諍いを繰り返したことで知られています。奈良坂に残るのがハンセン病者救済施設「北山十八間戸」です。

歴史を知る上で被差別階層の人たちの動きを知ることが非常に重要だと本稿筆者は考えます。それらについてできるだけ正確な知識を得たいとも思っています。

前置きはここまでにして。

●千と千尋と遊郭と●

神話や民俗的なモチーフを扱うアニメーション作品も多々あるわけで、それらの中で一見、八百万の神々を扱うようにも見える作品、宮崎駿氏の監督になるスタジオジブリの「千と千尋の神隠し」のことを少し考えてみましょう。本稿はこのアニメを観られた方にお届けします。一般には非常に評価の高いアニメですが、これは本稿筆者の好きな作品ではありません。

「千と千尋の神隠し」では、主人公の少女千尋が迷いこんだ異世界には賑やかな街並みがあり、そこに「湯婆婆」と呼ばれる魔女が支配する、大きな楼閣を持つ湯屋「油屋:あぶらや」があります。千尋はその湯屋で働くことになるわけです。この湯屋および賑やかな街並みは、台湾の〇〇という飲食店街をモデルにしたとか、国内の〇〇という旅館をモデルにしたという話も聞かれますが、その雰囲気に妙なモノを感じる方はいませんでしたか?

あの大きな楼閣を持つ湯屋「油屋」や賑やかな街並みは、おそらくは遊郭でしょう。飲食店や風俗店が軒を並べる「花街」とか「色街」・「柳街」と呼ばれる江戸期から明治期あたりの遊郭を含む歓楽街の光景を、アニメの画面上に脚色を含めて再現したのだと思います。夜の間だけ賑やかな街並みということが特徴的です。湯屋「油屋」はその中心になる大規模娼館でしょう。



遊郭の責任者は惣名主(そうなぬし)といい、低い身分でありながらその経済力や配下への支配権限は大きなものでした。湯婆婆は娼館の女主人であり、その持つ財宝は遊郭の惣名主としてのそれでしょう。「油屋」を訪れる神々の姿を、武士や豪商豪農に置き換えてみると雰囲気として納得できるでしょう。吉原などの光景を髣髴とさせます。

そして「油屋」には神々が入浴や休憩に訪れ、それをして湯婆婆は「八百万の神々が来る」という意味の台詞を語るわけです。が、食事して入浴だけで済むとは思えません。当然ながら女遊びも含まれるでしょう。日本の神々が好色だったということは、記紀神話その他諸々の伝承に記述されます。

してみると、千尋の先輩格のリンや、他にも登場する人間形態の女性たちは湯女(ゆな)でしょう。遊女にもランク付けがあり、花魁(おいらん)や太夫(たゆう)が最上位に、湯女は遊女の内でも下位に位置します。千尋はそのような場所で下働きとして雇われたことになるので、それと気づかずに湯女や禿(かむろ:高級遊女の身の回りの雑用をする少女)のような遊女見習いの位置に収まったのかもしれません。

さらに本名の千尋ではなく「千」とだけ呼ばれたのは源氏名の1種と見ることも可能で、千尋があの異世界にとどまれば、いずれは神々と交わる役が待ち受けていたことでしょう。「おまえも早く客を取りな!」、そんな台詞が語られることになるでしょう。
●花魁●
Kumi's Net様サイト内より
Kumi様ご作成のイラスト
使用させて頂いております

作品の世界設定として想像するなら、異世界の歓楽街は、湯婆婆を中心とした魔物たちが人間の花街の光景を再現したものかもしれません。古くからある巫女や白拍子が神の妻で無くなり、能・狂言や歌舞伎などが古典芸能となることで神に奉げる芸能で無くなり、人と神の交わりが無くなった時、湯婆婆は人間の遊郭を再現する形で湯屋「油屋」を作り出したかも知れないと想像します。

湯婆婆がそれを創り出した時期は、江戸期の習俗が無くなり近代化が進み始める明治期以降であることが想像でき、神仏分離に関係するようにも思えます。あくまで想像ですが、人の歴史が魔物の世界にも影響を与えたと読み解くことができます。



アニメの画面に花魁や太夫が描かれないということは、舞台が遊郭であるということを明らかにしないという意図があるのかもしれませんが、上記の私の考えに大きな間違いが無いことは、次のサイトを参照すると良く分かります。

【Link:ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記】

上記と同様の話は都市伝説的に語られることがあります。それは「本当は怖い〇〇〇童話」などと同じように、「千と千尋の神隠しは本当は遊郭の話だった!」というような具合です。ですが都市伝説とまで言わなくても、少し風俗史や民俗学の本を読んだ者なら見当を付けることは簡単です。本稿筆者程度の者でも分かるくらいだし、ネット上にも関連の記述が案外あるものです。
●歌舞伎の隈取●
狐忠信(左):土蜘蛛(中央):弁慶(右)
篆刻素材AOI様サイト内より
イラストを使用させて頂いております

●湯屋●

さて、上記した沖浦和光による「悪所の民俗誌」を読んでいたところ、1つの気付きがありました。それは、「弾左衛門由緒書」に「湯屋」が記載されていたことです。

江戸期に関東一円の被差別民を統轄する権限を与えられたのが、「穢多頭」と呼ばれた浅草弾左衛門です。弾左衛門は固有の名であると同時に、江戸期を通じての世襲の職名でもありました。関八州の被差別民を統轄するだけでなく、全国の被差別民に号令する権限も持っていたそうです。

この弾左衛門が、主に被賎視された職業者を支配するよりどころとしたのが「弾左衛門由緒書」で、そのコピーは近畿圏の被差別部落に現在も伝わっているとのことです。「弾左衛門由緒書」および付属の「頼朝公御証文写」には、弾左衛門に支配される、つまり被差別民の生業と見られる様々な職業が記載されています。

【Link:弾左衛門由緒書】



いくつかを抜粋すると、小説・マンガ・映画にて有名になった陰陽師を始め、猿楽 鋳物師 辻目暗 非人 猿曳 蓑作り 傾城屋鉢叩など、教科書とは違うタイプの歴史の研究書に良く登場する職種が、江戸期の弾左衛門配下でもって被賎視された職種として並びます。

その中にある「傾城屋:けいせいや」が遊郭の公的な呼び名です。吉原をはじめとする大規模遊郭は、そこからの税収(上納金)や風俗取り締まりの利点、遊郭経営者の利害などが一致することから江戸幕府公認の風俗街となりました。そこで活動する花魁や太夫などの高級遊女は明らかな公娼です。

また、「湯屋風呂屋るい、傾城屋の下たるべし」とも記述されます。湯婆婆の湯屋と同じ名称の「湯屋」が被賎視された職業として記載され、なおかつ「湯屋」や「風呂屋」は、傾城屋に比べて娼館としてのランクが下位にあるものとされています。さらに湯女の多くは、遊郭ではなく「湯屋」や「風呂屋」で活動をしており、こちらは私娼です。アニメの千やリンが湯女ならば、このランクに位置することとなります。
●よきかな・・・●

●モノノケは誰か?●

江戸期の花街や色街は風俗街だったといっても、酒食や女遊びのみに特化した場所ではなく、芸能その他の大衆文化を始めとして、庶民のエネルギーが大きく渦巻き様々な文化が発信される場所だったといいます。そこに悲喜交々の人間関係が生まれ、ドラマとして描かれる素地があるのは事実でしょう。なので、風俗街の生活をストーリー化すること自体に問題は無いと思います。

しかしながら、宮崎駿氏はなぜその場所を、子供(千尋)の成長物語の舞台に選んだのでしょうか。子供が観ることの多いアニメの舞台設定として、遊郭もしくは遊郭であることが強く推測できる場所を選んだことは賛否両論あるというところでしょうが・・・



花街に子供がいなかったということは無いでしょうが、花街に少女が送り込まれるケースとは、貧困層などが生活の困窮の結果、少女の身売りをせざるを得なかったケースが多々あるようです。「親の負債のカタに娘が身売りする」ということが想定できるなら千尋のケースに当てはまるかもしれません。そして確かに千尋は精神的な成長をとげます。

様々な人間関係が渦巻き、さらに八百万の神々までもが登場する時代がかった場所を舞台にして現代っ子の成長物語を描いたとしても、ストーリーの背後には成長物語以上のドロドロした裏事情があると推測することが可能です。私的には、子供にその裏事情を説いて聞かせることには賛成できかねます。

別作品「もののけ姫」では、エミシ・タタラ師・ダイダラボッチ・ハンセン病患者をも登場させるところまで宮崎駿氏は描きました。全身に包帯を巻き石火矢の調整をしていた人たちがハンセン病患者だと思われます。なのでその気になれば、被差別民的な視点からの素晴らしい社会的メッセージを作品から世に送り出せたはずなのに、雑誌のインタビュー記事でのダイダラボッチの解釈を見ると宮崎駿氏の不勉強さ、民俗学的な知識のあいまいさが明らかでした。そしてストーリーに取り込まれたダイダラボッチは奇妙な解釈のままとなっています。民俗学や神話伝承関係の説や考え方をあまり研究していない様子が伺えます。この詳細はまた機会を見て。

湯屋という名の施設が娼館だというところまで分かりながら性風俗関係の事象を表に出さないとなると、さらにその奥にある事象(「千と千尋の神隠し」や「もののけ姫」のケースでは被差別民について)にまで宮崎駿氏が視野を広げていたとは考えにくいことです。



湯屋「油屋」を訪れる神々は、無意味な解釈と造形で、結果として馬鹿にされた表現(例:オシラ様が大根オバケにされてはたまりません)になっています。その一方で花街やタタラ場の光景を生き生きと画面に表現しているところなどを見ると、宮崎駿氏にとって風俗や民俗関係のモチーフとは視覚効果のみが大事なのかと思えます。

宮崎駿氏が選ぶモチーフの多くは、その背後に多くの先人の知識・経験や研究の蓄積があるものばかりで、さらにそれぞれがそれぞれの世界やメッセージを持ちます。それを宮崎駿氏が作品に取り込んでいるその解釈は独自であり、宮崎駿氏が自身の作品によって世に送り出そうとしたメッセージにそぐわないモチーフも多く含まれると見ることができます。その結果、民俗設定的に考えるとおかしな解釈を持つ作品になってしまい、作品が発するメッセージ自体も本来ある形から変質したおかしなものになってしまいます。これは特に「もののけ姫」に顕著。

けれども視覚効果やストーリー構成は素晴らしいので、おかしな部分に気づく人は少ないでしょう。宮崎駿氏は民俗関係のモチーフの表面的な部分だけを見事な視覚効果やストーリー構成で作品に取り込んでおり、そして世に送り出した作品は“キレイごと過ぎるのではないか。「千と千尋の神隠し」ならば神々の訪れる娼館を舞台にし、神々と交わる一屋妻を登場させ、その中での少女の成長物語を描いた方が良かったのではないか。でなければ、別形式の作品にすれば良かったのではないか。”と思われます。「千と千尋の神隠し」を始めとする宮崎駿氏の作品が好きになれない理由はそういうところにありました。





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