歓喜天

●聖天さん●

この尊格は一般に聖天さんと呼ばれますが、正確には大聖歓喜自在天、略して歓喜天、もしくは毘那夜迦天といいます

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奈良県内では、真言律宗大本山宝山寺で祀られている歓喜天が有名で、生駒聖天というように呼称されています。他には京都府の山崎聖天も知名度が高いのですが、いずれも寺院の主尊というわけではなく、鎮守神としての歓喜天が有名になり寺院の呼称にまで昇華されたケースです。歓喜天は現世利益を司る尊格であり、ご利益を求めて歓喜天を参詣する人が多いため寺院の呼称にまでなったといえましょう。

絶ち物をして歓喜天を拝むケースも多く見られ、それだけご利益が強いといえます。が、絶ち物による祈願は尊格に対し取引を求めている要素も含まれ、歓喜天を信仰する聖天行者からは歓迎されない様子です。歓喜天の祭祀には非常な厳格さが求められるのは、強力な現世利益がもたらされるとともに祭祀に不手際があった場合の神罰も大きいことから、中途半端に拝むくらいなら拝まぬ方が良いといわれており、そのあたりに歓迎されない理由があるかもしれません。



歓喜天像は多くの寺院で秘仏とされていて一般の参詣者が見られることは少なくなっています。その像は象頭人身で、単身像の場合と双身像の場合があります。単身像ももちろん信仰されており、金剛界・胎蔵界、両曼荼羅の周縁部にも仏法守護の神として描かれていますが、どちらかというと単身像の信仰は少数派であるとのこと。

双身像は、象頭の2神が向かい合って抱き合った姿をしており双身歓喜天と呼ばれます。歓喜天といえば象頭の双身抱擁像をさすケースが多いように見受けられるのは、その形態が大きな特徴となっているからでしょう。双身抱擁像は一方が男神、相手方の足を踏んでいるもう一方が女神です。このことから現世利益だけでなく夫婦和合の信仰も持たれることが多くなっています。

●ガネーシャ●

歓喜天は、インドのガネーシャ神が仏教に取り入れられた神格といわれており、歓喜天真言もガネーシャのサンスクリット語のマントラが基になっています。歓喜天真言は「おん・きりく・ぎゃく・うん・そわか」というように唱えれられていますが、これの基になるガネーシャのサンスクリット語のマントラをできるだけ元の音に近いカタカナ表記で表せば「オーム・フリーヒ・ガハ・フム・スヴァーハー」となります。

ガネーシャは象頭に豊満な人身を持ち、時に片方の牙が折れた形で現されています。ガネーシャが象頭であることについては、概略として次のような神話が伝わります。

シヴァ神の神妃パールバティは、入浴をシヴァに邪魔に邪魔されることが多いため、自身の垢などを集めてガネーシャを作り出し、誰にも入浴を邪魔させないように命じて浴場へ向かいました。少し後シヴァが表れ、ガネーシャと通せ遠さぬの問答になりあげく戦いが始まりました。戦いの末にシヴァがガネーシャの首をはね、ようやく戦いの決着がつきましたが、そこへパールバティが表れことの次第を知り嘆き悲しみました。シヴァはパールバティを慰めるため、配下の者を派遣し、最初に出会った者の首を取ってくるよう命じました。そうして象の首が届けられ、それによりガネーシャは復活を果たしました。その後、ガネーシャはシヴァの眷族を率いる役に就きました。ガネーシャの別名ガナバティとは、「軍を統率する者」の意味があります。



以上は神話の骨格的な話で、他に様々なバリエーションが伝わります。象の首をとってきたのは配下ではなくシヴァ神自身であったとか、シヴァと対峙したガネーシャは強く、単身では勝てないと見たシヴァはヒンズーの主神の1神ヴィシュヌの力を借りてようやくガネーシャを倒したとか。

趣きの違ったバリエーションもあります。シヴァとパールバティ、ガネーシャの家族を様々な神が慰問に訪れたとき、ある神は顔を伏せたままで上げようとしませんでした。その神は、自身の顔を見た物を破壊してしまう力を持つ神でした。が、パールバティは気にせず顔を上げるように言いました。すると、その神の顔を見たガネーシャの頭が破壊され、パールバティは嘆き悲しみ、そしてシヴァが象の頭を取りに行くことになったと。

このようにガネーシャが象の頭を持つようになるいきさつは何通りにも伝えられており、また牙が折れている理由もネズミや月・大根と関連付けられて様々です。おそらくは古代の信仰の中でガネーシャが象の頭を持つ正確な理由が信仰者の記憶から失われ、後付けのようにその事情が神話として考え出されたのではないかと思います。

●ビナヤカ●

歓喜天の前身がガネーシャといわれているといっても、ガネーシャの神話からは像の頭を持つ神である事情のみの説明がなされ、2神が向かい合う双身歓喜天についての説明はなされていないことが分かります。

歓喜天が双身であることはビナヤカ神の神話が参照できます。歓喜天の別名である毘那夜迦天の基になる鬼王ビナヤカの神話が次に挙げるものです。

古代のインドに、摩羅醯羅列王(マラケラレツ王)という強欲な王がいました。マラケラレツ王は大根と牛を好んで食べ、国中の牛を食べつくすと今度は死者の肉を食べ、次には生きた人間を殺して食べるようになり、ついに鬼王ビナヤカへと化身し眷族を率いて飛び去りました。その後、国中はビナヤカの祟りで荒れすさんでいきました。



困り果てた群臣や人々は十一面観音に救いを求め、それを聞き入れた十一面観音菩薩はビナヤカ女神に化身して鬼王ビナヤカの前に現れました。その姿を見た鬼王ビナヤカはビナヤカ女神をどうしても抱きたくなりました。そこで、ビナヤカ女神は「仏法守護を誓うなら鬼王に抱かれよう」との条件を出し、鬼王ビナヤカはその条件を承諾することでビナヤカ女神を抱き大きな歓喜を得ました。このことから仏法の守護神「歓喜天」と呼ばれるようになりました。鬼王ビナヤカは、改心したわけではなく約束事によって仏法を守る神となったと読み取ることができます。

この神話には象の頭を持つ神は登場しません。おそらくはチベットなどで信仰されている歓喜仏【Link:歓喜仏画像検索】に関連する神話を基にしていることでしょう。そして上記したように、相手方の足を踏んでいる方が、十一面観音菩薩が化身したビナヤカ女神とされています。
岩船寺では神社形式で歓喜天が祭祀されています●

●大聖歓喜自在天●

歓喜天から十一面観音が離れた状態を想定し単身として見たときのビナヤカは、ガネーシャとは全く違った性格の神だと考えることができます。しかしながら歓喜天について、その真言や象頭である姿はガネーシャの神話に由来し、毘那夜迦天という別名や双身抱擁像であることはビナヤカの神話に由来すると見られます。

また、インドにおけるガネーシャの扱いを見るなら、ヒンズー教の主となる3神、ブラフマー・ビシュヌ・シヴァに加えてガネーシャを第4の主神として祭祀する地域もあるとのこと。それ程にガネーシャは人気と信仰を集める神で、そこに鬼王ビナヤカの姿は見られません。



こうして見ると歓喜天は、流布されているようなガネーシャが単純に仏教に取り入れられたという解釈だけでは納得し難いものかあります。ですが、歓喜天の神格の複雑さを理解しようと思えば、サンスクリット語の資料を当たったり、仏教が日本へ伝わる過程での歓喜天の形成の事情を辿らなければならないでしょう。残念ながら本稿筆者にその能力はありません。

日本神話のスサノオやオオクニヌシは様々な神格を統一して成立したといわれていますが、歓喜天という尊格はスサノオやオオクニヌシ以上の非常に複雑な成立事情があっだろうことを推測して、本稿を留め置くことにしましょう。





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