聖神社

大阪府和泉市王子町

祭 神

聖 神


●ひじり●

聖神社は信太明神とも呼ばれます。当社の創建は675年(白鳳3年)、天武天皇の勅願により信太首(しのだのおびと)が聖神を祀ったことが始まりとされています。信太首は百済に出自を持つ渡来系氏族と考えられています。

熊野詣でが盛んだった時期には、当社近辺には熊野九十九王子の篠田王子が建てられていました。当社社地は熊野街道あるいは小栗街道と呼ばれた古道に近接します。

現在の社殿は、豊臣秀頼が片桐且元(片桐且元の関連事項は小泉神社へ)に命じて建てさせたもので、その重厚な本殿や末社社殿2棟は国指定の重要文化財となっています。

祭神の聖神(ひじりのかみ)は、記紀の神統譜の中でスサノオの子の大年神と伊怒姫の間に生まれた子神とされ、大和の地主神である大和大国魂神と兄弟神ということができます。



ここでまず大年神についていうなら、この神は穀霊神としての属性を持つと考えられることが多々あります。さらに稲作が1年という時間的スパンの中で執り行われる作業であること、大歳神と表記されることもあることなどから、大年神に時間的なサイクルを司る属性が見られてもおかしくはありません。

次に聖神について。聖は「日知り」を表したもので、その属性は暦の神と考えられています。この神が、神話の上で大年神の子として設定されたのは、まず納得のいくところです。

日を知り暦を司り、日月星辰の動きを知ろうとする職種は平安期以降「陰陽師」とされています。聖神は陰陽師に関係の深い神ということができるでしょう。

●信太妻●

さて、神社紹介の当ページとしては、当社聖神社の祭神のことや当社の創建に関わる信太首のことを考えるべきかもしれません。ですが、以降の本稿はあえて安倍晴明に関する方向へ話を進めて行こうと思います。当社の祭神「聖神」から始まり、日知り→陰陽師→信太妻→異類婚姻譚→賤民・被差別民→安倍晴明という流れになります。こういった流れを見ることで、当社に限らず歴史の中で神社に備わってきたある1面を知ることができるのではないかと考えます。

当社およびその一帯には、平安期の陰陽師安倍晴明の出生に絡む「信太妻」という説話が伝わっています。晴明の出生伝説は各地に散らばっているので“当地にもある”と表現する方が適切かもしれませんが。

かつて当社を中心に現在以上の広大な森が広がっており、その森は「信太の森」と呼ばれました。「信太妻」は信太の森が舞台となります。「信太妻」は、説教節や人形浄瑠璃・歌舞伎など様々な芸能の中で体裁が整えられてきたもので、もちろん史実ではなく登場人物も実在ではありません。そのあらすじは次のような内容となります。

安部保名(あべのやすな)が、ある祈願のために信太明神(聖神社)を訪れ、信太の森で狩人に追われていた白狐を助けることになりました。保名を見初めた白狐は「葛の葉」と名乗る女性に化け、保名のもとに嫁ぎました。やがて1人の子が生まれ童子丸と名付けられました。童子丸が5歳になるころ、葛の葉は事情からやむなく童子丸に自身が狐であることを明かしました。そして葛の葉狐は一首の歌を残し、童子丸をおいて信太の森へと帰っていきました。森へ帰る葛の葉狐が残した歌が次のものとされています。

「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

幼名を童子丸と名付けられたその子こそが稀代の陰陽師安倍晴明とされています。



追われる狐がネズミに化けて逃げ降りた道がネズミ坂と呼ばれ、当社境内地から外へ通じる道にその名が残ります(道は残るものの現在は通行不能)。また、ネズミ坂のそばにある池が鏡池と呼ばれ、葛の葉狐が人に化けるため自分の姿を写した池だとの伝承があります。

正確なところは未確認ですが、安倍晴明と関係なく葛の葉狐と童子丸の話が伝わるケース、また、葛の葉狐も童子丸も登場せず、安倍晴明が狐を母とし「化生の者」と呼ばれるケースもあるなど、説話には何通りかのバリエーションが見られます。

異類婚姻譚と呼ばれる、天女や様々な動物と人間が結婚して、ある種の超人的な人間が生まれるという一連の伝承が各地に伝わります。記紀に書かれる三輪の蛇神やトヨタマヒメの説話がそれにあたり、上記の安倍晴明の「信太妻」も異類婚姻譚の1つです。

「信太妻」の説話は「狐女房」と呼ばれる説話の範疇に含まれます。日本霊異記に記述のある「狐女房」の説話は次のサイトで分かりやすく現代語約されているのでご参照下さい。「信太妻」と似たパターンの説話であることが分かります。

【Link:第一節「狐女房」伝説】

「信太妻」は、このような異類婚姻譚「狐女房」説話と、平安期の官人陰陽師安倍晴明の伝記という、本来別々に存在していた話がある時期に結び付いて成立したものと考えられています。成立は鎌倉期かと推測されています。
●背後の森が聖神社社叢「信太の森」●

●陰陽師●

本稿の記述は、沖浦和光の一連の著作や「安倍晴明伝説:諏訪春雄著」、「安倍晴明の虚像と実像:大阪人権博物館発行」、「しのだ妻の世界:和泉市立人権文化センター発行」その他諸資料を参考にしています。それらは、次のような方向性を世に問うた内容となっています。

寺社の運営や祭礼に、いわゆる賤民・被差別民とされる人たちが大きな役割を担っていたことが研究されており、往時は現在をはるかにしのぐ存在感を示していたであろう当社聖神社にあってもそれは例外ではありません。

当社近くにあった今でいう被差別部落「南王子村」は、日本でも最大級の規模を持つえた村で、その由緒は鎌倉期にさかのぼる古い村です。多くの被差別部落は、本村がありそれに付随する枝村という位置づけでしたが、南王子村は一村独立の自治を認められた村でした。

南王子村内に祭礼を執り行う神社は無く、当社聖神社の弓射神事(革祭りと呼ばれる)の的の奉納・奉納角力の土俵造り・神輿の通り道の清掃など、当社の祭礼に南王子村の人たちが深く関わっていました。ところがそこまで深い関わりを持ちながら南王子村は当社の氏子とは認められず、祭礼本番への参加が認められることも無かったそうです。これは江戸期あたりの時代的な被賤視観の表れなのでしょう。



南王子村や後述する舞村には陰陽師が出入りし居住していました。この場合の陰陽師は民間陰陽師であり、官人陰陽師と違って賤民の身分となります。彼らの扱う暦は「信太暦」・「和泉暦」として知られ、彼らは他にも祈祷札などを売り歩きながら庶民の生活に深く関わっていました。

そして彼ら民間陰陽師は、安倍晴明の後裔である京都の土御門家の統制下に置かれていました。民間陰陽師の地域的な筆頭である「触れ頭」という者を通じて土御門家から許状を下賜されることで陰陽師としての活動が許されました。南王子村には土御門家から発された文書が残っているとのことです。

寺社に舞などの芸能を奉納する人たち(やはり賎民身分)が住まいする場所は舞村と呼ばれることもあり、南王子村近くに舞村が存在していたことも知られています。このように当社には多くの賤民・被差別身分の人たちが関わっていました。繰り返す意味になりますが、寺社に被差別民が関わっていたのは珍しいことではありません。

●安倍晴明●

夫婦の一方が低い身分であったことを隠して結婚し、後にその身分が明かされたことから結婚生活が破綻する、このような結婚差別の話はいつの時代の出来事としても見られます。「信太妻」は結婚差別の1つの形と見ることも可能です。つまり、貴族の男性の元へ賤民出身の女性が身分を隠して嫁いだ話だと。とはいえ、これも繰り返しますが「信太妻」が史実だということではありません。

一方で、折口信夫は「信太妻の話」の中で、「信太妻」と賤民・被差別民とを結び付けることに懐疑的な記述をされています。ですが安倍晴明の母が狐だという伝承は、土御門家など官人陰陽師といわれる人たちが伝えたものではないとのことです。

【Link:青空文庫「信太妻の話」から(4段目の終盤にて)】

ならば、当社に関わる南王子村などの賤民身分の人たちが、安倍晴明の伝記と「狐女房」の説話を結び付け「信太妻」を作り上げたのか? 残念ながらそこまで解き明かした研究は未見です。

しかしながら、おそらくは民間陰陽師が「信太妻」に親近感を持ち心理的な結び付きを求めたことの表れなのでしょう、結び付いた後の「信太妻」を流布したのは民間陰陽師であった可能性が高いことが、上記参考資料以外にも複数の研究者・研究機関から指摘されています。



安倍晴明には人間離れした出生譚があり様々な超人伝説がつきまといます。これらは、民間陰陽師が自分たちの始祖を超人化することで、自分たちの生業の地位の向上に利用しようとした意思の表れなのでしょう。21世紀の現在であっても、託占技術をもって他者の運勢を見立てる人たちが超人晴明像を利用するケースが見られます。

その発祥は異類婚姻譚という古代にさかのぼる時代の説話であったとしても、中世以降にそれを咀嚼し伝承してきたのは被賎視された人たちであったと。この蓋然性は高いでしょう。

また、安倍晴明の出生伝説が各地にあるというのは、そこに民間陰陽師の足跡があるからなのでしょう。兵庫県西部、播磨地方にはやはり民間陰陽師が多く、安倍晴明のライバルだった蘆屋道満の伝承が残ることも似たケースだといえるかもしれません。
●聖神社本殿●

和泉市立人権文化センター発行「しのだ妻の世界」に所収の沖浦和光の論文から少し引用します。

*******引用始め*******
 ただし、少し先回りして言っておくと、次の二つの視座からアプローチすることだけは避けねばならない。そういう接近法では、陰陽道の本質はもちろんのこと、民衆社会で陰陽師の担った宗教的な役割をとらえることはできない。一つは、今日のデジタル思考で代表される近代合理主義の論理でもって、陰陽道本来の呪術性を一刀両断にすることである。もう一つは、珍奇なオカルト現象として、興味本位で陰陽道の秘儀を読み解くことである。

 陰陽師と渡来文化 −安倍晴明伝の虚と実・|:沖浦和光著

*******引用終り*******



この沖浦和光の言葉は、陰陽道に根差す民俗的な習俗や慣習を現代の合理的な解釈でもって「迷信だ」と否定しきってしまわず、さりとてスピリチュアル系の研究者のように「あるがままに感じよ」などと盲目的に信じることをも戒め、それらが生活の中でどう生かされてきたかを注視するべきと読み取れます。本稿筆者も肝に命じることかと思っています。

そして、安倍晴明の超人伝説はあくまで伝説であり、その実像は超人ではありませんでした。しかしながら安倍晴明超人伝説を必要とし、それを流布した人たちは確かに存在しました。その多くは寺社に隷属する形を取り、今に被差別部落として残るケースも多い様子です。

寺社がパワースポットと呼ばれ「歴史」や「宗教」とは違った何かが求られるようになってきているとはいっても、現在に至る歴史の中で当社聖神社を取り巻いていたような人間同士の関係が、こと中世から近世にかけて多くの寺社の周囲に存在していたことは疑う余地がありません。そのようなことについて、今後もできるだけのことをを知って行きたいと思っています。


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