平井神社

京都府城陽市平川東垣外

祭 神

神速須佐之男命
八十猛命
竒稲田比売命


社殿は近年建て替えられた様子で、気持ちの良い境内となっています。この地域では数少ない宮座が残っているのが当社の特徴だそうです。

鳥居に刻まれた銘が江戸期の牛頭天王信仰を示すことから、その鳥居は府の文化財に登録されています。ここから分かる通り当社も牛頭天王社でした。



祭神は神須佐之男命・八十猛命・竒稲田比売命とされています。どういういきさつで祀られたかは分かりませんが、祭神に「ヤソタケル」が含まれているのも特徴の1つです。このことが実に興味深く、また、惹きつけられるものでもあります。
●祭神●

なぜ「ヤソタケル」なのか。

江戸期の牛頭天王社は、その多くが明治の神仏分離のとき、日本神話のスサノオを祀る神社に変更させられました。当社も同様だったのでしょう。

元々牛頭天王社では、牛頭天王を中心にその妻頗梨采女(はりさいじょ)、および牛頭天王と頗梨采女の子神である八王子神(総光天王や蛇毒気神などの8神)が祀られるケースが多くありました。単神を祀るか、夫婦神あるいは八王子神を組み合わせて祀るかはケースバイケースだったと考えられます。

牛頭天王社がスサノオを祀る神社に変更されたとき、祭神の変更にはあるパターンがありました。多くの場合、牛頭天王はスサノオに、頗梨采女はクシイナダヒメに変更されるというものです。

八王子神の変更はさらに数パターンに分かれました。スサノオの子神である八柱御子神、スサノオとアマテラスの誓約で生まれた五男三女神、宮中の八神殿にて天皇守護のため祀られた宮中八神がこのパターンの中に知られています。内訳については次のページをご参照下さい。

【Link:八神】



八王子神の変更の形のうち八柱御子神は、その筆頭を五十猛神(イソタケルではなくイタケル神と読みます)とします。イタケル神はスサノオとイナダヒメの間の子ではないもののスサノオの子神の1柱です。

神武東征説話に登場するヤソタケルが神社の祭神にされることは非常に考えにくいことや、平井神社が奈良盆地にあるのではなく京都府南部(山背国)に位置する神社であることなどから、当社祭神の「八十猛命」は本来「五十猛神」とするべきところ、何らかの事情で「八十猛命」とされた可能性を考える必要があるかも知れません。

このことは「神奈備にようこそ」様がまずお気づきであり、当社祭神の“八十猛神については、他の祭神から五十猛神”とお考えです。

【Link:神奈備にようこそ−平井神社】
●本殿●

では「ヤソタケル」ならばどうなのか、これを少し考えます。

神社という施設にその名がある以上、当社にて神速須佐之男命・竒稲田比売命と共に八十猛命への祭祀がなされているのは間違い無いでしょう。当社祭神の「八十猛命」は、本稿筆者としてはあえて字面通りヤソタケルであると解釈することにします。「なぜヤソタケルなのか」という当初の疑問に対しては、「なぜならそこにそう書かれているから」という答えが用意できます。

ヤソタケルの素性を考えてみましょう。

“ヤソ”は多いという意味、“タケル”は強いという意味であることから、ヤソタケルは一般的に戦士集団といった解釈がなされています。ヤソタケルは、古事記・日本書紀の神武条に登場する神武侵入以前のヤマト土着の勢力で、記紀には何組かのヤソタケルが登場します。次のようになります。

 忍坂の土蜘蛛八十健(記)
 国見岳の八十梟帥(紀)
 磯城邑の磯城の八十梟帥(紀)
 葛城邑の赤銅の八十梟帥(紀)

景行紀にも「熊襲の八十梟師」という記述があり、やはり熊襲の戦士集団であると考えられます。それは大王勢力に対抗した戦士たち、侵入者に対抗した戦士たちでしょう。

記紀の記述を立場を変えて考えれば、先住者の勢力圏に武力を持って押し入るのは歓迎されざる侵入者のなす事です。だからこそ先住勢力側は、ヤソタケルという戦士集団を結集して侵略に立ち向かったのでしょう。



立場を変えて考えることが必要なのは、伝承の中に残る桃太郎(吉備津彦)と鬼(温羅王:ウラオウ)との関係や、出雲梟雄(イズモタケル)のケース・飛騨の両面宿儺のケースなどいくらでも例をあげることができます。古代東北史に史実として繰り返された、エミシに対する征夷軍事行動なども同様です。

そして、神武侵入時の奈良盆地の先住勢力のことを日本書紀の神武歌謡の中では、「えみしをひたりももなひと・・・」のように“エミシ”と呼んでいます。ヤソタケルはエミシの戦士集団だったと考えることもできます

スサノオ・クシイナダヒメについては、高天原と対立関係にあった出雲神族の祖神と見ることができ、出雲と高天原の間に「出雲の国譲り」があったことは良く知られています。一方、ヤソタケルが活躍した「神武東征」は第2次の国譲りと考えて良いでしょう。

当社の祭神はいわゆる「まつろわぬ者」を象徴するかのような神格であり、かれらに対する鎮魂・慰霊や顕彰の祭祀を、当社平井神社がなしていると、本稿筆者はそのように解釈することにします。

はっきり言うならば、神武やその他の大王に立ち向かった勢力、つまりヤソタケルを率いたエシキやトミノナガスネヒコ、エミシのアヤカスやアテルイに、本稿筆者には非常に惹きつけられるものがあります。この心情から来る解釈でもあります。

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