素盞鳴神社

奈良県天理市新泉町

祭 神

素盞嗚命


大和神社本殿のすぐ南わずか100mほどに位置し、大和神社の境内社のようにも見えます。歴史をたどると、元境内社であった神社が独立したことが分かります。

そのあたりの様子も含めて、神話伝承とは違った興味深い話をいくつかお伝えすることにしましょう。



画像に見られる当社素盞鳴神社社殿の上には、数体の藁細工が乗せられています。

ジャ(ムカデ)・ウマ・ウシの藁細工、スキ(鋤)・マンガ(馬鍬)・ハシゴの模型農具が、毎年5月3日の「一本木のオンダ」もしくは「子供頭屋」と呼ばれる祭りで当社に奉納されます。画像に見られるものはそれらの一部です。

一本木のオンダは「野神祭り」と呼ばれる農耕儀礼の範疇に含まれる祭事です。主な野神祭りは江戸期の発祥と考えられており(蛇:吉野裕子著)、奈良県内の野神祭りは一括して文化庁の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定されています。

【Link:大和の野神行事】

奈良県内の野神祭りには特徴的な要素がいくつか見られます。

奈良盆地北部(奈良県北部という意味ではありません)の野神祭りは牛に関する要素が強く、かつては「野神の木」に牛を連れて行き参拝させたとのことです。牛が労働力として農業に深く関わっていたため、牛を主役とする農耕儀礼が生まれてきたかと推測できます。が、近年では牛を飼う家もなくなり単に野神の木にお参りに行くなどの習慣のみが残るケースが出てきています。

「一本木」は古い地名だとのことですが、あるいはそう呼ばれる野神の木があったのかもしれません。



奈良盆地中南部(これも奈良県中南部という意味ではありませんが、厳密な境界や区別も存在しません)の野神祭りは大きな蛇の藁細工を作ることが特徴で、蛇や人が大暴れする、子供が関わるなど、いくつかの共通する要素があります。「大暴れ」という要素も、大人や子供が田圃で泥だらけになって相撲を取る、大きな蛇の藁細工を激しく動かすなど何通りかのパターンが見られます。

当社の一本木のオンダに藁細工にジャやウシが含まれることを考えると、盆地北部の野神祭りと中南部のそれとの間に明確な線引きはできないと思われます。

祭事の中で社殿の前にスモンバ(相撲場)と呼ばれる小さな土俵が作られますが、子供が多かった時期には子供相撲が行われていたとのことです。一本木のオンダが「子供頭屋」の別名を持つのはこのためなのでしょう。

地図右上の[ ]をクリックすると「大和神社 四至の固め」が大きく開きます

少し視点を変えます。「日本の神々4大和」によれば、かつて大和神社の神域は八町四方(約800m四方)もある広大なものだったとのことで、その四方に四至の固めとなる4つの神社がありました。それらを挙げてみます。大和神社の項目も御参照下さい。


艮の固め:北東の稲荷神社(佐保庄)
現在の佐保庄町の素盞嗚神社に合祀されたとのことです。

巽の固め:南東の八王子神社(成願寺)
成願寺町の素盞嗚神社として唯一現存しています。

坤の固め:西南の素盞嗚神社(新泉)
本稿の当社に当たります。

乾の固め:北西の弁才天社(福智堂)
残念ながら福智堂町にその痕跡はありません


これらの4社が本来の位置にあったなら大和神社の過去の神域が推定できたのですが、現存しているのは1社のみです。そして、かつて西南の固めだった素盞嗚神社が、本稿の当社素盞嗚神社に当たります。



これより以下は「大阪奈良戦争遺跡歴史ガイドマップ2:機関紙出版」を参考にします。

もともとは現在地より数百メートル西南にあった当社は、太平洋戦争中の1944年9月、「大和海軍航空隊大和基地」通称柳本飛行場の建設に伴い現在地に移転させられました。柳本飛行場では、特攻機の訓練が行われていたとのことです。

21世紀の現在、柳本飛行場の遺構はそれほど多く残りません。滑走路跡はアスファルトが敷かれて道路となっており、周囲の田の中には小円墳のように掩体壕(格納庫)跡なども残りますが、意識して見ないとそれと判別はつきません。

大和神社を囲む方形の西南端にあった当社旧社地については資料からその位置を推測するのみですが、上記の遺構の残る柳本飛行場の敷地内となっていた様子です。また、当社以外にも複数の寺社や墓地などが強制的に移転させられました。

当社旧社地と現社地の位置関係そのものが戦争の記憶の一つということができますが、残念ながらこの地に海軍の飛行場があったことは多くの人の知るところではないでしょう。掩体壕跡などわずかに残る物だけが、戦争の記憶の一端をを伝える物となっています。
●飛行場と神社の位置関係●
●滑走路跡は道路となっています●
●「大和海軍航空隊大和基地」の案内板は2014年に撤去されました●

当社社殿は、普通の神社建築とはいささか趣が違うように見受けられます。これは朝和国民学校(現朝和小学校)の「奉安殿」を、戦後に社殿として転用したものです。

奉安殿とは戦前の小学校などに建てられた、天皇・皇后の写真や教育勅語を安置する独立形式の建物で、火事その他の被害を免れるため頑丈な造りになっていました。子供たちへの天皇制教育が奉安殿設置の一つの目的でしたが、その多くは戦後になって撤去されました。中には当社のケースのように何らかの形で残っているものもあります。これも戦争の記憶の一つ。



古代史上重要な存在である大和神社の神域規模を示す位置関係、そして江戸期に発祥を見る農耕儀礼「野神祭り」、さらに複数の太平洋戦争の記憶、当社にはそれらが複合して残されており、そのどれもが次の時代に伝えられてしかるべきものだと思います。

地図右上の[ ]をクリックすると「杵築神社・スサノオ系神社:奈良」が大きく開きます





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