大和神社

奈良県天理市新泉町

祭 神

日本大国魂大神(中央)
八千戈大神(左殿:向右)
御年大神(右殿:向左)


「おおやまとじんじゃ」と読みます。延喜式神名帳に記載される名神大社であり、国津神の大御所を祀る神社です。

本殿3棟のうち中央に祀られているのが主祭神「日本大国魂(ヤマトオオクニタマ)大神」で、「大和大国魂大神」とも「倭大国魂大神」とも表記されますが、読みはどれも同じく「やまとおおくにたまのおおかみ」となります。本稿では便宜的に「大和大国魂大神」と表記します。「国魂神」とはその土地の神霊を表す名であり、ならば大和大国魂大神とは大和国そのものを表す巨大な神格となります。

日本書紀一書に、大国主神(オオナムジ神)の別名として大物主神・大国魂神の名が記載されており、後者の神が大和大国魂大神と同一神であると一般的には考えられています。

大倭神社注進状では、現在の大神神社摂社である狭井神社は、かつては大和神社の別宮であったとされています。同注進状ではこれに関連付けてか、大和大国魂大神はオオナムジ神の荒魂としています。そして狭井神社の祭神は大神荒魂神です。さらに三輪山のオオモノヌシ神はオオナムジ神の別名と前述したとおりです。

以上のことから、大和大国魂大神≒大神荒魂神≒オオモノヌシ神の荒魂≒オオナムジ神の荒魂、という近似等式のような関係が導き出されます。大和大国魂大神が、オオモノヌシ神と同神とも考えられることがあるのはこのあたりに由来があるのかもしれません。



現在の左殿(向右)の祭神八千矛神は大国主神の別名、右殿(向左)の祭神御年神は大年神の子であり、オオトシ神はスサノオの子となります。祭神3神のうち大和大国魂大神以外の2神の名は、過去、何通りかの変遷があったことが諸資料に伝わりますが、ともあれ出雲系統の神々が多く祭祀されてきました。古事記にはオオナムジ神がスセリヒメとの関係の中で倭へ向かう説話があり、ここに大和と出雲の地域的な繋がりが示唆されます。

大和神社の境外末社大和若宮神社が天理市中山町にあり、以前は祭神が伊怒姫(イヌヒメ)命とされていました。古事記にある伊怒姫命とオオトシ神が結婚して生まれた「大国御魂神」の名は、大和大国魂大神に極めて近い神名と見ることができます。これを補完するかのような記述が先代旧事本紀にあり、このことは後述します。

大和大国魂大神とは、オオナムジ神の荒魂でありオオモノヌシ神の荒魂でもあります。もしくはスサノオの孫大国御魂神と同一神ともされます。大和大国魂大神を取り巻いて名の上がるオオナムジ神・オオモノヌシ神・オオトシ神は、その背後にスサノオの存在が強く暗示されます。いうまでもなくスサノオは出雲の祖神です。大和大国魂大神とは、スサノオを中心としたその近縁の神であるといえるでしょう。

あるいは逆に、大和国の国魂の神の名をスサノオの神統譜に折り込んだとの推測も可能ですが、そのような推測以上に、スサノオや出雲に深く関係する神であり神社であると読み取ることが可能です。大倭神社注進状の冒頭部には、大和神社のことを「出雲杵築大社之別宮也」とまで表記されています。

なお、近年の流行的な説として大和大国魂大神やオオモノヌシ神をニギハヤヒと考えるものがありますが、これは非常に安直な論理の上に成り立つもので全く賛同できません。

日本書紀崇神条には、大和大国魂大神について次のような説話が記述されています。

祟神帝の治世、アマテラスと大和大国魂大神はともに宮中に祀られていましたが、この2神を同じ場所に祀るのはおそれ多いとして(具体的にどうなのかの記述は書紀にありません)、崇神6年、2神を宮域外に移し祀ることになります。

宮域外に移す時、アマテラスの祭祀を豊鍬入姫が、大和大国魂大神の祭祀を渟名城入姫が担当することになりました。が、渟名城入姫は髪が落ち体が痩せ、体力低下により祭祀不能という状態に陥ります。大和大国魂大神の祟りを表していると見て良いでしょう。そして崇神7年、市磯長尾市をもって渟名城入姫に継ぐ大和大国魂大神の祭主とすることになり、大和大国魂大神の祭祀はひとまずの落ち着きを見ることになります。



祭祀を担当することになった市磯長尾市は、大和大国魂大神との関係がはっきりしません。長尾市の祖先の椎根津彦(珍彦)は、神武東征において神武勢力に瀬戸内海で合流した人物であり、瀬戸内海の海人族と考えられています。大和にとって外来の人物が大和の国の国魂の神を祀るというのも違和感のある話です。

記紀から読み取れる類例としては、同じく大和にとって外来の物部が三輪の祭祀を欲したようにも解釈できるため、それと似たケース、つまり外部の者が入り込んだ土地の祭祀を欲したというケースだったのかもしれません。祀られる側の神と祀る側の人間との血筋云々とは関係無く、その土地での豪族の勢力保持の目的を読み取るべきでしょうか。

アマテラスと大和大国魂大神の2神を宮域外へ移すことを、一説にはアマテラスと大和大国魂大神は仲が悪くアマテラスを遠ざけざるを得なかった、という考え方も見かけたことがあります。その後、アマテラスの祭祀は豊鍬入姫命から倭姫に移り、さらにその後約50年にもわたる「倭姫の巡幸」を経ることになります。アマテラスを遠ざけ王権側の女性に祟り、さらにスサノオに関係深い素性というのは、どうも大和大国魂大神の素性が一筋縄ではいかないことを物語っているようです。祟神帝の治世に疫病を流行らせたという三輪山のオオモノヌシ神の祟りを髣髴とさせます。

大和神社の参道は意識しなければ気付かないほどのごく緩やかな下り坂となって、一の鳥居から本殿へ長く直線的に向かいます。

大和神社現社地は、上古から中古を経て数回の移転の後に確定した場所であるとされています。書紀垂仁条にも大和大国魂大神の祭祀の記述があり、そこには市磯長尾市によるこの神の祭祀地を穴磯邑・大市長岡崎に定めたとしています。これは現在の桜井市穴師または箸中付近、もしくは天理市の長岳寺の付近であるかと考えられています。長岳寺は大和神社の神宮寺であったとの伝承があり、後者が当初の祭祀地として妥当な場所かもしれません。

なお、大和神社の移転の経緯は様々に研究されていますが、正確なことが判明しているわけではありません。延喜式成立時(927年)にはすでに現社地に遷座していたとの説もあります



「日本の神々4大和」によれば、かつて大和神社の神域は八町四方(約800m四方)もある広大なものだったとのことで、その四方には四至の固めとなる4つの神社があったそうです。以下の地図を御参照下さい。これらの四至の固めとなっていた神社の位置を推定することで、かつての大和神社の広大な神域を推測することができます。

付け加えるなら、現在の大和神社本殿の200mほど北北東、兵庫町にも素盞嗚神社があります。位置的には古くからの境内社だったのでしょうか。地名の兵庫は武器に関連する名であり、兵庫町の素盞嗚神社は大和神社の武器庫であったと考えられています。

地図右上の[ ]をクリックすると「大和神社 四至の固め」が大きく開きます
●柳本飛行場と神社の位置関係●
艮の固め:北東の稲荷神社(佐保庄)
北東の稲荷神社は今は無く、
現在の佐保庄町の素盞嗚神社に合祀されたとのことです。
位置関係は現素盞嗚神社の位置がそうであると考えて良いでしょう。


巽の固め:南東の八王子神社(成願寺)
四至の固めの4社のうち
唯一現存するものが成願寺町の素盞嗚神社です。
境内の灯篭に八王子の名があり、
もと南西の八王子神社だったことがわかります。
スサノオと八王子であるなら牛頭天王信仰の名残でしょう。


坤の固め:西南の素盞嗚神社(新泉)
かつては西南の固めだった素盞嗚神社が、
戦時中の海軍航空隊飛行場の建設により現社地に移転されたとのことで、
その位置は大和神社本殿のすぐ南、
わずか100mほどの位置になります。


乾の固め:北西の弁才天社(福智堂)
上記の3社は何らかの形で残るわけですが、
残念ながら北西の弁才天社は、
福智堂町にその痕跡はありません。

大和神社境内には何社もの摂・末社が祀られています。特筆すべきは本殿左にある摂社タカオカミ神社です。

奈良県吉野郡には丹生川上神社と呼ばれる、上社(川上村)、中社(東吉野村)、下社(下市町)の三つの神社があります。大正時代に、中社が本来の丹生川上神社だということが分かりましたが、丹生川上神社は大和神社境内のタカオカミ神社を勧請し、大和神社別宮として始まったとされています(大倭神社注進状)。

上記したように狭井神社は別宮、長岳寺は神宮寺と、両者共に大和神社の関連社寺でした。何社もの古社寺に関連し、広大な神域に武器庫すら擁するとなると、大和神社がこの地に大きな力を保持していただろうことを伺い知ることができます。往時の大和神社は、おそらく大神神社などより大きな規模を誇る神社だったことでしょう。



少し余談です。大和神社の周辺にはスサノオ系神社が目立ちます。現在に残るスサノオ系神社はその多くが江戸期の牛頭天王社で、決して大和神社の創建の時期から関係があったわけでは無いでしょう。が、上に見たように大和神社は創建当初よりスサノオや出雲に関係が深かったと考えることができます。

明治期以降、多くの牛頭天王社の名がスサノオ系神社に変わった時、はからずも大和神社の周囲にスサノオの結界が張られたように見えるのは、根拠が無いながら実に興味深いことでもあります。

もう1つ余談をお届けします。歌人にして民俗学者、故折口信夫氏は「大嘗祭の本義」の中で、物部氏の祖ニギハヤヒを「倭の魂」と考えました。

【Link:青空文庫「大嘗祭の本義」】

第六項後半部にあります。ページ内を“倭の魂”のキーワードで検索されれば当該部分を読むことができます。

「倭の魂」とは即ち「大和国の国魂」との解釈が可能であり、このことから派生したのか、上記のように大和神社の祭神大和大国魂大神をニギハヤヒと考える説、あるいは三輪山のオオモノヌシ神をニギハヤヒと考える説が見受けられます。

が、上記で後述するとしたように先代旧事本紀・地祇本紀で大国御魂神は「大和の神なり」とされており、また天孫本紀でニギハヤヒはアメノオシホミミの子であるとされています。「倭の魂」をニギハヤヒと考え物部氏を賛美するかのような折口説は物部氏の立場で書かれた旧事紀の記述をもっての否定が可能です。本稿筆者としては、折口説は考え過ぎであると言わざるを得ません。

「倭の魂」への祭祀があったとしても、おそらくは外来の物部より古くからその祭祀が執り行われていたことでしょう。大和大国魂大神や三輪山のオオモノヌシ神は、ニギハヤヒとは全く無関係であると本稿筆者は強く考えるものです。

2012年8月、大和神社境内に「戦艦大和ゆかりの神社」の碑が立てられました。高さ3m近い大きな碑です。戦艦大和に大和神社の分霊が祀られていたのは良く知られた話で、そのゆかりとなります。戦前戦中には戦艦大和の関係者が大和神社を訪れたこともあったとか。

数年前、九州坊ノ岬沖に沈む戦艦大和が発見されました。大和神社境内の祖霊社には、今も坊ノ岬沖に眠る大和乗組員および護衛艦乗組員の霊が祀られており、毎夏、彼らの慰霊および世界平和を祈願する「戦艦大和みたま祭」が執り行われています。戦争の記憶を残す神社というわけですね。坤の固めとして上記した、大和神社本殿の100mほど南にある素盞鳴神社も戦争の記憶を残す神社です。

日本国にとって国防軍のような「軍」という組織の存在は不要だと思いますが、戦艦大和は確かにこの国に在りました。

第二次世界大戦以降「戦艦」というカテゴリーの艦は造られていないため、必然的に戦艦としては大和が世界最大(全長ではなく排水量として)となり、そのようなこともあって旧海軍の大和という戦艦にはやはり興味を持ちます。戦艦大和への敬意や鎮魂が感じられる神社だと思います。

ちなみに大和級2番艦「武蔵」には氷川神社(武蔵国造が奉斎した出雲系神社)が祀られていたそうです。大和も武蔵も出雲系です。3番艦「信濃」はどうだったのでしょうね?
平成十七(二〇〇五)年は 戦後六十年を迎え
先の大戦にて戦陣に散り 戦禍に倒れた多くの人々に対し
慰霊の誠をささげ 感謝の心を伝えたい想いにより八月七日に
戦艦大和みたま祭を執り行った

以来 時と共に風化しつつある中 戦艦大和ゆかりの地に
石碑を建立し その名を後世に永く継承し 常に恒久平和を
祈らざるをえません

 平成二十四年八月吉日    
             大和神社





INDEX