武埴安彦破斬旧跡
京都府相楽郡精華町祝園


武埴安彦は孝元天皇の皇子で、河内青玉繋の娘を母とします。その名に“武”が冠されていることからも、武埴安彦は強い武人であったことが推測されます。

古事記・日本書紀にほぼ同様の話が記載されています。崇神紀によれば、10代崇神帝の治世、崇神の腹違いの兄武埴安彦はその妻の吾田媛と供に反乱を起こしました。武埴安彦は山背より、妻の吾田媛は大坂から、それぞれ大和へ向けて軍を率いて行きました。



倭迹迹日百襲媛の進言により、事前に武埴安彦の動きを察知していた崇神は、山背の武埴安彦へ向けて四道将軍の大彦命および和邇の祖先彦国葺命を派遣、大坂の吾田媛へ向けて同じく四道将軍の吉備津彦命を派遣し、それぞれを迎え撃ちました。

武埴安彦の軍は大彦及び彦国葺の軍に敗れ、吾田媛の軍は吉備津彦に敗れました。奈良盆地北部の武埴安彦の軍、および盆地西部の吾田媛の軍が連携し、さらに四道将軍のうちの二人までもがこの反乱の鎮圧に差し向けられているところを見ると、相当に大きな戦いが起こったと推測されます。武埴安彦破斬旧跡は、武埴安彦が斬られた場所、もしくは斬られた武埴安彦の首が飛んできた場所と伝承されており祝園神社から少し南にあります。

記紀の記述をさかのぼると、神武帝の治世に、神武と吾平津媛(日向国吾田邑の出身)の間に生まれた手研耳が反乱を起こしたとの伝承があり、武埴安彦の反乱と共に「アタ」がキーワードになりそうです。これらの争いのバックにアタ族と呼ばれる勢力(南九州地方出身の海人族)の存在があったのかもしれません。

欠史八代と呼ばれ一般的には実在しないとされる天皇群の中の、神武から数えて8代目の人皇が孝元帝です。この天皇は、葛城臣・蘇我臣などの葛城系各氏族や、阿部臣をはじめとする多くの臣姓豪族の始祖となった人物で、また武埴安彦のように反乱伝承を持つ者の父親でもあリます。



10代崇神帝は実在の可能性の高い最初の大王といわれていますが、その時代は、まだまだ国内の統一には程遠かったのでしょう、様々な反乱伝承や四道将軍の派遣、オオモノヌシ神の祟り説話などが伝えられており、武埴安彦の反乱伝承もその一つです。

欠史八代の天皇群を「葛城王朝」と表現する研究者もおり、崇神から始まるいわゆる「三輪王朝」との間に政権交代があったと考えられています。私的には、もし政権交代があったとすれば崇神帝とその前代の開化帝の間ではなく、開化の2〜3代前にあったのではないかと考えます。そうすると武埴安彦の父である孝元天皇がキーポイントであると読み取れ、武埴安彦の反乱とは、単に皇位継承にの争いという以上の何かを示唆しているようでもあります。

すなわち、前政権勢力の武力による巻き返し、しかもアタ族をも巻き込んでの戦いであったかに思えます。もちろん推測でしかありませんが。





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