玉列神社

奈良県桜井市慈恩寺


大神神社境外摂社
主祭神
玉列王子神

配祀
天照大御神
春日大御神

●玉列王子神と日向御子神●

玉列神社は「たまつらじんじゃ」と読み、主祭神は「たまつらおうじのかみ」もしくは「たまつらみこのかみ」と読みます。

本稿では、玉列神社のことを中心にして、オオモノヌシ神の子と伝わる玉列王子神と日向御子神(ひむかいみこのかみ)のことを少し考えてみることにします。



玉列神社は延喜式には「玉烈神社」とあり、「たまつら」が訛ったものか江戸期には玉椿大明神と呼ばれたそうです。1877年(明治10年)に大神神社の境外摂社となり現在に至ります。

南側に隣接して阿弥陀堂があります。これはかつての神宮寺であり、地名の基にもなった慈恩寺の跡とのことです。

境内の案内板には次の記述があります。
由緒
御祭神玉列王子神は 御
本社三輪の大物主大神の
御子神で 延喜式
(延長五年、西暦九二七)
神名帳にも見える初瀬谷に
於ける最古の神社であります
昔から玉椿大明神として地
元氏子区民は勿論 遠く京
阪神 東海地方に至るまで
厚い信仰を集め 特に金色
のお砂は招福のしるしと
して尊ばれております
●注連縄は飾り方が特徴的で蛇のように見えます●

主祭神の玉列王子神については、記紀その他の日本神話に登場する神格ではなく、唯一玉列神社の由緒にて、三輪山のオオモノヌシ神の子と伝えられています。

ここで、大神神社の摂末社のうちオオモノヌシ神の子を祭神とする神社をいくつか見てみましょう。

高宮神社(こうのみやじんじゃ)→Mapion
現在は三輪山頂に位置します。祭神は日向御子神でオオモノヌシ神の子と伝わりますが、この神格も記紀や史書には登場しません。明治期に、次項の日向神社と社名が取り違えられたとの説があります。

日向神社(ひむかいじんじゃ)→Mapion
祭神は、櫛御方命・飯肩巣見命・武甕槌命。この3人は直系であり、古事記崇神天皇の条ではこの後に意富多多泥古が続きます。櫛御方命が、オオモノヌシ神とイクタマヨリヒメとの間の子であるとの記述があります。

天宮社(金拆社に合祀)→Mapion
金拆社には社殿が無く神木を結界で囲った神域を祭祀する形式となっており、そこから三輪山中の磐座を拝するとのことです。そして、そこに「天宮社」も合祀されています。金拆社は宇都志日金拆命(大綿津見神の御子にして阿曇連らの祖)を祭神としますが、合祀される「天宮社」の祭神が天日方奇日方命で、オオモノヌシ神の子と伝わります。音の類似から天日方奇日方命と櫛御方命は同一であるとの説もあります。なお先代旧事本記では、天日方奇日方命はコトシロヌシ神とイクタマヨリヒメとの間の子であるとされます。

大直禰子神社Mapion
江戸期まで大神神社の神宮寺だった大御輪寺の本堂を、明治期に神社の社殿に転用して今に至ります。祭神の大直禰子(大田田根子)命は、日本書紀でオオモノヌシ神の子とされています。



このように見ていくと、玉列王子神および日向御子神の2神については、オオモノヌシ神の子であるという以外に全く素性が分からないことになります。これにはかえって興味が持たれる状況とはいうものの、分からないものは分からないのが残念なところです。想像をたくましくするなら、三輪山の神が記紀神話にオオモノヌシ神として取り込まれる以前の古態の神格に関係がありそうな気がします。

面白いことに、玉列神社は三輪山頂から真南に南面して位置します。後世に玉列神社社殿の建て替え(神域内での位置の変更)の記録がありますが、現在の社殿にこだわらず神域として考えると、木々が生い繁っているため実見することはできないものの玉列神社社地は真北に三輪山頂を拝する位置にあり、山を神体とする祭祀形態に極めて近似した状態です。また玉列王子神の座する位置から三輪山頂の日向御子神を仰ぎ見ることにもなります。

上記した金拆社が三輪山中の磐座を拝するように、それと同じ関係が玉列神社(玉列王子神)と高宮神社(日向御子神)の間に成り立っていたと想像するのはそれほど突飛なことではないでしょう。神社祭祀における山宮と里宮に似た関係をここに当てはめても良いかもしれません。

さて、三輪山は太陽信仰との関係が推測されています。それを表すかのように山頂の高宮神社は西面しており、その社殿の前に立つことで東から上る太陽を拝することができます。山頂に祭祀される日向御子神とは太陽を神格化した名であったか、あるいは神祀りをなす者が「日に向かう御子」であったか、おそらくはその双方が一体となる状況を日向御子神と呼んだのかもしれません。

知られていることですが、春分秋分は太陽が真東から上ります。この時、三輪山頂に立てば、特定の山からの日の出が見られることでしょう。

つまり、毎日のように上る太陽を神格化するのではなく、特定の時期に特定の状況で見られる日の出、それを見た時の感動や躍動感、それらに神性を見ることが太陽信仰なのではなかったかと考えます。現代日本でも、初日の出に特別な感情を抱く人は多いでしょう。



以上のことを基に想像します。玉列王子神の「玉列」とは、「魂を貫ねる」意味からの解釈がなされることが多くありますが、これを太陽との関係性で解釈し直すとどうでしょうか。

春分秋分の太陽の動きは上記しましたが、加えていうと、冬至には東南東から日が上り西南西へ沈みます。夏至には東北東から日が上り西北西へ沈みます。三輪山頂の高宮神社が特定の日の出に意味を見いだすことのできる立地なら、三輪山の南麓という玉列神社の立地は、冬至を中心とした時期の太陽の大きな動きを見ることができる場所といえるでしょう。

そうしますと、「玉列」の名が示す貫ねられた魂とは、天空を進む太陽がその象徴であったかもしれません。頭上に輝く太陽を見たときの神性、それを神格化したものが玉列王子神であったかもしれません。

その神性を生み出すのは、古い時代の三輪山の神であったことでしょう。

三輪山が太陽信仰に関係しているという推測は定説でも通説でもなくあくまで仮説です。ならばその仮説に付け足す形で、本稿筆者のような想像があっても良いのではないかと考えています。
●冬至の時期の夕刻に近い時間、太陽は祓戸社の方向に傾きます●





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