十市御縣坐神社

奈良県橿原市十市町

祭 神
豊受大神

配 祀
市杵島姫命


御縣(みあがた)とは古い時代の天皇家の御料地(食糧を賄う直轄地)であり、大和国に「高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布」の六御縣がありました。そのうちの十市縣に祀られた神社が当社でした。延喜式神名帳に記載される大社です。

当社の主祭神は豊受大神。伊勢外宮と同一の神で食物神としての属性を持ちますす。トヨウケ神の名に含まれる「ウケ」は食物を意味する言葉と考えられています

「ウケ」から食物神のことを考えてみると、似た名前の神で稲荷神社の祭神とされるウケモチ神やウカノミタマ神があります。その名に「ウケ」・「ウカ」が含まれ、トヨウケ神をはじめとしてウケモチ神・ウカノミタマ神は同一または同系の食物神・穀霊神と考えられます。



引き続き祭神の属性を見ていきます。稲荷を基に考えてみると、また興味深いことが分かります。

神仏習合的に見る仏教系稲荷の神はダキニ天で、この神は狐に乗り稲穂を抱える女神の姿です。ダキニ天は古くは男性の夜叉神でしたが、平安期あたりに弁才天(この場合は妙音弁才天ではなく宇賀弁才天)の影響を受けて女神に変化しました。宇賀弁才天は頭上に宇賀神を乗せた弁才天で、ダキニ天と宇賀弁才天は図像によってかなり類似したものがあります。

ちなみに 、宇賀神は老人の頭とトグロを巻く蛇の胴を持つ神で、宇賀神単神での信仰ももちろんあります。妙音弁才天は七福神の中の弁才天(弁財天)の姿がそれです。

宇賀弁才天とダキニ天を介して「ウケ」・「ウカ」と稲穂(つまり食物)が繋がることになります。トヨウケ神から少し外れましたが、「ウケ」・「ウカ」の名を持つ神の属性の1つが食物神であることが少しは分かるのではないでしょうか。

視点を中世へと移してみましょう。当社境内には十市遠忠(1497〜1545年)が詠んだ歌を刻む歌碑があります。十市遠忠は室町期から戦国期にかけての十市氏の当主で、十市氏の最盛期を築いた人物です。

十市氏は大和国で離合集散を繰り返し覇を競った大和士(やまとざむらい)の一派で、同時期には越智氏や筒井氏が活動していました。十市氏は当地近辺を活動拠点として十市城を築き、当社社地は十市城の城域内だったと推定されています。氏神あるいは鎮守社という位置づけでしょう。

十市氏のもう1つの城である龍王山城は龍王山頂にあり、大和の三山城の1つに数えられました。龍王山は三輪山の北にあり、当社境内から遠くにその山容を望むことができます。



古代への視点からはどうでしょう。十市氏の出自は正確には分かっていません。欠史八代と呼ばれる初期の大王家の3代大王安寧帝の第3皇子磯城津彦から中原氏、そして十市氏へと変化する氏族とする説があります。が、一方で次のような説もあります。

記紀に記述される神武に攻められた磯城彦兄弟、そのうち弟磯城の系は磯城縣主(弟磯城系磯城縣主と仮称します)として残り、欠史八代の大王家に対し皇妃を輩出することで、大王家の外戚的な地位を持ちました。弟磯城系磯城縣主は欠史八代の後半に十市縣主と呼称を変更したことが推測され、磯城縣主の職掌は物部に取って代わられたことがさらに推測されます(物部系磯城縣主と仮称します)。そして十市縣主が中原氏から十市氏へと変化した流れとする内容の説です。

いずれにせよ十市氏の出自は、記紀でいう欠史時代まで遡る古い歴史を持つ可能性があり、可能性ということでなら磯城縣主・春日縣主などとともに初期の大王家と関わったことも考えられます。

十市の御縣に祀られたことを発祥とする当社は、はるか古代の政争から戦国期の大和士の消長をも見続けて現在に至っているのでしょう。
●門松から見上げた鳥居●





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