石段の先

 

~ あやかし ~

「今日も散歩に行く?」
リモートの作業が一段落したのでパソコンを閉じ、窓辺のソファに寝そべっている犬に聞く。私の呼びかけに反応して首を上げ、こちらを見ているのは柴犬系の雑種の小型犬だ。

この町に引っ越してきてほぼ1ヶ月。
秋風か吹き始めた頃から町の様子を探るべく、一人と一匹で散歩を始めた。
飼い主と同じく好奇心の強い犬は喜んでついて来る。

ペットと住めるマンションを探して見つけたこの町には、開けた駅前と田畑の残る里山風の地域が同居している。わたちたしの散歩コースはもっぱら里山地区を目指すコースだ。

信号を渡ってなだらかな坂の住宅街を抜け、中学校のフェンス沿いにつる草が垂れ下がる木陰の道を下る。最初に通った時には空き地だった場所に家が建ち始めているのを右手に眺めながら左手の学校の正面を過ぎて左折すると、運動する学生の声が聞こえるグラウンドだ。といっても高いコンクリート壁の上にあるのでその様子を見ることはできない。
道路を挟んだ反対側は整地が始まったばかりの草地だが、1年も経たずに新しい家が何軒も建つのだろう。その草地を通り過ぎるとやっと田んぼが見えてくる。

金色に実っていた稲の刈り取りが終わり、泥地の中に稲株が規則正しく並んでいる。その向こうには手入れされていない狭い私有地に1本のレモンの木が綠の実をつけ始めている。この辺りからが里山風の散歩道である。
右に左に畑や田んぼがあり、各々の家庭で消費する程度の野菜や花が植えられている。道沿いには掘っ立て小屋の無人販売所があり、めぼしい物があればコインを料金箱に投入して手にした野菜を持参のエコバッグに入れる。ついでに水筒の冷水を一口飲み、
「今日は100円ピーマン、ゲット」と犬に話しかけて散歩再開。

陽射しは強いけれど、真夏ほどの熱はない。すがすがしい快晴だ。
「今日はちょっと遠回りしてみようか」と独り言すると犬がシッポを振る。

いつもなら2件目の無人販売所を過ぎた辺りで左折して川沿いの道を帰るのだが、良い天気に誘われてそのまま直進してみることにした。ここからは初めて通るルートだ。

木造の古びた家の庭のコスモス群が道にはみ出しているのを眺め、建て増ししたような屋根上のベランダの洗濯物を見上げながら歩いていると、そのうち右手にこんもりとした山のような森が見えてきた。

それは鬱蒼とした鎮守の森だった。

森を回り込んで神社の正面まで行き、石造りの鳥居に一礼して犬とともに境内に入った。

正面には拝殿に続くと思われるりっぱな石段があった。見たところ50~60段はあるだろうか。
さすがに犬を連れて上がるわけにはいかないだろうと、入ってすぐのところにある能舞台のような建物の石の土台に腰かけてしばらく休むことにした。

神社を囲むようにして広がる森の上には青い空が広がっている。
空を仰ぎながら梢と風が織りなす葉音に耳を澄ませていると、一人の女性がいつの間にか境内に入ってきていて石段の方へ歩いくのが見えた。腰の辺りまである巫女のような黒髪が印象的な女性だ。

こちらの方を|一瞥《いちべつ》することもなく真っすぐに石段に向かい、|階《きざはし》を上り始めた。彼女が羽織っているオレンジ色の|丈長《たけなが》の上着が、鈍色の石段に映えて鮮やかだ。

さすがに若いだけあるわ…と思いながらその軽やかな後ろ姿を眺めた。
それほど歳は違わないかもしれないが、
「若いのにわざわざひとりでお参りするんだね」と犬に同意を求めてみるが、当然のことながら、うんともすんとも言わない。

それにしても、あの派手な上着の下にはどんな色の服をコーディネートしているのだろう…我ながら変な好奇心だとは思いつつ、お参りが終わって下りてきたらわかることだと納得して、読みかけの短編集をトートバッグから取り出した。ついでにスマホで時刻を確かめると3時前だった。

犬は私の腰の辺りでくつろぎ、ページを繰ると時々やさしい秋風が額を撫でた。これぞ至福の時間といえるようなひととき…

ひとつの短編を読み終え、石段を見る。
女性はまだ下りてこない。
あの石段の上は、想像しているよりも広いのだろうか。誰か知り合いと遭遇して話し込んでいるのだろうか…
そんなことを思いながら次の短編を読み始めた。

少しホラーの要素がある内容に影響されてか、不吉な|心緒《しんしょ》が芽生え始める。
早く下りて来てという思いが湧き始めると、石段ばかりが気になって私はそのうち本を読むのを止めてしまった。

彼女が石段の上に消えてからほぼ30分経った頃には、犬も私の不安を察知してか、首の後ろをかいたり生あくびをしたりして落ち着かない。

平日のせいか周りに誰もいないという状況が、何か異次元めいて感じられたりもする。
その不穏なムードを打開すべく、私はおもむろに立ち上がり、犬を連れて石段の下まで行ってみた。

勢いで2段程上ってみたが、理性が衝動を鎮めにかかる。
『何か起きていたとして、私と小さな犬が助けになる?巻き込まれるだけでしょ』
そう思いながら上った2段を下りて石段を見上げると、深い緑の森を背にした拝殿の|向拝《こうはい》が見えるばかりだった。

再び鳥居を抜けると、現実の世界へ戻ったような安堵感を覚えた。犬も私を見上げてシッポを振っている。最後に振り返ってもう一度石段を確認したが、人影はなかった。

多分、どこかに抜け道があるのだろう…
神社の森を過ぎた辺りで振り返ってみた。
背の高い樹が密に生い茂り、道があったとしても|獣道《けのもみち》の類しか想像できなかった。
しかし、大型の動物が生息する程の規模の山ではないので、この地域の人だけが知っている、知る人ぞ知る抜け道があるのかもしれない。

あれこれ考えながら歩いているうちに、マンション近くの信号のある道まで戻って来た。不思議な場所から俗世に帰ってきたような気分だった。


その夜、ベッドサイドのスタンドの灯りを消した後、目を瞑って夢の前庭で遊んでいた時、私はある事実に気づいて思わず暗闇の中で目を開けた。

私はあの|女《ひと》の後姿しか見ていない…

それが何を意味するのか、言葉で表すことはできなかった。

言葉で表すと、開けてはならない扉の向こうにある何かが見えてきそうに思えたから…