死神に出会った日

 

ボクが死神に出会ったのは、繁華街のショッピングモールをブラブラ歩いている時だった。
死神といっても、本人がそう言っているだけで真偽はわからない…ということにしておこう。

人混みに紛れれば鬱屈した気分も少しはマシになるかと思い、穴倉のようなワンルームの部屋を抜け出して目的もなく歩いていたとき、後ろから声を掛けられた。
自分の名前ではないけれど振り向くと、黒いマスクの男がボクに向かって手を上げた。
ほかに該当者がいるのかと向き直って前方を確かめる。

「あなたですよ、私が呼んでいたのは」と背後から男の声。
「人違いでしょ? 名前が違うし…」ボクが言い終わらないうちに、
「前世の名前を呼んじゃったかな」などと訳の分からないことを言いながら近づいてきた。

「ちょっとお茶でもしませんか」
はやりのBL気取りの危ないヤツか?とボクは少し身構える。
「大丈夫ですよ、そんな趣味はありませんから。それよりも、ちょっとお話ししたいことが…」

男の言葉を100%信じたわけではないけれど、先月バイトをクビになって時間を持て余していたボクは、誘われるままに近くのカフェに入った。

「私の名前はリュージュと言います」席に着くなり、男が自己紹介する。
「リュージュ?」聞き違えかな?とオウム返しすると
「龍の樹と書いてリュージュです」
「龍樹菩薩の?」
「よくご存じで」
「大学の哲学の授業で出てきたから」
仏教の歴史の講義か何かで、釈迦とともに「空の理論」のエピソードで登場した名前だった。

「大学生ですか、まだまだお若い」
自分とさほど変わらない年齢に見えるが言葉使いが変だ。何だろうこの違和感は…と考えていると、突然妙なことを言い出した。
「絶望的なオーラを感じたのですよ、あなたに」
「絶望的なオーラ?」
確かにウキウキするほど幸せではないが、少し憂鬱なだけでそんなものが出るのだろうか。と言うより、何でそんなものが見えるのか…

「実は私、菩薩みたいな名前ながら、黄泉の国の住人、死神なのです」
「死神?」ボクはまたオウム返しする。
昼間のしゃれたカフェにはまず不似合いな存在だ。
ボクは少し笑って『冗談でしょ』と口には出さずに首を傾げた。

「あなたに死の影をみつけたから気になったのです」
「親切な死神さん、ボクに何か説教でもするつもり?」
自称死神は何も言わずにマスクを外してコーヒーを一口啜った。
その顔を見て、ボクの祖母がファンだったアイルランド出身の俳優に少し似ているなと思った。

それにしても、ボクに死の影を見たとはどういうことだろう。悪戯や虚言なら、質が悪い。
もしかしたら変な宗教の勧誘かもしれない。

「あなたの猜疑心は理解できますが、悪戯なんかではありませんよ」
「さっきから感じていたんだけど、ボクの心を読んでるね」
「私はあなたでもありますから」

まるで哲学的な命題のようじゃないか…などと考えていると
「ちょっと冗談を言ったまでです」と男がはぐらかす。
「それにしても死の影とは大げさな」とボク。
そして、近頃の自分の行動をたどってみた。
どこかに死の影と思われるものがあったのだろうか?

「大学は予定通り卒業できそうにない、バイトはクビ、正社員としての就職も心もとない、3ヶ月つき合った彼女に振られた、世の中は物価高、世界は争い事ばかり…」男が代弁する。
「そして、消えてしまえば楽だなんて思ったでしょ」ズバリと言う。

確かに、死んでしまえば楽だな、とは一瞬思ったかもしれない。
「でも、それくらい誰だって思ったりするでしょ、生きていれば」
「それが死神の落とし穴なんですよ」
「落としてナンボじゃないの?死神としては」死神をからかうボク。

「『私はあなた』って言ったでしょ。死んでほしくないからこうやってお話しているのです」
「大丈夫、死にたいって思ったのはほんの10分の1秒に過ぎないから」
「10回思えば、1秒、100回思えば、10秒になり…」男が強い視線でボクを見る。
「やがて心に染みついて、そういう思考回路ができあがるから厄介なんですよ」
ボクの頭に「空即是色」という言葉が浮かび上がった。
「空想が現実となる」ボクの心を読んだ男が、すかさず言葉にする。

それにしても、なんで通りすがりの死神とこんな所でこんな問答をしているのだろう。
「生きていれば、面白いこともありますよ」と男。
「君がボクなら、ボクも死神なんだ」冗談のつもりで言ってみたものの、訳のわからない禅問答のようになってきた。
「それもまた楽し…ですよ」男が初めて笑った。そして、
「死神は死にませんから」と続ける。
ボクもこの男と対面してから初めて笑った。

ボクがコーヒーを飲み終えると、「さて」と言って男がボクを見た。
「日々変化しているものをしっかりと眺めることです。眺めていれば、それはそこに実在するわけですから心も安定するでしょう」
そう言う男の言葉を聞いて、小さい頃、庭で柑橘の葉をゆっくりと食べている青虫を眺めながら、いつかアゲハになるのを想像してしあわせな気持ちになったのを思い出した。

「よく眺めることは愛するということにつながりますからね」
とても死神の言葉とは思えなかった。


ボクたちはカフェの前で別れた。

死神と話をして、改めてがんばって生きようと思ったのは、考えてみれば滑稽なことだった。黒いダウンコートの後姿が横丁を曲がって見えなくなってからボクは苦笑した。

「悩ましいつかみどころのない世界は、たいてい自分がつくり上げた只の幻ですよ」

男の言葉を反芻しながら歩く街の空気が少しだけ黄色く見えたのは…

気のせいだったのだろうか。