やさしい気配

 

空港のあるフランクフルトから約200km南下した辺りにカールスルーエという街がある。
アウトバーンを車で走れば約1時間の距離だ。
宮殿を中心として扇状に広がった区画が美しい街カールスルーエ。
その大学に留学している男友達に誘われて、わたしは夏休みに彼のアパートを訪ねることにした。


ドイツ行きは初めてだったので、入念にネットで調べた通りの経路でスーツケースを引きずりながらアパートの所在地にたどり着いたのは昼過ぎ。

「同じような棟が並んでいるから間違えないように」と事前に注意されたのを念頭におきながら、集合住宅の入口で慎重に鍵を差し込む。前もって郵送してくれていたスペアキーだ。

手応えがありドアが開くと、ホッと気が抜ける。目指す部屋まではあと一息だ。

慣れない異国の地では何かと気を張ることが多い。
空港では、インターシティ(IC)と呼ばれる列車の乗り場を探して少しばかり右往左往し、到着したカールスルーエの駅では、ホームの階段を下りるときに「手伝いましょうか」と声を掛けてきた男性を無下に断った。
親切に声をかけてくれたのかもしれないのに、ちょっと冷たすぎたかなと少し反省する余裕ができたのは、目的地への最終経路に利用したタクシーの中だった。

部屋の番号を確かめてドアの鍵穴に鍵を差し込む。

この旅のゴールとも言えるドアの向こうには、明るいキッチンがあった。右手にある大きな滑り出し窓の下部が少しだけ開いているせいか、部屋の空気は思いのほかフレッシュだった。

5階の窓から見下ろすと、先ほどタクシーを降りた場所を確認できた。小高い丘の上にあるこのアパートへ続く道も見える。綠の木々を縫うような曲がりくねった道だ。
ここはドイツなのだ。

キッチンにはテーブルをはさんで2脚の椅子があった。
椅子に腰かけると、テーブルの上に彼の手書きのメモを見つけた。
「無事に着いた?夕方までには帰るから待ってて。今日は外食しよう」そんな内容だった。

キッチンに続くリビングの窓際には、細長い木製の机があり、アーム型の照明器具が取り付けられていた。
机の上にはノートパソコン、その横に小さなプリンター。専門書が数冊と何かのメモ書き、空き瓶のペン立て…
日本の彼の部屋と似たような雰囲気の机周りだった。
違うのは机の向こう側の大きな掃き出し窓とその先に広がる緑豊かな風景だった。

思っていたよりも清潔に保たれている洗面所やバスルームに満足しながら、最後に開けたドアの向こうは寝室だった。わたしのために用意したのだろうか。簡素なベッドがふたつ並んでいた。
片方のベッドには、小花模様のカバーをかけた薄い羽根布団がたたまれた状態で置かれていた。

「こっちがわたしのベッドか」
腰を下ろすと旅の疲れなのか急に眠くなり、わたしはそのまま睡魔に引きずられるように夢の中へと落ちていった。

何かしらの夢を見て睡眠のサイクルが覚醒に近くなったとき、背中の方で人の気配を感じた。
振り向きたいような、振り向きたくないような気持ち。
というより、身体が動かない。
一種の金縛りなのかもしれない。
ほんの少しの恐怖感、でも苦痛はない。

わたしは半覚醒の状態で思考を巡らせた。
この穏やかな気配からして、彼が予定よりも早く帰ってきたのだろう。
それならば、声を掛けてくれればいいのに。

寝室の窓の明るみを感じながら、背後に神経を集中した。
彼に違いないと思ったときに、最初に感じたわずかな恐怖感は消え去っていた。
しかし背後の気配は動く様子もなくじっとそこに佇んでいる。
疲れて眠っている自分を起こすまいとただ見守っているのだろうか。

でも、何か違う…そしてまた眠りに落ちた。

完全に目覚めた時、半身を起こしてまずドアの方を確認した。
予想通りに何かがいるはずもなく、わたしはゆっくりとベッドから下りた。


夕食にと彼が連れて行ってくれたのは、隣町の小さなホテルのレストランだった。

「今日のお昼頃、アパートに帰ってきた?」
スープが運ばれてきた時に彼にたずねてみた。
車の中では我慢していた質問だ。

「なんで?」と彼。
わたしは手短に昼間の出来事を説明した。

「夢だったんじゃないの」それが彼の答えだった。

「ボクに会いたい気持ちが夢になったとか?」と言って笑った。
それを100%否定するわけではないけれど…と思っていると
「実体のある人間だったら、怖い話だよね」と彼が続ける。
確かに、悪意のある人間が一番怖いのかもしれない。

「このオニオンスープ、スパイスが効いていてうまいな」
彼の興味は夢の話よりもすっかり料理に向けられているようだった。

わたしはと言えば、またあの気配を思い出そうとしている。
あれが人であったとしても、それ以外のものであったとしても、あの穏やかで優しい雰囲気は
何だったのだろう。

考え込んで言葉少なになったわたしを気にしてか、彼が突然言った。

「たぶん、守護霊かなんかだったんじゃないの。無事に長旅を終えてお疲れさま…みたいな」

無事にたどり着けるかどうか心配していたのは君だよね、その気持ちがあの部屋にやって来たのかもしれない…
そんなことを思いながら

わたしはふふっと笑って彼を見た。