遠雷(第99編)

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人さまざま

治多 一子

 先日、友達の店を訪れると、たまたまテレビドラマの終わりのところで、友は
 「あのお姑(しゅうとめ)さん良い人なの。今、もう死にかかってはるところよ」
と教えてくれた。
 全然見たことがないから、話はさっぱり分からない。急に倒れ、意識を失ったお姑さんを見て、お医者さんは、もう駄目だと首を振った。
 ところが家人の叫び声で、再び意識をとりもどし、見守る人たち一人ひとりに、それぞれ感謝の言葉、励ましの言葉等々を、述べていくのだった。私は驚きあきれた。
 後日、お茶のグループでその話はすると、何人かは、その場面を見ていた。
 「死ぬときは、あんなこと言えないわよ」
 「それが、ドラマというものよ」
 「つぎつぎと言うのしつこい感じだったわ」
などである。そして現実にはあり得ないというのが、一致した意見であった。
 ところが、つい先日、私のお茶のT先生にお話すると
 「人生いろいろ、人さまざまよ」
とおっしゃり、若い尼僧Mさんの話を聞かせて下さった。
 Mさんのお師匠さんは亡くなる数日前に
 「阿弥陀さまが見えるようになるまで、一生懸命信仰しなさいよ」
とおっしゃった。病院で亡くなる直前には、お医者さん、看護婦さんに
 「いろいろお世話さまになりました。有難うございました」
と礼をのべられた。
 さらに老尼が呼ばれた近所の人たちや信徒総代の方々に、それぞれ厚くお礼を申され、みんなの見守るなか、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、お十念のお念仏を七回まで称(とな)えられつつ、遂に西方浄土へと旅立たれたのである。
 Mさんは
 「お師匠さんの称え残された三回のお念仏を、せめて言えるように、私は還俗(げんぞく)することなく、信仰の道を歩みます」
とT先生にお話した。
 Mさんは、T先生が、尼僧の高等学校の校長先生をしておられた折の、教え子である。感動の涙が、私の頬(ほお)を伝った。
 この世は、人間の浅い知恵などで計り知れぬほど、奥行きの深いものだと、しみじみ感じたことであった。

昭和63年(1988年)9月17日 土曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第99回)

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