業障消滅
治多 一子
「E婦人が凄(すご)く怒っておられるわ」
とYさんが教えてくれた。先だって、信濃路の旅をしたときのことである。
E夫人は、ご主人の地位を鼻にかけることもなく、何事にもひかえ目で、謙虚な方だとかねてから好感を持っていた。ところが
「学校、公民館、体育館などいくつも主人が建てたのよ」
と、得意気に言われた。自慢しない方だと思っていただけに、この人までもと、私は裏切られたとの思いで腹が立って来た。
「あらー建てたのは大工さんよ。お金出したのは県民であり市民じゃないの」
と言ったのが逆鱗(げきりん)にふれたのである。これを同行の友人に話すと
「××を建てた、○○道路を作った、△△鉄道を引いて来たなど言うのが、政治家のつねやで。カリカリ来るあんたがおかしいのよ」
と言われた。こんなことを話しつつ、宿泊した坊の方の案内で善光寺さんへお参りした。
仁王門のところへ来ると
「この門は明治二十四年に焼けて、その後大正三年に、一人の信者の寄進によって、再建をみました」
その人は信州東筑摩郡の永田兵太郎という人であり、財団法人善光寺保存会の会員でかつ信者である。永田氏一人の寄進によるものである。さらに、案内の方は
「みなさんの歩いておられるこの参道は、誤って我が子を手にかけた人によって作られたものです。その人は息子とわが身の業障消滅を願い、善光寺へお参りするたくさんの人たちに踏んで頂こうと思われたのです」
と教えて下さった。
三百年前、伊勢の白子の大竹屋清兵という豪商が、真夜中に帰ってきた放蕩(ほうとう)息子を泥棒と勘違いして刺殺したのである。
彼は、罪を犯している自分と、放蕩の限りをつくして、多くの人々を泣かせてきたわが息子との業障消滅を祈願して、あの参道を作ったのである。
昨日も今日も、また明日も、近くから遠くから、善光寺さんへ参り仁王門をくぐり、あの道を通る参詣(さんけい)人が後を絶たないことだろう。
私もまた友と一緒に、自分自身の業障消滅を願いつつお詣(まい)りしたいと思っている。
信濃路は今や、真っ赤な彼岸花のさかりだろう。
昭和63年(1988年)10月8日 土曜日
奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第100回)
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