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咲村ですこんばんは。 世界まる見えテレビ特捜部に出ていた三節棍のチャンピオンは予想外に美人でした。 だから何だと問われると非常に困りますが。 ということで改めてこんばんは、咲村です。 何故学校で勉強をしなければいけないか、という問題は大層難しい問題でしてその答えは多種多様に存在します。 それは学校の運営者側の視点から見たものもあれば、教育者側の視点から見たもの、最初に学校という概念を持ち出した人の視点、保護者の視点、第三者の視点、子供の視点、卒業生の視点から見たものまである。 それらは全て正しいともいえますし、それらが交錯する事によって、教育の現場が回っているともいえます。 ただ、それゆえ彼らの答えや、考え方を上げはじめれば枚挙に暇が無く、それらの統一はおろか、理解する事すらあまりに価値観が違いすぎて少々困難になってしまうのも事実。 何故と問うものに答えるものは、その時点で立場が違う。 最初から価値観が違うわけですから、ならばそれは問うものの求める答えには成り難いのです。 そしてまた、相手の立場にたった意見は立場が違う故に説得力をもたないという構造すらももっています。 ですので、ここではあくまで僕の観念ということでこの場限りのお話のつもりで書いてゆきましょう。 何ゆえ、学校で勉強するのか。 その問いに対する答え。 それは、ゲームの説明書と同じだから。 とりあえずそれが僕の基本概念です。 英語数学に始まり、国語理科社会を基本とした科目は、それらの遥か延長上にある、学問の研究の場の最先端のための基礎知識として学ぶもの、と僕は昔から思っています。 パソコンの説明書を一つも読まずにパソコンを使いこなせるわけが無いのと同じように、最先端の情報を処理するためには、それ以前の基礎知識がなければ理解できないでしょう。 またパソコンの説明書がつまらないのと同じように、学校の勉強がつまらない人もいるでしょうし、逆に『知ることそれ自体』に楽しみを見出す人もいるでしょう。 そうですねぇ、例えばアルカナ・タローを趣味にする人がいるとして、別に占星術でも構わないんですけど、そういう人たちはタロット占いをするため、あるいは占星術を実際にやってみるために、それらを勉強するでしょう? そういう人たちには目的があって、そこに勉強という手段が入ってきているんです。およそパソコンの使い方からスポーツ技術にいたるまでそれは同じです。 速く走りたいから、練習する。 タロットカードを極めたいから、専門書を紐解く。 おわかりの通り、目的が見えているから、過程が楽しいんですね。 さらにいうならばマラソン42.195キロを走りきれるのは、残りが何キロか解かっているからなんです。 さてさて。 そういう視点だと、何だか今の学校の歪な状況が浮き彫りになって見えますね。 例えば、社会を学ぶ事に意味はあるのか。 こういう問いも出ようというものです。 先にあるものを教えず、内容のみを諾々と教えてゆく。 勉強する意味は受験のためだけだなんて、自分が見たいから人にタロットカード教えてるのと一緒じゃないですか。 覚えたくも無い子供に、ほら私のためにタロットカードを学べ、なんていったら、嫌がるに決まってるでしょうに。 歴史だけですら、文献漁りに遺跡発掘、文化的な背景に何らかの作品を残した人物の思想に与えた影響、普通に見るだけでも、誰が何をどういう理由でしたのかという社会的な教訓くらいは教えてくれるんですよ。 社会を学ぶ意味なんて問い、普通の環境なら出てくるわけないじゃあないですか。 さらにいうなら数学の延長にも、理科の延長にも英語の延長にも国語の延長にも同質にして未開拓な分野が広がっているんです。 よーするに、勉強するのが面白く無いという言葉の裏には何が出来るか解からないし、特に何もしたくないという動機が潜んでいるんじゃないでしょうか。 無人島にサバイバルブック一冊もたされておきざられても困るだけです。 面白くもなんともありません。 肝心な事は、そこで何が出来るか、を教えること。 それを知った後でこそ、楽しさは生まれてくるんでしょう。 学校教育がすべきことは『何が先にあって何が出来るか』を教えることであって、付け焼刃の教育方法の改革なんかではないはずです。 だって無駄じゃないですか。 何しろ方法だけを教えるなら塾の方が遥かに上手なんですから。 |
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