お彼岸について

お彼岸の行事は、古くから年に春秋の二回おこなわれております。梵語(ぼんご・古代インドの標準文章語)のパーラミター(波羅密多)を訳し、正しくは『到彼岸』と言われます。この彼岸について経典には「生死(しょうじ・迷いの世界)を此の岸となし、涅槃(ねはん・さとりの世界)を彼の岸となし、煩悩(ぼんのう・欲望のこと)を中流となす。菩薩は無想の知慧をもって、禅定の船に乗り、生死の此の岸より涅槃の彼の岸に到る」と説かれております。

私たちの生き死にしている世界が此の岸であり、極楽涅槃の世界が彼の岸であると言うのです。それでは極楽のことが彼岸であると言うのであれば、「あえて彼岸といわずに極楽といえばよい」と言うことになりますが、実は、ここが大切でありまして、彼の岸といえば此の岸が考えられますし、その間には隔たりが有ると感じ取ることが出来ます。この「隔たりの有ること」を教えるために、単に極楽といわずに彼岸という言葉を使ったのであります。

それでは、此の岸と彼の岸の間には、どのような隔たりが有るのかと言いますと、
『煩悩』という大きな流れの河があると言うのです。仏説阿弥陀経には、この隔たりの有ることを「娑婆(しゃば・私たちの世界)と極楽(理想の世界)との間には十万億土の隔たりがあると説いております。この煩悩の大きな流れの河は、私たちより離れた他のところにあるのではなく、実は互いに一人一人の心の中に、生まれながらにして持ち合わせているのです。この絶えず自分と同居している煩悩の流れる河は、なかなか渡りきれるものではありません。それどころか、その煩悩の河のなかに、おぼれきっている。それが私たちの日頃の生活といえましょう。

法然上人が師と仰いだ中国の善導大師は、「
自身は是れ煩悩具足の凡夫」とまでいわれておりますが、此の岸と彼の岸のことは解ったとしても、その間の煩悩の河中が恋しくて離れることが出来ません。愛着があるものですから知らず知らずのうちに、この煩悩が種となって色々な罪を犯してしまうことになります。

我ばかり 罪深き身は あらじとは 思いながらも 懲りもせぬ我」と言われますように、誠に醜い心の私たちであります。それでは煩悩とは、どういう性質のものなのでしょうか。それは私たちの体内の中に随って静かに眠ってるもの、仏教の言葉で「随眠」といわれるものです。随い眠っているものですから、起きてこないかと言いますと、そうではなく、私たちが私利私欲の気持ちから行動を起しますと、その先頭を切って動き出し、いくら知識や理性で抑えても、抑えきれないものなのです。遺教経(ゆいきょうぎょう・釈尊入滅時における最後の説法を記した経典)に、「煩悩毒睡は、なんじの心にあり」と教えておりますが、煩悩は私たちの心の奥底に住みつき、どうしても離れられないものであります。
この煩悩の流れから逃れるために、私たちは色々と努力をしなければなりません。しかし、ただ逃れると言いましても、この煩悩は既に自分の身体の中に持ち合わせているのですから、簡単に取り除けるものではありません。

ここに、まよいの此の岸を離れ、さとりの彼の岸に到る、先に申しました『到彼岸』の修行が必要となります。この到彼岸の方法、仏道修行の項目として
六度行(六波羅密)が説かれております。「度」とは、「渡」のことで渡し舟の意味で、次に述べる六つの実践方法を修すことにより、理想の世界に到達することが可能になります。



1.布施(ふせ・めぐみの心)

布施とは、「めぐみ・ほどこし」ということです。何でも自分のものにしたい、他人のことなど考える余地がない、と絶えず自己中心になりがちですが、自分の出来ることで、たとえ財産が無く、力弱くても、少しでも社会世間の役にたつことになれば、これこそ本当の人生の楽しみとなりましょう。

2.持戒(じかい・つつしむ心)

仏教では、人生の規範として五戒八戒などと、色々な戒めがありますが、要は何も出来なくても、他人に迷惑をかけず、嫌な思いをさせない、つつしみの心がけが必要でしょう。

3.忍辱(にんにく・しのぶ心

私たちの身の回りには、腹立たしいことが余りにも多過ぎますが、それに一々腹を立てていたのでは、不愉快な毎日となってしまうでしょう。そこで自分を抑え、しのぶ心が必要となってまいります。

4.精進(しょうじん・はげみの心)

何かしようとした時、すぐ頭をあげてくるのが怠け心です。これは人間本来の性質かも知れませんが、一所懸命努力し、成し得た後の気持ちは、何ものにも代え難いものです。はげみの積み重ねこそ悔いのない人生と言えるでしょう。

5.禅定(ぜんじょう・しずかな心)

現代は騒がしい毎日の連続です。その騒ぎに、かまけているだけでは実のある人生は送れないでしょう。今こそ心しずかに物事に対処する落ち着きを必要といたします。

6.知恵(ちえ・さとりの心)

「いかり、おろかさ、むさぼり」を滅するための正しい心持ち、それが知恵です。正しい知恵の働きこそ明るい未来を開く原動力であります。六つの実践項目のうち、1〜5を実践することにより、私たちは自ずから真実の知恵を開くことが出来、悩みや苦しみから解放されることになるのであります。



しかしながら、この六度の行、どの一つをも行ずることが出来ないのが、私たち凡夫というものであります。ここに宗祖法然上人が、お出ましになって、念佛をお勧めになる必然性があったのであります。すなわち、修行が完成しなければ、彼岸に到ることが出来ないとすれば、凡夫は永遠に救われないではないか、万人を救うべき仏法には必ず、その方法が用意されている筈であると、その生涯をかけて探求され、遂に尋ねあてられたのが、阿弥陀如来の本願であり、お念仏であったのであります。

『われ浄土宗を立つる心は、凡夫の報土に生まるることを示さんがためなり』

「自分が浄土宗を開こうとする理由は、むつかしい修行の出来ない凡夫だれでもが、浄土に生まれることが出来るということを表すためである
」というのが、法然上人の立教開宗の宣言でありました。

実に、お念仏を申してまいりますと、到彼岸の行である施しも、身持ちを厳しくすることも、辛抱も、努力も、静かな心の統一も、そして知恵を身につけることも、何も出来ない自分にかわって、この私のために阿弥陀如来様が既に遠い遠い昔に、これらを悉く完全に成就してくれている真実が受止められてまいります。煩悩のままに、煩悩を捨てないでも彼岸に導かれていく自分を見出すことが出来るのであります。