2003年

    
思いっきり走っても息切れしないほど体内で効率よくエネルギーを作り出す遺伝子の変位が見つかった。この遺伝子は血液中で酸素を運ぶヘモグロビンを作り出すが、変位は普通のへモグロビンに比べ、筋肉などに酸素を運ぶ能力が一段と高い。この変位を遺伝子に持つ人は、高地トレーニングで鍛え上げたマラソン選手のような心肺機能を潜在的に備えていることになる。
これまではマラソン選手を過激なトレーニングで鍛え上げて育ててきたが、この遺伝子の変位を持つ人を、遺伝子の解析で調べれば優秀なマラソンランナーの卵をいとも簡単に発掘できることになる。
東京都老人研究所の白沢卓二氏の研究チームは、この遺伝子変位を持つ東北地方の女性(29)の協力で実験を行ったが、急な坂道を10分間自転車で駆け上がる運動をしても呼吸数は1分間に20回と運動前と変わらなかった。しかしこの姉(31)に同じ運動をしてもらったところ、呼吸数は35回に跳ね上がり息苦しさを訴えた。
またこの遺伝子変位を持つマウスを人工的に作り出して、低酸素状態で飼育すると通常のマウスは呼吸数は変わらず、走り回る距離も2倍に伸びて運動好きになった。
将来的には血液が十分に運べない狭心症などの遺伝子治療だが、そのうちに鈍足ランナーも遺伝子治療によってオリンピックを狙えるようになるかも知れない。
2月

明日香文明さんの今月のお言葉

3月

南部忠平は1932年のロサンゼルス五輪大会で三段跳びに出場して15m72の世界記録で金メダルを獲得した。学生時代、先輩や仲間達と100m、200m、走り幅跳びを中心に練習したが、記録は一向に伸びず、陸上競技に見切りをつける手前までいった。忠平は考えるところがあって、時間を見つけては動物園へ行き、猿の檻の前にじっと立って、動きを見続けた。猿は人間とよく似た体の構造を持ち、しかも何十倍もの敏捷な動きをみせる。
ここから何かを学べると思ったのだ。
動物園へ通うようになって、何ヶ月が経ったとき、忠平はぐっすり寝込んでいた猿がほかの猿に突然驚かされ、あわてて逃げる様子を見た。 最初驚かされた猿の後ろ足のひざは大きく折り曲げられていたが、あわてて走りながら跳んだとき、その後ろ足は普通の状態で跳んだときよりも曲げ方が少なかった。忠平は言う「この猿の動きから、私は跳躍と助走速度のバランスの取り方がいかに大切かを学んだのです」と。何度も試行錯誤を繰り返しながら、忠平は自信の無い自分に鞭打って練習を重ねた。そしてついに自分のフォームを完成し、ロス五輪で世界記録を樹立するという偉業を成し遂げたのであった。

4月

推理小説の大御所で古代史家でもあった松本清張の幼少時代は赤貧であった。一家は旧壇ノ浦に住んでいたが、家の半分は海に突き出ていて家自体いつ落ちるかもしれなかった。暴風雨のときなどは危なくて生きた心地がしなかった。やがて父の峯太郎は家出したため、母のタニと共にカマボコ屋に手伝いとして住み込んだ。しかし住み込みでは賃金が安く、食事もカマボコ屋の食べ残しの魚のアラを母が貰ってきて、これを煮直したものをおかずにして食べる惨状であった。 学歴もない。貧しかったため尋常小学校を出るのがやっとで、卒業後は商店の使い走り、電気会社の給仕、印刷所の工員などの職業を転々としたが、この間も芥川龍之介や、山本有三、岸田国士などの文学作品を読み続けて文学の勉強に励んでいた。その後28歳で朝日新聞西部本社の広告部に入社し、版下の仕事をするようになった。あるとき広告部の宴会が料理屋であった。上機嫌の部長が、お銚子を持って次々とお酌をして回ったが、清張のの前までくると彼を飛ばして隣の席に移っていった。部長にしてみれば、出世コースとは無縁の男としか映らなかったのだった。 こんな屈辱と赤貧の体験がバネになっているのだ。 どんな逆境も人生に役立てることができる。決して負けてはならない。

5月

文豪夏目漱石(1867〜1916)は、明治38年「我輩は猫である」によって文壇にデビューした。
生まれて間もない猫が夏目家に迷い込んできたのは、その前年の夏、漱石の妻鏡子は猫嫌いだった。猫は何度も外に追い出され、時には折檻された。だが、その度に戻ってきた。しばらくして漱石はようやく猫の存在を知った。妻の話を聞いて漱石は「それならおいてやればいいじゃないか」と言った。
妻はいささか不満が残ったが、この一言で猫は夏目家の住人になった。やんちゃな猫に手を焼いていたある日、夫人は出入りのマッサージ師のおばさんから意外なことを教えられた。それはこの猫が全身真っ黒で、家の繁盛を約束する福猫だということだった。それ以来夫人はその猫を大切にするようになった。そしてこの猫が小説のモデルとなり漱石は文壇に躍り出て世間に認められた。本当に出会いとは不思議な運命をもたらすのだ。
ランナー相互の出会いについても同じことが言えるだろう。

6月
お釈迦様は「生老病死」を人間の苦の原点とし、苦しみを受けとめ、正しく逃れることのできる「さとり」への道を説かれた。
時代が進み、二千数百年後の今日となると、さらに多種多様な苦しみに人が悩まされている。人は苦と楽の間に立ち苦から逃げたり、楽を追ったりする。現実には四苦八苦の毎日である。人は楽を求めて働き、またそれ以上の楽を求めてそのあげくに悪事を働き罪を犯す。人は苦しみから逃れるためにお金を使い、時に占いに懲り、祈祷などの災難除けを行いたがる。
だが人間の本質が分らずに、苦しみを逃れることだけを思って間違った方向でもがいていると苦しみはなくなるどころか、ますます複雑になり多くなる。 まさに泥沼にはまり込むばかりだ。
それならば私達は人生に付きまとう苦しみとどのように付き合ったら良いのだろうか。
これを真剣に考え抜きその道を的確に教え導いてくれるのがお釈迦さまの「さとり」の内容なのだ。

7月

野口英世(1876〜1928)の母シカは、酒びたりの夫に代わって、英世を育てるため一生懸命働いた。幼いころに囲炉裏に落ちて大やけどをした後遺症で手指の不自由な英世を、せめて高等小学に入学させて学問を身につけられるようにと荷物運びの過酷な労働に耐えて働いた。やがて左手の手術を受け指が動くまで回復した英世は医師の道を志して上京、医師になった後故郷で開業する気になれず単身で渡米し細菌学者として世界に名声を博した。字の読めないシカにとっての楽しみは小学校の恩師にあてた英世の手紙を読み聞かせてもらい消息を知ることであった。相変わらず貧しい生活を続けるシカと栄達を極めた英世が一時帰国して再会したのは、別れてから16年目であった。それから3年後にシカは一人侘しくこの世を去った。偉人の蔭には貧困と孤独に耐えて息子の成功を願った偉大な母の姿があった。

8月
健康で元気な健常者にとって手が動いて足が動いて当たり前、しかし手を動かしたくても足を動かしたくても動かせない人もこの世に沢山いるのだ。そんな人達にとって健常者の当たり前が遠い遠いはるかかなたにある夢物語なのだ。 皆が同じ空の下に生きているのに、人の世はなぜかとても不平等にできている。次はある17歳の重度しょうがい者の詩である
『ひとつの願い』
お便所に ひとりで行けるようになりたいのです
それが 私の願いです たったひとつのねがいです
神様 神様が いらっしゃるなら
私の願いを聞いてください
歩けないこと 口がきけないことも がまんします
たったひとつ おべんじょに
ひとりで ひとりで 行けるようになりたいのです

9月
8/25〜9/1にかけて8日間エジプトを旅した。6690キロという世界一の長さをほこるナイルの水だけが頼りのこの国は、直射日光が肌身に痛みを与える灼熱の太陽が遠慮なく照り付け、国土の大半が草も木も生えない広大な砂漠地帯だった。 でも痛い暑さだったが、乾燥しているために汗はほとんど出ない。妻は薄い布で身が露出しないように包んでおけば絶えることが出来た。ギガの元王宮ホテルからは正面にクフ王のピラミッドがそびえており、車なら5分とかからない距離にあった。驚きは歴史の古さだ。今から4500年前の遺跡が石造であるためにみごとに保存されてきた。 南部のアブ・シンベルやルクソールの神殿跡はどれも目を見張るようねな壮大さで柱や壁に刻まれた絵やヒエログリフ(絵文字)にも圧倒される。ツタンカーメンの墓は小さいが、盗掘をのがれおびたたしい数の黄金の遺品が発掘された。 棺の上に別れを惜しむ王妃が置いたであろう矢車草が今も枯れたそのまま保存されており心を打たれた。

10月
健康のためには中性脂肪を沢山含むドロドロの血液は最悪だが、ドロドロの血液こそマラソンのエネルギーとする報告が日本陸連科学委員会からなされた。スタミナにはグリコーゲンとされていたが、グリコーゲンはどんなに頑張っても90分も走れば枯渇するのだそうだ。ところが中性脂肪の量の多いランナーは35キロ過ぎからガクンと足がとまることがない。レース終盤にガタガタになるランナーは実はサラサラ血液の超健常ランナーだったのだ。
中性脂肪が血液1dl中150mg以上では肥満になりやすいからご注意とのこと。またまた水分補給なしでドロドロ血のまま走るほど危険なことはないのでこの点にも注意が必要だ。

11月
人生には成功もあれば失敗もある。いつも何事もうまくゆくとは限らない。でもうまくゆかないことがあっても悲観し続けることはない。失敗からその原因を学んでこれを生かせて行けば、良い方向が開けることも多い。
自然を思えばよいではないか。自然にも晴の日もあれば雨天の日もある。。そして雨の日を耐えしのべば、やがて晴の日がやってくる。また朝の来ない夜はないのだ。
人生をうまく生きるには、真剣に慎重に転ばないように気をつけなければならない。でもどんなに心していても転ぶことがある。だが、転んだときに気持ちで負けずに立ち上がることが大切。なんとしても立ち上がらなくてはならないし、立ち上がることが素晴らしい。転んだときに立ち上がりさえすれば、転ばぬ者よりも、大きな力自信に湧き起こってくるのだ。

12月
人間のやることに絶対なぞありえない。負けることをまったく考えない程に準備を重ねつくした絶対勝利者であったはずの高橋尚子が東京国際女子マラソンでフラフラになってゴールにたどり着いた。日本人選手の中ではトップの記録なのだからなお且つすごいともいえるが、この世界の厳しさは世界一でないとすごいとは誰も本気でいってくれないことにある。日本一なら1億の人間の頂点でよい。しかし世界一は60億の人間の頂点でなければ実現しない。並みの難しさではない。だから世界的マラソンランナーはあらゆるスポーツの中でももっとも過酷な練習を人間の限界を超えて執拗なまでに繰り返す。酸素の希薄な高地トレ、食事管理、生理を考えない体調管理、どれもどこかの国の強制収容所よりももっと厳しい。だから勝っても負けても拍手で迎えてあげればよい。だだよく戦ったとほめてあげるだけでよい。

1月

新年おめでとうございます。ご機嫌よく新年をお迎えのことと存じます。
人生の幸せは最終的には人体の良、不良によって決まります。体が丈夫であることは、人生最大の喜びであり、幸せであります。体が弱くては人様への手伝いもできません。世の為、人の為に働く為には、自分自身の体は自分で養成して、力を蓄えることです。体さえ丈夫であれば八十歳でも九十歳でも世の為、人の為に尽くすことができるのです。
皆で励まし合いながら、今年一年、明るく、楽しく、仲良く体を鍛えてゆきましょう。