クリス・クロフォードはゲーム業界における良心であるが、ゲームの製作者としてはあまり知られていない。 100万ドルの予算と技術の進歩は奇妙な非双方向的ゲームを生み出し、 「うーん、あまり覚えていない・・・」というゲームレビューを多く生み出すこととなった。 そんな中、クリスは思慮深く実験的なゲームデザインが存在する事を思い出させてくれる。
クリスは文学的観点からゲームデザインを構築した最初の一人であり、クラシックコンピュータゲームを創造した一人である。 Atari800で作動するクラシックコンピュータゲームには、ATARIから発売された スクラム(SCRAM(緊急停止):ATARI, 1981)・エネルギー・ザー(ENERGY CZAR(エネルギー皇帝):ATARI, 1980)、 アバロン・ヒルから発売されたレジオネラ(LEGIONNAIRE:Avalon-Hill, 1982)、 8ビットウォーゲームの元祖である東部戦線1941(EASTERN FRONT 1941:ATARI, 1981)がある。 その後クリスは開発の舞台をマッキントッシュに移し、バランス・オブ・パワー(Balance of Power:Mindscape, 1985)・ パットン対ロンメル(Patton Versus Rommel:Electronic Arts, 1987)・パットンの逆襲(Patton Strikes Back:Broderbund, 1991)を 製作した。
クリスはジャーナル・オブ・コンピュータゲームデザイン(Journal of Computer Game Design)と コンピュータゲームデベロッパーズカンファレンス(Computer Game Developers' Conference)の設立者であり、 何冊かの本も書いている。 その代表作はジ・アート・オブ・コンピュータゲームデザイン(The Art of Computer Game Design)だ。
私の妻がシリコンバレーで職を得て、私達はそこへ引っ越しました。 私もそこで仕事を探していたのですが、妻が「プログラマ募集:ゲームデザイン」という広告を見つけてきました。 その広告はヘッドハンティングの広告だったようで、面接後、不採用となりました。 私は抗議のために以前製作したいくつかのコンピュータゲームを見せましたが、私が三年間のプログラミング経験がないことを理由に、断られました。 私は打ちのめされましたが、妻が怒りながら電話帳を手に取り、「コンピュータゲーム」の求職ページを開きました。 その最初のページに掲載されていた企業がアタリ(Atari)だったのです。 次の日の朝アタリのオフィスへ電話をし、面接を受け、採用されました。 後でわかったのですが、その仕事はヘッドハンティングで募集していた仕事と同じ仕事でした。
ほとんど全てがプログラマで、技術屋でした。 雰囲気も専門的でした。 作業における技術的問題は、常に環境に起因していました。 2キロバイトのROM、128バイトのRAM、スクリーンバッファなしと、圧倒的に貧弱でした。 画面上の走査線も77本しかなく、実に挑戦的でした。
それらは二年間におよぶ作業の累積です。 エネルギー・ザー(ENERGY CZAR(エネルギー皇帝):ATARI, 1980)は1980年1月に制作を開始し、 1981年までアタリ内部で保留していました。 スクラム(SCRAM(緊急停止):ATARI, 1981)は1980年6月から9月に開発を始め、1981年6月に発売されました。 タンクティクス(TANKTICS:Avalon-Hill Game Company, 1981)は1980年末から開発を始め、1981年にアバロン・ヒルから発売されました。 東部戦線1941(EASTERN FRONT 1941:ATARI, 1981)は1981年の6月から8月にかけて開発し、1981年11月に発売されました。 東部戦線1941は当時における芸術的ウォーゲームでした。
二つあります。一つはユーザーインターフェースで、一つは人工知能です。 私はこれら二つの問題を解決しました。 人工知能は特に賢くなりました。 全てのユーザーI/Oは、分間数千サイクルで、垂直帰線消去処理中に慎重に処理さます。 人工知能そのものは、近似値収束システムを使用して、メイン処理中に実行されます。 これにより、人工知能は間抜けな移動から思考を開始し、改良のための調査を実施します。 プレイヤーが移動を考えている間、コンピュータも自身の移動を考えており、数百万サイクルで移動を改良します。
アタリのマーケティング部がウォーゲームは売れないと考えていたからです。
そのとおりです。ソースコードは開発段階から重要であり、その販売は私が決定しました。 ソースコードの販売は奇妙な行動ではなく、面白い考えだと思ったのです。 多くの人々は依然としてプログラミングに問題を抱えており、アタリの東部戦線1941のような素晴らしい解決手法を見出していませんでした。
東部戦線1941のソースコードはAPXカタログの中で最も高価であり、150ドルで売られていたと思います。 販売量は我々の予想を大きく上回っていたと記憶しています。 多くの人々はソースコードを知りたがっていたのでしょう。
あのような崩壊が訪れるとは誰も予見していませんでしたが、私は違いました。 1984年3月の始めに管理職の夕食会が開催され、数百人が集められて、最悪の状況を脱した事を祝福しました。 しかし、それから三ヶ月以内にその部屋にいたほとんどの人々は仕事を失いました。
わかりません。 バランス・オブ・パワー(Balance of Power:Mindscape, 1985)は大ヒットし、誇りを持っています。 しかしトラスト・アンド・ビトレイル(Trust & Betrayal(信頼と裏切り):Mindscape, 1987)は創造的すぎました。
トラスト・アンド・ビトレイルは特別でした。 なぜなら、トラスト・アンド・ビトレイルはゲームデザインにおける完全に新しい方向性を示していたからです。 トラスト・アンド・ビトレイルには革新的アイディアが詰まっていました。 例えばトラスト・アンド・ビトレイルにおいて、文章構造のコンセプトをインターフェイス要素と中央データ構造の両方に初めて使用しました。 文章構造の重要性をこの場で語ることはできませんが、それらはより進歩したゲームデザインです。 現在他のデザイナーもこのコンセプトの重要性を認識し始めていますが、私はトラスト・アンド・ビトレイルにおいて8年前から使用していました。 トラスト・アンド・ビトレイルは強い個性モデリングを持った最初のゲームであり、感情的な個性の相互作用を形成させた最初のゲームです。 それは戦闘とは無関係な私のコンセプトのいくつかを超越しています。 今年、その重要性をさらに認識する事ができるでしょう。
世間はトラスト・アンド・ビトレイルの思想を理解していませんでした。 トラスト・アンド・ビトレイルは5,000本しか売れず、完全に失敗でした。 いかなる標準的なデザイン形式にも合致しなかったのです。 誰かが自身のゲームデザインをプログラミングするとします。 そのプログラミングは楽しく簡単でしょうが、それが他に迷惑をかける結果となればどうでしょうか? 私はプログラミングを楽しみません。 私はデザイナーでありデザインが優先です。 自身のデザインに近づけるため、プログラマに発破をかける事は重要ですが、それはプログラマと戦う事を意味してはいません。 プログラマが他の機種に私のプログラムを移植できないケースがたくさんありましたが、その場合は自身でプログラミングを行いました。
野性的で狂気的なデザインが減りました。 昨今における巨額の予算やとても保守的な人々は、真のデザインに対する挑戦を非難しています。 我々の創造性は減少しました。
Power Mac 8500, 120 MHz, 16MB RAM、21インチと15インチのモニター、Metrowerks C++. Learning C++です。 Learning C++により仕事が簡単になりました。 不安な箇所が強調されて表示されるようになったのです。
たしかに、ハードウェアやコンピュータ言語の進化によって私の仕事は簡単になりましたが、利益と同程度のコストが必要になりました。 全体的に仕事は早く終わるようになりましたが、他の人々との競争に耐えうる内容を期待されています。 それでもなお、全ての開発過程において10年前より良くなっています。 以前はコンパイルに10分間が必要でしたが、今では数秒で完了します。
ゲームプレイのさらなる深化はゲームを自身の小さな世界へと駆り立てるだけです。 ゲームプレイとは現実世界における失われつつある触覚であると考えます。 いつの日かコンピュータとエンターテインメントの巨大な融合が実施されるでしょうが、 それはゲームと呼ばれる事はなく、現在のゲームの意志を継いでいる存在でもありません。
あまりにもたくさんありすぎます。 ゲーム機におけるインターフェイスとして、据え置き型の運動用自転車がありました。 このアイディアは人々にエクササイズをゲームとして提供するものでした。 そのゲーム内容のほとんどは、追いかけてくる何かからペダルをこいで逃げるというものでした。 このアイディアはなかなか良かったのですが、誰かの「プレイヤーが心臓麻痺を起こしたらどうするんだ?」という一言によりボツになりました。 その後頭に何かを付けて脳波を取得するというものもありました。 このアイディアは、自分の思考によって機械をコントロールし、ゲームをプレイするというアイディアでした。 機械は実際に製造され、外部で試験も行われました。 問題はそこで発生しました。 ゲームに熱中した人々が、画面上のプレイヤーをコントロールしようとして、自身の顔の筋肉を押しつぶしたのです。 またひどい頭痛も発生させました。 それらが原因となって、このアイディアはボツになりました。 プレイヤーがダメージを受けた時、ゲームをさらにリアルにしようとして電気ショックデバイスを取り付けた事もありました。 このアイディアの残忍性は黙殺したとしても、そのようなデバイスにお金を払う人など存在しません。 これは危険を安全に体験するというゲームの目的を否定しています。
いいえ。 芸術としてのゲームに関する言及は、小さな心に宿った大きなエゴであり、うぬぼれです。 いつの日か、我々は芸術の資格を持ったゲームや双方向的エンターテインメントを手にするでしょうが、 私はまだお目にかかった事はありません。 ただ、一つだけ確かな事があります。 それは、我々ができる最上である、真の双方向的芸術を実現する未来の世代への道は明確ではないという事です。
ヒドゥン・アジェンダ(Hidden Agenda(隠れた意図):Springboard, 1988)、シムシティ(SimCity:Broderbund, 1989)、
ドゥーム、シークレットウェポンズ・オブ・ザ・ルフトバッフェ(Secret Weapons of the Luftwaffe:Lucasfilm Games, 1991)です。
あまり多くはありません。
私自身の要求が高すぎたのか、あるいは、ゲーム業界が尖鋭さを失ったのでしょう。
ジェイムス・ハーグによるクリス・クロフォード氏へのインタビューの全ては下記のURLを参照する事
http://dadgum.com/halcyon/BOOK/CRAWFORD.HTM
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