大陸見物
ここでは当時の旅行者を偲んで旅行に関する品や
絵葉書等で大陸の旅の一端を覗いて観たいと思います。
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左の鞄のコーナー部に
貼られた満洲航空の
ステッカー
↑ リゾートホテルだった大連近郊の星ヶ浦のステッカーです。
海のイメージとヤマトホテルのマークが描かれております。
主要な都市には満鉄経営のホテルがありました。
中でもヤマトホテルは高級ブランドホテルとして有名です。
ヤマトホテルは新京・奉天・大連・旅順等にもありました。
鮮鉄のマークは年代によって変更があるのか下図左側の様に工の両側にHを円形に2つ配置したもの
(上の急行券や鮮鉄発行の絵葉書の切手貼り付け部や急行”あかつき”のテールマークデザインに見られる)
や昭和初期の印刷物に工の両側にC(CHOSEN)とG(GOVERMENT)を円形に配置したものが見られます。
(上の長安寺ホテルのステッカーに見られるマークなど ) さらに下図右側のマーク(鮮鉄発行の絵葉書など)
もあるようです。
↓ 下の乗車券は鮮鉄内の咸安から奈良県の王寺までの乗車券です。
大阪と京都の下車印が押されています。誤乗の印が珍しいと思います。
↓ 昭和18年の連絡急行券(鮮華)です。下関で発行されています。3等で釜山から1301km以上となって
います。裏面には新義州での(出国)検札印が押されています。安東から満洲国に入り北京方面へ向かう
急行券です。おそらく急行”興亜”で使われたのものではないかと思います。
↓ 奉天は大都市で沢山のホテルがありました。平和ホテルや大星ホテルのステッカーには満洲国の
国旗も使われています。
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当時の朝鮮総督府鉄道局の
パンフレットです。
満洲や北支への利用客を獲得するために朝鮮の観光案内等が書かれています。
ホテルや満洲航空のステッカーが貼られています。
当事、飛行機を使って旅する人は極限られた人
だったと思います。この時代は旅行鞄にステッカー
を貼る事が流行していたようです。
様々なステッカーが発見されています。
↑ 五龍背温泉の満鉄直営ホテルの
ステッカー
(裏)
(表)
(裏)
新義州鉄道会館の案内板
(看板サイズ:W500×H360)
釜山鉄道ホテルの案内板
(看板サイズ:W480×H350)
旅行鞄とステッカー
当事、大陸に渡るためには飛行機または連絡船が使われました。殆どの場合、連絡船により大連や
朝鮮半島の釜山へ入るルートが使われたようです。当事の旅行鞄にはこれらの足跡がステッカーと共に
残っていたりします。
朝鮮半島からは朝鮮総督府鉄道局が満鉄、華北への連絡を行っておりました。 (年代により若干異なります)
釜山からの奉天・新京・北京等への直通列車 : 急行”興亜”、急行”大陸” 【釜山〜北京】
急行”のぞみ” 【釜山〜奉天】
急行”ひかり” 【釜山〜新京】
釜山から京城への列車 : 特急”あかつき”
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写真は大連埠頭の大阪商船
日満連絡船の”ばいかる丸”です。
※ 上のステッカーの船です
港ではこうした見送りの人とテープを
つないだ別れの風景がみられました。
奉天のホテルステッカー
視察団の足跡
当時、新興の満洲へは日本国内からも様々な視察団が訪れておりました。
下は鉄道省の水沢駅が昭和5年9月17日から行った鮮満視察を記念して地元の南部鉄器で作った鉄瓶です。
裏側には視察ルートの地図が描かれています。岩手県の水沢駅から下関へ移動し、船で釜山に渡り、朝鮮半島
を縦断して満洲入りし、帰りは大連から船で下関に帰ってきたものと思われます。
日の丸と満洲国の国旗が靡いています。
これは未使用で残されていたものです。
紙製で裏に切手のように糊が付いています。
← 有名な観光地”金剛山”にあった
鮮鉄経営による”長安寺ホテル”の
ステッカーです。
極彩色の優れたデザインの
ステッカーだと思います。
ご飯の掛け紙です。
価格や日付は印字されておりませんが
元の所有者によって鉛筆で書かれた裏書があり
昭和18年に売られていた物の様です。
紙は極薄い和紙の様な感じで少し艶のある紙です。
連絡切符
←↑ 満洲航空株式会社のステッカー
左の様に地域名を入れてそれぞれ
異なるデザインのものが用意されて
おりました。 左は承徳のものです。
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鮮鉄ホテルの案内看板(両面ホーロー製)・ステッカー
鮮鉄内には釜山・平壌・新義州等に鮮鉄経営のホテルがありました。
↓ 中央に鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局)のマークの入った看板です。微妙に大きさが異なっております。