Chapter 10:

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伊藤若冲・私論

Ito JakuchuPersonal View

 

宮門正和(京都府・宇治市)

Masakazu Miyakado (Uji, Kyoto, Japan)

 (described June, 2017) 

 

◎目次をクリックすると、その個所に移動します。



目次


はじめに

生い立ち、画風

代表作品

「動植綵絵」

「果蔬涅槃図」

「釈迦三尊像」

「樹花鳥獣図屏風」と「鳥獣花木図屏風」の真贋論争

五百羅漢

若冲という人生

若冲芸術の国際性、現代性、そしてジョー・プライス

 

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1.はじめに

  今から17年前の2000年(平成12年)のことである。電車内で総天然色のリアルな「鶏」の吊り広告を見た。それは京都国立博物館の「特別展覧会、若冲展-没後200年-」の会告であった。「若冲若冲 Jakuchu! 特別展覧会 没後200年/京都国立博物館編(じゃくちゅう)」は私には初めての名前であったが、その「鶏」があまりにもリアルに描かれていたため、一体どんな画家なのかと記憶に残った。家人が盛況の展覧会に行き、上質紙で出来た厚さ3cmもある重たい図録を買ってきた。図録に掲載の作品はいずれもこれ以上もない精緻さで描かれ、その観察力と正確な筆致には驚かされた。画家というよりはプロの絵師という呼び方がふさわしい。それとともに、この絵師は相当に偏執狂的で非妥協的な精神構造の持ち主ではないかと勝手に推察したものである。確かに素晴らしい個性的作品集であったが、あの時、私は京都の絵師「若冲」に距離を感じた。一方、この年、2000年は日本で若冲が大きく花開いた年とされる。



  話は変わって、4年前の2013年のことである。友人達と連れだって京都散策のシリーズ行を催した時、その一つとして、京の台所、錦市場を訪ねた。「大丸さん」で集合し、高倉通りから錦小路に入るところから、錦市場が始まるが、そこで目が「点」になった。錦市場の入り口に遮光のための大きなビニールが架けられ、そこに若冲の鶏、魚影や野菜が大きく描かれているのを見つけた。「なんで錦に若冲やねん?!」 驚きもつかの間、錦小路に入ると、すぐ右手に若冲の生家を示す標柱を見た。なんと、若冲はこの庶民的で賑やかな地で生を受けた「京都ゆかりの絵師」であることをここで初めて知った。若冲と私とのふたたびの巡りあいである。

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2.生い立ち、画風

  若冲は元禄文化の爛熟期である江戸時代の半ば、1716年(正徳6年)に京都・錦小路の青物問屋「枡屋」の長男として生まれた(幼名は不明)。与謝蕪村とは同年の生まれである。枡屋は錦市場とその周辺で青物全般を統括し、隆盛を誇った流通業者であり、いわゆる小売りの八百屋さんではなかった。23歳の時に父・三代目伊藤源左衛門が急逝し、若冲は急遽、四代目の枡屋・伊藤源左衛門を襲名することになった。生来、彼は世間雑事・技芸百般に疎く、商売に不熱心、付き合い下手、飲酒を好まず、生涯を独身で通した、世間で言う不器用者であった。「宴飲・声色を事とせず」(徒然草・217段)とは若冲のような人物を言うのであろう。ただ、若冲は絵を描くことにかけては尋常ならざる執念を持っていた。かくて、40歳になった時、家督すべてを弟に譲り、自由な隠居の身となった。

 

若冲は若い時に作画の基本を狩野派の画家に師事し学んだ。しかし、狩野派の伝統的な画風に大きく影響されることはなく、やがて独自の作風を追及してゆく。自らの魂までは売らなかったわけだ。若冲の思考では、基本的には空想上の霊獣(麒麟や龍など)や、中国の風景・古寺・人物などは制作の対象ではなく、また日本の人物や風景などc0293456_21462945.jpgを描くことも「よし」としなかった。若冲の作品集を見ると、描かれた対象にいくつかの例外はあるものの、狩野派の画家が得意とした孔雀、川蝉、鸚鵡(おうむ)など、目にする事の少ない華麗な鳥類などと若冲は距離をおいた。彼は結果として身近でよく見かける対象物、すなわち庭で飼われる鶏や、野菜・果物、馴染みの庭木などを画材として頻繁に取り上げた。それもただ単に写生するのではなく、写実に想像を精緻に注入することにより、生物を生き生きと描き、そこに若冲独自の世界を築いていった。やがて「奇想の絵師」として一定の評価を受けるようになり、彼の作品の価値は揺るぎないものへと育っていった。

 

若冲37歳。まだ自身は家業で繁雑に過ごしていた時期に大事な邂逅があった。のちの時代に相国寺の第百十三代住持となる、若冲とは同時代人である大典顕常(だいてんけんじょう。当時は大典禅師)との出会いである。その頃の若冲は豊かな商人であり金銭的な援助を必要とはしなかったが、芸術論や絵画論の醸成にあたっては生涯を通じて大典に仰ぐところが多かった。また、大典も自らの芸術所感の実行者として若冲を必要とした。若冲という名は老子の著作の中の語句、「大盈若沖、其用不窮(充ち足りているものは、なかが空虚なように見えるが、その用途は無窮である)」からとられた。中味が一杯詰まっているという意味であろう。その名づけ親は大典禅師であり、若冲はこの時から、生涯にわたって「若冲居士」を名乗った(冲は沖の俗字とされる)。

 

若冲は自らの作品について何も語らない。残した言葉は、「千載具眼の徒を俟つ(千年後に見識のある人の目に留まればいい。)」であり、「ただ、作品を見てほしい。」が彼のメッセージである。

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3.代表作品

若冲の作品は屏風図、障壁画、掛幅、画巻、版画など、多岐にわたる。いずれの作品も、構図の緻密さ、大胆さは若冲独自の境地を示す。ここでは「動植綵絵」、「釈迦三尊像」、「樹花鳥獣図屏風と関連作品」、「果蔬涅槃図」の四種の代表的な作品を取り上げる。

 

「動植綵絵」

家業を離れて身軽になった40歳から、若冲の絵画制作に全注力する生活が始まった。42歳から50歳ごろまで、約10年の歳月をかけて若冲の最大傑作とされる全三十幅の掛幅「動植綵絵(どうしょくさいえ)」が完成された。一年間に平均三~四幅の制作である。この作品集では動物(鳥類、小禽類、雀、鶏、魚類、群虫、雁など)、植物(芍薬、梅、庫裏、向日葵、紫陽花、老松、芙蓉、薔薇、牡丹、枯れた葉など)、描きたい対象の様々な姿態が生き生きとした構図で描かれている。生物に対する鋭い観察眼と探求心。これからの若冲の活躍を約束するあらゆる要素が凝縮されている。研究者によると、初期の作品から、後期の作品に至るまでの間、先人には見られない大胆かつ繊細な描画上の様々な工夫(発明)があるという。それらの技法の中にはまだ未解明のものもあるようである。様々な試行を経て、この世紀の傑作は着々と仕上げられていった。

 

各々の作品は縦142cm、横79cmの絹本着色の掛幅である。若冲がこれらの作品を仕上げてゆく状況をつぶさに見届けた大典禅師は、世に類ない作品が次々と創作されてゆくことを知った。以下、その一例として、春・夏・秋・冬の季節の生物を描いた四作を示す。大典はそれぞれの作品に四文字の画像を象徴する優雅な画題を与えた。

 

これらの作品が完成する前から、「動植綵絵」は評判となり、実際の作品を見ることのなかった京都の人たちの間でも町人絵師・若冲が噂にのぼるようになった。やがて、狩野派や琳派などの武家等の御用絵師ではない町人の若冲に、天龍寺や金閣寺(鹿苑寺)などの京都の大きな寺院から襖絵や掛幅の制作依頼が舞い込んで来るようになった。相国寺も、もちろんその様な寺院のひとつであった。これは若冲と大典禅師との浅からぬご縁の賜物である。そして、現在、相国寺には承天閣美術館が開設され、いくつかの若冲作品が常設展示されている。

 

碧波粉英(梅花小禽図)、艶霞香風(芍薬群蝶図)、野田楽生(秋塘群雀図)、寒渚聚奇(雪中鴛鴦図)

http://island.geocities.jp/hisui_watanabe/art/artgallery/popular/jyakuchu/shakuyakugunchou.jpg http://island.geocities.jp/hisui_watanabe/art/artgallery/popular/jyakuchu/baikashoukin.jpg http://island.geocities.jp/hisui_watanabe/art/artgallery/popular/jyakuchu/shuutougunjyaku.jpg http://island.geocities.jp/hisui_watanabe/art/artgallery/popular/jyakuchu/sextuchuukinkei.jpg


https://40.media.tumblr.com/7f2590da27a892200ef70411987fbba9/tumblr_mfu072v7ja1rjwa86o1_1280.jpgでは、若冲作品は何がどう画期的なのか?ここにその一例を示す。左は動植綵絵の「老松白鳳図」の全体図であり、下図はその鳳の頭部を拡大したものである。拡大によってもその細密さはいささかも曇ることはない。その構図の大胆さと、観察の精緻さは作品の隅々まで尽くされている。その嘴の部分を拡大して凝視してもその緻密さは同様である。これほどにも微細な個所を描ききっても、いささかも全体の生き生きと躍動する鳳の姿は失われることはない。すべてがこの緻密さと絶妙のバランスの上に成り立っている。背景の老松との色調のコントラストも見事である。

 

もう一つ、若冲は色彩をより豊かに、かつリアルにするために、裏彩色(うらざいしき)という技法を駆使した。例えば、この「老松白鳳図」の鳳の羽根は黄金色に輝いている。これはキャンバスである絹生地が半透明であるという特性を生かし、この図柄では表面に白色、裏面には黄土色を塗りこむことで鳳凰の羽根を黄金色に輝かせている。若冲は多くの作品でこの裏彩色の技法を効果的に使っている。ここではモノクロの写真しか掲示できないが、例えば、「動植綵絵+若冲」で検索すると、彼の作品がパソコンの画面上ではあるが、カラー色で見ることができる。実物や美術書には及ばないが、その勢いを感じて戴けることと思う。

 

「動植綵絵」を完成した若冲は1770年(明和7年)に、父の三十三回忌に当たり「動植綵絵」二十四篇と、次に述べる「釈迦三尊像」を合わせて相国寺に寄進した(のちに「動植綵絵」は六篇の追加寄進があり、合計三十篇となった)。相国寺はそれらを寺宝として扱い、寺の催事にこれらの作品はしばしば展示され、一般の人達にも鑑賞の機会が訪れることになった。

 

今、我々は若冲の秀作、『動植綵絵(どうしょくさいえ)』より「老松白鳳図(ろうしょうはくほうず)」(伊藤若冲 画)における鳳凰の眼差し(拡大画像)「動植綵絵」や「釈迦三尊像」を近くで目にすることができるが、その来し方を訪ねると、そこにはきわどい過去があった。1788年(天明8年)の正月に団栗辻子(今の団栗橋東詰)から出火した「天明の大火」は京都の市街地の殆どを舐め尽くした。相国寺も甚大な被害を受け、本堂、塔頭など多くの建物を焼失した。この時、幸いにも若冲が寄進した「動植綵絵」と「釈迦三尊像」は運び出されて焼失を免れた。今、我々が目にすることのできる若冲の大作は、歴史の荒波に飲み込まれることなく、その息吹を今に伝えてくれている。素直によろこびたい。

 

また、後日談になるが、明治期の廃仏毀釈の嵐の中で疲弊しきった相国寺は、京都府知事の仲介で、明治22年に「動植綵絵」三十篇を宮内省に献上した。その見返りとして宮内省から一万円の下賜があり、これにより相国寺は一時の苦境から脱することができたと言われている。爾来、「動植綵絵」三十篇は宮内庁の所有となり、三の丸尚蔵館で保管されるようになった。三十篇の名画は廃仏毀釈という歴史の皮肉に翻弄されることになったが、色々と議論もあるところであろうが、今となっては、全篇が散逸することなく、いい状態で保存されることになったことを「多」としなければいけないように思う。

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「釈迦三尊像」

「動植綵絵」制作の傍ら、若冲50歳の1765年(明和2年)に、縦210cm、横110cmの絹本着色の大幅の掛幅、「釈迦三尊像」を数年かかって完成した。若冲は直接、自分の目で見ることのできる対象以外のものを描くことは少なかったが、これら釈迦像・普賢像・文殊像の三幅の仏画は彼の仏教とくに、禅に対する帰依の心情を表現しているとされる。若冲は「これらの作品は模倣」という言葉を残している。東福寺で「帳思恭(ちょうしきょう)」作とされるこれら三篇の作品を見て、それらの巧妙無比な構図に感嘆し、それを

 

http://www.shokoku-ji.jp/img/j_img/j_meihou/meihou/jaku_ito_03.jpg http://www.shokoku-ji.jp/img/j_img/j_meihou/meihou/jaku_ito_01.jpg http://www.shokoku-ji.jp/img/j_img/j_meihou/meihou/jaku_ito_02.jpg

普賢像                     釈迦像                      文殊像

 

可能な限り精密に模倣したとされる(「帳思恭」は14世紀・元の時代の絵師とされるが、そのような名の絵師の実在は確認されていない)。

 

若冲が模倣したとされる元々、東福寺にあった原画は、現在、釈迦像は米国の美術館が、文殊・普賢の二像は東京・世田谷の(財)静嘉堂文庫美術館が所蔵している。皮肉なことではあるが、この若冲の作品があまりにも精緻に描かれた為に、この「釈迦三尊像」の世間的評判は東福寺の原画を越えてしまった。今、「釈迦三尊像」は相国寺の承天閣美術館で見ることができる。この「釈迦三尊像」は生涯にわたって禅を希求した若冲の作品として評価が高い。

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「樹花鳥獣図屏風」と「鳥獣花木図屏風」の真贋論争


伊藤若冲《樹花鳥獣図屏風》毎年ゴールデンウィーク期間に展示予定

「樹花鳥獣図屏風」(静岡県立美術館蔵) 


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「鳥獣花木図屏風」(エツコ・ジョー プライス コレクション)

 

一見、六曲一双のこれらの二つの屏風絵は同じような構図で、大胆な色彩で構成されている。しかし、よく見ると微妙にその部分、部分は異なり、どちらかがどちらかを模写したに違いないと想像される。しかし、この二つの作品が他の絵画作品と異なるhttp://blog-imgs-56-origin.fc2.com/l/e/m/lempicka7art/Itoujakutyuu7.jpg決定的な点は、キャンバス全体が9mmの方眼で区切られた一種のモザイク画である事である(その数はなんと八万数千白象群獣図の白い象個!!)。その方眼のひとつひとつに色彩が塗り込まれ、全体が仕上げられている。この手法は「枡目描き」と言われ、若冲が考案したとされる。

 

この技法を用いた作品は多くなく、「白象群獣図」という墨画の作品には落款や印章もあり、若冲の真作とされる(右図)。左に示すのは象の牙の部分の拡大図である。その特徴は各々の方眼の左上に周辺よりも濃い小さい正方形の墨を塗りこんで、全体としてグラデーションを調整しようとする随分と手の込んだ手法である。各々の方眼の中の左上の濃淡部はほぼ同じ大きさでそろえている。拡大してみるとそのからくりがよく判るが、何とも奇妙ではあるが、独創的なデジタル画像的な構図である。

 

  問題は、「樹花鳥獣図屏風」と「鳥獣花木図屏風」である。いずれも「枡目描き」の技法を用いている。しかし、拡大してみるとよくわかるが、各々の方眼の濃い部分は左上には寄せられておらず、いずれも方眼の中央に小さい正方形で描かれている。また、その小さな正方形の大きさは、場所によって一定していない。そして、この両方の作品には落款と印章がなく、制作年代もわかっていない。また、おのおのの作品の発見者、所有者は「自らの作品こそは真作」と主張し、学者を巻き込んでの大きな論争となった。ここではその真贋の議論には立入らないが、問題は美術学術の世界でどう決着しているのであろうか?気になるところである。

 

私の個人的な独断と偏見からは、前者の「樹花鳥獣図屏風」を、動物全般の躍動感から「若冲らしいなあ」と思わないでもない。後者の「鳥獣花木図屏風」は、特に拡大した枡目図を見ると色彩の濃淡の付け方にやや適当なところがあるように見受けられるが、……あまり強い断定は避けた方が良さそうだ。いずれにしても、随分と手の込んだ作品である。真贋問題とは離れて、これは江戸時代に作られたジグゾーパズル型の屏風絵の鑑賞と思いたい。

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「果蔬涅槃図」


http://www.bell.jp/pancho/k_diary-16/images/1205-39.jpg果蔬を描くとき、若冲の筆は緩む。これまで鋭角的であった筆の運びが一気に丸みを帯びる。そこに果蔬に対する若冲の優しさを見る。

 

お釈迦様が入滅されるときの釈迦涅槃図は仏教画の基本図形であるが、若冲は身近な野菜類を組み合わせて、大胆でユーモラスな「果蔬涅槃図」(左図)を描いた。これは若冲の母親が亡くなった時、その往生を願って即興で一気に描きあげられたものと言われている。釈迦涅槃の位置で横臥の姿勢をとる二股大根は、若冲の母親と重なる。釈迦涅槃図では周りの人々や動物が、釈迦の入滅を全身で嘆き悲しむのがその表情であるが、若冲のこの涅槃図では、周囲の野菜たちは歓談し、談笑を楽しんでいる。釈迦図で臥床の四方を取り囲む沙羅双樹の聖樹は、ここではトウモロコシである。

 

 

  日頃、見慣れた果樹、蔬菜類を画材とするのは若冲には悦びであったに違いない。彼と一緒に労苦を共にした青物の問屋や小売商の仲間たちは、何かにつけて気軽に彼に絵をせがんだことであろう。果樹、蔬菜の作品は多くあるが、どの作品も力みはなく筆の動きはなめらかである。   

unnamed (1)のコピー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

http://www.kyoto-nishiki.or.jp/img/jakuchu/vegetables.png

「京都錦商店街振興組合」のホームページに引用される若冲の描く野菜図」

 

現在の錦小路の商店街では、シャッターのデザインに若冲の名画を使っている。営業を終えて各店舗がシャッターを下すと、夜の錦小路はさながら若冲作品の夜間ギャラリー、ナイトミュージアムへと変身する。また、錦小路のアーケードの天井から吊るされた大きな図柄は、野菜であったり、魚であったりと、それはみずみずしい錦市場の商品そのもののである。若冲様、様である。生涯にわたって庶民であった若冲が、京都の誇る伝統の錦市場で、今もしっかりと存在し、尊敬されている。これは彼にとって最高の栄誉であり、供養であろう。

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4.五百羅漢


日記の画像70歳を越えても若冲の創作意欲は衰えることを知らない。新たに京都・深草にある黄檗宗の禅寺、石峰寺(せきほうじ)に釈迦の生涯と五百羅漢を石像で寄進する着想を得た。これまでの彼は屏風、襖絵、掛け軸絵、版画などの制作に注力してきたが、今回は町の石工や一般の人々との共作で、深草の竹林の中に釈迦の誕生から涅槃までの生涯を石像で表現しようとするものであった。説法に立つ釈迦像の周りを様々な表情の五百羅漢石像で取り囲む構想である。それぞれの五百羅漢の表情については、若冲が原図を石工達に渡し、彼等は若冲の描いたそれぞれの実物大の五百羅漢図に沿って鑿と鎚で原石を刻んだ。若冲の下絵や、元絵は一枚も残っておらず、総てはこれらの五百羅漢にしっかり乗り移った。完成した時には、五百羅漢像は全部で千体程度あったというが、今もこの竹林には約五百体の五百羅漢石像が祀られている。

 

五百羅漢の制作を始めてしばらくたった1788年(天明8年)、京都を「天明の大火」が襲った。201406fukakusa13石峰寺の周辺まで大火は届かなかったが、錦の若冲の居宅や、相国寺の大部分は焼失した。大火の後、一時期、大坂に避難したが、すぐに京都・石峰寺の古庵に戻った。生活やアトリエの再建で苦労の絶えなかった若冲は1790年(寛政2年)に大病を患った。その間も、石峰寺の事業の推進の傍ら、多くの襖絵や掛幅の群鶏図を残した。その筆致は病苦を全く感じさせない力作揃いである。この間の若冲は生涯で初めてともいえる貧困の極を味わった。日々の生活・活動資金を得るために、石峰寺の門前に座して客を待ち、自らを「斗米翁」と称し、求めに応じて一画を描き、それを一斗の米と交換するという生活を送ったという。

 

過日、私は石峰寺を訪ね、五百羅漢達の前に立った。笑う顔、怒った顔、しゃべり続ける顔、沈思黙考する者、あどけない乳児や老人、その表情の豊かさ……、まさに若冲の表現しようとした世界が見事に創出されている。コツコツ、カンカン……と、さぞ石工たちが鑿を振るい、石を削りながらのお喋りは賑やかであったことであろう。いま、竹林の中にいると、彼等の創意工夫の熱い議論が聞こえてくる気がする。この竹林の空気はこれまで若冲が築いてきた緻密で精巧な細密画の世界とは全く異なる。一つ一つは上手く彫られた像とは言い難い。しかし、若冲とそれを彫った人びとの穏やかな信仰と熱意に満ちている。彼等の晩年の足跡は身近なところで今も息づいているのだ。


われもまた 落葉のうえに 寝ころびて 羅漢の群に 入りぬべきかな


これは、後年、この地を訪れた吉井勇が詠んだ歌である。京都では「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」の歌で知られる吉井であるが、この歌の「われ」は、寝そべって羅漢たちのお喋りを楽しむのは歌人の吉井より、むしろ若冲自身と解するほうが自然であろう。微風に揺れる竹林は静寂であるが、五百羅漢達のお喋りはいつまでも続くようである。若冲・五百羅漢は、大きさこそ違えても、その表情には南海のモアイ像を連想させるものがある。祈りの構図は似てくるものなのか。晩年の若冲は石峰寺の門前に居を構え、五百羅漢達に囲まれ、祈りの日々を送った。

http://伏見稲荷-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/wp-content/uploads/2016/07/伏見「石峰寺 五百羅漢ぼ象.jpg先頭に戻る

 









5.若冲という人生


http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/0a/6fb2dda1b202075ba331e2a9deb68f88.jpg若冲には名前がわかるだけでも約二十名の弟子がいた。もともと若冲はみずからの作画技法を家元制度のように伝統確立しようとか、将来にわたり“若冲派”を持続させようとする意思はなかった。その為であろうか、一部の弟子の中には、自らの習作品に若冲の落款を印したりする不心得者が出ることもあり、時として若冲の作品に贋作騒ぎが発生したという。本来ならば、作家の魂ともいえる「若冲居士」の落款はしっかりと保管されるべきものであろうが、若冲はそのような家元管理的な発想に乏しかったようだ。その結果として、将来にわたって彼の業績を継ぐ弟子は育たなかった。

 

若冲は生涯にわたって、他の絵師たちとはしのぎを削ることのない自ら独自の境地を求め続ける孤高の絵師であった。庶民の中で暮らし、巨匠と呼ばれるには無縁の生活を送った。ただ大典顕常をはじめ、彼の周囲の理解者たちは、早くから「彼はただものではない!!」と、その才気を見抜き真摯に支持を続けた。

 

1800年(寛政12年)910日。若冲は85歳でその生涯を閉じた。遺骸は石峰寺の境内に土葬された。墓石には「斗米菴若冲居士」と刻まれ、その隣http://img-cdn.jg.jugem.jp/e1e/7521/20091103_1165952.jpgには彼の業績をたたえる絵筆の形をした墓碑銘が建てられている。若冲は天明の大火の被災時に、一時、大坂に避難したほかは、終生、京都を離れることはなかった。若冲は京都に生まれ、京都に生き、そして死んだ。‥‥‥まぎれもなく、「京都ゆかりの美術」を生んだ、ひたむきな絵師であった。

 

若冲の亡き後、伊藤家は急速に衰退し、明治維新の頃には家屋敷を畳んで大坂へ去ったという。その後の伊藤家の消息は掴めていない。彼は生涯にわたって多くのすぐれた作品を残した。しかし、彼はその遺伝子を世に残すことはなかった。

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6.若冲芸術の国際性、現代性、そしてジョー・プライス

   西洋絵画には絵、特に自然の生物を正確、精密に描く伝統技法がある。若冲の作品に西洋からの影響があったかと言えば、私の知る限りにおいて、その影響は全くなかったと断言できよう。若冲の生活圏は京都から外に出ることはなく、絵画においても当時の日本は西洋からはほぼ鎖国状態であった。1819世紀の西洋は博物学的自然科学研究の興隆期であり、各種各様の生物の細密画が記録されている。例えば、リンネ(植物学者、スエーデン)、ダーウィン(博物学者、英国)、ファーブル(昆虫学者、フランス)などの著作の中の様々な絵(挿絵)は実に正確に描かれている。一方、若冲の作品は「写実に想像を精緻に注入するという若冲独自の制作プロセス」により、目指したのは「正確描写を通じて醸し出される生物感動の創作」である。博物学の絵はサイエンスであるのに対し、若冲はあくまでも芸術性を追求した。客観画と主観画の違いと言ったらいいだろうか。

 

若冲作品が知られるのは明治期に入ってからであるが、それはまだ学者や美術愛好家の範囲を超えるものではなかった。当時、展覧会の開催は少なく、若冲の才能の全貌が網羅されることはなかった。今や、若冲は国民的支持を受ける絵師となったが、そのきっかけは、没後200年となる2000年(平成12年)の京都国立博物館での若冲特別展覧会(前出)の開催であった。その後、テレビでもしばしば「若冲特番」が組まれた。東京では何回か特別展覧会が催されているが、待ち時間320分という記録もあった(2016年)。皮肉なことであるが、待ち時間が美術工芸品の価値(?)の指標のように云々されることがある。ちなみに、日本作品で最大の動員力を示したのは奈良・興福寺の阿修羅像の東京展示(2009年)だそうだ。そして、若冲展はそれに次ぐ勢いである。今日、テレビ、インターネット、新聞などの情報が芸術作品の流布に与える影響は計り知れない。

 

若冲の作品集に、「ジョー プライス コレクション」という記述をよく見る。ここでジョー プライスの貴重なコレクションについて説明したい。20世紀初頭、プライス家は米国南部で石油ビジネスに関わり、特にパイプラインの敷設で莫大な富を得た。ジョー D. プライス(Joe D. Price)は1929年、南部・オクラホマ州にその家の次男坊として生まれた。世界大恐慌の年である。若い頃より建築、機械設計等の仕事に熱心に携わるが、たまたまニューヨークで「葡萄図」を見たのが若冲との出会いという。その後、米国内での古美術商巡りや訪日の際に、彼の日本画コレクションは増えていった。1970年、京都御所での曝涼(虫干し)に立ち会い、「動植綵絵」三十篇を間近で見て、思わず落涙したという逸話がある。爾来、本格的に若冲コレクションを進め、米国に私財を投じて美術館まで建設した。また、のちに日本で若冲人気が高まるに伴い、自らのコレクションの日本での展覧会に出展協力するなど、日本の美術関係者とも多くの親交を持った。このように、若冲が広く日本人に知られる以前から、真摯に若冲に向き合った外国人がいたという事は、とりもなおさず若冲作品が優れた国際性、現代性を有することの証左である。

 

若冲作品の世評は上り詰めた感がある。今後は、彼の作品の中に潜む様々な作画技法が解明され、デジタル記録として恒久保存し、日本の至宝として残してゆかなければならない。彼の作品がまとめて海外に本格的に紹介される日もそう遠くない。

                              

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「大鶏雌雄図」(動植綵絵から)

 

<参考文献>

●「特別展覧会、没後二〇〇年、若冲」京都国立博物館(2000年)

●「若冲・五百羅漢・石峰寺」、水野克比古著、芸艸堂(2013年)

●「伊藤若冲 動植綵絵(全30幅)(二分冊)」、小学館(2010年)

●「伊藤若冲 大全」、狩野博幸、小学館(2002年)

Wikipedia伊藤若冲(2017年)

●「若冲になったアメリカ人、ジョー D.プライス物語」、小学館(2007年)

                                      以上

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