第1話 ことの始まり

学生時代からバイクが好きだった。といっても、「走り屋」や「族」といった勤勉なバイク好きではなくて、カメラと同じようにただそのもの自体がたまらなく好きだというだけの、比較的ぐうたらなバイク好きだっだ。

車とは違う。動力によって「走る」というので、同類とみなされがちだが、まったく異質の物であると僕は感じている。いやそれどころか、比較されること自体間違っている、とも思う。さらにいえば、バイクからすれば同じ道路で走っている車は障害物でしかなく、街並をつくりだす要素でしかない。

バイクはその機能自体がスタイルに結論として反映されていて、構成されているひとつひとつの部品があらわになっており、つまりそれが持つ器官のひとつひとつが見られることを意識した造形を持っている。
それを設計する者の美意識、ダンディズムがそのまま反映されるために、ダサイ奴にはバイクのデザインは無理である。
どのように走ろうとするのか、という思想が形になって現れ、機能がそのまま美しさに昇華する。それに乗って走るときの、あの飛んでいるような三次元的なG感覚に取りつかれ、また長距離を走った後の針が差すような肩の痛みや心地よい放心状態は、それを快感として知ってしまった者をとらえて離さないだろう。
僕もその一人なのだ。

はじめてバイクに乗ったのが18の時だった。高校では禁止されていたので、内緒で原付の免許をとった。それも友達の誘いがあったからで、「明日受けに行くから一緒に行こうぜ」と言われ、友達の家でぺらぺらっと問題集をめくっただけだったが、世の中何ごともあきらかに必要のある時は努力がいらないもので、一日の無断欠席と引き換えに、翌日には免許取得者になっていた。
正直にいうとそのころは特にバイクに興味はなかった。むしろ、世の大多数の意見である「バイクは危ない」「バイクは不良」という価値観をなんの疑問も持たずに受け入れていた。寒い話で、無知な者にはそんなに簡単に価値観なんて植え付けられるものなのだ。その後教師になって、たいがいこれを利用するはめになるのだが、「教育なんて、何が正しいとはほんとは言えない世界であって、教師もやっぱり一人の人間として学生と接するべきであり、大多数の常識として意見するのは逃げで、まったくからっぽで、ほんとは個人の意見としてものを言えなければ、それはただの詐欺師じゃないか」と、辞めた今ならそんなことも言える。
今となっては、バイクに乗らない人生なんて、なんて不健全なんだろうと思う。また、先に述べた二つの大多数意見に別の意味で肯定する気持ちもある。それは、危険なことにあえて挑むしか、自分を超えるまたは捨てる方法などないということ。そして、一生不良でいるためにはバイクに乗ることぐらいしかない、ということである。

免許をとってからはバイク雑誌を読みあさり、学校の、いや受験の知識なんてまったく入らなかった頭にぐいぐい情報が流れ込んできた。
同時期に始めた写真と、マージャンと、バイクで脳の処理能力いっぱいで、勉強なんてなにも手につかなかった。WGPでは伝説化した無敵の天才レーサー、フレディ・スペンサーが引退をささやかれていた。ホンダに乗る奴はみんなAraiのスペンサーモデルをかぶってたころ、僕は始めて自分のバイク(スクーター)を手に入れた。そのころからこだわるタチだったのかミーハーなのかロスマンズカラーのスクーター、DJ1-Rを東京から取り寄せた。ヘルメットはその年WGPで初優勝したワイン・ガードナーのレプリカ。たかが原チャリだけど、めちゃくちゃ楽しかった。単にそれまで自転車で行動していた範囲を、同じ道を走るにすぎなかったが、世界が違って見えたしよけいなものが見えなくなった。
もちろん遠乗り(ツーリングといえるかどうか)もした。山を越えて琵琶湖一周。友達と行ったのだが、前日までにリミッタ−はカットし、プーリーも少し手を加えた。少しでも友達より早く走りたかったのである。非常に健全な欲求であるが、しかし、その思いがやがてそれだけでは満足できなくなっていく原因となる。やはりスクーターでは満足できず、ミッション付きのMBX50に半年で乗り換えることとなった。馬力はどうしても50ccだし、車重はスクーターより重いので、そんなに早いというわけでもなかったが、リミッタ−カットで90km/h以上でたし、何より、早く走るのはバイクのスペックだけではなく、乗る奴のセンスも関係していることに気づいた。

ついでに気づけば、その時それは間もなく卒業という時期で、進路も決まっていなかったということ。何も受験勉強とかしてなくて、先生に言われるまでもなく、第一志望でそれ一本だった大学をあきらめ、そのせいで、見た目よりとても現実的な彼女にふられ、まわりを見れば、一緒に遊んでた友達は実は予備校だので勉強していて志望校は一応合格ラインだったりしたのである。
まともな大学は無理だったので、僕は芸術大学の写真学科を受けることにした。
浪人する気は毛頭なかったし、就職なんて考えも及ばなかったからだ。学校での雀荘と化していた写真部の暗室で(つまり僕はマージャンするために入った写真部員であった!)、手引書や写真集、雑誌なんかは読んでいたので、一応ど素人ではないと自分で勝手に思い込んでいたし、卒業アルバムの写真も写真部員として撮影していた。
成績は最下位でも肩書きは一応進学クラスであったし、そして先程も言ったように、あきらかに必要な時の法則にのっとり、僕は見事芸大に合格した。

新しいことには、がらっと思いきった変化を求めるべきである。少しばかりの挫折を背負いつつ、僕は地元を出ることにした。京都から南へ60km。僕はMBXとともに新天地を目指した。

……つづく

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