第2話 バイク寮

窓の外から話し声が聞こえる。時折、コンクリートの地面に金属の棒のようなものが転がる音が混じる。カラン、カララン…。その棒の長さによって、またそれが転がる距離によって、その音程と音の長さが変わる。笑い声。一人、二人、少しずつ人の数が増えていっているようであった。

 ……心地よい

日曜日の朝だった。いや、もう昼前か。僕は四畳半の薄暗い部屋でまどろんでいた。そこはL字型になった建物の2階、北東角の部屋だった。その建物に囲まれた駐車場で誰かがバイクをいじっているのだろう。金属音は工具を地面に転がす音だ。

夏の盛りをやっと越えたあたりだというのにその部屋はひんやりと湿っていた。しかしそれも今のうちで、夕方近くになれば、建物自体が昼間の間に溜め込んだ熱気で、じわりと暑くなってくる。僕は硬い備え付けのベッドの上で、関節ひとつひとつを順番にねじりながら寝返りをうち、こたつの上の灰皿に手をのばした。どんぶりのような灰皿である。つまり吸い殻がたくさん入る灰皿である。ベッドの上から上半身を乗り出し、灰皿の灰をまき散らさないように、そっと覗き込む。と、あったあった。上物が。そこそこ長いガラムの吸い殻が灰まみれになっていた。僕はそれをつまみあげ、くわえようとした瞬間、躊躇した。待てよ、こいつは然るべき時に吸おう。僕は掘りおこした宝をもう一度土に埋めなおすように、灰皿のふちの方にそのガラムの吸い殻を差し込んだ。よって、その日の朝食は、残り1cmくらいのわかばとなった。火をつけ、深く吸い込んで吐き出すと、部屋の淀んだ空気の目の高さくらいのところに、薄い煙の層が漂った。僕は体を起こし、壁に体重をあずけて呆然とそれを眺めていた。体が言うことをきくようになるまでにはもう少し時間がかかりそうだった。

その年の夏は長かった。それまで生きてきて、一番長い夏だったように思う。僕は18年間暮らした実家のある京都を出て、大学入学にともない寮に入った。
大阪の南のはてにある芸術系の大学で、僕は写真学科に入学した。京都を出ることに、なんの期待も不安もなかった。ただ、ずっとそこにいれば次第に保守的になっていくだろうということは感じていた。京都はなにもかもが揃いすぎていた。あえて出る必要性など、ほかの地方の若者に比べれば少ないはずだった。しかし、僕はそれを幸福だとは思えなかった。それで出たのかというとそうではないのだが、まずなりゆきが8割くらいあるのだが、あとの2割は欲求である。変わりたいという欲求である。
僕にはそういった癖がある。周期的にやってくるのだ。そして変わるためには環境を変える。人間関係も、自分を知っている人間と別れて、独りになり、自分を全く知らない人間と新たに出会う。その時、自分は誰でもないところから始められる。誰でもなくなりたいという欲求を僕は性癖として持っている。
学生寮には芸術系の大学であったせいか、面白いやつや変わったやつが日本中のあちこちから集まっていた。そこでの生活はそれまでと比較すればめちゃくちゃだった。自由が吹きだまっていた。風呂、トイレ、炊事場兼洗面 所が共同で、どれも臭い。部屋はせまくて汚い。その上、夜になると誰かが酔っぱらって吐いて破壊してまわるし、そんなやつが訪ねてきた時には必然的に自分の部屋に籠ってなんかいられない。いっしょになって飲んで友達の部屋を徘徊し、主人がいなくとも勝手に誰かの部屋でくつろいでいたり、破壊していたりする。ある意味楽園といえる。そこで変われないやつは、よほどの変わり者であった。

ひと夏を越して1回生達はみんなたくましくなっていた。学生であるとはいえ、自分で何かことを起こさなければ何も起こらない。与えられるものに文句を言ってるだけの生活は過去のものだった。入学と同時に入った探検部というサークルで、合宿をそれまでに2回やっていた。島と山だった。何かを命がけでやりたい、というアホな理由で入ったのだが、そこは僕にとって以後の生き方に多大なる影響を与えた場所であった。この寮と探検部が今の僕の価値観の源となっているのは事実であり、またあの1年間に起こった出来事は、僕の欲求を満たす以上に大きな衝撃を与えたのも事実であった。今思えば、当たり前のようにバイクがその軸のひとつを担っていた。
 

その建物全体を震わせるような爆音で音楽が鳴り始めた。ドアのすぐ外でガンズアンドローゼスがライブを始めたような音だった。どうやらフジワラも起きたらしい。こちらも負けてはいられない。同じく爆音でストーンズをかけ、歯ブラシをくわえて外へ出た。炊事場兼洗面所に行くと、先にフジワラが顔を洗っているところだった。
「おえーっす」と僕はフジワラの後ろから声をかけた。歯ブラシは口につっこんだままだ。
「おう、ユアサ」顔をタオルで拭いながらフジワラは振り返り、やつのトレードマークともいえる小さな丸い眼鏡をかけた。「昼飯どうする?」寝起きで目がはれていて目つきが悪かったが、この眼鏡をかけると案外愛嬌がある顔になる。
「そうだなあ、宝屋でも行くか。それか晩飯まで食わないかだな」僕は歯磨きの泡を口のはしからたらしながら言って、その泡を流しに向かって痰と一緒に吐き出した。
「宝屋行くなら声かけてくれよ。晩飯はカレーにしようぜ。じゃがいもあるからさ。ユアサのカレーはうまいからな」ねばつく床をサンダルでばりばりいわせながら、そう言ってフジワラは炊事場兼洗面所から出ていった。
フジワラは入学してすぐ仲良くなった建築学科の友達だ。バイクはスズキのオフ車に乗っていたが、その後ヤマハのSRに乗り換えた。卒業前に二人で、奈良の山奥に山小屋を建てたことがあった。それがやつの卒業制作だった。離れてはいるが卒業後も付き合いがあり、僕の友人にしては珍しく、長く関係が続いている一人だ。
昨日はやつの部屋で何人かで集まって、とりとめない話で遅くまで盛り上がっていた。酒を飲んで、音楽をかけて、げらげら笑って。そして、そのあときっちり8時間以上寝る。それがここでの日常だった。音楽の話、バイクの話、女の話、旅の話、夢の話。そして笑い話。フジワラの「うんこ話」は最初は面白いが、そのうち笑えなくなる。
ときにはマジな話もする。二人っきりだとそんな感じになって、泣き出すやつだっている。まったくの他人だったやつが、同じ屋根の下、同じ釜の飯とはよくいったもので、兄弟よりも親密で、何でも腹を割って話せる関係となっていた。そんな友人関係は多分この年代の、こんな環境でしか築けないだろうと思う。

顔を洗い終え駐車場に出てみると、何人かが自分のバイクをいじっていた。タイヤ交換やオイル交換、カスタム。いつも誰かがバイクをいじっているのがこの寮の日常の光景だった。
寮生ほぼ全員がバイクに乗っていた。そして、かなりオフ車率が高かった。カウル付きのレプリカに乗ってるやつもいたが、「街乗り最速はオフ車である」という先輩の教えからか、山が近い田舎だったからか、メンテナンスがしやすいからか、汚れてても気にならないからか、安いからか、なぜかオフ車なのである。
僕も夏休みのうちに一発試験で中型免許をとり、バイクをMBXから、当時モデルチェンジしたばかりのDT200Rに乗り換えていた。
「ちわっ」
僕は反射的に挨拶をした。その寮では後輩は、どんな時でも先輩に出会ったら「ちわっ」と挨拶をする決まりになっている。「ちわっす」ではなく「ちわっ」なのだ。「す」を付けると怒られる。まあ、いろんな意味があるのだが、一つは上下関係の規律、もう一つは外部の人間が入ってきたのを察知するためである。挨拶しないやつは部外者ということだ。合い言葉みたいだが、実際寮内で問題がよく起こるのである。今ではそんなにたいした事件は起こらない。盗難や破壊行為ぐらいだが、昔は違ったようだ。学内でも住んでる寮の名前を言うと結構恐れられたりする。確かに気性が荒いやつが多いのだが、70年代くらいはもっと凄かったらしく、寮長の部屋に代々掲げられている日の丸が物語っている。過激派が爆弾を作っていたという噂も聞く。夏にあるこの寮の花火大会はそのなごりか、何万本というロケット花火を用意し、寮内で銃撃戦をし、最後にOBの先輩が日本刀を振り回し、チャ−リーと呼ばれる小型爆弾を爆発させてくれる。そして恒例になっている川落とし。寮の前にある川へ、放り投げられたり、自ら飛び込んだり。無礼講で、気に入らない先輩を後輩が突き落としたりもする。必ずけが人が出る。そういうことも経て、いよいよ寮生の結束は堅くなるのだ。

目の前で作業をしていたのは写真学科4回生の先輩で、僕の憧れの先輩コデラさんだった。ホンダのXLのパリダカ仕様に乗っていた。
タイヤ交換をしていたコデラさんはちらっとこちらを見、「おう」と小さく答えた。僕はその作業をじっと見ていた。手際がよかった。後輩はそうして先輩からバイクのいじり方を学んでいく。
「ユアサあ、ユアサのピカピカのDT、いいよなあ。よく走るんだろう。今度ダート走りに行こうぜ。ユアサはなんでも俺よりいいもの持ってるよなあ、カメラにしたってなあ」
手を休め、あどけない笑みを浮かべてコデラさんは言った。いやみではなく、本当にうらやましがっているようだった。納車の日にみんなで乗り回して、一番はしゃいでいたのがコデラさんだった。コデラさんが持つ純粋さがかっこよかった。黙っていると少し恐そうだが、話すとすごく面 白い人だった。後輩には優しかったし、外部との接触があった時の気丈な態度はこの人の強さをも感じさせた。
「バイクも写真もコデラさんにはかなわないです。いいもの持ってるからって、うまいわけじゃないですから」
正直そう思った。コデラさんは越えられない。何度かコースに連れてってもらった。早かった。ウィリーもアクセルターンもコデラさんから学んだ。みんなで走っている時に曲乗りをして楽しませるのもうまかった。そんな明るい人だったが、撮る写真は静かで内向的なスティルライフであったのが印象的だった。
この寮では時々、先輩の号令で突然夜中にキャノンボールが始まる時があった。道交法無視のレースである。寮からスタートし、峠を越えて奈良に入り、山沿いに走ってひとつ南の峠を越えて帰ってくる。車も混じっての本気レースである。DTを納車してすぐの時、あまりにぶんまわし過ぎて帰りの峠でガス欠し、惰性でとろとろ下っている時、迎えに来てくれたのがコデラさんだった。
「おーい、大丈夫かよ。なんだガス欠かあ。仕方ねえなあ」
真っ暗の峠でみんなはあっという間に追い抜いて行き、バッテリーレスにしていたのでエンスト状態ではライトもつかず、めちゃくちゃ情けない気持ちでいる時に、あのXLが来てくれたのだ。うれしかった。ガソリンをそのビッグタンクから少しわけてもらい峠を下ると、みんなが僕らを待っていてくれた。
コデラさんはその後カワサキのKMXを手に入れ、すごく嬉しそうだった。寮の前で何度もウィリーしていた。卒業して退寮する時、バイクで世話にになった1回生で見送った。KMXに荷物をくくりつけ、僕らに軽く手を振って寮の駐車場から出ていく後ろ姿を、僕らは道路まで走って追いかけた。そして思い思いの別れの言葉を叫んだ。コデラさんは振り向かずスピードを落とし、短いウィリーをして去っていった。
「おい、行こう!」誰かが言った。「表を走ったら、信号で何度か引っ掛かる、裏から行けば芸大前で追いつける」それが何を意味するのかみんなすぐに分かった。急いでそれぞれが自分のバイクのエンジンをかけ、裏道を走って芸大前のバス停に向かった。着いた者から順番に一列に並び終えた時、コデラさんが僕らの目の前の道をこちらに向かって走ってきた。
「コデラさーん」僕らは思いっきり手を振って叫び続けた。
コデラさんは止まらず、うなずきながら手を振ってそのまま去っていった。

この寮で過ごした時間は、今までのバイク人生で一番楽しかったような気がする。それは僕がこの寮に入り、彼らに出会ったからこそ得た経験だった。当時ガソリンは1リットル130円くらい。フィルムかガスか。貧乏学生には厳しい選択だった。

……つづく

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