坂本龍馬と彼を取巻いた人々

幕末の激動期、時代を切開いてきた彼らの生き様を時代の流れを追って考えてみよう
構成は年表形式にしています。こうしないと、複雑な幕末の世相とそこを生抜いた人々を描き出せないと考えたからです。
ホームページの表示としては長文なので、本編は読飛ばしていただいて結構です。


( )は竜馬の年齢で人物の誕生の項目では大凡の年齢差に当ります

1814
(-21)




1817
(-18)



1823
(-12)










1827
(-8)






1829
(-6)






1830天保1
(-5)

1831天保2
(-4)




1832天保3
(-3)








1833天保4
(-2)






1834天保5
(-1)









1835天保6
(0)















1835.11.15
(0)


1836天保7
(0)




1837天保8
(1)











1838天保9
(2)












1839天保10
(3)




1840天保11
(4)






1846弘化3
(10)
1852嘉永5
(16)


1853嘉永6
(17)





坂本権平(龍馬の長兄)誕生





坂本千鶴(竜馬の長姉)誕生




勝海舟 誕生
(旗本の息子として生れる)










西郷隆盛 誕生
(薩摩の下級藩士として生まれる)






武市瑞山 誕生
(土佐藩)






佐々木高行 誕生
(土佐藩)

坂本伊與 誕生





坂本乙女 誕生









木戸孝允 誕生
(長州藩)






近藤勇 誕生
(武州多摩郡で生れる)









五代友厚 誕生








小松帯刀 誕生







坂本龍馬 誕生



河田小龍 誕生





三条実美 誕生












後藤象二郎 誕生




中岡慎太郎 誕生








高杉晋作 誕生





久坂玄瑞 誕生





坂本龍 誕生

坂本幸 死亡(49才)





この年の3月17日、龍馬は江戸に修行に出る





龍馬より22歳年上の兄。温厚実直な人柄で、一絃琴をよく演
奏する。京都藩邸臨時用役、御廟所番、御築山番を務め、安政
の頃土佐藩砲術師範徳弘董斎に就き、砲術奥義を授かってい
る。
1856(安政3)竜馬が20才の時に当主となる。

龍馬の長姉。安芸郡安田村郷士高松順蔵に嫁して、長男高松太
郎(海援隊士、坂本直)、次男南海男(自由民権論者、北海道
開拓キリスト教伝導家、坂本直寛)を生んだ人。
高松順蔵の高松塾には中岡慎太郎が通っていた。

幕府に登用されアメリカへ渡り、世界的な視野を持つ。
神戸海軍操練所の運営を命じられ、後に過激派の巣窟という嫌
疑を受け閉鎖。
坂本竜馬は、故郷の姉への手紙で「今にては日本第一の人物勝
麟太郎という人の弟子になり」と書いている。西郷隆盛は、大
久保利通あての手紙に「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に
驚き入り候ふ人物にて……どれだけ知略これあるやら知れぬ
塩梅に見受け申し候。まず英雄肌合いの人にて」と絶賛している。
また、江戸城の無血開城を実現し、江戸を戦火から救い、今日
の東京の発展の基盤となった人物。


島津斉彬との出会い、禁門の変、勝海舟、坂本龍馬との出会い、
薩長同盟、戊辰戦争を経て、討幕、維新へと時代を動かす。
江戸城の無血開城、明治維新を実現そして西南戦争でその生涯
を閉じる。
勝海舟は、「西郷隆盛とはたいした男だ。人生でこの世の怖い
ものを二つ見たが、そのうちの一つが西郷さんだった。」と語
っている。

坂本龍馬とは遠縁にあたる郷士で、性格は謹厳重厚、文武両道
の達人で美人画も残している。藩主に挙藩勤王論を進言したが
容れられず、公武合体派を暗殺して藩論を一変させた。しばら
くは尊皇攘夷派が勢力を持ち京都を中心に活躍したが、次第に
国勢が開国へ向かい、勤王党員は投獄され藩命によって切腹さ
せられ、瑞山も1865年5月11日、城下帯屋町の南会所で切腹
を命じられた。

土佐藩で尊攘派として活躍した。郡奉行・普請奉行などを歴任
し、1866年時勢を見通して倒幕派に傾いた。

竜馬の継母。山内容堂公の住む下屋敷に祐筆として仕え、奥女
中に薙刀を指南していたという。
聡明で慈悲深く、義理堅い人物であった。龍馬に対する躾も厳
しく、食事も与えず板の間に正座させたこともあって、今で云う
いじめと誤解されている。

竜馬の3才年上の姉。身体が大きく背も六尺近くと高く「お仁
王様」のあだ名で親しまれていた。
母が亡くなってからは、母親代わりに三歳年下の末の弟、竜馬
の世話や鍛錬につとめた。
乙女は若い頃から裁縫や家事よりも武芸が好きで、竹刀を使わ
せれば切紙(きりがみ)の腕前、馬術、弓術、水泳までも得意と
し、また琴、三味線、一絃琴、舞踊、謡曲、経書、和歌などもたしなむ
文武両道の女性である。
龍馬の成長に多大の影響をあたえる。

桂小五郎のこと。33歳のとき藩命によって木戸貫治に改め、
ついで準一郎と称した。実名は孝允。17歳のとき兵学門下生
として明倫館で吉田松陰に学び、20歳のとき江戸に出て剣術
を学んだ。30歳のときから藩政の要職について藩内の正義派
の指導をはじめ、長州藩の外交担当として惨劇をさけて活躍し
た。尊攘・討幕運動に指導的役割をはたし西郷隆盛・大久保利
通と共に維新の三傑と呼ばれている。

武州多摩郡で組頭を努める富農家の三男に生まれる。17才で
天然理心流の近藤周助の養子となる。間もなく四代目師範を継
承。天然理心流四代目襲名披露の野試合は、文久元年8月27
日、天然理心流の大扁額のかかっている府中六社宮「大国魂神
社」の東の広場にて行われた。後に京洛の地で京都守護職会津
肥後守御預「新選組」隊士として活躍する沖田総司、井上源三
郎、土方歳三、山南敬助等もこの野試合に参加している。
浪士隊六番隊として上洛する。京都で攘夷宣言した清河と別れ
て、水戸脱藩浪士芹沢鴨、新見錦らと会津藩預かりの新撰組を
結成する。

薩摩藩、五代直左衛門秀尭の二男として出生。父秀尭は琉球貿
易にも関与し実業の手腕があり、友厚にも親譲りの才質があっ
た。十三歳の時友厚は、書院勤めの父の預かった世界地図を模写
して藩主斉彬仁献上した。
長崎へ遊学し砲術、測量、数学などを修め文久2年(1862)上
海の貿易調査船で高杉晋作とともに密航しドイツ製の汽船を
購入して帰国した。神奈川県で起った英人殺傷事件である生麦
事件(文久3年)ではグラバーと通じ和平工作なども行った。

薩摩藩の出身者としては、西郷隆盛についで龍馬から信頼を寄
せられた人物である。
禁門の変では久光の名代となり西郷隆盛とともに藩兵を指揮
し、御所を守衛した。
城代家老として長州藩の処分、開港問題について西郷、大久保
と議して大藩諸侯の京都会議を図り、倒幕、王政復古の藩論を
内定し、密勅請書を奉呈している。

坂本竜馬は土佐藩の、郷士の末っ子として生まれる。生まれた
とき母親 幸が「雲竜奔馬の胎内に入る」夢を見て生まれたと
いう。

土佐藩の画家であるが、アメリカから帰国した漂流漁民「ジョ
ン万次郎」の取調べた。その折、小龍は万次郎を3ヶ月間自宅
に逗留させ、万次郎の口述をもとに、文章と絵で『漂巽紀略』
四巻をまとめ、藩主山内容堂に献上している。龍馬が海外に関
心を持ったのは小龍の話を聞いてからといわれている。

父は右大臣三条実万、母は土佐藩山内豊策の三女紀子。
勤王家で知られている富田織部に教育を受けている。
大老井伊直弼の弾圧を受けて父実万が辞官落飾となったこと
から、政争に巻き込まれ、次第に尊攘思想を強めていった。
文久2年、公家尊攘派の中心となって公武合体派の公家岩倉具
視を弾効、10月には攘夷決行、長州藩と提携して活躍した。
翌3年8月18日会津、薩摩二藩を中心とする公武合体派によ
る政変が起り計画は挫折。同志の公家達と共に長州に七卿落ち
している。
慶応元年、太宰府に移りこの後薩摩藩との提携を強め岩倉具視
と気脈を通ずるなど、討幕を画策した。


山内容堂の信頼厚く、後藤は佐幕派で尊攘派を弾圧するが、竜
馬とは後に意気投合し一転して同志となる。坂本竜馬の「船中
八策」をもとに大政奉還の建白を容堂に勧め徳川慶喜に建白さ
せている。

名字帯刀を許された大庄屋の息子として生れ、土佐勤王党に加
わる。脱藩して長州に行き、長州の変革を見て尊攘論から富国
強兵、倒幕論に転向した。
薩長同盟の成立は理論武装した慎太郎の弁舌による功績が大
きい。龍馬と慎太郎はその目指すところは同じであったが、方
法論が違がっている。理想主義者である龍馬はあくまでも話合
いを主張し、慎太郎は武力なくしては、倒幕はありえないと考
えていた。それの実践のために「陸援隊」を組織している。

長州に生れる。松下村塾に入門、上海に渡って植民地となった
清の現状を見て攘夷に傾く。
下関で外国船を砲撃したとき正規軍の弱さを感じ、奇兵隊を結
成。奇兵隊は、武士、農民や町人の区別なく、志のある者を集
めた軍隊で当時の日本では最も強い兵力と考えてよい。

吉田松陰の開いた松下村塾最初の入門者で、高杉晋作とともに
松下村塾の双璧といわれた。尊攘派と交わり朝廷工作でも活躍
し、藩論を公武合体から尊皇攘夷に一変させている。また、土
佐の武市半平太とともに京都で活躍し、長州の存在をより大き
なものにした。蛤御門の戦いで負傷、鷹司邸にて自刃した。

楢崎将作(勤王家)の長女として生れ、龍馬の妻となる。

龍馬の実母

河田小龍によりアメリカから帰国の中浜万次郎の口述を漂巽
紀略に表し藩主山内容堂に献上
河田小龍自信も開国の必要性を感じていた。

この時、父八平は龍馬に「修行中心得大意」(忠孝を忘れず修
行第一、諸道具に銀銭を費やさず、色情に心を移し国家の大事
を忘れず)なるものを渡している。親の思うことはいつの時代
でも同じであるが、果してこういうものが行動規範になるのだろうか。
木戸孝允もこの年遊学に出てきている。


以上は坂本龍馬誕生を挟んで幕末に名を馳せた人々の生れを書いてみました。
ここでは、竜馬と年齢の差を理解していただければいいのかなと思います。
坂本家は城下では随一の金持であったが、土佐藩では上士、郷士という身分があって坂本家は郷士であった。
上士というのはその昔、土佐は長曾我部の国であったが、この長曾我部の家臣を先祖に持つものを郷士といい、関ヶ原の戦いののち山内一豊が家臣を連れて土佐に入ってきた。
この家臣を上士という。竜馬は郷士の倅であり、卑屈な中に育ったのであろうかというとそうではない。
竜馬は幼少の頃は「寝小便(よばあ)ったれ」で「泣虫」でしかも「薄のろ」と呼ばれていた。
この面では卑屈さを感じていたかも知れないが、身分制度における卑屈を感じるほどの敏感さは無かったと思う。

それにしてもスゴイじゃないですか。竜馬だけではなく、この時代、歴史を動かし名を残している人物が続々生れてきていることが。
竜馬が変貌を遂げだしたのは17才の時だった。背丈も伸び、剣道は目録の腕前となった。
そして道場主日根野弁治の添書(紹介状)をもって江戸京橋桶町の千葉貞吉道場へと旅だった。

このとき父八平は龍馬に三箇条の訓戒をしたためて与えている。
 「修行中心得
   一、片時も忠孝の心を忘れず、修行を第一とすること
   一、色々な道具に心を奪われお金を使いすぎないように
   一、色事にうつつを抜かして国家の大事を忘れ、心得違いをすることのないように

  上の三ヶ条を胸に刻んで修行を積み、めでたく帰国するように」である。
はてさて17才の青年にとってこの心得はどうだったのであろうか。
現代の若者の多くには通じない内容かも知れないが、龍馬の脳裏にはこの心得がはっきりと染込んでいたのでしょう。遊びに金を使うことなく、剣の道に励み免許皆伝の腕前に成長していっており、明治維新への時代の流れの中で大きな影響力を発揮しているのである。

言葉の説明
坂本乙女さんのところに出てくる「切紙」というのは、武術における段位で、最初の許しのことをさします。
続いて「目録」に上がり、稽古によって修得した技の名目の事であり、更に「免許」となり、修得した流名を名のる事を許されたものです。
最後が「皆伝」であり、その流派の技のすべてを伝えられたことをいいます。