坂本龍馬 その2

 龍馬が江戸へ出て剣の修行を積むが、思想に目覚め、土佐勤王党を結成し、そして脱藩するまで。

1853嘉永6
(17)

1853.06.03




1853.07.01


1853.07.18

1853.11.07

1853.12.01


1854嘉永7
(18)
1854.01.16




1854.03.03




1854.03

1854.6.1

1854.06.11




1854.06.23


1854.08.23

1854.11.04

1854.11.05

1854.11.07

1854.11

1854.11.27

1854.12.27


1855安政2
(19)
1855.10.02

1855.12.04

1855.12.23
4月下旬、竜馬江戸に到着


浦賀に黒舟来航




老中阿部正弘がアメリカの要求につ
いて諸大名、幕臣らに意見を求める

ロシア極東艦隊が長崎に来航する

中浜万次郎を登用し普請役格とする

龍馬、佐久間象山に入門、西洋砲術を学ぶ




ペリー再び来航




日米和親条約調印(神奈川条約)。




桂小五郎と出会う。

黒船が香港へ向けて出航

土佐藩参政吉田東洋が、免職される。




竜馬、高知へ戻る


幕府、日英和親条約を調印

東海道沖でM8.4の大地震が発生

西日本で大地震(寅の大変)

大分と愛媛の間で大地震

河田小竜に会い、世界情勢を知る

元号を安政と改元

幕府、日露和親条約に調印




安政の大地震発生

坂本八平 死亡

幕府、日蘭和親条約を調印。
先ず、土佐藩下屋敷に着き、お長屋に案内される。
ここで、武市瑞山と相住いの生活が始る。

アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが浦賀に来航し、武力
を背景とした強圧的な脅迫である。江戸幕府第3代将軍・徳川
家光の時代以来、鎖国を続けてきた幕府にとっては大きな衝撃
であったろう。

これに応えて勝海舟は、貿易論、人材論、兵制改革論の海防意
見書を提出する。



幕府も海外の状況を把握するのに躍起となっているのが伺え
る。





今回は7隻の艦隊で、幕府にエレキテル・蒸気車などを献上し
ている。
幕府はアメリカ軍艦見物を禁止したり、吉田松陰が軍艦に乗込
もうとして失敗している等大騒ぎであったことが伺える。

伊豆下田、蝦夷地箱館の両港は日本政府に於いて、亜墨利加船薪水食料欠乏の品を日本人にて調べ候丈は給し候為め渡来の儀差し免し候、もっとも下田港は約定書面調印の上即時相開き、箱舘は来年三月より相始め候事

小五郎の話を聞いて憂国の思いに目覚める。

攘夷論が盛んになり、幕政批判が流行する。

山内容堂に抜擢され藩政改革を実施していた。
吉田東洋は山内家の親戚の旗本を殴打する事件を起し1年で
失脚、鶴田塾(小林塾)を開いて後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎
弥太郎らを教育することになる。




長崎・箱館の2港が開港される。

東海道沿いの諸宿場が壊滅。大津波などでロシア軍艦ディアナ
号も大破。1万数千人以上が死亡。




「目から鱗」の重要なポイントと私は見ている。



下田・箱館・長崎をロシアに開港し、択捉−ウルップ間を国境
と定める。また樺太を両国人雑居地とする。



死者は7千人余、家屋倒壊は14千戸、下町は壊滅状態。

龍馬の父死亡


龍馬初めて江戸へ
龍馬が江戸に着くと武市瑞山とお長屋で相住いとなった。瑞山の身分は白札であった。白札というのは上士と郷士の中間の身分である。

龍馬が江戸にやってきたのは何というタイミングであろうか。
龍馬が剣の修行のため江戸に出てきて暫くしたとき、期を同じくしてペリーが浦賀にやってきている。
このタイミングを私は重視している。龍馬は藩邸を抜出し浦賀へ黒船を見に行っている。しかも、品川海岸の警備の御用をほったらかしにしてである。
今でいうと、サラリーマンが無断欠勤してロケットの打上げを見に行くようなものである。
これは、龍馬の性格をしてそうならしめただけでなく、土佐藩の(或は当時の)管理手法そのものが甘くてこういった行動を許していたからだろうと思う。
勿論、普通の武士であれば(当然、武市瑞山も)こういう行動はとらなかったであろうし、その点、龍馬は変り者であったし大胆でもあった。
龍馬は田舎侍であった。しかし、剣の修行のみが目的であったが、後の大事を成し遂げる片鱗を伺わせるできごとではないか。

佐久間象山
この頃の佐久間象山にも触れておきたい。
既に西洋兵学を学び、また藩主に「海防八策」を提出した象山は、1850(嘉永3)年深川藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助ら幕末に大きな活躍をした人材を育てていた。
1854(安政元)年、下田開港に反対したが、横浜開港を主張するなど日本の近代化に進んだ目を持っていた。
しかしこの年の4月、門人吉田松陰のアメリカ密航失敗事件に連座して捕らえられ、国元に蟄居を命ぜられている。
龍馬はこの佐久間象山に僅か4ヶ月間であるが西洋砲術を学んでいる。
習ったのは砲術だけであるはずはないだろう。記録は無いにしても海外の進んだ文化についても多くのことを聞き入れていると思う。

勝海舟
一方、この頃の勝海舟はというと、蘭学を学び、ちょっと年代を遡りますが、1850年頃には赤坂田町に私塾を開き佐久間象山について学んだ蘭学と西洋兵学を教授し始めている。
そして、諸藩の依頼を受け鉄砲・大砲の鋳造に携っていた。1853年ペリー来航に合わせて「海防意見書」を提出したのは30才の時である。
つまり、勝海舟はインテリであり既にインテリの間では海外の様子は認識され国防の必要性が説かれていたのである。
このころアメリカだけではなく、日本近海には年間700隻もの外国船が現れている。目的は捕鯨であった。
そのため燃料、食料、水の補給が必要となるが、これを求めて日本に開国を求めていたのである。
海舟はこの辺りの状況は掴んでいた。龍馬はというと佐久間象山に付くまでは海外事情に関して全く無知であったのだろう。

橋本左内
橋本左内は越前藩の藩医の子として生まれ、15歳で大阪の適塾で蘭学と蘭方医学を修めた。その後江戸に出て佐久間象山の元で西洋学に磨きをかけた。
藩主松平春嶽に重用され、その後の将軍継嗣問題では一橋派の中心として朝廷の説得に奔走した人間である。

いよいよ開国か、攘夷かという問題の論議が盛んになってくる頃である。
政治思想を持っていなかった龍馬にとっては周りの雰囲気「夷狄(いてき)攘(う)つべし」、「公儀、弱腰」に煽動されて攘夷論者になってしまうのであろうか。
この時期、龍馬も確かに譲位論者になってしまっていたようだ。醒めた目で時代を見渡すほどの考えは持っていなかったのである。

河井継之助
河井継之助というと越後長岡藩の家老で、藩政を改革し、藩財政を立て直し、兵制改革等長岡藩をして奥羽の雄藩に押し上げた人物です。
戊辰戦争のとき小千谷会談で西軍総監岩村と決裂し、やむなく東軍として参戦したが、実は長岡藩は中立を貫き、会津を中心とする旧幕府勢力と西軍との間を取り持とうとしていたのである。


また、この1853年という年は慌ただしかった。ロシア極東艦隊が長崎に来航もしている。
前述の通り幕末の兵学・洋学者、佐久間象山は黒船事件以前から開国を唱えていた開国論者である。攘夷論者の龍馬に「開国」の二文字が脳裏に入ったのはこの時でしょう。

1854(嘉永7年)神奈川において日米和親条約が締結され、下田の開港が決まり、ペリー率いる黒船が続々と下田に入港した。
同年5月、日米和親条約付録下田条約が締結され、下田は外国人が自由に町中を歩ける町となったのである。

桂小五郎との出会い
この少し前の3月、龍馬は土佐藩の偵察役として、長州藩の夷狄に対する陣地を探索に行って桂小五郎と会っている。
小五郎とは話の中で意気投合し感化され、何かに目覚め始めたのであるが、それが何であるのかはまだ分っていなかった。

世間では幕政批判が流行し、攘夷論が大衆的な思想となってきた。
下田の米国人の噂は当然の事ながら全国に広まったであろう。龍馬の耳にも入ったはずだ。
玉石混淆の噂話であろうが、この噂を整理するには短すぎる1854年6月に龍馬は江戸から土佐へ帰国したのであった。


土佐への帰国と河田小竜
土佐に帰った龍馬に関しては河田小竜(かわた しょうりょう)との出会いを記しておかなければならないだろう。
しかし、その前にジョン万次郎(中浜万次郎)について。
生れは土佐の国足摺岬中の浜(高知県土佐清水市)であり、漁師の次男として育てられた。
1841(天保12)年に14歳のとき鰹漁に出て遭難し、伊豆諸島の無人島に票着したが、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救出されている。
万次郎は船長ホイットフィールドに頼んでアメリカ本土に連れていってもらい、ここで学校に入学し、西洋学問をみにつけた人物となった。
再び捕鯨船に乗って働き、太平洋・大西洋・インド洋を巡航の経験を積んでいる。
当時鎖国していた日本の外国船撃退が、各国の捕鯨船に評判が悪い事を嘆き帰国を決意したのである。
捕鯨の収入と、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで働いて得た資金で、捕鯨船アドベンチャラ-号を買い入れ、1850年12月27日にホノルルを出発し、翌1月3日沖縄の摩文仁海岸(糸満市)に到着した。
長崎奉公および土佐藩の取り調べを受けた後、土佐に帰ってきたという経験の持主である。

いよいよ河田小竜の登場であるが、小竜は土佐藩の画家であった。
島本蘭渓について絵画を学び、岡本寧甫に儒学を学んでいる。
参政吉田東洋から絵と学才を認められ、政治的場面にも登場してくるのである。
1849年には長崎に遊学し西洋文明に触れ、そのすばらしさを体験していたのである。
1852(嘉永5)年、先ほどのジョン万次郎の取調べを土佐藩として行っている。
その折、小龍は万次郎を3ヶ月間自邸に逗留させ、万次郎の口述を詳細に記録し、挿絵を添えて『漂巽紀略』(巽とは南東つまりアメリカのこと)をまとめ上げている。
そして藩主山内容堂に献上しているのであるが、小竜はこの体験を通して土佐藩としては珍しく開明的意欲を持った人物となった。
1854(安政元)年には藩命を受けて砲術家田所左右次らとともに薩摩へ出張、反射炉などの進んだ軍事技術を視察した。評判を聞きつけた龍馬は小龍宅を訪れ、安政元年の秋から冬にかけて教えを乞うた。 小竜は開国論者である。開国して海外の文物を大いに取り入れろというのである。
龍馬が幼稚な攘夷意識から脱却し、海に関心を向けるようになったのはこの時からである。
小竜は晩年、京都に居住し、狩野派から選ばれて二条城襖絵修理に参画し、墓も京都にある。

小竜は西洋をよく知っていた、龍馬にとって「目から鱗」であったのだろう。
それまで何となく西洋のことを聞いていた。それが小竜によって、具体的な形ではっきり西洋が見えてきたのである。
龍馬が自分の軍艦を持ちたいと思ったのも小竜との話の中から出てきたものと私は思う。

上の年表に地震を4回も列挙しています。幕府や公家の耳にはこの話が入っているはずです。甚大な被害をもたらしたこの地震を(特に前3回は4日間の内に起こっています)政治的判断に影響を与えないはずがありません。
攘夷に凝り固まっている公家にとって「天罰じゃ!」ぐらいのことは思ったに違いありません。
私はこれを歴史転換の1つの要素に入れておきたいのです。

1856安政3
(20)
1856.02




1856.08.20


1857安政4
(21)
1857.10.21

1858安政5
(22)
1858.03.11



1858.04.23

1858.09.03

1859安政6
(23)
1859.01


1859.05.28


1859.07.27


1859.10.07

1860安政7
(24)
1860.01.03


1860.03.03

1860.03.18
1861文久1
(25)
1861.08


1861.09.05


1862文久2
(26)
1862.01.15


1862.03.24



坂本権平、四代目当主となる

松平春嶽、山内容堂、島津斉彬、伊達宗城ら
と一橋慶喜の将軍継嗣を主導

龍馬、再び剣術修行のため、江戸へ旅立つ




ハリス、将軍家定に謁見する。



孝明天皇、外交は幕府に委任することを裁可
する。


将軍徳川家定、井伊直弼を大老に任命。

龍馬、土佐へ帰る



安政の大獄始る


幕府、自由貿易を許可


ロシア海軍士官が襲撃を受ける。


幕府、橋本左内らを処刑



遣米使節護衛艦咸臨丸、木村喜毅、勝義邦
(海舟)らを乗せて出発。

桜田門外の変勃発。

万延と改元。


土佐勤王党を結成する。


幕府、蕃書調所頭取勝義邦を講武所砲術
師範役に任命。



久坂玄瑞と坂本龍馬会合する。


坂本龍馬、沢村惣之丞と脱藩。



龍馬の長兄、家督、領地、俸禄を相続する。

松平春嶽、山内容堂、島津斉彬、伊達宗城は一橋派に属し、ペリー
来港時は開港拒絶論から開国貿易論へ変換してきている

1854年6月、土佐に戻っていたが、再び修行のため江戸に出立




米国大統領の親書を提出。



関白九条尚忠、外交を幕府に委任する案を上奏し、多くの公家
の反対にあうが、孝明天皇は上奏を受け入れ、外交は幕府に委任す
ることを裁可する。

井伊直弼が大老になったことにより、幕府の強硬姿勢がより鮮明に
なり、安政の大獄へと向うのである。







アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダの5ヶ国に、神奈川・
長崎・箱館の3港での自由貿易を許可。

ロシア海軍士官ら3人が横浜で日本人数名の襲撃を受け、
2人が死亡、1人が負傷する。








大老井伊直弼暗殺される。




江戸で坂本龍馬、武市半平太ら土佐勤王党を結成する。
中岡慎太郎、沢村惣之丞土佐勤王党に加盟






同日、坂下門外で老中安藤信正が6人の武士に襲撃され重傷を
負う。襲撃者は全員死亡。




ここで、松平春嶽、山内容堂、島津斉彬、伊達宗城の4人に触れておこう。

松平春獄(まつだいらしゅんがく1828-1890福井藩)
橋本佐内、中根雪江、由利公正等の藩士を用いて、藩政改革や殖産興業を行った。安政の頃には橋本佐内ら改革派の意見を取り入れ開国貿易論を唱え洋学振興を図っている。
ペリー来航に際しては、春嶽は開国、通商条約締結の要求を蹴って直ちに決戦すべきと具申したが、安政3年には藩論を積極的開国策へと改め、国家の独立自存と防衛策の建議を重ね、13代将軍家定の後嗣問題にあたっては、幕閣諸大名を指揮できる英明な人物こそ必要である、として水戸斉昭の実子一橋慶喜の擁立を主張。一橋派の一人として強力な挙国一致体制を組み立てようとし、橋本左内を朝廷説得工作の為京都に奔走させた。

山内 容堂(やまのうちようどう1827-1872 土佐藩)
山内家が土佐の藩主になれたのは関ヶ原の戦い後家康により土佐の地を与えられたもので、代々幕府への忠誠心は強い藩であった。
容堂は土佐藩を時勢の中枢に押し上げた名君であったと言われており、幕府内でも発言力が大きく自信家であった。
この自信家ゆえ回りの人間がバカにしか見えなかったのであろう。特に長州藩の過激派志士に対してはただならぬ嫌悪感を持っていた。

島津斉彬(しまづなりあきら 1809-1858)
幼少の頃から蘭学に興味を持ち海外の知識が豊富であった。
攘夷論に対しては西洋の知識を取り入れ富国強兵を実現しようとする立場から反対で、革新的な藩主であった。
斉彬の行った藩政改革によって、溶鉱炉の築き、大砲などの火器の製作、ガラスや火薬、電信機やガス灯など、当時の日本では最新技術といわれるものを藩内で製造できる環境を整えていた。

伊達宗城(だてむねなり 1818-1892宇和島藩)
宗城は進歩的な雄藩の藩主との交流も深く、西洋の事情や学問に大いに関心を抱いていた。
そのため思想犯として追われていることを承知で高野長英を迎え、蘭学の翻訳、教授、砲台の設計などを行わせた。
安政年間、将軍継嗣問題では、一橋派として活動したが、安政の大獄で、大老井伊直弼によって蟄居を命じられ隠居した。文久2年以降は公武合体派として動いた。

さて、ここでこの4人を紹介したのは「幕末四賢候」と呼ばれたからで、この内龍馬と関連の深かったのは松平春嶽、山内容堂の2人であるが、黒船来航以前から経済的には財政難に陥っており、幕府は発行する小判の金含有量を下げる政策に出たため逆にインフレを引き起こしてしまったのである。
しかしこの時期、幕末四賢候は独自の政策(殖産興業、オランダ貿易、財政改革、倹約、借金踏み倒し等)で財政建て直しに成功したのである。
だから、幕末における実力ある藩になっていたのである。その他、長州藩は新田開発、専売制の推進、下関の荷役で利益を揚げていた。

1856(安政3)年頃、第13代将軍家定の後継者問題が浮上していた。というのも徳川家定には子供がいなかったのである。
一橋慶喜を推す一橋派(徳川斉昭(水戸))と紀州藩主徳川慶福を推す南紀派(井伊直弼(彦根))が対立した。
またこの両派は通商条約の締結をめぐり勅許を必要とするか否かでも激しく対立したのである。
さらにこの時期、京都の多くの公家の大反対の中、関白九条尚忠が「外交を幕府に委任する」との案を上奏している。

こんな風だから攘夷か開国かの論争や将軍の後継ぎ問題は幕閣、公家、大名にとどまらず武士、町人の間でも論じられるようになっていたのである。

話を本題に戻そう。
 黒船を見て、桂小五郎に会い感化され、河田小竜に師事し海外の様子を教えられた龍馬。
地震による社会的混乱、幕府の経済政策失敗、政局を2分する対立、こんな状況の中、龍馬は再び江戸に剣術の修行のために出てきたのである。
江戸も随分変わっていた。
若い血気盛んな武士が集まるところ、つまり、剣道場は政局を論じる若者でいっぱいなのである。
龍馬の千葉道場もそうである。
他に武市瑞山の桃井春蔵道場、桂小五郎の神道無念流斎藤弥九郎道場、土方歳三や沖田総司の天然理心流近藤道場などである。
龍馬の剣の腕は既に一流である。しかし、政局を論じ合う若者の間ではもう一つ冴えなかったのではないだろうか。
これを見かねて、同郷の友人である武市瑞山はよく龍馬に自分の考えや新しい情報をもって世の中の動きを説いていた。
このことがその後の龍馬の生き方に大いに影響を与えたものと考えられる。
思考的に未熟だった龍馬が成熟していく過程で剣術の修行をしていたことが大きかった。周りの環境、友人の影響を受けて育て上げられたのであり、決して生まれながらの素養を磨いただけで後の活躍ができたのではないことだけは確かなことです。
そして1858(安政5)の9月、剣の修行の期限が来て龍馬は土佐に向けて帰郷したのである。

安政の大獄
 1858(安政5)年、井伊直弼が一橋派を抑えて大老に就任した。井伊直弼は勅許を得ずして日米修好通商条約締結を断行したのである。
これはアメリカ総領事ハリスの突き上げと、攘夷に凝り固まった孝明天皇の条約勅許がおりないため追いつめられての結果と考えてよいだろう。
そうなると朝廷を蔑ろにしたことになり、朝廷、反対派の攻撃は避けられない情勢になってくる。
そこで井伊直弼の取った戦略は反対派の弾圧と一掃により乗り切ることである。
弾圧は広範囲に及んだ。反対派とは将軍世継問題の一橋派、条約反対の攘夷派である。
処罰対象者は徳川慶篤・徳川斉昭・島津斉彬・松平春獄等の有力者や吉田松陰・橋本左内・梅田雲浜等にも及んだのである。
当然ながら駆け出しものの龍馬は対象外である。
そしてこの大獄をもって尊王攘夷論の火がメラメラと燃え上がって行くことになったのである。

桜田門外の変
 安政の大獄で過酷とも思われる弾圧を受けた尊皇攘夷派、なかでも水戸藩の志士達は薩摩藩とも通じ1860(安政7)年3月3日登城途中の井伊直弼を江戸城桜田門外に襲い暗殺してしまいました。
斬奸趣意書の内容は「幕府の条約調印における朝廷軽視、斉昭処分、安政の大獄の非難、そしてその巨賊井伊を倒すものであり、幕府に敵対するものではない」というものです。
この斬奸趣意書の写しを後に龍馬は見ることになるのです。
そして幕府の権威もこの変を境に凋落していったと思われるのです。

土佐勤王党
 江戸滞在中だった武市瑞山は時勢を読み、薩長土の3藩で密会を行い倒幕の意志を固めたのである。
そして土佐の同志8名を結集し土佐勤王党を結成 したのである。
武市は9月上旬に土佐に帰り同志を集め始めた。
勤王党の連判状の9番目に「坂本竜馬直陰」とある。これは武市が土佐に帰ってはじめにこの計画を話したのが龍馬であり、信頼できる人物と見ていたからだろう。
主旨に賛同して勤王党に参加した者は武市を筆頭に292名、ほとんどが郷士以下の下士・庄屋などで占められ、上士の数はきわめて少なかったのだ。
党是といえばいいのだろうか、「藩論を勤王に統一して、薩長土の兵をもって京都で義軍をあげ朝廷を奉って倒幕を実行する」ということだろう。

土佐藩参政、吉田東洋
 1853(嘉永6)年、山内容堂にその才を見いだされ参政についたが、翌年6月10日江戸にいるとき山内家の親戚の旗本、松下嘉兵衛を殴打する事件を起している。
こういう性格を何というのだろう、豪毅というのだろうか。この事件で東洋は国元に戻され、吾川郡長浜(高知市長浜)に蟄居させられた。
東洋が参政の地位に復活したのは1858(安政5)年、43才の時である。西洋の情報に明るく開国論者であった。
この東洋という人物、武市らの勤王党にとっては「神州を汚す者」であり、醜夷に屈する腰抜け武士であり、幕府に加担する反朝廷派と捉えられていた。
現に武市は何度も東洋と論じあっている。しかし、東洋は武市の薩長土三藩同盟には反対であったのだ。
土佐勤王党は東洋の力を恐れ東洋を亡き者にする計画を練るのである。
勿論、その後の見通しも立ててのことである。

しかし、龍馬は暗殺計画には反対だった。東洋一人を殺しても全藩勤王という事は不可能と見ていたのである。

長州藩を見る
 ここで三藩の勤王の動きを確認しておく必要がある。龍馬は長州藩に出かけたのである。
長州藩とは藩祖が毛利元就で百七十万石の大大名であった。関ヶ原の戦いで西軍についたため家康により三十七万石に領地を削られているのである。
長州藩の考えの中には「憎っくき徳川」ということが当たり前のようにあるのである。
1862(文久2)年1月15日龍馬は長州で久坂玄瑞に会った。
長州には長井雅楽(うた)という家老がいる。この長井雅楽というのは土佐の吉田東洋と同じく佐幕派であり、藩では実力者なのである。
主義は「幕府を助けて大いに貿易を行い、西洋の文物を取り入れ、船を造って五大州を横行し、国を富ませたのちに日本の武威を張る」というものである。
龍馬は「幕府を助けて」というくだりを除けば賛成なのである。
龍馬は倒幕論者である。この主義の「幕府を助けて」に変えて「朝廷のもと日本が一致して」と置き換えれば龍馬の考えそのものになるのである。
そしてここで久坂玄瑞がいった言葉が妙に龍馬をとらえて離れなかったのである。
それは『諸侯も頼むことはできぬ。公卿も頼むことができぬ。頼めるのはおのれのみ。志あるものは一斉に脱藩して浪士となり、大いにそれらを糾合して義軍をあげるほか策はない』である。

 土佐に戻った龍馬は武市に長州の現状を語っている。
龍馬の把握した現状は鋭かった。土佐と長州は環境があまりにも違っているのである。
長州は久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎を初めとする勤王派は上士階級である。長井雅楽が失脚すれば彼等がかわって政局の実権を握ることができるのである。
土佐はというと吉田東洋が失脚しても山内容堂はじめ階級で凝り固まっている政局担当者の考えが変わることはないと見ているのである。

脱藩
 龍馬は土佐での活動はもはや無意味と考えるようになった。
その折り「薩摩の島津久光が大群を率いて京に入り、天子を擁して幕府の政道を正す」という情報が入ってきた。
龍馬は、これには動揺と快挙であるとの入り交じった捉え方をしたのである。
「土佐を捨てよう。日本に活躍の場を求めよう」龍馬は固く決意したのである。