坂本龍馬 その3                     年表を飛ばして本論を読む。     トップ

 坂本龍馬は脱藩してしまった。 この先どうなるのだろう。 その3では長州征伐までを見てみることにする。

1862文久2
(26)
1862.04.08



1862.04.23


1862.05.29



1862.07.06


1862.08.21



1862.09.18



1862.10.27

1862.11.24


1862.12.05












1862.12.12



1862.12.21



1863文久3
(27)
1863.01.08



1863.01



1863.02.23



1863.03.08?


1863.03.13



1863.04.13


1863.05.16


1863.05.18

1863.05.


1863.06.01





1863.06.07


1863.07.02




1863.08.18












1863.09.18


1863.09.21


1863.12.30



1864文久4
(28)
1864.02.11


1864.02.20

1864.03.05

1864.03.27


1864.05.21



1864.06.05




1864.07.18













1864.07.24

1864.08.04







1864.09.05


1863.10.21

1864.11.05



1864.12.06



1865元治2
(29)
1865.01.02

1865.02


1865.03.15


1865.03.27


1865.03.29




開国論者の土佐藩参政吉田東洋、
帰宅途中に那須信吾ら4人に暗殺
される。

伏見寺田屋で激発薩摩藩士と慰撫しに
来た藩士が衝突、10人が死亡。

イギリス公使館東禅寺警備中の
松本藩士伊東軍兵衛がイギリス兵を
斬殺。

長州藩、藩是を公武合体から尊皇攘夷
へ変更。

生麦村で、島津久光の行列を横切った
英国人4人が藩士に斬りつけられ1人
が死亡、2人が重傷を負う。

薩摩・長州・土佐の3藩、朝廷に
幕府へ勅旨を派遣し攘夷を決行
させるよう進言する。

勅旨江戸に到着。

会津藩松平容保、京都守護職として入洛


坂本龍馬、松平春嶽に会い、
勝海舟への添え状を貰う。
12月9日竜馬、勝海舟と面会する。
松平春嶽(越前藩主であり、幕府
政治総裁に任命されていた)の元へ
龍馬、間崎哲馬、近藤長次郎が来た
との記述






品川御殿山に建設中のイギリス
公使館が高杉晋作らによって
焼き討ちされる。

塙次郎と加藤甲次郎、伊藤博文ら
の手で暗殺される。




坂本龍馬の斡旋で高松太郎・
千屋寅之助・望月亀弥太ら
勝海舟門下となる。

グラバー邸完成する。
山内容堂、勝海舟から龍馬らの
脱藩赦免を訴えられる

幕府浪士組234人が上洛。
清河八郎は、攘夷のための組織化
であることを表明。

勝海舟、何者かに襲撃されるも、
岡田以蔵に救われる。

江戸帰還に反対した浪士13人が
京都守護職に属して治安組織
「新撰組」を結成。

清河八郎、佐々木唯三郎らに
暗殺される。

坂本龍馬と横井小楠・三岡八郎・
村田巳三郎会合。

幕府、英仏両軍の横浜駐屯を許可。

長州藩砲台、フランス軍艦キンシャン
を砲撃。(23日)

長州藩、アメリカ軍艦ワイオミング
と交戦し敗北する。
6月5日にはフランス東洋艦隊、
長州藩砲台を攻撃し、陸戦隊を上陸
させ前田・壇ノ浦両砲台を占領。

高杉晋作、藩に奇兵隊編成を
建白する。

イギリス艦隊と薩摩藩砲台群が交戦
し、鹿児島市街が大きく焼失。
一方英国艦隊も嵐の中の戦闘が
うまくいかず死傷者を多数出す。

薩摩藩と会津藩が天皇の許可を得て、
御所を閉鎖し薩摩藩兵の軍事力で
クーデターを起こす。
長州藩、御所の警備を解かれ、
攘夷親征も中止となる。








新撰組局長芹沢鴨、近藤派に暗殺
される。

土佐藩、土佐勤王党郷士の弾圧、
党首武市半平太らを逮捕。

朝廷、一橋慶喜・松平容保・松平慶永・
山内豊信・伊達宗城を朝議参与に
命じる。



幕府、毛利敬親を糾問し、長州藩討伐
の準備を始める。

元治に改元

長州藩処分が決定される。

水戸藩士藤田小四郎ら天狗党が
筑波山で挙兵。

幕府、神戸海軍操練所を設置。
勝海舟を軍艦奉行・海軍操練所
総管とする。

新撰組、古高俊太郎を逮捕し、続いて
池田屋で会合中の攘夷派志士を襲撃
する。
吉田稔麿、宮部鼎蔵ら死亡。

京都近郊に集結した長州藩軍勢4隊の
内、福原越後隊・真木和泉隊が郊外
から市内に向けて進軍を開始する。
福原越後隊は丹波橋付近で敗北。










幕府長州征伐の命を発する。

英米仏蘭4ヶ国艦隊17隻、兵力
5000が、下関を出撃。






土佐野根山に屯集した尊王攘夷派
藩士23人が処刑される。

勝海舟、江戸帰還命令が出る。

英仏米蘭代表、横浜・長崎・箱館3港
における外人居留地配分規則協定を
締結。

天狗党、加賀藩に降伏。
高杉晋作・伊藤俊輔ら率いる力士隊
が、下関新地会所を襲撃。



高杉晋作、馬関で挙兵する。

天狗党の主要メンバー352人が処刑
される。

長州藩諸隊再編成され、軍制改革が
行われる。

幕府、物価引下令、買占め売惜しみ
禁令を出す。

3月29日 徳川家茂、長州藩再征討
の将軍進発を布告する。



既に脱藩している龍馬も関係していると疑われる。



攘夷倒幕を目指す藩士には動かぬ久光に業を煮やし決起しようと
したが久光の命で止めに行った同藩の藩士どうしが斬り合うことに
なる。











9月21日には朝儀、攘夷を決定する。
この頃が長州藩が京で最も輝いていたのだろう。
幕威は地に落ちたといってよい。

11月2日 幕府、攘夷の勅旨に従うことを決定。

京都の治安維持と幕威強化のため、京都所司代の上に
守護職を置いた。選ばれたのが会津藩だった。

海舟の12月9日の日記に「有志両三輩来訪。形勢の議論
あり」とあり、さらに、龍馬が勝の面会に際し、松平春嶽の
添え状を持っていたという記録がある。
司馬遼太郎の小説「龍馬が行く」では海舟と龍馬との出会
いは、文久2年10月となっている。
龍馬は千葉重太郎と共に、勝邸を訪ねた。はじめ龍馬と
重太郎は海舟を斬るつもりであった。
開国論を唱え、異国とも通商を唱える者などは、
攘夷論者の龍馬にとっては許し難い行為であった。
しかし、龍馬は海舟を会談、勝の人物・先進性に心胆し、
斬るどころか弟子になってしまったというのである。


京都に守護職を置いたとしても討幕派は巾を利かせていた。
中でも長州藩は公家を抱え込み天皇から降りる勅許の殆どを
倒幕に都合の良いようにしていた。







龍馬は勝海舟の影響を受け開国の必要性を徐々に感じていた。







幕府の金で集めた浪士組、その目的は京都の警備であったのだが、
清河八郎の考えは攘夷倒幕を目指していた。


勝海舟は討幕派に狙われていた。土佐勤王党もその一つの団体で
ある。
しかしというか、だからというか武市の手管である人切り岡田以蔵を
海舟の護衛に付けたのである。



佐幕派にとっては清河八郎は許し難い裏切り者に思われた。


勝の使者として越前福井に春獄を訪問「神戸海軍塾」
設立資金5千両を借用に行ったときである。



長州藩はこの頃米、仏、蘭軍に砲撃を行い、攘夷の先兵となる。


敗北によりこれまでの攘夷の内容が、外国に対する無知から出てき
たものであることに気付く。




晋作24才。士農工商の階級体制を廃止した奇兵隊、この組織体制
が戊辰戦争の西軍の体制の基礎となったのである。

これは生麦事件の処分を求めたものであった。




京都政界は長州、薩摩、会津の3藩によって動いていた。
長州系攘夷派の公卿姉小路公知暗殺事件で薩摩藩士田中新兵衛
の犯行と云うことになり、これが原因で薩摩藩は乾御門の警護を解れ
朝廷における政治参加の資格を失った。
この失地回復のため薩摩藩が会津藩と手を組んで長州藩を陥れる
ために起こしたのがこの8.18の政変である
翌8月19日 長州派公卿7人、朝廷を離れ長州へ落ち
延びる。
この日、長州藩に派遣されていた幕使鈴木八五郎ら3人、
長州藩士に殺害される。
また、8月21日には長州藩に派遣されていた幕府正使
中根市之丞ら5人も長州藩士に殺害される。
















この頃、勝の命令で肥後の横井小楠を訪問。




4月4日再び横井小楠を訪問。

金蔵寺住職知足院の仲介でお龍と結婚。



桂小五郎は難を逃れる。




昨年8月18日の政変以来蔑ろにされてきた長州藩の復権を
賭けての軍事行動である。
しかし、この時の長州藩の軍議の中では今軍事行動を起こして
も朝廷に受け入れられないと云うことになり、引き上げようとしたが
血気盛んな指揮官、来島又兵衛は頑として受け入れなかった。
そして蛤御門の(禁門の)変が始まったのである。
翌19日、長州軍勢の、国司信濃隊・真木和泉隊が御所
付近で薩摩・会津・桑名3軍と交戦。幹部が多数戦死し、
後詰めの益田隊も含めて敗走。
戦火で京都市内811町に渡る民家27511戸、土蔵1207棟、
寺社253などが焼失。
7月21日 天皇、蛤御門の変に関し、長州追討の勅命
を発する。天王山に残った真木和泉ら長州側17人自決。



同日下関で火災、10日までに約5000軒が焼失する。
8月5日 4ヶ国艦隊17隻、砲撃を開始。
8月6日 4ヶ国の陸戦隊2000余人が上陸。
砲台を占拠し破壊する。
8月8日 長州藩、高杉晋作を降伏使として4ヶ国艦隊に
和議を申し入れる。





龍馬ら塾生のことは西郷に依頼。
その後龍馬、陸奥らと大阪薩摩屋敷に移動。










1月7日 高杉に呼応した太田市之進らの率いる御楯隊が
小郡を占領し、山口へ進軍。













大変長い年表になってしまいました。本当はもっと書きたかったのですが、これでも大夫省略しているのです。

吉田東洋暗殺
 吉田東洋は山内容堂が藩政改革の推進者として参政の職に就けた実力者であり、実行力もあった。
山内家は関ヶ原の戦い以降に徳川家康から土佐を拝領したこともあり、佐幕主義の考えに徹しているということは前節でも述べたとおりである。
武市瑞山はじめ土佐勤王党が掲げているのは一藩勤王である。瑞山は何度も藩庁に足を運び東洋と論じあったが、東洋の方が理論的にも、実力が上だったのである。そして瑞山の計略のもと、大石団蔵、那須信吾、安岡嘉助により1862(文久2)年4月8日夜、帰宅途中に吉田東洋は斬殺されたのである。
これにより、守旧派と勤王派の連合政権のようなものが出来上がったが、これは武市瑞山が描いていた政権で黒幕はとりもなおさず瑞山だったのである。



島津久光の上洛
 土佐で東洋が斬殺された頃、薩摩藩は島津久光が兵を率いて京都に向かったのである。
京都では大久保利通が公卿工作をしていた結果のことである。公卿工作とは、「幕府にこれ以上政治を任せておけば外夷が増長して日本がどうなるか分からない。京都の守護を名目に薩摩藩兵を呼び、この兵力を持って幕府に攘夷を迫る」というものである。
しかし朝廷では幕府に遠慮していて勝手に島津藩兵を呼ぶことはできなかった。
それで島津が自分の意志で入京するなら黙認するという形で軟弱な意思表明をしたわけである。
この島津藩の動きは勤王の志士の意を鼓舞するのにはあまりにも大きな出来事であった。
龍馬も脱藩前に吉村寅太郎からこの話を聞いている。司馬遼太郎の小説を借りれば「龍馬ぁ、一大事じゃ。もはや男子の進退覚悟すべきときがきよったぞ」である。



寺田屋騒動
 薩摩藩士、有馬新七ら過激グループは幕府の出先機関である京都所司代を襲撃し、島津久光を説いて薩摩藩の兵を味方にして京都を占領する。そして、勤王諸侯に呼びかけて参軍せしめ幕府を倒し、一気に政権を朝廷に取り戻そうというのである。
この時期、尊皇攘夷の考え方は広まりつつあった。しかし、尊皇攘夷倒幕というのはほんの一部の跳ね上がった者の考えでありこの計画が実現されるような可能性はまずないだろう。
 寺田屋に勤王の志士が企てを目論み屯集していることを聞いた島津久光は彼等と同志同腹の者に慰留させるように寺田屋に向かわせたのである。
もう既に計画は実施段階である。慰留は成功せず斬り合いになったのである。
この騒動で亡くなったのは過激グループの有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮助、橋口伝蔵、弟子丸竜助、西田直次郎、森山新五左衛門、それに切腹した田中謙介、山本四郎、慰留に来た道島五郎兵衛である。
この事件を知った龍馬は涙したという。



密勅降下 内旨
 吉田東洋暗殺後、武市瑞山は土佐藩の政局を牛耳っていたが、薩摩藩が京に上り、長州藩にも攘夷の密勅が下り、藩是を公武合体から尊皇攘夷へ変更、武市の尊皇攘夷の思いはますます焦りの色合いを濃くしたのであろう。
そして青蓮院宮(中川宮)を動かし天皇の内旨を得たのである。
この内旨を盾にとって政変を実現させたのである。
これで藩主山内豊範をはじめ藩兵を率いて京に上ることができたのである。
ここに幕末の勤王3藩、薩長土が顔をそろえたのである。


この頃の京都は
 島田左近、本間精一郎、目明し猿の文吉ら佐幕派の人間が田中新兵衛、岡田以蔵ら攘夷派の志士に天誅という形で次々に暗殺されていったのである。
京都の治安維持が必要だった。幕府は京都所司代だけでは治安維持はできないと判断。所司代とは別に京都守護職を置くことにしたのである。
つまり、所司代が警察なら、守護職は軍隊のようなものである。
幕府の軍隊である以上、譜代大名から選ぶのが筋であろう。諸藩の経済基盤は米である。商人が栄えている貨幣経済の中にあっても、未だに米が中心の経済である。
殖産興業、経済改革を行っていない譜代大名が多い中にあってこの大役を引き受けられる大名は限られていた。
1862(文久2)年8月白羽の矢は京都から遙かに離れた会津藩に立てられたのである。
そして、この年の11月24日、藩主松平容保以下1000人の武士が入洛したのである。



話しを龍馬に戻そう。
薩長土が京に顔をそろえた頃龍馬は江戸にいた。桶町の千葉道場である。
脱藩し土佐勤王党とは袂を分かって、長州、九州、大阪、京都、江戸と渡り歩いてきた。前述のように京都では天誅の名のもと無法状態である。
江戸に入る少し前の1862(文久2)年8月にも攘夷論者を奮い立たせるような「生麦事件」もあった。
この状況見ていて、「攘夷」何かおかしいぞと感じていたのであろう。
龍馬には河田小竜から聞き知った西洋の情報があった。
「このままでは日本は滅ぶ。」という焦りと「先進技術の必要性」を感じていたのである。
しかし、自分は浪人の身、何ができようか?
幸にも千葉道場主、千葉重太郎の父千葉貞吉が福井藩の剣術指南であったことである。
貞吉を通じて松平春嶽に会いに行った。このことは越前藩の公式記録である「続再夢記事」の記録に、1862(文久2)年12月5日に松平春嶽を訪ねて坂本龍馬、間崎哲馬、近藤長次郎が来たと載っている。
春嶽と言えばこの年政治総裁職に就任した大物実力者である。簡単に話できる相手もないし、簡単に動けるはずもない人物である。
それでも、春嶽は龍馬の話を聞いてやった。そして勝海舟への紹介状を書いてやったのである。
そしてこの紹介状を持って勝海舟に会いに行ったのである。
よく言われているように勝海舟を切りに行ったのではないのである。
海舟の12月9日の日記には「此夜、有志、両三輩来訪。形勢の議論あり」と記されている。
つまりアメリカに行ったことのある海舟に教えを請いに行ったのであろう。
そして話しに感服しこの日にモヤモヤしていた尊皇攘夷思想から、ハッキリとした尊皇開国主義に変わってしまったのである。
しかし何故佐幕派ではなかったのだろう。
尊皇は身に染みついていた本能みたいなものなんだろう。攘夷は言ってみれば流行病のようなもの、確かに龍馬もこのはやり病にかかっていた。こういうものは簡単に考えが変わってしまうのだろう。
それでは本能のような尊皇思想はどこから出てきたのだろうか。
その種は土佐藩にあったのである。
身分制度の厳しい土佐藩にあって郷士の身分、どんなに頑張っても上士にはなれないし、頭も上がらない。
子供の時からこの身分制度がたまらなくイヤであった。それが上士への反発、土佐藩への反発、惹いてはトップの幕府への反発へと知ってか知らずか、龍馬の脳裏に染み込んでいたからだろう。

注)
間崎哲馬: 1849(嘉永2)年16歳で江戸に出て安積艮斎に学び、経史詩文に通じ塾頭に抜擢された。
        3年後帰国し吉田東洋の少林塾にも学んだこともあり、1861(文久元)年再び江戸に上り、
        武市瑞山と意気投合して土佐勤王党に参加し、瑞山、平井収二郎と並ぶ土佐文武の先覚者
        と言われた。
        吉田東洋に学んでおり開明思想の持ち主で、坂本竜馬の海軍振興策を聞き、海軍の改革を
        藩に進言していた。
        佐幕派に忌まれ、前藩主山内容堂の怒りにふれ、土佐に護送されて切腹の刑に処せられた。

近藤長次郎:河田小龍の門下生で饅頭屋の息子で町人。龍馬の勧めで勝海舟に師事し、土佐藩から士分
        に取りたてられている。
        神戸海軍操練所で学び、亀山社中の設立に尽力した。しかし、長州藩からの謝礼金で英国
        渡航を企てたことが分かり、亀山社中内規違反として切腹した。


こうして龍馬は海舟に会って話を聞くことができた。
目の覚める思いであったのだろう。そして、海舟に師事したのである。
そして海舟に付き添って京都に戻ってきたのである。



龍馬と武市の会見
 武市瑞山も京都にいる。吉田東洋殺害で土佐の政治実権を握った瑞山は藩主山内豊範を擁して入京し、他藩応接役として諸藩の有志と交わっている。
攘夷督促の勅使三条実美や姉小路公知の江戸下向にあたっては、柳川左門と変称して1862(文久2)年10月12日京都を出発し、11月2日には幕府にこの勅旨従わせることに成功している。
このころが瑞山と勤王党の最も華やかな活躍時代で、瑞山は翌年正月京都留守居役となっている。
さらに瑞山は岡田以蔵を使って佐幕派の人間を討っていたのである。
龍馬は師と仰ぐ勝海舟を尊皇攘夷討幕派が狙っていることを知っていた。
そのため瑞山には海舟を斬るなと、そして岡田以蔵には海舟の護衛を依頼したのである。



神戸海軍操練所
1863(文久3)年4月、勝海舟が神戸海軍操練所の設立と神戸に海軍塾を開くことに幕府から「摂州神戸村最寄りへ相対を以て、地所借り受け、海軍教授致し候儀、勝手次第致さるべく候事」の許可を得て造られた。
龍馬は10月塾長に就任している。この住所は現在神戸市生田区加納町64番地で、神戸税関のあたりである。
操練所設立計画では龍馬は海舟を助けことに福井越前藩まで資金を集めに奔走した。
操練所正式開設に先立って海舟私塾の塾頭としても活躍、龍馬にとっては憧れの船を手中に納めたような気分になっていたのだろう。
海舟塾には、龍馬との関係で土佐からの入塾者も多く、積極的に尊皇攘夷の浪士も入塾させたのである。
正式発足した幕府の神戸海軍操練所は翌年5月21日であるが、この時龍馬は帰藩命令を拒否し脱藩中であり入所していない。
しかし、この海軍操練所は、幕臣だけでなく、他藩士も塾生としていたが尊皇攘夷の浪士も多く、勝は幕府から「勝は神戸で不逞浪士達を煽動している」と嫌疑をかけられ、操練所は1年あまりの1865年3月12日で閉鎖に追い込まれている。
海舟塾に入熟した者の中に陸奥陽之助宗光もいた。
彼は、のちに龍馬がが組織した海援隊に参加し、明治維新の後には政府に参画しますが、薩長閥の専横に抗議、征韓問題で西郷隆盛や板垣退助と共に下野した後、政府転覆を図り5年間投獄されている。
明治16年出獄後、駐米公使、山県内閣農商務大臣、衆議院議員、伊藤内閣外務大臣などを歴任し、日清戦争前後の外交にあたっています。



土佐勤王党への弾圧
武市瑞山にとって不幸がやってきたのは土佐藩老公山内容堂が入京して藩政を執りだしたことであった。
この殿様は四賢公などと煽てられていたせいか、我が儘で自惚れが強く、自分以外の者をバカとしか見えなかったのだろう。
好き嫌いも激しかった。勤王思想の持ち主でもあったのだ。
ところがである。始めにやりだしたのは勤王党の弾圧であったのだ。
勤王思想の持ち主ながら浪士嫌いであった。下士で構成されている勤王党とは頭から相容れないのである。
容堂はまず「他藩との交際等無用である」と。
京都ではそれまで瑞山のもと、長州藩と共に公卿の屋敷に出入りして朝廷を極端な攘夷の方向に持っていくことに成功していたのであった。
しかし、容堂の入京で活動はストップし、さらに、間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太の三人に切腹を命じている。
この後土佐藩で高まっていた尊皇攘夷倒幕機運は消え去っていくのである。



高杉晋作と久坂玄瑞
吉田松陰の松下村塾に松門の双璧と称された2人の人物がいた。
高杉晋作と久坂玄瑞である。
高杉晋作は1862(文久2)年5月藩命により上海へ渡航し、ここで「太平天国の乱」を目撃している。
植民地の実情を観察した数少ない経験の持ち主である。
久坂玄瑞は1858(安政5)年、江戸の桜田藩邸において洋書などの輪読会を行い学問に励んでいた。
この時、井伊直弼が日米修好通商条約の無断調印を強行、次いで安政の大獄を引き起こすなど幕府の姿勢に憤慨し、以後薩摩、土佐、水戸藩の志士らとともに尊王攘夷の急進論者となった。
帰藩したが家老長井雅楽(ながいうた)の航海遠略策によって藩論が公武合体論(俗論派)に傾いたことに悲憤し、1862(文久2)年春に脱藩した。
同年10月攘夷督促の勅使三条実美や姉小路公知の江戸下向にあたって武市瑞山と共に江戸に入り、11月には高杉晋作と謀り横浜の外国商館襲撃を企て、さらに12月には同志を糾合して品川御殿山の英国公使館を焼打ちし、攘夷の気勢をあげている。
2人の活躍で長州藩の攘夷志向は高まり、1863年5月下関に於いて外国船攻撃が開始された。
この時起用されたのが高杉晋作であるが報復攻撃にあって敢えなく敗北してしまっている。
今までの攘夷運動が外国を知らなかった故の敗北と知らされた一場面であったのだろう。
すぐに晋作は藩に対し奇兵隊を組織することを建白し、自ら総監となり馬関総奉行として下関防御の任に当たったのである。



姉小路公知(きんとも)
1863(文久3)年といえば龍馬は神戸の海軍塾の運営に日夜を費やしていた。
しかし、京都では新選組が組織され、横浜では英仏の駐屯が許可され、長州藩では外国船と戦闘を行いるという時期である。
龍馬はまだ、動かない。
姉小路公知は三条実美とともに攘夷は公卿の代表格である。
その公知が5月20日夜、長引いた朝議を終え御所の公卿門を出て猿ヶ辻に差し掛かったところで何者かに襲われ絶命したのである。
犯行に及んだのは誰か? 犯人が残した刀が決め手となって薩摩藩の田中新兵衛ということになった。
このことにより、長州藩勤王派、土佐藩勤王派、京都の浪人志士の間で薩摩藩は乾御門の警護を解かれ孤立し失脚していくのである。



大和行幸
1863(文久3)8月13日、『今度攘夷御祈願の為、大和国行幸、神武帝山陵・春日社等御拝、暫く御逗留御親征軍議あらせられ、其上神宮行幸の事』となった。
孝明天皇の大和行幸の詔である。
攘夷を祈願するため大和に行き、神武天皇陵及び春日大社にお参りし、暫く逗留して攘夷親征軍議を行い伊勢神宮に結果を報告に行くという内容である。
ここでいう親征軍議というのは徳川幕府を倒し天皇を中心とした政府を作るという意味と解して間違いないだろう。
この詔発布に先立つ7月19日、池田慶徳(鳥取藩主 徳川慶喜の兄)、池田茂政(岡山藩主 慶喜の弟)、蜂須賀茂韶(徳島藩主)、上杉茂憲(米沢藩主)の四人が攘夷親征に対する意見を求められていますが、親征についてはいずれも反対の意見を述べています。
それではこの詔は天皇が出したものだろうか?
龍馬と同郷の脱藩浪士吉村寅太郎や三河の松本奎堂ら率いる天誅組が行幸に合わせて大和挙兵を計画し、実際に五條代官所を襲撃していることからも分かるように、尊皇攘夷派の長州藩と公卿である三条実美、関白鷹司輔煕らによる偽勅でなのある。
つまり、大和行幸は倒幕親征の第一歩となるところだったのである。
しかしこのけいかくを阻止した人々がいたのである。
薩摩藩と会津藩、それに中川宮、前関白近衛忠熙、右大臣二条斉敬らである。
薩摩藩は姉小路公知事件で乾御門の警護を解かれ失脚状態である。そこで復権を狙って驚異とも言うべき戦略に出た。
それが、会津藩と手を握ることである。薩摩藩は、高崎佐太郎が会津藩士秋月悌次郎、廣澤富次郎、大野英馬、柴秀治を三本木の料亭で落ちあい二藩ので長州藩の失脚の話を持ちかけた。
会津藩では容保の同意を得てこの話は現実のものとなったのである。
そして8月18日の政変に繋がるのである。



8・18の政変
薩摩・会津両藩は親征に反対する中川宮のもとに走り、大和行幸反対と長州藩・攘夷倒幕の公卿追放の策を説明し受け入れられた。
もともと大和行幸の詔は天皇が発したものでなく、中川宮が詔を孝明天皇に見せ親征部分が付け加えられていることにより偽勅であることを確認し、薩摩・会津両藩の策を上奏した。
そして、8月16日の夜中川宮に兵をもって処理に当たれとの勅が下され、18日午前1時決行となったのである。
良く17日は天誅組による五條代官所の襲撃が始まっており、占拠が完了していたのである。
いよいよ8月18日、中川宮、松平容保稲葉正邦(京都所司代)それに前関白近衛忠熙父子が参内、右大臣二条斉敬・内大臣徳大寺公純が参内した。
御所への入り口である九門は堺町御門(薩摩)、乾御門(薩摩)、清和院御門(土佐)、寺町御門(肥後)、下立売御門(仙台)、蛤御門(水戸)、今出川御門(備前)、中立売御門(鳥取)、石薬師御門(徳島)は閉ざされ( )ないの藩が警護に当たった。
この内堺町御門は本来長州藩の持ち場でありここを薩摩藩が警護に当たったのは「長州憎し」の執着心からであろう。
警備の配置が済むと一発の砲音が轟き響き政変の準備が完了したことになった。
在京の諸藩主に事態を知らせ、即刻参内するよう命令が下された。
土佐、米沢、備前、大洲、鹿奴、大溝、新谷藩等、藩主またはその代理が急いで参内してきた。
当然ながら長州藩、長州系公卿は九門内の立ち入りは禁止させられている。
そして朝議が開催されその結果以下の内容が決定された。
  1、長州系公卿の参内禁止・謹慎処分
  2、国事参政・国事寄人(長州系の激派公卿がほとんど)の役職廃止
  3、大和行幸・御親征の延期
  4、議奏の更迭と交代
  5、長州藩士及び浪人の京都一掃
こうして、長州藩及び長州系公卿は朝廷内から一掃され一夜で朝敵になってしまったと同時に五條の天誅組は梯子をはずされた格好になってしまったのである。
いわゆる七卿落ちというのは翌19日に長州に向けて京都から一掃された公卿で三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉のことです。
この政変で公武合体派が復権し、土佐藩では藩主容堂による土佐勤王党の弾圧が強化されてきた。
そして、9月21日には武市瑞山までもが捕縛されるにいたっている。



池田屋事変
元治元年6月4日新選組は薪炭商桝屋喜右衛門こと古高俊太郎を捉まえた。勤王の志士である。
6月20日長州藩士と共に行動し、京都を焼き払いその隙に乗じて天皇を擁し奉る計画に参加する予定であった。
新選組の捜索で鉄砲、煙硝、手槍等が発見され容疑は固まった。
拷問の末、明日5日夜三条から四条の間だの旅籠や町屋で20日のテロ決行の打ち合わせが行われる事を吐いたとされている。
しかし、そうだろうか?ここまで新選組が吐かしたのなら、当然打ち合わせの場所も聞き出しているだろう。
会合の情報を得ての探索であれば近藤隊、土方隊合わせて34名(当日は祇園祭の宵山の日である)、この内池田屋を襲ったのは近藤隊10名であることを考えれば新選組は確実な情報を持っていなかったと考える方が自然である。
したがってこの界隈見回り中に偶然発見したというのが正しいのではないか。
この事変の結果幕府は新選組に対して五百両、近藤勇に銘刀一口、負傷者には五十両出し、京都守護職に対しては感状を与えている。
つまり、これは司馬遼太郎氏が言うように幕府は事変を治安問題とはせず、戦争と見ていることの現れである。
長州藩及び長州系浪士を敵と見なす考え方なのである。
ここに戦争の火蓋は切って落とされたのである。長州藩にこの知らせが届くと六月十日には先発隊が今日を目指して出発したのである。



禁門の変
京へ向けての出陣を決めたのは来島又兵衛、久坂玄瑞ら急進派であった。
京へ到着した長州藩は山崎、伏見と嵯峨、嵐山の大きくは二手に分かれて布陣したのである。
そして、朝廷に入洛許可を求めたのであるが、逆に朝廷からは退去解兵が命じられ、長州追討ということになろうとしていた。
この長州追討に大きく絡んでいたのが薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)で、「このさい、長州を討たざれば、後顧の憂い、百年にのこる」と上奏して長州追討を現実のものとしたのである。
これに対して、長州藩の指揮官は軍議を開き、来島又兵衛の「追討令が何事ぞ。朝敵になるのを怖れるか。勝った方が負けた方を朝敵とする。追討令が出ぬ間に京に攻め入る。諸君が戦わないのであれば、又兵衛のみが戦う。よーく見ておけ」の言葉で奇襲が決まった。
7月18日夜半、伏見、山崎、嵯峨の3隊が行動に出たのである。

守る幕府側には2つの誤算があった。
一つは、戦闘の開始時期の見通しである。これを7月19日と見ていたこと、もう一つは長州軍の主力部隊が伏見の福原越後隊であると見たことである。
伏見の福原越後隊は江戸時代300年の泰平で戦いを忘れてしまった上士隊が中心である。(もっとも、幕府側の旗本も同じであるのだが)
この隊を迎え撃つために幕府側最大最強の会津藩・桑名藩・大垣藩を大石橋(京都南東部)付近に配備したのである。
したがって、長州藩は戦いの初期の段階では優位に立つことが出来た。

この戦いの目的は幕府・会津・桑名・島津を討つことではない。天皇を擁して長州側に引き込み、彼等諸藩を朝敵にすることである。
彼等を朝敵にしてしまえば、そのあと攘夷諸藩を朝廷の勅許を持って倒幕に進んで行けると読んでいたのである。

結局、伏見隊はあっさり敗退。
嵯峨より進撃した来島又兵衛率いる700名は御所西側に進撃、御所蛤御門に集中攻撃をかけ会津、桑名藩、幕府軍と戦い内裏に迫る勢いであったが、西郷率いる薩摩藩援軍をもって敗退。
山崎方面の長州軍は堺町御門から侵入、鷹司邸内に立て籠もるも火をかけられ敗退、ここで久坂玄瑞は自刃した。
同じく山崎から出発した久留米藩水天宮祠官真木和泉は鷹司邸の激戦場から20日山崎まで落ちのび、ここで従ってきた数十人を解散している。
最後まで行動をともにしたいと願う16人をつれて山崎の宝積寺で1泊し、21日山へ登って討伐軍の来襲を確認、正午ごろ会津兵と新選組200名、見廻組300名が攻め上ってくると、自刃、爆破しここに17名が亡くなったのである。

禁門の変が開始されたとき坂本龍馬と勝海舟は神戸の操練所にいた。
詳細で正確な情報が入ってこない。二人はすぐに大阪に発った。
勝は大阪城に、龍馬は市中で勝を待った。
大阪城でも情報がつかめない。二人は京に向けて再び発つしかなかったのである。
ここに、二人の性格がよく出ている。ものごとを判断するには不確かな情報や噂は断を誤らす。自分の目で確かめることが最良だと知っているのである。
この点歴史に名を残すだけの人物であると言えるのではないだろうか。




長州征討
第一次征討、1864(元治元)年11月朝命によって幕府は長州征討の兵を挙げる。
長州藩では禁門の変と四国艦隊下関砲撃事件で尊皇攘夷派の勢力は衰えていたため、この戦いで勝ち目はないと誰の目にも明らかだった。
長州藩は開戦の直前藩論を佐幕に変え、尊皇攘夷派の重臣益田右衛門介、国司信濃、福原越後の3 家老に切腹を命じ、四参謀を萩の野山獄で斬刑に処す。
さらに、征長総督の命により、長州藩主父子自筆の伏罪状の提出させ、長州藩に亡 命中の三条実美ら五卿の追放で幕府軍に降伏したため実質的な戦闘はなかった。
高杉晋作や桂小五郎が脱藩したのはこの頃である。

第二次征討
しかし、長州藩内部では、依然佐幕保守派と尊攘急進派が対立していた。
保守派は藩内の門閥系で、毛利家の存続のためにはすべて を犠牲にしても、幕府に恭順の意を示そうという考えだった。
これに対して急進派は奇兵隊を中心とし、外に対しては恭順を装いつつ、内では軍備を充実しようというものであった。
そして脱藩したとはいえ地下活動する高杉晋作が率いる奇兵隊がクーデターを起こし成功する。
ここに長州藩は再び藩論を尊皇攘夷に傾いたのである。
この状況を見て幕府は将軍家茂も出陣し再び長州征討を決行するのであるが、諸藩の足並みは揃わず、大藩である薩摩藩は出兵を拒否する。





                              

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