幕末の京都1
九条邸跡
府は1854(安政元)年日米和親条約、日露和親条約を締結した。公卿は朝廷をないがしろにするものだと猛反発した。
このような状況では安政5年の通商条約の勅許などもらえそうにはなかった。
井伊直弼は孝明天皇の側近の公卿に裏工作を行い、九条関白に幕府一任の勅許作成までこぎつけた。
しかし、岩倉具視らの反発で「諸大名により協議せよ」改められた。
この騒動があったのが左の写真の九条邸である。

九条邸は蛤御門の変で鷹司邸からの類焼で焼け落ち今は見る影もない。
酢屋
写真は龍馬が暗殺される1ヶ月前まで住んでいた材木商「酢屋」。
また、ここは海援隊京都本部でもあった。

暇を持て余した龍馬がこの2階の窓から高瀬川の掘り割りに浮かんでいる材木に向けてピストルを撃ったとの話もある。
近江屋
京都の繁華街のど真中、四条河原町。今は旅行社になっているのですが、ここが龍馬と中岡慎太郎が刺客に暗殺された醤油商「近江屋」があったところ。前出の「酢屋」が危険ということで海援隊の長岡健吉の薦めでここに移ったのである。
1867年11月13日、新選組を脱退した伊東甲子太郎が訪ねてきて「新選組や見廻組が狙っている。龍馬と慎太郎は速やかに土佐藩邸に移れ」忠告したが移らなかった。
14日には寺田屋のお登勢が同じく危険と言う情報を持って訪問した。
そして、15日午後9時頃に刺客に襲われることになったのである。
この時中岡慎太郎も一緒にいたのである。
中岡慎太郎寓居跡
近江屋の向かい側をちょっと南に行ったところに中岡慎太郎が住んでいた。
慎太郎は高山彦九郎を尊敬していた。
土佐北川村の庄屋の子として生まれ、農政改革を実践してきており行動派であることは理解できる。
陸援隊を組織し、龍馬の海援隊と共に「翔天隊」と呼んでいた。
薩長同盟に大きく貢献したが、前出の近江屋で暗殺された
この日龍馬は風邪をひき熱があった。そのため真綿の胴着に舶来綿の綿入れを着、その上に黒羽二重の羽織を着ていた。慎太郎との話も終わりシャモを食べることになった。居合わせた本屋の小僧峰吉にシャモを買いに行かせたのであるが、生憎シャモは売り切れていた。そこで、新たに潰すことにしたため30分は待たされたのである。
この間、運命が進行していったのである。
幕府の見廻組組頭佐々木唯三郎以下6名が近江屋の軒下に立ったのである。
佐々木は土間に入り「拙者は十津川郷士。坂本先生ご在宅ならがお目にかかりたい」と。応対したのは元相撲取り「雲井竜」の藤吉である。
人のよい藤吉はこれを信じ、龍馬に取り次ごうと2階に上がった。佐々木の手の者が続いて階段を駆け上がり後から藤吉を切り捨てた。2階から藤吉は落ちた。
「バタバタ、ドスン」この音は龍馬の耳に達したのであるが、藤吉と峰吉がふざけていると思ったのである。
「ほたえなっ」、龍馬は怒鳴った。
佐々木らはこれで討つべき龍馬の居所を知ったのである。
刺客達は龍馬の部屋に飛び込むなり、一人は龍馬の前額部を、一人は慎太郎の後頭部を斬撃したのであった。
床の間にある刀を取ろうとした龍馬に二ノ太刀が加えられた。左肩から左背骨にかけてである。
それでも龍馬は跳ねるように立ち上がった。鞘を右手で払いとばして「陸奥守吉行の太刀」を抜こうとしたがその時三ノ太刀が加えられたのだ。
龍馬は崩れた。
慎太郎は11ヶ所も斬りつけられ倒れた。
刺客が引き上げた後、二人はまだ意識があった。二階から助けを呼ぼうと階段のところまで這っていった。階下には誰も居ない。
龍馬は突如、慎太郎を見て笑った。澄んだ、太虚のようにあかるい微笑が、慎太郎の網膜にひろがった。
「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」
これが、龍馬の最後のことばになった。
高山彦九郎像
時代は遡りますが、寛政の三奇人と言われた人。(林子平、蒲生君平)
生まれは上野国(群馬県)新田郡細谷村で勤王の思想家である。1764年3月18才にして初めて京都にやってきた。彼は東北から鹿児島に至るまで遊説して回り、京都へは5回来ている。
この像は荒れ果てた世の中を嘆き、御所に向かって涙した姿を現したものです。
今では歌われないのですが、先斗町など花街で「さのさ」の節で

「人は武士、気概は高山彦九郎。
   京の三条の橋の上、遙かに皇居を(ネエ)、
        伏し拝み、落つる涙は鴨の水」
と歌われ親しまれている。
土佐藩邸跡
現在は廃校になった元小学校である。
龍馬が脱藩した後、吉田東洋殺害の疑いと脱藩の罪で追われることになったが、勝海舟と山内容堂との会見で許され、形式的に自首、7日間の謹慎を受けたところ。
土佐稲荷
現在は上の小学校跡地の北側にあるが、維新の時に土佐藩邸から南側に移されている。
龍馬が暗殺された近江屋の主人新助がこの地を買い取り遷座している。
本間精一郎遭難の地
本間精一郎とはどんな人物だろうか。
新潟出身で江戸では勘定奉行の中小姓をを努めていたが、清河八郎に感化されたのだろう攘夷運動に参加、公武合体の時には親幕派公卿を排除している。
人間性に問題があったのだろうか志士仲間から見放され間者ということで仲間に狙われることになってしまった。
ここで登場するのが岡田以蔵、田中新兵衛らである。
岡田以蔵については人切以蔵という恐ろしい名が付いている。
この場所は土佐藩邸の南東角から通りを隔てた東側で、横の路地にはこの時の争いの刀傷が残っている。
古物商桝屋喜右衛門(古高俊太郎)宅
場所は中岡慎太郎寓居地から東へ数十メートル。
1864年長州藩の動向が注目されていた。
桝屋は長州藩御用達であったが俊太郎は勤王の志士である。

兵学者宮部鼎蔵は天皇を奉じて長州藩による革命を起こそうというものである。
この鼎蔵が桝屋を訪れるに至っては、もはや疑う余地はない。
新選組から目を付けられていたのである。
6月4日夜新選組は桝屋の捜索に現れ俊太郎を壬生屯所に連行、拷問にかけた。
そして、5日池田屋にて革命を起こす同志集会があることを吐露してしまうのである。

池田屋
1864年6月5日、池田屋には二十数名の勤王の志士が集まっていた。
長州  吉田稔麿(24) 杉山松助(35) 広岡浪秀(24)
土州  北添佶摩(30) 望月亀弥太(27) 藤崎八郎(22)
肥後  宮部鼎蔵(45) 松田重助(35) 高木元右衛門32
播州  大高又次郎(44) 大高忠兵衛
但馬  今井三郎右衛門(46) 等。

この日新選組は2班に分かれて壬生屯所を出発した。
土方隊は四国屋重兵衛、近藤隊は池田屋である。
志士達がどちらに集まるか計りかねていたのである。

夜10時過ぎ京都守護職による幕兵の包囲網が整ったところで近藤隊が池田屋に入った。
志士達は集会後の酒宴の最中であった。
この時、池田屋主人惣兵衛は志士達に事態を知らせるため「御用改めでございます」と叫んだが志士達には意味が通じなかった。

凄まじい戦闘が始まったのである。
戦いは2時間あまり続き、志士達は高木元右衛門を除いて全員が死亡したのである。

長州藩邸跡
高木元右衛門が逃げ込んだのは池田屋から200メートルほど北の長州藩邸である。
ここは勤王の志士が幾度となく足を運び激論を戦わせた場所であり、龍馬も訪れている。
蛤御門の変(禁門の変)のとき焼き払われた。
現在は京都ホテルが建っており、写真のように桂小五郎の像が立っている。
桂小五郎幾松寓居
小五郎の夫人となった三本木の芸者幾松との住まいである。
しかし、蛤御門の変(1864.7.19)の後京都では長州人狩りとでも言うのか京都守護職、新選組による厳戒態勢に入り、小五郎は永くこの家に住むことはできなかった。

木屋町通り御池上る西側
木屋町三条北西角
車道(三条通り1筋南)通り木屋町西入る北側
河原町通り四条上る西側
河原町通り四条上る(一筋越る)東側
三条大橋東
木屋町通り蛸薬師下る西側
蛸薬師通り河原町北側
木屋町通り蛸薬師下る東側
四条河原町上る1筋目北入る西側
三条通り河原町東入る北側
河原町御池北東角
木屋町通り御池上る東側
木屋町通り御池下る東側
佐久間象山
桂小五郎、磯松寓居跡の向かい側に左上の佐久間象山遭難の碑たっている。
右上は人通りの多い三条小橋のところに場所を示す案内の石碑。佐久間象山ともう一人は大村益二郎です。
大村益二郎は近代陸軍兵制の確立に努力した人です。しかし、不平士族の反感を受けたため、明治2年9月4日襲撃されます。そのときの足の傷が元でなくなりました。
佐久間象山は西洋兵学を学び、深川藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助ら幕末に大きな活躍をした人材を育てていた。
龍馬も江戸で学んでいる。
開国論者で、公武合体派であった。京都に来たのは将軍家茂の要請によるものである。
池田屋事件の後、長州藩士が京都を目指して上ってきており、公武合体派の象山が襲われたのはこの長州藩士が関わっていたものと思われる。

時代を遡ること1年、1863(文久3)年3月4日将軍家茂が入洛している。
孝明天皇は家茂を従えて加茂行幸を行った。下鴨神社で「よぉ〜、征夷大将軍」と声をかけたものがいた。長州の高杉晋作である。
これを見ても幕府の権威が著しく落ちているのが分かると共に、長州藩として朝廷、公卿との結びつきが堅く時代の流れを読むことのできる者にとっては自分たちの時代が来たと無意識の中に思っていたのだろう。
具体的な倒幕の動きが出てきている。

この年の8月13日、朝廷は「来る8月20日、天皇は攘夷祈願のために大和へ行幸される。続いて攘夷親征のために伊勢神宮に参拝される」と発表した。これは尊皇攘夷派の長州藩による工作で、行幸・参拝に乗じて江戸へ攻め込み幕府を倒そうという策略であった。
 この機をうかがっていた倒幕急進派の中山忠光、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本圭堂らが、皇軍の先鋒となる為、8月14日に京都をたち幕府天領の五條へ入った。
そして8月17日、天誅組の志士30人は五條代官所を襲い代官鈴木源内を殺害し、桜井寺に本陣を置いたのである。

しかしこの動きとは別に、公武合体派の薩摩藩・会津藩らはクーデターを計画。8月18日、薩摩系の公家の中川宮は、三条実美ら長州系の公家に御所への出入り禁止を孝明天皇の名で命じ、長州藩の御所の護衛を解いてしまった。
いわゆる、八月十八日の政変である。
こうして尊皇攘夷派の長州藩は敗れ、天皇の大和行幸は中止となってしまい、所謂長州派の三條 実美、三條西 季知、東久世 通禧、壬生 基修、四条 隆詞、錦小路 頼徳、澤 宣嘉の七人の公卿は長州に落ち延びることになった。

吉村寅太郎寓居跡
寅太郎は土佐高岡郡北川村の庄屋の家に生まれ、各地の庄屋を歴任して農村復興の治績をあげた。武市瑞山の門に入り土佐勤王党の血判に加わった。
久坂玄瑞から伏見挙兵計画の情報を得て脱藩した。この脱藩は龍馬より二十日ほど早く、土佐勤王党の第一号とされる。
文久3(1863)年、公卿中山忠光を擁して天誅組を結成している。
しかし、8月十八日の政変で行き場を失った
蛤御門
池田屋事件の報が長州班に伝えられたのは事件の数日後6月9日頃と想像している。
長州ではもはや自重論を唱える者はいなくなったのだろう。速くも6月10日には京へ向けて第1陣が出航していったのである。
隊長は血気に逸る「来島のじいさん」こと来島又兵衛(47)である。
目指すは長州藩の復権である。しかし、復権がかなわぬ時は兵が動くのである。

1864(元治元)年7月19日ついに長州藩の兵が動いたのである。ここに禁門の変(蛤御門の変)が始まったのである。
戦いは蛤御門だけではない。ここが一番激しかっただけである。長州藩と薩摩・会津・桑名・大垣藩それに新選組との戦いである。
伏見方面では大垣藩と交戦敗退。
天竜寺から進撃した長州軍は御所西側に進撃し、蛤御門に猛攻撃をかけるが会津、桑名藩の前に敗れる。この戦いで来島又兵衛は清水谷家の椋の木の下で戦死した。
天王山の長州軍は南側の堺町御門から攻撃をしたが敗れ、久坂玄瑞が負傷し鷹司邸内で自刃した。戦いは多数を誇る幕軍、諸藩兵の圧倒的勝利に終わった。

「蛤御門の変」に際して新選組は九条河原の銭取橋(現在勧進橋という)に布陣をひいていたが、会津公から急遽堺町御門へ向うよう指示が出たため移動した。
新選組が堺町御門へ到着した時には、既に勝敗は決していた。新選組敗走兵を追って大阪まで進んだが、銃を使う近代戦では威力を見せる場はなかった。

蛤御門
門に残る弾痕
鷹司邸跡
蛤御門の変で久坂玄瑞が自刃したところ。
蛤御門の変の時、蛤御門で来島又兵衛率いる長州軍が壊滅したころ、家老益田右衛門介率いる長州軍が堺町御門に到着した。
多勢に無勢である。
先ず、鷹司邸に立て籠もった。久坂玄瑞は屋敷の主、鷹司政通に「我々は御所に暴を働くつもりで参ったのではござりませぬ。嘆願の筋あって参ったのでございます。殿下、殿下、御参内あそばされるならば、是非是非お供をさせてくださりませ」と嘆願したのである。
昨年の8月18日の政変以降、長州藩の朝廷に対するストーカー的行為に公家達はすっかり嫌気がさしていた。
政通裾をはらって去っていったのである。
そして幕軍の総指揮官一橋慶喜は鷹司邸を焼き払い、折からの北風に煽られ南へと火の手は拡がっていった。
堺町御門の内側
堺町御門の内側
正面の長持ちは新選組が桂小五郎を探索しに来たとき、幾松の機転で桂が隠れたといわれる長持ちです。
左は床の間、下は鴨川に抜けられた部屋です。