幕末の京都3
壬生寺
現在壬生狂言でその名が知られているが、新選組がここで隊士の兵法調練を行っていた。
芹沢鴨・平山五郎、河合耆三郎の墓がある。
境内はまた、沖田総司がよく近所の子供を集めて遊んだりしていた姿が見られたという。
中京区坊城通り綾小路下る西側
新徳禅寺
前川荘司邸
八木源之丞邸
西本願寺太鼓楼
新選組屯所は壬生から西本願寺の集会所に移転された。
この時の隊員数は200名近くになっていた。
土方歳三は「朝廷幕府のため勤王攘夷の先鋒として働く新選組に場所を貸してくれ」と申し出た。
これには門主広如上人が蛤御門の変で逃げ込んできた長州藩士を京都から逃がしたという因縁が見える。
写真の太鼓楼では隊士たちが寝泊りしていた。屯所となっていた集会所(600畳)は現在兵庫県姫路市の亀山本徳寺に移築されている。
伊東甲子太郎遭難の地
この地の西側は西本願寺から移った新屯所があった場所である。
伊東甲子太郎は江戸深川の北辰一刀流の道場主だった。この道場に藤堂平助がいた。
二人は浪士隊に入り京都に来て居残り、新選組の参謀となった。
1867年6月に13名で新選組を離れ、高台寺に本拠を構え尊王攘夷派の高台寺党となる。
隊を割った甲子太郎を近藤らは許すわけはなかった。甲子太郎が近藤暗殺を計画したのを機に、近藤らは逆に暗殺を計画した。
伊東は近藤に宴に誘われ、帰宅するところを新選組隊士が槍で伊東を刺し、本光寺門前で倒れ絶命した。死骸は七条油小路の辻まで引きずり捨てた。これを引き取りに来た御陵衛士7人だったが、待ち伏せていた新選組40人余りが斬りつけて乱闘になり、藤堂平助ら3人が斬殺された。
これを油小路の変という。
下京区油小路木津屋橋上る東側
天満屋事件
海援隊士の陸奥陽之助(宗光)は、紀州藩士の三浦休太郎が新選組を教唆して刺客をさし向けたものではないかと考えていた。
慶応三年十二月七日の夜、陸奥は仲間を引き連れて、三浦の旅宿である六条油小路花屋町の天満屋を襲った。天満屋の正面から侵入したのが、陸奥陽之助、中井庄五郎ら8名、側面から襲撃したのは、岩村精一郎ら6名、裏手からは斎原治一郎ら2名である。
身の危険を察していた三浦は、会津藩に身辺警護の救援を要請していて、新選組の派遣を受けていた。天満屋には、三浦休太郎のほかに紀州藩士の関甚之助に三宅精一がいた。また、新選組の助っ人として、斎藤一、大石鍬次郎ら10人がいた。
真っ先に飛び込んだのは、中井庄五郎である。中井は「三浦氏は其許か」と声を掛け、「左様」という返事を聞くや否や、抜き打ち様に斬り付けた。しかし三浦は身を反らしてかわしたので、刀の切っ先が軽く顔をかすった。逆に中井は新選組の一人に片腕を切り落とされた。
明かりは消え、暗闇の中の死闘となった。やがて「三浦を討ち取ったり」の一言が闇室に響きわたると、海援隊員たちは逃げ去るように引き上げた。
しかし、三浦の被害は少なく、「討ち取ったり」の一言は新選組の機転により発せられたものであった。この乱刃で、中井庄五郎は斬り殺され、海援隊側負傷者3名、襲われた新選組の宮川信吉は死亡、船津釜太郎が重傷を負って後に死んだ。また、梅戸勝之進は重傷、三浦が軽傷を負った。

下京区油小路花屋町下る西側
島原

長州の久坂玄瑞をはじめとする尊攘派志士たちも島原をよく利用していた。
しかし新選組の屯所からも近くやがてここから遠ざかるようになった。


角屋(すみや)
島原には揚屋と置屋があり、揚屋は太夫・芸妓などを一切かかえず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場である。
角屋は揚屋である。
幕末には、西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤王志士たちが、軍用金調達のため時の豪商を角屋へ招いて会談を行ったところであり、左下の石碑も立っている。
また新選組芹沢鴨の乱行により刀傷がついた柱もそのまま残っています。
輪違屋
城南宮
鳥羽伏見の戦
坂本龍馬 中岡慎太郎 の 墓
高杉晋作の墓
桂小五郎(木戸孝允)と幾松(松子)の墓
久坂玄瑞の墓
天誅組志士の墓
新徳禅寺:清河八郎が江戸で集めた「浪士組」を集め「真の目的は将軍警護ではなく、尊王攘夷の実行である」と全員を驚かせた。
前川荘司邸:新選組屯所。池田屋騒動当日の午前、尊王攘夷志士で古物商桝屋喜右衛門(古高俊太郎)を拷問したところ。また、脱走しようとした山南敬介・野口健司はここで切腹させられている。
八木源之丞邸:ここが新選組発祥の地と言っていいだろう。ここに「新選組宿所」の表札を揚げ、隊員十数名で発足した。1865(慶応元)年4月手狭になったため屯所は西本願寺に移った。近藤勇、土方歳三、芹沢鴨 らがいた。