縄文以前に国家が存在したことを示す痕跡はまわりを見渡せばあふれている。単にいくつかの勢力が無秩序に集まっただけでは国家は機能しない。国家が国家として動き出すためには、法や制度と云ったシステムが必要となる。法や制度は施行され、定着してこそ価値を持ち、それを実現できるのは強大な統治力を有する国家以外にはなし得ないだろう。そして、あるシステムがどの範囲まで定着しているかは、その意味で、その国の統治領域を表していることになる。
記紀は、その詳細までは伝えないまでも、国家にしか構築できないシステムの痕跡を断片的に残してくれている。いくつか紹介しておこう。


■三種の神器という認証システム

ひとつめは歴史を知らない人でも必ず耳にしたことのある「三種の神器」についてである。
この神器というものは、天孫が所有する場合にのみ「三種の神器」という用語が与えられているが、実は他所で、上枝・中枝・下枝という形で現れる掲げ物と同じものである。この掲げ物はいくつものパターンで現れる。すべて抜き出そう。

(紀)神代 天岩戸
「上枝懸八坂瓊之五百箇御統、中枝懸八咫鏡、一云、眞經津鏡。下枝懸青和幣、和幣、此云尼枳底。白和幣、相輿致其祈祈祷焉。」
「上枝縣以鏡作遠祖天拔戸兒石凝戸邊所作八咫鏡、中枝懸以玉作遠祖伊弉諾尊兒天明玉所作八坂瓊之曲玉、下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿」

(紀)神代 天孫降臨
「是時、天照大~、手持寶鏡、授天忍穗耳尊、而祝之曰、吾兒、視此寶鏡、當猶視吾」

(紀)景行十二年九月
「~夏磯媛。其徒衆甚多。一國之魁帥也。聆天皇之使者至、則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰、願無下兵。」

(紀)景行四十年冬十月
「爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時大鏡懸於王船、從海路廻於葦浦。」

(紀)仲哀八年春正月
「幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐(福岡県遠賀)、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦。」
「又筑紫伊覩縣主祖五十迹手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引嶋而獻之。」

今ここに抜き出した記述は定説では「捧げもの」「神の依り代」のための祭祀儀礼だと解釈されているものである。
この儀礼を「捧げもの」とするのは、仲哀八年の伊都縣主が「因以奏言、臣敢所以獻是物者」と言上した記述から、思いついたものであろう。しかし、その解釈はまったく的外れである。
研究者は古代の習慣を何でも祭祀に結び付けたがるが、祭祀を「困った時の逃げ道」にしてはいけない。この習慣のどこに「捧げもの」「神の依り代」を物語る部分が見られるのだろうか。
日本書紀の記述が果たして定説どおりであるのか、検証を進めてみよう。

〇「爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時大鏡懸於王船、從海路廻於葦浦。」
まず、景行四十年の記事であるが、日本武尊が陸奥に入るに及んで、尊は船に「大鏡」を掲げる。そして陸奧國から葦浦を経て玉浦と船をすすめ、蝦夷境に来た時、尊の船に気付いた蝦夷が侵入者を防ごうと立ちはだかるが、吊るされた鏡を見て、これは王船に違いないと畏まり、武装を解き迎えるのだが、このシーンに依り代を思わせる場面はまったくない。では、捧げものかというと、それもまたとんでもない。もしそうだとすると日本武尊が蝦夷に遜って物品を差し出したことになるが、そのような解釈でもいいのか、ということである。

〇「~夏磯媛。其徒衆甚多。一國之魁帥也。聆天皇之使者至、則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰、願無下兵。」
次に景行十二年九月であるが、景行は豊国で賊が蜂起したことで援軍に向かうのである。周防の佐波を過ぎた時、賊らしき気配を感じ取る。そこに夏磯媛が、景行たち援軍の労いと戦況報告を行うためにやってくる、というシーンである。もちろん依り代はまったく関係ない。そして捧げものだが、誰に何をささげているのだろうか。しかもここは戦地である。武器か兵糧を提供されるならいざ知らず、鏡など捧げられても何の役にも立たない。このシーンに描かれる状況も同様に「捧げもの」「拠り代」どちらの意味も拒否していることは明らかだ。

〇「是時、天照大~、手持寶鏡、授天忍穗耳尊、而祝之曰、吾兒、視此寶鏡、當猶視吾」 次に天孫降臨である。天照大神が寶鏡を持たせる場面であるが、これも敢えて云うまでもないだろう。依り代、捧げもの、どちらの意味も明らかに場違いである。降臨する天孫は手土産を下げて、ヘコヘコ天降ったわけじゃないだろう。これ以上掘り下げる問題でもないため、次に行こう。

〇「幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐(福岡県遠賀)、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦。」
〇「又筑紫伊覩縣主祖五十迹手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引嶋而獻之。」
残りの仲哀の二場面も同じであるが、先に云ったように、ここが唯一、捧げものを匂わせる記事がある箇所である。しかし「捧げる」と解される「獻」は日本書紀に頻出する用語であり、直前の句に「參迎于穴門引嶋而獻之」とあるように単なる「奉る」という「行為の形態」を表すもので、「物を捧げる」ことを意味するものではない。そうなると、「捧げもの」だと解釈したその唯一の根拠もここで立ち消えるのである。

では、この習慣は本来的に何なのか、である。
この習慣の意味を考える場合、注目すべきポイントがある。それは、どの場面も入出国場面であるということだ。
日本武尊は陸奥に差し掛かった地点で突然大鏡を掲げるのである。そしてそのまま陸奥を過ぎ、蝦夷の境に着くまで、どの勢力にも妨げられることがない。蝦夷にしても大鏡を見ると武装を解くという対応を見せる。
景行は、敵陣近くで近づいてくる船団に対して偵察兵を差し向ける。そしてその船が味方であることを確認し、合流をする。
天忍穗耳は新たな任地に赴くわけだが、その際、何かに備えて三種の飾りを掲げた。
そう、どれもが自国でない領域に向かう、或いは敵軍がどこにいるか分からない状況で自軍(味方)の他将と合流するなど、自らが、或いは相手が「何者かを知らせる」必要があるシーンである。
その時に何をすればいいであろう。無線機もない時代である。敵か味方か分からず、誤って自軍の将に向けて弓を引く危険性もあるだろう。天忍穗耳が命ぜられたように、新しい任地への移動においても、「派遣されたもの」であることを遠くから知らせなくてはならないだろう。その時に自分が何者であるかを識別するために何らかの目印を用意しておくことで混乱が避けられるのである。

もうお分かりだと思うが、神器とされてきた掲げ物は、民俗学的な目的とはまったく関係のない、「自軍を知らせるサイン」であるということだ。
戦場での合流や海峡の通過など、船団が他国を通過する場面において、船の舳先に目印を掲げることは、安全保障において絶対的なルールであり、各勢力間で約束された決まりであることが求められる。日本書紀には書かれていないが、景行また仲哀の船にも当然自軍を証明する掲げ物があったはずである。その印を見て夏磯媛も岡縣主も伊都縣主も彼らが味方であることを確認し、出迎えたのである。

そして各記述を見ると上枝・中枝・下枝に飾るものが微妙に違っていることに気付くだろう。それは予め国(勢力)ごとにどこに何を吊るすかそれぞれユニークな組み合わせが決まっていた。その組み合わせによってどの勢力であるのかが判断できるのである。

儀礼と云うものは無意味に発生しない。必要性から決まりごとが発生し、それが定着する過程で儀礼となっていく。これがシステムと呼ばれるものである。
恐らくこの伝達制度は船での交易が始まった当初から何らかの形で考案されていたであろう。長い時間を経て進化した方法というものではない。最初から考案されていなければならない。それは何故か。もし、あなたが見知らぬ人と渋谷ハチ公前で待ち合わせるとしたらどうするだろうか。もちろん連絡手段はない。その場合、胸に赤い花を刺すといった方法はすぐに考え付くだろう。難しい発想ではなく、誰もが思いつくアイディアである。それが古代社会において、時の状況に即して進化したのが「上枝・中枝・下枝」というものである。
先に云ったように、民俗学に起源を求めることが癖になると、まるで魔法のように何事でもそれなりに説明できるものであるから、ついつい安易な手法に逃げることとなる。しかし、政治経済で成り立ってきた歴史の一事項をことさら民俗学的に頼り切って解釈してしまうと、真の「解明」への道を著しく鈍化させることとなるのだ。史学というものは歴史物語を創作する学問ではない。政治・経済・経営を考察する学問だと気づかなくてはならない。

もうひとつ紹介しよう。さらに儀礼が「必要から生まれる」ことを実感させられるものがある。次に紹介する古代のシステムはその典型であろう。


■新嘗祭の意図

国を運営するためには、「秩序を維持して行く」ための政策が「考案」されなければならない。法はそのための第一歩であるが、法の存在が秩序を保つのではない。法がその存在意義を示すためには「法を守らせるための制度」が整備されなければ結局「絵に描いた餅」でしかない。
しかし、制度が出来たとしても、それを国の末端まで浸透できるのかが次の問題となる。全体に抵抗なく受け入れられる制度は恐らく皆無であろう。家族会議、学級会、社内会議、どんな規模の世界でも集団になれば必ず意見が分かれ、反対派や不満分子が発生する。
全体の賛同を得られなければ、却って秩序の崩壊を招きかねない。国としてはそれを如何に抑えるかが重要な問題となるのである。法は決めればそれでいいのだが、その法を如何に実施し、問題なく流布できるか、それが政治の本質である。そういった困難な状況は古代においても幾度となく発生したであろう。その局面をどのようにして彼らは乗り越えたのか。その良い例が「新嘗祭」だと言える。

国家の財源と云えば、稲作の導入以後は「米」が筆頭に挙げられるが、それを税と定めた時、まず直面するのが「年貢」の徴収システムであろう。
広大な自国の領地から

@各地の出来高を正確に把握する
Aその数字から年貢高を決める
B各地から税を徴収する

箇条書きにすれば簡単なことだが、この実施は並大抵のことではない。しかも

@不平不満を招くことなく
A不正行為が極力抑えられる方法

この二点を実現しつつ徴収を実施しなければならないのである。でなければ、制度はすぐに瓦解する。その使命の下に国家が絞り出したプランこそが、「新嘗」という徴収システムである。
新嘗祭というと誰もが収穫を祝う祭祀儀礼という認識しかないであろう。だがこの解釈は、経営とは縁が薄い史家が、例のごとく民俗学に救いを求め、またしても祭祀という安易な選択肢を採択した結果定着してしまった説でしかない。

確かに、人間は太古より自然を崇め、そこに未知なる力を感じ取り、崇拝してきた。新嘗祭もその延長にあるもの(という位置づけであること)には違いない。ただ、もしアニミズムだけにルーツがあるのであれば、稲作よりも遥か昔、自然の実りを享受し始めた時にそのような行事は始まるべきである。そして、原初的な崇拝であるのなら、収穫に携わる民衆が自ら進んで行うべきものであって、国家がわざわざ多大な費用と手間をかけ、全国的な規模で行事を実施する必要などないのである。つまり、「新嘗」を単なる純粋な儀礼だとする考え方だけでは五穀、主に稲作の儀礼として成立した背景にある意義を少しも説明できていないのである。

しかし「経営」の観点からこの儀礼を見ると、考え抜かれたシステムが浮かび上がって来る。
国家が介入するということは、それに見合った見返りがあるからである。国家が行う方策の目的はすべてその「成果期待」にあるといっていいだろう。前述したように、国家レベルのシステムの成立には計り知れないほどの困難と壁が立ちはだかる。税の徴収を喜ぶものは誰もいないであろう。領地を有する氏族の思惑が渦巻く中、政策の失敗は争いの火種になり、国家の存亡といった事態にまで及ぶことさえある。
「年貢」の徴収という難しい税制度。どうしたら実現できるか。そこで国家が考え付いたのが新嘗祭という税の徴収システムである。掲げた看板は「豊穣を神に感謝する行事」「感謝の心を捧げもので示し、翌年の豊作を祈念する」というものだ。アニミズムが根付くわが国で、この行事の実施に反対する人は恐らくいなかったであろう。いや、反対したくともできなかったであろう。裏にある思惑はどうであれ、心理をうまくついた妙案である。神への感謝という誰の心にも「正」として受け入れられる形で「税の取り立てシステム」を「儀式」として植えつけたのである。税は誰もが払いたくないものであるし、出来れば少なく申告してごまかしたい。しかし、収穫を祝うことに反対も出来ないし、そのしきたりに背くことは神への背理となる。信仰に根ざした儀礼というのは「強要」では成しえない「能動的」な効果をもたらすという大きなメリットがあったのだ。

また、儀式は「形式」を重んじるが、この形式も意味なく決められたものではない。
新嘗祭では収穫の状況を「神」に感謝し「報告」する。この行為は、各地域の収穫高を把握するためのシステムとなる。その歳が「凶作」だったのか、「豊作」だったのか、その報告は神に対してなされる。虚偽の報告は神に対して嘘をつくことになるため高い精度で正確な情報が得られる。政府としてはそれで十分だ。把握している各村の作付面積に収穫値を掛け合わせれば、取り立てる税は算出できる。
このように、儀式という姿を借りて実施された政策例は他にも多々見られる。平安期の饗宴儀礼などもそうであろう。いずれにせよ、定説を鵜呑みにする前に、もう一度、政治や経営という観点で歴史の一項を見直してみることが歴史研究には必要であろう。


■「名称」というシステム

システムの例としてもうひとつ最も基本的なものを提示しておきたい。それは「名称」である。人物名・国名・地名、すべては「名称」システムに含まれる。
ここで述べることは、特に目新しいことではない。ごく当たり前の誰もが常識として理解していることである。敢えて、そのような周知の項目を取り上げるのは、名称というものが国家経営にとって非常に重要な骨格であり、システムとしては高度に完成されたものであるにもかかわらず、これまで古代史研究という分野では意識されたことすらないからである。

名称とは何か。なぜそれは発生したのか。その答えは簡単だ。その人物が、どこの国のどのような位にある人物か、それを一言で特定できるように作りだされた「記号」である。
名称も、先に紹介した他のシステム同様、意味もなく発生したものではない。記紀に見られる長々とした神名にしても、それは史家が考えるような「美称」といった「飾り」などでない。言うまでもなく、国内政策、また外交において必要であったからこそ生まれたものである。マイナンバー制も始まったが、マイナンバーは数字という味気ないもので、その数字そのものには意味はないが、名称はわずか数文字でありながら、その中に様々な情報が必要最小限詰め込まれた形で出来上がっている。そして何より驚かされるのは、すでに神代の時代にそれが全国規模で「統一されたルール」のもとに施行されていたという事実である。
古代においては今以上に名前は当人の地位、国名を特定する役割を担っていた。現在で例を示せば、たとえば「大統領」と云っただけではロシアなのかフランスなのかどこの大統領であるかわからない。そこに「米国の大統領」と国名が加わればかなり絞られる。そしてさらに、特定の個人まで判別させるには、「オバマ第四十四代アメリカ合衆国大統領」とルールに沿って記号を継ぎ足せば、他の誰かと混合されない精度にまで絞り込める情報となる。

名称は「人物」を表すだけではない。「住所」と云うものも同様「特定の場所を示す名称」である。日本の住所は広い範囲から狭い地区へと落とし込んで行く記述法なのだが、そのルールは誰によって創られたのかを意識したことはあるだろうか。その起源は縄文、旧石器と遡らねばならないだろう。あなた宛ての郵便物が地球上にある一地点の住所に確実に届けることができるのは云うまでもなく古代に完成し、全国レベルで実施されてきた「名称ルール」、それが今日まで変更されることなく受け継がれてきたお陰なのである。

今日、誰も「名前」など意識せずに使っているが、そうなるまでは苦難の道があったはずである。
古代、まったく名称など存在していなかった時代、或いは、あったとしても地域で独自に発展し定着していたものを、まず共通のルールを考案し、そして統一の制度として全国へ流布し施行して行くのは大変なプロジェクトである。強力なリーダーシップも必要であろうが、国家としての指揮系統が統制され、決議事項が確実に伝達されてゆく組織構造が出来ていたから成し得た事業なのであろう。
我々は既に何もかもが整った便利な時代に生まれてきてしまったため、その有難みを感じることもなく、恩恵だけに預かっているのであろう。
古代における名称システムとは如何なるものであったか、別章にてさらに詳しく述べることとするが、この社会で当たり前に利用している習慣がどのように成立したか。成立するためにはどのような工程が必要だったか。つい見過ごしがちな点にも目を向け、原点を正しく理解することは歴史解明の重要なアプローチになると私は考えている。

以上、いくつかのシステムを紹介してきたが、「国家の存在」を疑うことは、即ち、ここに示した現存するシステムの存在を否定することになる。それが不可能であるのは言うまでもない。
国家の成立、それは確実に「縄文期」以前であったことをこれらの現存するシステムは伝えているのである。



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