我が国の国名である「倭国」「日本」。これらは「わこく」「にほん(にっぽん)」と読まれる。至極当然のことである。それ以外の読み方などない・・・はずである。
だが、記紀やその他の古代関連資料では、日本、また倭を「やまと」と読むというような、表記とまったく関連のない読みがあてがわれている。
この「読み」はおそらく古代史において何よりも違和感に満ちた習わしではないだろうか。にもかかわらず、その奇妙さに反して、国学の長い歴史においてこれまで一度も問題視されたことのないテーマでもあるのだ。
その奇妙な「読み」を本当に不思議と感じたことはないのだろうか。
おそらくそうなのであろう。この「読み」に疑問を投じた史家をわたしは未だ誰一人として知らない。それだけに、疑う余地のない常識中の常識とされている問題なのかもしれない。
しかし、わたしはまったくその読みに同調できないのである。よって満を持してその常識とされる問題を今ここで俎上に上げようと思う。
そんな堅牢な問題をなぜ今さら取り上げる必要があるのか、不思議に思われるかもしれない。しかし、この問題こそ「古代史上、最も重要な課題」であり、神武東征の諸問題を解く鍵でもあるのだ。そしてまた、大げさな言い方になるが、古代史研究の舞台に「謎」を作りだしている真犯人こそが、この問題だと言ってもよいのかもしれない。
では、どのように重要なのか。ひとつ明言できるのは、この問題は、「日本と倭国が別國かどうか」、確実にその答えを引きずり出す力を持つと云うことと、古代史研究の土壌に深く染みついた皇国史観という先入観を根底から覆す力を持っているということの二点である。
■「やまと」という国号への疑問
古代史を詳しく知らない人に「日本」「倭」の読みを質問すると全員間違いなく「日本→にほん(にっぽん)」「倭→わ」と答えるだろう。しかし、この文字は一般人の常識に反して、どちらも「やまと」と読まれる。現在の我々にはまったく馴染めない読みであるが、十一世紀頃作られた我が国最初の漢字辞書である「類聚名義抄」にも「やまと」は「倭」と示され、「わ」の項目に「倭」の文字は含まれていない。それほどに当たり前な読みのようなのだ。
日本語の読みには「熟字訓」と分類されるものがある。漢字の「表記」と「読みの音」に全く関連性がないものを指すが、人名では「五十嵐」「東海林」、地名では「武蔵、飛鳥、出雲、春日、斑鳩」など多くあり、われわれもそれを日常的に使っている。熟字訓そのものは特に不思議なものでも珍しいものでもないのである。
ここで問題とする「日本」「倭」も前述の熟字訓のごとく飛躍した読み「やまと」を与えられているのだと思えばそれでいいのだが、しかしこの二つの文字は他の熟字訓とは大きく異なる性格を有している。と云うのも、熟字訓とされる先に挙げた例はすべて、現在に至るまでその読みのままで残ってきている。春日は「はるひ」などとは読まれないし、飛鳥も「とぶとり」とは読まれない。「五十=い(いが・いそ)」も「五十嵐=いが+あらし」という姓として普通に使われている。特になぜそのような読み方をするか、と云った起源について考えることもないが、現に、どれもが今も尚変わらずに、表記と乖離した読みのまま現存していることが、起源は何であれ、その読みが正しいことの証明となっている。
それに反して「日本・倭=やまと」はどうか。この読みが本当に国の正史にも使用され、正式な読みであるならば、当然、国号として政府が定め、内外に公表した「表記と読みの組み合わせ」であることになる。しかし、政府によって流布され定着すべきはずの「国名の読み」が記紀などの資料以外の場所には影も形もなく、「生きた」読みとして現存していないのである。
そういう現実に直面すると、この「やまと」という読みは正しいのだろうか、記紀においても本当に「日本・倭」は「やまと」と訓されたのか、そんな疑問が当然浮かんでくるわけである。
たとえば、まずこの読みに疑いを抱く切欠となるのが、国内と海外でなぜ読みが違うのかという点だ。
我が国は海外(中国・朝鮮)の資料においても古くから公的国名として「倭国」の名で認識され、それが後に、「旧唐書」で「日本国」と改名したことが告げられる。その読みはまさに字のごとく「倭=わ」「日本=にほん」であるということだ。それは我が国が海外に対して公式に告げた国名表記とその読みなのである。なぜそれを国内にだけ「やまと」という訓で読ませる必要があったのか。非常に違和感に満ちていることがわかるだろう。
そしてこの違和感は、国号の利用実態を知れば困惑に変わる。
戸惑わせる原因は、国名表記が一貫性もなく使われているという実態にある。甚だ理解に苦しむことであるのだが、仮にも正史である日本書紀が、国名という国家にとっては背骨に当たる最も重要なパーツを、驚くことに「倭」「日本」「大倭」と三種の表記を使用し、そしてそれを資料内に何の規則性もなく散りばめ、配置しているのである。このアイデンティティの欠如、自国意識の低さ、これが国史編纂においてもし本当に許されたというのであれば前代未聞の出来事であろう。
この疑念は私個人の印象や感想というものでない。国として持つべき「理念」への疑念と云った方がいいだろう。
国名とは国にとって自らの存在を示す最高位のシンボルである。国交においても、自国の歴史・政治・思想、すべてが包括された具象が国名なのだ。自分の育った国が、特定の国名も表記も持たず、何種類もの名称が乱立しているとすれば、あなたはどう思うだろうか。もしそのような状況が自国の現実であったならば、わたしはその国を信用しないし、愛国心も忠誠心も抱かないであろう。我が国がそれほどにいい加減な国家であったのか、或いは、日本書紀の編者にポリシーがなかったのか・・・・。
わたしは決してそうは思わない。
少なくとも、どのレベルの国家であれ、理念のない国家は存在しない。国名に三種類の表記を使うとか、その読みが三種類もあるとか、それはもはや国家がとる姿勢ではないだろう。わたしはそういう意味でも、この国号問題を大きく取り上げたい。当然向かう先は、これまでの「国学」に与する道でなく、わが国の「理念」を信じる立場である。
「倭」「日本」、果たしてそれらは「やまと」と読まれたのか。ここで国号問題は明確にしておくべき課題であろう。
■国号「やまと」はどうして生まれたのか
国号の読みを取り上げるにあたって、そこに絡みつく問題点をますは整理しておきたい。そもそもの主根がどこにあり、論点を絞りにくくしている要因は何であるのか。疑問点を細分化してみれば、国号問題の複雑さが改めて実感できてくる。以下に四項示してみた。
(1)「やまと」という名称がなぜ国名とされたのか
(2)日本がなぜ「やまと」と読まれるのか
(3)倭がなぜ「やまと」と読まれるのか
(4)なぜ日本書紀は同書内において国名「やまと」に「日本」「倭」「大倭」と異なる文字を散りばめて表記したのか
以上の四項は、単独であれ十分疑問として成り立つ。それくらいに理解に苦しむ状態が今日まで誰の疑念に罹ることなくまかり通っていたのが不思議でならない。
この疑問点を産み出したその出発点とは何であったのだろう。前述の四項それぞれにかかわる論拠を取り出してみよう。
まずは、(2)の「日本が『やまと』と読まれた理由」の掘り起こしから始める。
◎「大日本」の読み
「日本」を「やまと」と読むことを決定付けているのは日本書紀の以下の記述であろう。
廼生大日本日本、此云耶麻騰。下皆效此。豐秋津洲。
神代の章、伊弉諾神・伊弉册神の国産みの段にある「大日本豐秋津洲」が生み出された時の記述である。この箇所で「廼生大日本」と「豐秋津洲」の間に「日本、此云耶麻騰。下皆效此。」という但し書きが挿入されている。
「日本、これをヤマトという。以下皆これに倣え」
という意味である。
この一文に因って、「大日本豐秋津洲」は「おおやまととよあきつしま」と読むことが示される。そして、続く「下皆效此」が以下に現れるすべての「日本」に「やまと」の読みを適用するように指示する。この一節こそが「日本=やまと」のすべて、或いは国号問題そのものを生み出したルーツであると云っていいだろう。
確かにこの「下皆效此」という一句は、日本書紀内の「日本」という記述は以下すべて「やまと」と素直に読ませてしまう力を持っている。過去から現代を通してこの但し書きは絶対的な疑う余地のないルールとして、国学という世界に根を張り巡らし、日本書紀だけに止まらず、その他の歴史資料全体を支配してきたのだ。
◎「倭国」の読み
次に、日本だけではなく、「倭」に対しても「やまと」の訓が与えられたのはどういう理由があったのかを探ろう。
それは記紀に共通で登場する人物名称の比較からである。
当該人物のひとり目は考霊天皇の皇妃である「倭國香媛(やまとのくにかひめ)」だが、彼女には記紀共に二つの名が紹介されている。
〔紀〕倭國香媛、亦名蠅伊呂泥
〔記〕意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、亦名蠅伊呂泥
主たる名前に共通要素はないが、亦の名とされる「蠅伊呂泥」「蠅伊呂泥」は共に「はえいろね」とされ、その一致によって同一人物だとされる。そこから転じ、同一人物であるならば、古事記の「意富夜麻登玖邇阿禮」と書紀「倭國香」が同じ読みであるだろうということで「意富夜麻登玖邇阿禮(おおやまとくにあれ)」の読みに合わせて「倭國香」を「やまとのくにか」としたという経緯になる。
もうひとりは、倭國香媛の娘「倭迹々日百襲姫命」である。記紀の表記は以下になる。
〔紀〕倭迹々日百襲姫命
〔記〕夜麻登登母母曾毘賣命
考霊皇妃「倭國香媛」に限っては書紀では「やまとくにかひめ」、古事記では「おおやまとくにあれひめ」と、名前そのものの構造が違うため単純に「倭」=「夜麻登」とは言えないが、娘に関してはほぼ同じ読み「やまとととももそひめ」であるため、書紀の「倭」と古事記の「夜麻登」がそのまま対応している。ここが「倭」は「夜麻登(やまと)」と読むのだとまず刷り込まれる箇所である。
◎「日本」と「倭」の同一化
次に、「日本」と「倭」が共通の読み「やまと」で結ばれることの根拠とされるのが天皇名である。左記は、記紀、両書に記載された天皇家人物名と一部地名の比較である。
書紀の中には、その名に「日本」という国名が含まれる天皇八名と一地名登場するが、それが古事記ではどう表記されているかを以下に対比してみた。
〔紀〕大日本豐秋津洲 → 〔記〕大倭豐秋津嶋
〔紀〕~日本磐余彦天皇(神武)→〔記〕~倭伊波禮毘古
〔紀〕大日本彦耜友天皇(懿コ)→〔記〕大倭日子鋤友
〔紀〕日本足彦國押人天皇(孝安)→〔記〕大倭帶日子國押人
〔紀〕大日本根子彦太瓊天皇(孝霊)→〔記〕大倭根子日子賦斗邇
〔紀〕大日本根子彦國牽天皇(孝元)→〔記〕大倭根子日子國玖琉命
〔紀〕稚日本根子彦大日々天皇(開化)→〔記〕若倭根子日子大毘毘命
〔紀〕白髪武広国押稚日本根子尊(C寧)→〔記〕白髮大倭根子命
〔紀〕日本武尊 → 〔記〕倭建命
このように、日本書紀では「日本」と書かれている部分が、古事記では「倭」となっている。つまり、この対応関係によって日本と倭は同じ読み方をするのだという解釈ができあがる。同じ読みであるとすれば、日本書紀に「日本=やまと」と読ませる指示がある訳だから、古事記が使用している「倭」も「やまと」なのだと解釈され、また、先に挙げた考霊天皇の娘の名称の符号からも「日本=やまと=倭」という等式が出来上がる。
◎嘉字としての「日本」
では、なぜ古事記と日本書紀では「やまと」が「日本」「倭」という違う表記で記されているのか、それを説明する一般的な解釈は、「日本国号の誕生時期」との関連で説かれている。
どう云うことかというと、古事記の編纂開始時点と書紀のそれとの間で、国号「日本」が誕生したのだろう、という考え方だ。旧唐書にあるように、ある時期「倭」の字を悪しと考え、嘉字である「日本」という表記に改名した。その変形プロセスは古代史に興味を持つ読者の誰もが知る所であるが、念のため多少端折って紹介しておこう。
「倭(やまと) → 山処 → 山は日の昇る処 → 日の昇る場所だからひのもと → 日本」
以上である。
そして、その国号改名が行われる直前に「古事記」の編纂は開始されたため、嘉字は適用されず、古い旧字体の「倭」がそのまま用いられた。しかし少し遅れて着手された日本書紀の編纂時点では国号は嘉字である「日本」に改名されていたため、表記が書き改められた。現在までの主流な解釈は大方このような内容となっている。
書紀編纂前に、倭→日本への書き換えがあったことは、以下の引用文にあるように本居宣長も支持する立場をとっている。
「日本の号は古事記には見えず、日本書紀の皇極紀までの『やまと』を日本としたのは、日本書紀を撰する時に書き改めたもので、もとの文字ではない」
「やまとを日本と書くことは古事記には一例もなく、日本書紀では漢文を飾ったから嘉字を充てた。」
このように嘉字への書き換えという解釈は、古くから、史家の間で共通に語られる考え方であったようだ。あの本居宣長でさえも「やまと」という読みにはまったく疑念を持つこともなく、横並びの解釈に甘んじていたという実態から、「やまと」の読みが如何に深く根付いているかを実感させられる。
◎万葉集の「やまと」
「日本=やまと=倭」に根拠となる記述は記紀以外にも見つかる。次は「万葉集」での現れ方を見てみよう。
万葉集では、「山跡」というような原初的な借字や、万葉仮名風の「夜麻登」など、数パターンの表記が登場する。それらを大きく4タイプに分類し、それぞれ使われている回数を調べてみた。
倭 = 十八箇所
日本 = 十六箇所
山跡・山常 = 十七箇所
夜麻登系・他 = 八箇所
この数パターンの表記がどれも後代の編者によって「やまと」と仮名振りされている。
万葉集の場合、各表記を結び付け「やまと」という読みを決定づけているのは恐らく「枕詞」であろう。代表的なものは二つある。
(1)そらみつ
「そらみつ」は記紀の歌謡にも登場し、「やまと」と関係が深いようだ。この枕詞がどのように表れるか、以下に抜粋してみた。
万葉集巻十九 集歌四二六四
虚見都 山跡乃國波 水上波 地徃如久 船上波 床座如 (略)
この一首では「山跡(やまと)」という表記に付けられた枕詞である。
万葉集巻五 集歌八九四 好去好来歌一首反歌
神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 (略)
万葉集巻十三 雑歌三二三六
空見津 倭國 青丹吉 常山越而 山代之 (略)
この二首では「倭国」に被された枕詞として使われている。
「山跡」が「やまと」と読むであろうことは問題ない。ここで「そらみつ」を「やまと」の枕詞だとすれば、後者二首の「倭国」も「やまと」と読むであろうという理屈になり、「山跡=やまと=倭」という関係が成立する。
この関係を「日本」にまで広げる記述が、日本書紀の神武記にある。
日本書紀神武記:及至饒速日命、乘天磐船、而翔行太虚也、睨是郷而降之、故因目之、曰虚空見日本國矣。
と、ここでは「日本国」に「虚空見」が置かれている。前例と同じ法則を適応すれば、日本も「やまと」となり、「山跡」「倭」「日本国」が同じ読みだと解釈されることになる。
(2)しきしま
「しきしま」は現在の奈良県桜井市の三輪付近を指す地名から発生したとされる。この枕詞も「そらみつ」と同じ対応関係を見せてくれる。「しきしま」関連の歌を抜き出してみた。
万葉集巻九 笠金村歌集 一七八七 天平元年己巳冬十二月歌一首 并短歌
虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥 礒城嶋能 日本國乃 石上 振里尓 紐不解 (略)
万葉集巻十三 三二四八・三二四九 作者未詳
相聞
式嶋之 山跡之土丹 人多 満而雖有 藤浪乃 思纒 若草乃 思就西 (略)
反歌
式嶋乃 山跡乃土丹 人二 有年念者 難可将嗟
万葉集巻十三 三二五四 柿本朝臣人麻呂歌集歌曰
反歌
志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具
万葉集巻十三 三三二六 作者未詳
礒城嶋之 日本國尓 何方 御念食可 津礼毛無 城上宮尓 大殿乎 (略)
以上は前出の「そらみつ」同様、枕詞「しきしま」が「山跡」「倭」「日本国」に係っている使用例である。
万葉集巻二〇 四四六六 大伴宿祢家持依興作之
喩族歌一首
之奇志麻乃 夜末等能久尓〃 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
この一首は、これまでの例とは違い、すべて「音」で書かれているので、「之奇志麻乃 夜末等」(しきしまのやまと)と読むことが直接わかる資料となっている。
万葉集での用例は枕詞だけではない。次の二首のように、用法の共通性で日本と山跡が対比できる箇所がある。
柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者
角鹿津乗船時笠朝臣金村作歌一首 并短歌
越海之 角鹿乃濱従 大舟尓 真梶貫下 勇魚取 海路尓出而 阿倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 獨為而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎
「日本嶋根乎」「山跡嶋根者」は「○○シマネ」という同じ用句であり、「山跡」「日本」が同じ地名を表しているように見える。
さらに、次の歌では「倭」の読みが「音」と対比で示されている。
万葉集巻三 二五五 柿本人麻呂の「覊旅歌(きりょか)八首」の七首目
天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見 一本云 家門當見由
「家門當見由」は直前の句「倭嶋所見」の別伝を併記したものであろう。一般的に「いえのあたりよりみゆ」と訳されることもあるが、そのまま「音」にすると「やまとみゆ」とも読めるのだ。
このように様々な資料の中にある「倭」「日本」の用例を確認してみると、両者が「やまと」と読まれることは一見盤石なものに感じられるのである。そして、国学が興って以来、すべての史家が疑いの目を向けることなく従ってきたルールなのだと云うことも「確かに」と頷けるのではないだろうか。
■「倭」「日本」は「やまと」ではない
しかし、今、「盤石な」と書いたように、「根拠」とされるものだけを陳列して眺めてみると確かに疑う余地がないように思えるのだが、ひとたび、その視点から逸れて大きな視野で俯瞰してみると、必ずしもそうだと確定できない面も俄かに見えてくる。それは如何なることかを示しておこう。
たとえば、本居宣長も共鳴していた「日本書紀の編纂段階で「倭」を「日本」に書き換えた」という考えについて見てみよう。次の相対表を参照していただきたい。記紀に共通する人物や地名などをピックアップし、比較したものである。
箇所
| 日本書紀
| 古事記
|
槁根津日子の出自記事 |
倭直部始祖 |
倭國造 |
兄猾弟猾の本拠記述 |
弟猾又奏曰、倭國磯城邑 |
|
手研耳暗殺の段の登場人物 |
倭鍛部天津眞浦 |
|
安寧天皇陵墓の所在記述 |
倭桃花鳥田丘上陵 |
|
孝昭天皇妃(一云) |
倭國豐秋狹太媛女大井媛 |
|
孝霊天皇妃 |
倭國香媛、亦名蠅伊呂泥 |
意富夜麻登玖邇阿禮比賣命 |
孝霊の子 |
倭迹々日百襲姫命・倭迹々稚屋姫命 |
夜麻登登母母曾毘賣命 |
崇神天皇の子 |
千々衝倭姫命・倭彦命 |
倭日子命 |
二~、並祭於天皇大殿之内 |
天照大~・倭大國魂(亦以日本大國魂~) |
|
同 |
答曰、我是倭國域内所居~、名爲大物主~ |
|
武埴安彦の謀反 |
妻吾田媛、密來之、取倭香山土(略)是倭國之物實 |
|
垂仁天皇-日葉酢媛命の子 |
倭姫命 |
倭比賣 |
倭姫命と神 |
誰人以令祭大倭大~。是以命大倭直祖長尾市宿禰 |
|
景行天皇の子(一云・大碓の兄 |
稚倭根子皇子 |
|
川上梟帥・帰還 |
既而從海路還倭、到吉備以渡穴海 |
|
時日本武尊化白鳥 |
指倭國而飛之。則停於倭琴彈原。 |
|
景行天皇陵墓 |
葬大足彦天皇於倭國之山邊道上陵 |
|
成務天皇陵墓 |
葬于倭國狹城盾列陵 |
|
この表を眺めてみて何を感じるだろうか。
表を見る限り、古事記と日本書紀の「倭」の表記に相違はなく、また書紀が「倭」を嘉字に改めたという形跡もまったくない。「倭」が「日本」に書き換えられたことに該当する(該当するように見える)のは、先に挙げた初期天皇名と秋津島だけなのである。それ以外の倭には、古事記、及びその他の史書の記述も同様、書き換えが行われた事実は何ひとつ発見されず、日本書紀は躊躇いもなく「倭」「倭国」を登場させているのである。
これはどうしたことだろう。書き換えが行われたと公然と語られていたのは一体何だったのだろう。誰もが口をそろえて云う理由と事実がこれほど違っていることを本居宣長たちも当然知っていたであろうに。
このように、従来からの考えが決して安定的に成り立たないことを示す例は記紀の本文に目を通すと幾ばくの時も要せず、すぐに見つかる。これほど簡単に綻びが現れると、倭と日本の読みをつないでいた「根拠」は意外と脆弱な地盤に立っているのではないかと思えてくるのだ。
この反証を機に、改めて国号問題に懐疑的な態度で向き合ってみよう。
不文律という訳ではないが、是非が問われるより先に、偏った情報(根拠)だけで読みが決まってしまっていたということなのかもしれない。故に、一歩踏み出せばすぐ反証にぶつかる。
■「倭」は「やまと」と読めるのか
まず、「倭」を「やまと」と読むことに対する嫌疑である。
疑いの目を向け始めて、最初に気付くことは、日本書紀は「日本」を「やまと」と読むことについてわざわざ断わっていたはずだが、「倭」とて「やまと」などと読めないことは自明のことである。事実、天武十三年十二月、五十氏に対して宿禰の地位を賜った記事では「倭文連倭文此云之頭於利(倭文連、倭文、これをシツオリと云う)」のように予測できない読みに対して、大日本の場合と同じ形で丁寧に断り書きを挿入しているのである。にもかかわらず「倭」を「やまと」と読むことに関しては唯の一言も告知がないのだ。単純な疑問として、まずその点がおかしいとは感じないだろうか。
それは古事記や先代旧事本紀など他の史書の「倭」にも云えることである。「日本」が「やまと」と読めないのと同じく「倭」も「やまと」とは読めない文字である。であれば、他書はともかく、少なくとも「日本」の読みに但し書きを入れた日本書紀の編者は「倭」に対しても「倭、此云耶麻騰。下皆效此。」と但し書きを入れねばならない。
それをしなかったということは、日本書紀において「倭」はそのまま「わ」と読まれた可能性があるということになる。
では、記紀及びその他の史書にある「倭」が果たして「やまと」と読まれていたかどうか。それを確認するには、今一度、記紀の検証を行う必要があるだろう。
しかし、検証には次のような制約がある。たとえば、例で挙げると
白髮天皇二年冬十一月 出雲者新墾、新墾之十握稻、於淺甕釀酒、美飲喫哉。美飲喫哉、此云于魔羅爾烏野羅甫屡柯倭。(中略)舞状者乍起乍居而舞之。誥之曰、倭者彼々茅原、淺茅原弟日、僕是也。
以上の文に見える「倭者」。普通に読めば「わは」である。しかし、「やまとは」と読むのだと主張されてもそれを否定することはこの文だけではできないのだ。恐らく大部分の「倭」が、上記の例と同じく、その文節、或いは前後を含め、読みを決定づける判別材料はなく、どちらで読んだとしてもそれなりの説明ができるものが大半だろう。その中で、どちらかの読みしか当てはまらないものを示さなければ証明にはならない。つまり「音」が絶対的に「わ」としか解せないものでなくてはならない。その絶対的な例が一つでもあれば、「やまと」という読みの土台は崩れるだろう。そして、期待した通り、その例は多くの個所に発見できるのだ。
まず、(移動)日本書紀武烈七年夏四月の記事を見てみよう。
武烈七年夏四月、百濟王遣期我君進調。別表曰、前進調使麻那者、非百濟國主之骨族也。故謹遣斯我、奉事於朝。遂有子、曰法師君。是倭君之先也。
武烈七年夏四月 百濟國主の骨族として来日した期我君が残した子、法師君は倭君の祖である、と語られている箇所である。この倭君は「やまとのきみ」と訓されているが、姓氏録の左京諸蕃に「和朝臣、出自、武寧王也」という記述がある。ここのポイントは「倭君」=「和朝臣」とされていることである。姓氏録は「倭」を「和」に書き換えているのだ。当然「音」による書き換えである。「大倭」を「おおやまと」と読むことから「大和」を「おおやまと」とする例はあるが、「和」は単独では「わ」としか発音しない。すなわち、日本書紀の編纂時から姓氏録の成立にかけて倭君の「倭」は「わ」と訓されていたことになる。そのことから、この記述の「倭」は「わ」であって「やまと」でないことがはっきりとわかる。
さらに紹介しよう。次の例も、決して「倭」を「やまと」と読むこと許されない記述である。
~功皇后紀に引用された魏志倭人伝の記述である。
~功皇后卅九年。是年也、太歳己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏遣吏將送詣京都也。
~功皇后四十年。魏志云、正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。
~功皇后四十三年。魏志云、正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。
卅九年。是年也、太歳己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏遣吏將送詣京都也。
~功皇后六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。
魏志だけでなく中国の史書では我が国を指す「倭」は「わ」という読みしか存在しない。つまりその魏志から引用した記事は中国史書内の記述であるわけだ。であれば、~功皇后紀の記事も例外ではなく、そこに登場する「倭」は「わ」である。日本書紀の編者は「魏志」も、「漢書」も、「宋書」も、「隋書」も、当然熟知している。そして、中国史書では「倭」は「わ」とされていることももちろん常識として理解している。つまり、この引用は、日本書紀の編者にとっても「倭」は「わ」だという認識のもとで書紀の記述の中に組み込んだものなのである。
もし仮に、他所に使われている「倭」が、引用文のそれに反して「やまと」と読まれていたのだとすると、当然のこと編者は強い違和感を覚えたはずである。そして、この「倭」は「わ」と読むのだと何らかの注釈を施したはずだ。しかし彼らは何ら違和感も覚えず、何の対処も行うこともなくそのまま組み入れたのである。その理由は明らかだ。他所の「倭」も「わ」であったからである。
最後にひとつ、「倭」が「わ」でしかないことを示す極め付けを提示しよう。それは日本書紀自身の証言として残されているものだ。神武即位前紀戊午年十有一月、磯城彦を攻めようと砦に至ったときの八咫烏の台詞である。
神武即位前紀戊午年十有一月 時烏到其營而鳴之曰、天~子召汝。怡奘過、怡奘過。過、音倭。
ここで日本書紀の編者は、「過」という文字の読みの音を表す語として、「倭」を使ったのである。
「過」は何と読まれるのか。云うまでもなく「わ」である。これまでの解釈どおり「倭」が「やまと」と読まれるならば、この「過」も「やまと」ということになり、その場合「過」は「倭」で表現されるのではなく、大日本で但し書きしたように「怡奘過。過、音耶麻騰。」とされるはずである。もちろんそうされてはいない。
「音」を表す文字に国名である「倭」を使うという道義的な問題はひとます置いておくとして、この箇所で注目すべきポイントは、「倭」の「発音」が、他の文字の読みを示す音として通じるくらいに広く遍く常識として「わ」であったということである。それはこの箇所だけのことではない。書紀の中に度々登場する「歌謡」の表記で使われる万葉仮名にも多くの箇所で「倭」は「わ」の表音文字として使用されている。
雄略五年春二月
舍人臨刑、而作歌曰、野須瀰斯志、倭我飫衰枳瀰能、阿蘇麼斯志、斯斯能、宇柁枳舸斯固瀰、倭我尼下能衰利志、阿理嗚能宇倍能、婆利我曳陀、阿西嗚
皇極三年夏六月
老人等曰、移風之兆也。于時、有謠歌三首。是月、其二曰、烏智可柁能、阿娑努能枳々始、騰余謀作儒、倭例播禰始柯騰、比騰曾騰余謀須。
上記はそのほんの一例だが、この例が示すように、「倭」は「わ」の音として古代と云う社会に定着していたのである。当然、日本書紀の編者もそれを承知で使ったのであり、まさにこの用例は「倭」を「やまと」と読むという習慣などなかったからこその所作であるのだ。
このように、「倭」が「やまと」と読めないことを裏付ける決定的な証拠がある以上、もはや「やまと」と読む「倭」は日本書紀には存在しないということになる。「倭」は日本書紀において「わ」と読まれていた。そう結論付けるしかないのである。
■「日本」は「やまと」と読むのか
「倭」が「やまと」と読まれることへの反証を示してきた。では「日本」も果たして「やまと」と読んでいいのであろうか。「やまと」の読みを支えていた一角が崩れたことで、「日本」の読みの土台も危うくなったのではないか。続いてそこも検証しよう。「日本」の場合は、書紀の但し書きがあるため、信仰も根深いものがあるが、こちらも予想に反して綻びは早い。まず、先代旧事本紀からの反証を紹介しよう。
先代旧事本紀 天神本紀
饒速日尊禀天神御祖詔、乘天磐船而、天降坐於河内國河上哮峯。則遷坐大倭國鳥見白庭山。所謂乘天磐船而、翔行於大虚空、巡睨是郷而、天降坐矣。即謂虚空見日本國是歟。
先代旧事本紀 地祇本紀
對曰欲住於日本國青垣三諸山 則大倭國城上郡座是也
この記述の大倭國・日本國はこれまでの読みのルールでは、共に「やまとのくに」とされる。ただこれが明らかにおかしいことは誰が見ても気付くだろう。
右は原文の引用であるが、このように仮名振りされていない形で読むと、このふたつの国名が同じ「やまとのくに」だと読める者は誰一人としていないのではないか。何故なら、ひとつながりの文節の中に、同じ国を違う表記で書き記すようなことはあり得ないからだ。要するに、この二つの国名のどちらかは「やまとのくに」ではない。あるいはどちらもそう読まない。その可能性があるということだ。それは、文意を追えばさらに確信に満ちてくる。
一例目は、饒速日尊が大倭國鳥見白庭山に遷り座した折、天磐船で奈良盆地の湖を巡り感嘆して叫んだ言葉が『これが日本國か』というものである。「大倭國」は饒速日尊が遷坐した「鳥見白庭山」が座す場所を示している。日本國はその大倭國を含んだもっと大きい範囲をさしていることは文を読めば簡単に理解できる。
二例目もまったく同じである。少彦名命が常世の国に渡ってしまったため、大己貴命がひとりで五十狭狭之少汀を巡った時の話である。そこで出会った神の要求は「日本國を廻る青垣山のひとつである三諸山に住みたい」というものだ。これは出雲地方から近畿方面という広い範囲を見て「日本國の青垣山にあるという三諸山を」と云った場面だ。それに対して、読み手に向け、「三諸山」とは「大倭國城上郡」にある山のことだと、詳しい住所を説明している。ひとつ目の例と同じく、広域の「日本」と「狭い地点を指す「大倭」の書き分けを意味する、ごく簡単な文章である。文脈からわかる両国の読みはこうだ。「日本國=にほんこく」「大倭國=おおわ、或いは、おおやまとこく」。必然的にそうなる。大倭が「おおやまと」と読むのであれば、猶更、日本は「やまと」とは読めないことは必定である。
次に、ふたつめの反証であるが、前述の先代旧事本紀の例では同文内に「大倭國」と「日本國」の表記が書き分けられていた。これと同じような、いや、もっと強力な例が、万葉集にも見られる。
万葉集巻三 三一九 高橋虫麻呂詠不盡山歌一首 并短歌
奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出立有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞
「日本之山跡國」とあるように、この歌では「日本」と「山跡(やまと)」が一組の句の中で書き分けられている。その部分を従来の国学の解釈で読むと、「やまとのやまとのくにの」となる。さすがにこれではまずい。そこで捻出したのが「日本」を「山跡」の枕詞だとする考えである。その解釈に立つと「にほん」は「ひのもと」とも読める、と云うものだ。そうすることで重複が避けられ、読みは「ひのもとのやまと」となり、一件落着というわけだ。
しかし、やはり苦し紛れに考えだされた解釈であることには変わりない。「やまと」と云う言葉は「山の門、山の戸」という語源を持つ。「港(みなと)」「瀬戸(せと)」などと同じだ。それが何故「ひのもと」なのだろう。「やまと」を「ひのもと」とする根拠として「やまとの「山」は日の昇る場所だから、そこは日の下となり、日の本→ひのもと」となったという理由が掲げられているが、飛躍し過ぎて連想とも呼べない、まったく関係性のない組み合わせである。いずれにせよ、「日本」を「ひのもと」とする意味も、またそれが「山跡」の枕詞として使われる理由もまったく不明なのである。
事実、万葉集に、いやそれ以外の如何なる資料にも「ひのもと」という枕詞が付けられた歌はないのである。この一首だけに現れる「孤高の枕詞」ということだろうか。この歌の作者高橋虫麻呂は天平年間、遡っても養老以降の人物である。すでに日本書紀も完成して、「日本」は全国に号令され定着した国号になっている時代である。そんな時勢であれば言わずもがな、日本という成語は国号がそうであるように「にほん」としか読まれることはなく、これを「ひのもと」などと読むことはないのである。またそして、国号を歌の枕詞とするなどは言語道断、以ての外の行為である。もしそうのような使い方をしたとすれば「不敬罪」で弾劾されても可笑しくない。虫麻呂も馬鹿ではないだろう。そこまでの危険を冒してまで、孤高の枕詞など創作しないはずだ。
歌の意味からもそれは云える。甲斐、駿河という関東地方に在って、遥かな「やまと」の地を「住所表記」のシステムに沿って表すと何と表現されるか。「日本之 山跡國」となる。これは現在でも同じだ。関東の地で奈良県の金魚で有名な「郡山市」を伝えようとした場合、「奈良県」を落とすと「福島県」の「郡山」だと誤認されてしまうだろう。ここでは「日本之」とすることで、山跡という奈良の一地域を、日本という国の領域内にある地域なんですよ、と明確に伝わるように、住所表記ルールに沿った構成で歌っているのである。この歌に詠まれた「日本」は、そういう意味で「ひのもと」でなく「にほん」でしかないのである。
他の日本も見てみよう。日本書紀には魏志以外の海外系資料からの引用も多い。代表的なものは「百済本紀」からの引用だ。そこには日本の表記が何度も現れる。「倭」の読みでも取り上げたが、海外史書の引用文に現れる国名は、海外の認識によって書かれているという点が重要なのである。
継体三年春二月、遣使于百濟。百濟本記云、久羅麻致支彌、從日本來。未詳也。
継体廿五年冬十二月 取百濟本記爲文。其文云、太歳辛亥三月、軍進至于安羅、營乞宅城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。
欽明五年三月 百濟本記云、以安羅爲父。以日本府爲本也。
欽明五年冬十月 冬十月、奈率得文・奈率奇麻等、還自日本曰、所奏河内直・移那斯・麻都等事、無報勅也。
欽明十一年春二月 百濟百濟本記云、三月十二日辛酉、日本使人阿比多、率三舟、來至都下。
欽明十一年夏四月 百濟本記云、四月一日庚辰、日本阿比多還也。
日本書紀の本文において「日本」という表記はそれほど多くない。人代以降であれば、初期の天皇名の次に「日本」表記が現れるのは垂仁天皇二年の記事となる。
「對曰、意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。」
この記述から、最後に「日本」が現れる天武天皇三年五月の「自日本遠皇祖代」までに、国名としての「日本」を含む記事は(同一記事中の複数表記は「ひとつ」とカウント。書名や人名の日本も除く。また日本府・日本府臣も除く、国名のみを対象)約三十五箇所ある。その内、海外から我が国を描いた記事が二十八箇所を占める。つまり日本書紀にある「日本」「日本國」の大部分が先に例出した百済本紀など海外記事からの引用と云うことだ。
無論のこと、「倭」が海外では「わ」であったように「日本」が「にほん」であることは常識中の常識である。であれば、当然、日本書紀にある「日本」はそのまま字のとおり「にほん」と読まれなくてはならないのである。
どうであろう。このように「日本」の読みに対しても反証は見つかるのである。即ち、倭も、そして日本も「やまと」と読むことが絶対的なものではない、いや、そう読むことはないということになるのだ。
では、日本書紀の記述、「日本、此云耶麻騰。下皆效此。」は一体何だったのだろう。また、「倭」と「日本」を結びつけた、記紀の人名表記の符号も「読み」を示す根拠ではなかったのか。
これまでの反証を見る限り、もちろん、そういうことになる。
■「倭」を「やまと」とした勘違い
では、「やまと」の読みの根拠として示した記述が、どのような経緯で誤解を引き起こしたかを説明しよう。
まず、記紀の間で書き換えが行われたとされる人物名だ。
「書き換え」の根拠として、初期の天皇名と並んで取り上げた「日本武尊」の条を見てみよう。
景行四十年冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道拜伊勢~宮。仍辭于倭姫命曰、今被天皇之命、而東征將誅諸叛者。
この記述には「日本武尊」と「倭姫」という「日本」「倭」双方の国号を持った人名が登場する。読みは同じ、「やまとたける」「やまとひめ」である。「日本武尊」は古事記では「倭建命」と「日本」の部分が「倭」とされているが、「倭姫」は同じ表記である。
なぜ、「倭姫」は同じ表記なのだろうか。
ただし、この疑問は明らかに間違っている。何故なら「倭姫」は両書の中で何も変えられていないのである。そこは疑問を持つ箇所ではない。疑われるべきは表記が変えられた「日本武尊」の方である。正しい疑問はこうだ。
「なぜ、倭建命だけが日本武尊とされたのか」
である。
その問いの「鍵」となるのは「名称」のシステムである。そこに勘違いを引き起こさせたカラクリがあるのだ。
■名称構造の理解
国家システムのくだりで述べたように、名称とは、各国の間で、所在・存在・地位を正確に伝えるための語順構造や用語組成などのルールをシェアし合って構築された重要な情報ツールであるという認識をわすれてはならない。
名称の構造は、
国名+職務領域+官職名+(固有名)
という形になったものが基本である。
(例)
大國主=「大」勢力の国を司る「主」
丹波道主=「丹波」の街道を司る「主」
葛城襲津彦=「葛城」の海軍を司る「長官(彦)」
※「津」を接続詞とする意見もあるが、我が国が島国であり、海洋氏族により発展したことから多くの名称では「港」を指すとする考えが正しいであろう。
ほとんどがこの形で構成されている。それは名称が国策から生まれたシステムであることを考えれば当然のことである。そのシステムがあることによって、どこの国や地方にあっても、自身の所在・地位などを的確に伝え、共通理解が得られるのである。それが名称の役割と云うものだ。
特に古代の名称は、現在で云うところの「履歴書」の役割も担っていた。記紀の中に、やたらと長い名称を見たことがあるだろう。
・天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊
・正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊
これが履歴書だ。自国の官職と他国での官職など、最終名称を記すにあたって、誇れる肩書を併記して書き連ねているのである。
(例)
播磨稲日大郎姫
この名称は三種の違う地方の官職が組み合わせられ構成されている。
表す履歴は、播磨の農産を司る「播磨稲」に対して長官名として三種、「日」+「大郎」+「姫」が付加されたものだ。
「日」は瀬戸内から紀伊半島地域で使用される長官名である。「大郎」は越地方の女性に任命される長官名。最後の「姫」は最終の、或いは履歴中一番高位の長官名である。彼女の主たる官職は播磨地方の生産管理なのであろうが、江戸時代、近江彦根藩主の井伊直助が大老職を兼ねたように、「播磨稲日」という役職にありながら、他国の長官職も兼ねていたことを名に残しているのである。
天孫降臨に登場する邇邇芸命もその構造である。
天津日高彦火之瓊瓊杵尊
邇邇芸命が天国の直属であることは天孫降臨の段でわかるであろうが、降臨(赴任)プロジェクトを推し進めた最高司令官が高皇産霊であったことも自明である。それは邇邇芸命が天国出身でありながら、「高国」に属し、同国からの使命を負うていたことを物語る。故に「高」である。
天国の港(津)を司る長官+高国の長官+固有名称という構造が邇邇芸命の長い名前の意味なのである。まさに名前が示す履歴が、記紀に残る邇邇芸命の事績とぴったり照合しているのがわかるであろう。
また、名称は基本的に属する国名で始まる。
(例)
秋津姫神=安芸
吾田鹿葦津比賣命=薩摩
伊加賀色許命=伊賀
菟道稚郎子=宇治
磐筒男神=播磨(伊和)
多くの人物はこのパターンである。しかし、或る条件を持つ人物のみ、別のパターンが登場する。
(例)
天照大神、亦名 大日貴神
彦五十狹芹彦命 亦名 吉備津彦命
都怒我阿羅斯等 亦名曰 于斯岐阿利叱智于岐
小碓尊、亦名 日本童男
飯豐女王 亦名 忍海部女王
鹿屋野比賣~ 亦名 謂野椎~
天之尾羽張 亦名謂 伊都之尾羽張
若御毛沼命 亦名 豐御毛沼命、亦名 ~倭伊波禮毘古命
蠅伊呂泥 亦名 意富夜麻登久邇阿禮比賣命
石衝毘賣命 亦名 布多遲能伊理毘賣命
百師木伊呂辨 亦名 弟日賣眞若比賣命
「亦名」で伝えられる複数の名前を持つ人物である。
「亦名」は、伝えられたソースの違いによると考えられがちだ。間違いではないが、そこで満足して考えることをやめてはいけない。なぜソースの違いで名称が異なるのか、その先に重要な理由があることに目を向け、メカニズムを探らなければならない。
ソースが違うと云うことは何を意味するのか。その人物を記録した国が違う可能性があるということである。国が違うとどうなるのか。国が違うとその人物の見方が変わるのである。
先に、官職が複数ある例を示したが、ある人物が複数の国の官職を兼任していた、或いは歴任していたとする。その人物をそれぞれの国から表現するとどうなるか。
その端的な例が朝鮮半島から渡来した「都怒我阿羅斯等」である。彼は敦賀において役人として勤めるのだが、我が国から見れば「(国名)敦賀+(固有名)アリシチ」だが、本国である加羅国から見ると「(地名)于斯岐+(固有名)阿利叱智+(官職)于岐」となるのである。至極当然なまったく自然な変化であろう。
「彦五十狹芹彦命」もその典型例である。彼は磯城地方に所縁のある倭國香媛を母に持ち、生まれた奈良の地では彦五十狹芹彦の名を得るが、崇神十年、西道に赴任を命じられ、吉備国において「吉備津彦命」とも呼ばれることとなったのである。
女性の場合はまた別の要因で名称が変わる場合がある。婚姻である。
垂仁の娘、兩道入姫は古事記では「石衝毘賣命、亦名布多遲能伊理毘賣命」とされている。兩道入姫は播磨(兵庫)時代「(伊和)石衝毘賣命」と呼ばれたが、日本武尊の妃となることで、和泉の地に遷り「布多遲能伊理毘賣命」と名を変えることになる。
木花開耶姫も同じだ。薩摩時代が「吾田鹿葦津姫」、邇邇芸命との婚姻で「木花開耶姫」となる。以上、いくつかの例を示したが、異動や婚姻などで居住地が変わることで二つの名で呼ばれることとなり、それぞれの国の立場から記録されたことにより、結果、「亦名」という形で残されたのである。
■名称のカラクリ
以上、簡単に名称システムを紹介したが、ここで前述の問いに戻ろう。
「なぜ、倭建命は日本武尊とされたのか」
もう答えは明らかであろう。
「ソースの違い」。正確に云うと「古事記」側の視点と「日本書紀」側の主張による情報差である。記紀の性格定義を思い出していただきたい。(関連リンク:記紀の性格定義)忘れている方のためにもう一度書いておく。
(ただし、ひとつ断わっておきたい。ここに記す記紀の性格定義における「倭」「日本」は「やまと」とは決して読まないでいただきたい。「倭」は「わ」、「日本」は「にほん」であること。それが重要な点である。)
〔日本書紀〕
日本書紀は、「倭国」また「大和勢力」の史書ではなく、「日本国」の国史であり、日本と云う国、そこの主権者と政府が、自身の目線から、自らが関わって来た歴史事績を集めて編纂した、日本国だけの歴史をしるした史書である。それ故、「倭書紀」でも「大和書紀」でもなく、「日本書紀」と題される。
〔古事記〕
国史でなく、天皇家の古事を記したものであり、その古事とは倭国政権下において、倭国の一員として政権に参加した自らの家系の古事にのみに特化して記録したものである。
以上の性格定義を通して見れば、倭建命が日本書紀で日本武尊された理由は簡単に導ける。
「古事記は「倭(わ)国」政権下の天皇家(古事)を記したもの」であるわけだ。「日本(にほん)」が主権者となった時代を描いた書ではない。倭国が宗主であるという立場からすると、倭国政権下で「倭(わ)」を名前に冠することは当然であり、名誉なことであるのだ。その信条に従えば、小碓尊は「わ(の下で任命された)」+「たける」としか表せない。それが古事記を貫くコンセプトである。
それに対して日本書紀は違う。「倭(わ)国」が崩壊した後、わが国の盟主となった「日本(にほん)」の大王として、自らの家系を描いた史書であるのだ。倭国は国名も消滅し、すでに誇らしい肩書ではなくなっている。盟主は「日本」なのである。故に、日本がリーダーであることを知らしめるべく成立した書の中で、過去に属した国の名称のまま「倭建命」と名乗る理由はない。堂々と「日本国」の系図の一員として、「日本武尊」となるのが当然だ。それに反して「倭姫」は違う。日本国の系図に属さない人物は、日本とは関係がないわけであるから「日本」とするのはおかしい。彼らは倭国の人物であったのだから「倭〜」のままとなる、という理屈である。
もっと現代風の設定で分かり易く説明しよう。
「倭国」という会社のもとに「日本」という子会社があったとしよう。だが、親会社の「倭国」が倒産し、子会社だった「日本」が「倭国」の事業と市場を引き渡されることとなった。その状況で、「日本」会社の「社史」を作ることとなるのだが、そこで社員の経歴を語る場合、ふたつの表記への書き分けが必要となる。子会社「日本」の社員は今や自らの会社が事業主である訳だからその肩書にある社名は「日本」と書き改められるが、元・親会社であった「倭国」の社員は、「日本」の社員とは書けない。たとえ現存しない会社であっても、元の社名「倭」のまま記載される。それが、記紀両書間の「倭」表記比較で名前が挙がった人物たちの立場である。
難しい理屈ではない。記紀それぞれの基本コンセプトに沿った非常にシンプルでノーマルなルールである。
つまり、「やまと」という音からの表記繋がりではなく、書のコンセプトに従って所属国名が事務的手続きとして更新されていただけのことだったのだ。もちろんこれは書紀編者の「造作」などではない。現代風の例で示したように、そうすべき、いや、そうされなくては記録作業上、支障をきたすから行った正当な行為なのである。
この簡単な仕組みがわかると、数ある「倭」表記の中にあって、初期天皇名だけが「倭」から「日本」に書き換えられた理由も難なく解けるであろう。日本武尊の場合と同じルールである。
後の時代の研究者は、古事記、日本書紀など史書を横並びに比較し、一括りの史書として扱ってしまう。そのため、「倭」と「日本」の対比が可能であることで、同一人物は同じ読みのはずだと安易に考えてしまったのだろうが、編纂当時においてそれぞれの史書は、互いを気に掛けることなどなく、また互いを参考することも考えず、「単独」で成り立っていたのである。日本書紀側の編者は、神武の和風諡号である「神+日本(国名)+磐余(拠点名)+彦(役職)」の「国名」箇所が、古事記では「倭」とされていることなど与り知らぬことであったのだ。
これが記紀間で生じた名称違いの「カラクリ」である。
■「下皆效此。」の誤解釈
続いてすべての根源と云える日本書紀の記述も検証しよう。
「日本、此云耶麻騰。下皆效此。」
これを間違いだとして否定出来るか、である。
それは出来ない。この記述はまさに揺るぎないものである。書かれた内容の一文字たりとも書きかえることは許されない。しかし、この記述の存在に反し、書紀の中に現れる「日本」のほとんどは「やまと」とは読めないということも事実なのである。なぜ、この但し書きがありながら、「やまと」とは読めないのか。
その矛盾の原因はこの記述にあるのではない。ここでもやはり国学がその原因を作っていたのである。つまり解釈が違っていたのだ。このわずかな短文を解釈する段階で初歩的なミスを犯していたのである。
どの解釈が間違っていたのか。もう一度、全文を見てみよう。
「廼生大日本日本、此云耶麻騰。下皆效此。豐秋津洲。」
仮名に直すと「だいにほんのにほん、これをやまとという。いかみなこれにならえ。とよあきつしま」となる。
見逃してはならないのは「大日本日本、此云耶麻騰」である。これが「日本日本、此云耶麻騰」であれば、これまでの解釈でよいだろうが、そうは書いていないのである。
ここは「大日本」と表記した場合に限ってのみ「日本」を「やまと」と読むように云っているのであって、日本書紀内のすべての「日本」を「やまと」と読ませようとはしていないのである。
それを端的に示す証拠が日本書紀に続く正史である「続日本紀」の中にある。
天平九年十二月丙寅「改大倭國。爲大養徳國」
天平十九年三月辛夘「改大養徳國。依舊爲大倭國。」
この「大倭國」「大養徳國」は両国名ともに「やまとのくに」と読まれているが、それは違う。
ここでも「仮名振り」で過ちを犯している。
「大養徳」が「やまと」でないことは、字を見れば容易にわかるだろう。どう考えても「大(おお)養(やま)徳(と)」である。それ以外には読めない。
「やまと」という誤読を引き起こさせたのは「固定観念」である。おそらく「大倭」が後に「大和」とされたことから、続日本紀の大倭はすべて「やまと」であると、短絡的に解釈してしまったのだろう。成立ベクトルが逆なのである。
続日本紀には、和銅五年九月「大和」表記が正式に使われ始めるまでに、国名表記が二転三転したことが伝えられている。時代順に追ってみた表記の更新順序では、「大和」は結果でしかないのだ。変更の過程が、@「大倭」→A「大養徳國」→B「大倭」→C「大和」という経過であったことを忘れてはいけない。
では、@「大倭」という国名は記紀においてどう読まれていただろうか。周知のごとく「おおやまと」である。であれば、それが@のスタートでなければならない。
読みが辿ったプロセスはこうだ。
「大倭(おおやまと)」→「大養徳國(おおやまと)」→「大倭(やまと)」→「大和(やまと)」
正しい読みがわかれば、「大養徳國」という「万葉仮名」風の名称が介在していることも違和感がなくなる。そして、「大養徳國」から「大倭」と表記変更が行われた過程で、「おおやまと」という読みは「やまと」に統括されたのである。
このことから、続日本紀においても「大倭」が「おおやまと」という読みを与えられていたことがわかる。無論、「倭」は単独であれば「わ」である。そして「大」と組み合わされる場合は「倭=やまと」とされ「おおやまと」と仮名振りされた、ということである。
それが、日本書紀では、自身のコンセプトに従い、かつて上位国の下にあるときは「倭」と表記していた自家の人物名称を国名と同じ「日本」にする改訂を行ったのだ。その結果、「大倭」は「大日本」と表記することになった。しかし、読みは元々「おおやまと」でしかない。当時としても「大倭」を「おおやまと」と読むことは公知のことであったかもしれないが「大日本」は新たな表記であるため、馴染みがない。そのままでは「おおにほん」と読まれる恐れもある。それ故、「大日本日本、此云耶麻騰」と但し書きを行ったのである。
これが、「大日本日本、此云耶麻騰」という記述が挿入された理由であり、「此云」が「大日本」を指していることの証でもある。
さらに理性的な観点を付け加えれば、この但し書きの存在によって決定的に証明されることがある。それは、当時も「日本」は「にほん」であったということだ。でなければ、わざわざこのように「読み方」を断らない。「日本」が「にほん」としか読めなかったからこそ、断ったのである。そして、我が国の正史である「日本書紀」の書名にある「日本」もまた「にほん」と読まれる。これは何人も否定できないことであろう。書の名称が「にほんしょき」である限り、本文に使用された「日本」も当然「にほん」であらねばならないのである。だからである。大日本の日本だけは「やまと」と読むのだと断ったのだ。日本がもともと「やまと」であるなら、但し書きなど必要ない。
つまり、「倭」と同様、「日本」もまた「にほん」と読まねばならないことなのである。
この章の前段で「国家の理念を信じる」とわたしは書いたが、そういう意味でもこの結果は我が国の姿勢を支持してくれるものである。日本(にほん)書紀という書物の本文にある「日本」は「にほん」と読む。当然のことである。日本国はその正史において自らの国名を、正しい理念に基づいて「日本」という表記で貫いていたということがこれで証明されたのではないか。
■それは万葉集でも
さて、最後になるが、万葉集の「枕詞」の検討が残っている。しかし、すでに記紀において、「日本」も「倭」も「やまと」とは読めないことは判明してしまった。その状況で枕詞の考証をする意味があるのか、とも思える。
確かに、枕詞はこれまでの根拠以上に、「読み」を決定づけるには少々足場に弱さを抱えている。平たく言えば、枕詞は、それに続く「語」を必ずしも限定するものではないということだ。
たとえば「ひさかたの」に続く語は「光、天、雨 ,月、雲、都」などバラエティだ。「ちはやぶる」なども「神」だけでなく「わが大君、社、宇治」などにもかかる。「なら(奈良)」固有の枕詞とされる「青丹よし」でさえ例外が存在する。
万葉集巻五 七九七 大伴旅人が、神亀五年七月の二十一日、筑前国の守山上憶良に送った反歌
久夜斯可母 可久斯良摩世婆 阿乎尓与斯 久奴知許等其等 美世摩斯母乃乎
この歌では「阿乎尓与斯 久奴知許等其等」とあるように「なら」とは無関係な言葉にかかっている。
同じことが、「やまと」限定の枕詞とされるものにも云える。
万葉集巻十九 四二八〇 右京少進大伴宿祢黒麻呂
立別 君我伊麻左婆 之奇嶋能 人者和礼自久 伊波比弖麻多牟
これは「しきしま」の用例だが、この歌では「人」にかかっている。
他の「そらみつ」「あきづしま」の場合も、一見どの例も「やまと」を指しているように考えられていたが、「倭」を「わ」、「日本」を「にほん」と読むことが分かった段階で、読みの関連性は失われ、「山跡」だけの枕詞だという立地を失ったことになるわけである。
枕詞も、これで一件落着と云える。そう、本来はそれでいいのかもしれない。
しかし、「やまと」という地名に関しては、どうもそれだけで終わってはいけない、そんな気がする。俎上から消してしまうにはどうにも存在が大きすぎるのである。
事実、記紀の「日本」「倭」が「やまと」と読まないことが判明したからと云って「やまと」という「地」が消えたことにはならないし、現に「大倭(おおやまと)」と読まれる地名は存在していたのだ。また、記紀の歌謡や万葉集の中で「山跡」といった形でその地名は多くの場面で歌われているのである。その事実がある限り、「やまと」もまた無視することは許されないパーツなのである。
なぜ、「やまと」は国学の長い歴史において「倭」「日本」の読みとして疑うこともなく使われて来たのだろうか。なぜ、万葉集は「やまと」にまつわる歌をあれほど多く残して来たのか。またなぜ「大倭(おおやまと)」という用語が定着していたのだろうか。釈然とせぬ課題が多く残るが、国号の読みからは趣旨が逸れてしまうため、「やまと」に関しては一旦ここで打ち切り、また、改めて別項で扱いたい。
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