ここでは、誰もが探し求める「倭国」の中心領域がどこであったかを示したい。

当サイトでは「国号問題」の中で、倭・日本の読みは、そのまま「わ・にほん」とされなければならないことを述べている。まだ、お読みになってない場合は、このテーマに進む前に一読いただければと思う。
倭・日本の読みが従来のように「やまと」でないという結果は、おそらく確実に、万世一系の天皇支配という固定概念を一から考え直させる端緒となるものであろう。また、同時に、邪馬台国論争でそれなりの市民権を得ている九州王朝説なども一瞬のうちに成り立つ余地をなくすことになる。


■列島の中心地であった国国家の条件

まず。記紀が記した「倭国」「倭」が「やまと」でなく、「わこく」「わ」であるのだとすると、一体何が変わるのか、である。
そのままシンプルに考えればいい。「倭」が「わ」であるということは、当然の帰結として、記紀本文に記された「倭」は「倭(わ)」であることになる。「倭(わ)」とは何か。言うまでもなく、魏志などの海外史書が云うところの「倭国」以外にない。
これは飛躍した考えではない。むしろ、これこそがもっともノーマルな捉え方だと云える。
わが国は「倭国」だったのだ。他のどの国でもなく、海外からも「倭国」「倭人」と呼ばれてきた国なのである。その「国」が同国の地で編纂された史書に堂々と登場してきたとしても、それを異常だとは誰も言えないであろう。倭国はおよそ7世紀まで確実に存在していた。その倭国が統治していた時代を描いた史書「日本書紀」に「倭国」が微塵も現れないこと、逆にそのほうが遥かに異常ではないか。

これまでの古代史の論点を見てみよう。邪馬台国、倭の五王など、古代史研究で繰り広げられた多くの論争は、海外史書には現れて来るわが国の盟主である「倭国」が、何故か、記紀などわが国の史書に見えないという点が大きく関係していた。日本書紀が作為の書であるとか、真実を隠蔽しているとか、有らぬ嫌疑をかけられてきたのも、すべて「倭国」の不在が何がしかの因子となっていたことは確かである。
しかし、真実はそうではない。錯誤を犯していたのは研究者の方だった訳だ。日本書紀は別段「倭国」を隠蔽したのではなかった。いや、隠すと云う意図など微塵もなく、至る処で倭国をありのまま扱っていたのだ。つまり、これまでの心ない批判はすべて、「倭」が「やまと」と間違って読み継がれてきたことで被ったいわれなき汚辱であり、こうして国号の読みが明確になったことで、日本書紀は千数百年の長きにわたった「冤罪」をようやく晴らすことができたのである。
われわれは今や日本書紀を疑うことなく、素直に読むだけでよい。そして、日本書紀が記した「倭国」が「わこく」であるならば、これまで論争が絶えなかった倭国の所在も同様に明らかになる。日本書紀において「倭」はどの地を指して使われているか。記事をそのままピックアップしてみよう。

倭國磯城邑
倭笠縫邑
倭國之山邊道
倭國菟田人
倭國添上郡山村
倭國磯城郡磯城嶋
倭國高市郡
倭國吾礪廣津邑(※この地名のみ現・大阪府八尾市を指すとされる)

住所表記のものだけを抜き出してみた。ここに九州の地名はない。すべて同じ地域を示している。その地は現在の奈良県である。つまり、日本書紀の証言から、同書が指す奈良周辺の地こそが「倭国」の中心地であったということになるのだ。
この結論も同様、まったく驚くに値しないものだ。邪馬台国を奈良の地に求める考えや大和朝廷という概念が何故国学が興って以来長きにわたり唱えられてきたのか。そこを考えればいい。日本のどの資料をひも解いても、我が国の中心地は奈良周辺にしか求められないという動かしがたい状況があったから、千数百年の間、その考えが揺らがなかったのである。
そして、最新の科学研究から見直される古代の実像、大地に残された考古学事実など、すべての記録に見事なまでにその結果に合致するのである。
おさらいしてみよう。

@古代人のDNA研究結果からは、縄文期と弥生期での人種の断絶は認められず、弥生時代は縄文期からの同じ民族、つまり縄文人により営まれていたことが有力となった。(←参照)
Aまた、石器時代以後、縄文期にかけての列島内人口分布は東日本に大きく偏っており、我が国が東日本を中心として発展してきたことがそこから伺えた。東国優位の構図は弥生期以降も変っておらず、国内の力関係は一貫して東日本偏重が維持されてきたと云える。(←参照)
B石器時代より黒曜石に代表される資源が国内に止まらず海外まで交易されていたように、列島には古代より高度な流通網が構築されていた。流通は主に海洋氏族によって行われ、彼らは全国を安全に航行するための掲げ物による通信システムを浸透させていた。(←参照)
C流通や通信システムの存在から、列島にはそれらの制度を安定的に運営する国家が存在したと考えられる。(←参照)

このように我が国には古くから国家が存在していた。そして、石器・縄文期から人種も変わらず、列島の力バランスにも大きな変動なく弥生・古墳時代に至ったということは、その国家の体制、またその組成・構成人種も変わらなかったことを意味する。
弥生と云えば彼の有名な魏志の同時代である。その時代、我が国は「倭国」と認知されている。であれば、いにしえから我が国を統べていた国家も同じ「倭国」ということになるのではないだろうか。
Aの人口分布推移が示す近畿〜東日本を地盤に君臨してきた国が「倭国」であるということは、その所在が、記紀が証言するように奈良の地とされることは、列島の歴史からも自然なことであるわけだ。


■海外史書の証言国家の存在

もっとも、大仰に特記するまでもなく、我々は、倭国が弥生期よりもはるか以前に存在していたことをよく知っているはずだ。
たとえば、漢書地理志は次のように語る。

「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」(訳:夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す、歳時を以ちて来りて献見すと云ふ)

この漢書の記事は、紀元前の話を伝える記録である。
また、「論衡」では

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(訳:周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず)
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(訳:成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず)
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(訳:周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず)

周は紀年前一〇四六年頃から前二五六年頃の王朝である。成王(紀元前一〇二一年〜一〇〇二年頃)はその周の二代目の王で、在位年代は紀元前一〇〇〇年前後である。我が国の歴史を造作する動機がない他国の記事である。その「書」が日本列島に「倭人(倭国)」が在り、親交があったことを伝えているのである。
この客観的な記述は、倭国が、紀元前一〇〇〇年頃の縄文後期に、すでに朝貢の使を送るまでの組織体として認識されるにいっていたこと示しているのである。小さな村がたまたま行った貢物などではありえない。国対国としての使者なのだ。つまり、倭国という当時の日本の盟主である統一国家としての貢献を伝えている記事なのである。
そして、そこには九州が優位だなどと論じるような材料(水稲栽培)が見当たらない時代、本州中央から東日本にかけての地域が圧倒的に中心だった頃の話である。

ここで九州王朝説は立地点を失う。中国史書が客観的事実として伝える縄文期の倭国の存在は、あらゆる考古学上の事実も支持するように、倭国が決して九州と云う辺境の小さな地域に発生した小国でなく、列島を代表する国家として、それに相応しい環境に生まれたことを証明しているのである。 その時代の中心地。その国家が首都とするにふさわしい地は、決して九州でなく、近畿以東なのである。

■天地の差がある従来説との違い揺れる国家観

但し、奈良周辺が「倭国」であることは、邪馬台国大和説側の立場には元々ある考えである。ここまで大いに紙面を割いて説いてきたにもかかわらず、結局従来から唱えられてきた既知の結果に至っただけのように見えてしまうが、まったくそうではない。
この結果は、皇国史観に支えられた大和説とは根本から違っている。
相違点は、倭国の成立時期である。大和説は神武の東征によって倭国が始まったと考えるが、事実から導いた答えはそれを否定しるのである。倭国は、神武が東征する遥か以前、縄文期からその地にあったことを示しているわけだ。
この違いは、天と地ほどに大きい。
その違いは一体古代史のシナリオにどのような変動をもたらすのかは、また別項にて述べて行きたい。


■倭国所在の異説国家の範囲

ただ、倭国の位置については、この日本列島の中でなく、他国に想定する説もある。念のためここで紹介しておこう。
ひとつは「倭」を中国大陸の一部だとする説だ。

「蓋国在鋸燕南倭北倭属燕」(訳:蓋國は鋸に在り、燕の南、倭の北、倭は燕に属す」

右の引用は、中国最古の地理書である山海経(せんがいきょう)の中の記事である。
この一節に現れるのは「燕」「蓋」「倭」の三国であるが、燕は中国の周代から戦国時代にわたり実在した国であり、現在の北京を含む地域にあった国であることが判明している。
問題は「蓋」だが、その国の所在に関しては朝鮮半島だとする考えがメジャーである。ただ、朝鮮半島だとすると問題が生じる。山海経は、蓋は燕の南だと云っているのだ。その説に従うなら山海経の記述に反して、南でなく東となってしまう。もちろん南を東だと無理やり捻じ曲げれば「倭」もそのまた東となり、そこには日本列島が横たわっているため、地理的にも合致するわけだ。
そのような強引な解釈が唱えられるのは「山海経とは様々な著者の記述を寄せ集めたものである。故に、その記事は信用するに値しない」という資料の信頼性に欠けると云う背景があるからであろう。



しかし、あまりに強引な説だけに、当然それを不服とする説が現れる。それが「倭の所在を中国大陸に求める」という考えになるわけである。
資料に忠実に向かうならば、南は南であって、東とすることは出来ない。そして「倭属燕」をそのままストレートに解釈すると、倭は河北省にあったと考えざるを得ない、となる。
確かにこの解釈は、資料解釈の姿勢としては何ひとつ間違っていない。ただ、正しい姿勢であるのだが、その考えは市民権を得るまでには至らないのである。何故なら、仮に山海経の記事も、それに対する解釈も、どちらもが正しいのだとしても、古代より中国という国家が「倭」として認識してきた国は、この日本列島の島国であることは同国の他資料がこぞって認めていることであるのだ。その事実は山海経の記述価値以上に大きく、決して否定できないことであるのだ。
そこから考えれば、山海経に関しては「そのような認識も、ある時期にはあったのだろう」程度で止めおき、大上段から倭国の所在問題の場に引きずり出すものではないと云えるだろう。

ふたつ目の所在説は、後漢書東夷伝から。福岡の志賀島で出土した「漢委奴國王印」との関連で有名な次の記述から発するものだ。

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」

この一節にある倭奴國は「いと」と訓され、金印に見える「委奴國」と同国とされる。この国は、魏志にも「伊都國」の表記で現れ、現在でも「糸島」として地名が残っていることからも、九州北部であることが確実視されている。
しかし、そこで問題となるのが「倭國之極南界也」の部分である。後漢書は朝鮮半島南岸の狗邪韓國を倭国の北岸だと捉えており、そこを始点に、倭国の最南端を「倭奴國」だと書いているのである。そこでまた独自の解釈が生まれる。つまり後漢書の地理認識をそのまま採り入れ、倭国は朝鮮半島から海峡間の島々経て、九州北端にまたがる国だとする考えである。



しかし、その考えは文面解釈上では一見成り立っているように見えても、現実では成立し難い考えである。何故なら、倭国領域が九州北岸を最南端だとすると、魏志が倭奴國より南にあるとする奴国や邪馬台国が倭国でなくなってしまうことになる。
不具合はそれだけでない。もっと致命的な問題がある。それは財政面である。国家は経済活動に国家経営の財源を求めるものだが、海岸だけしか領地がないとすれば、一体何に財源を求めるのか、それが見当たらないのだ。港をすべて掌握しているわけではないため海運業一本での運営も無理であろう。
さらに土地が少ないと云うことは、そこに生活する人口も比例して少なくなる。実際、魏志が示す対馬や壱岐の戸数は、奴國、投馬國などと比べ、桁違いに少ないのだ。生産力や軍事力を決める関数f(x)はすべては人口の値で決まる。もし海岸線しか領土を持たない国があったとしても、間違いなく即座に周囲の国に圧倒的な兵力差によって滅ぼされてしまうだろう。つまり、この解釈はどう考えても成り立たないのである。

では、「倭國之極南界也」をどう考えればいいのか。後漢書の記述を徹頭徹尾信用する態度を守り通すならば、倭奴國=委奴國、倭奴國=伊都國という等式を崩すしかないであろう。
わたしはそれも十分あり得る方法だと考える。なぜなら、「倭國之極南界也」の「倭」は(何度も云うが)「わ」である訳だ。だとすると、「倭奴國」の「倭」も「わ」と読む、それが本来正しいルールではないだろうか。つまり「倭奴國」は「いと」ではなく、「わと(ど)」「わぬ」と読むことのほうが正しいと云えるのである。そう解釈すれば、ことさら拘って、同国を九州北部に想定する必要もなくなるのだ。
もっとも、その解釈の先には、では「倭奴(わと)國」はどこにあるのかという疑問が生まれ、さらに課題を背負い込むことになるわけだが、いずれにせよ後漢書の問題は発想の転換なしでは解決しないであろうことは確かなのだ。
それでも尚、志賀島の金印と「倭奴國」を結び付けつけようと拘泥し続けるのであれば、畢竟、今云った魏志の記述との矛盾や物理的な障害という解決不能な問題をどこまでも永遠に抱え続けることとなる。それは覚悟しなければならない。

古代史には、答えのない迷路がいくつも現れる。これはわたしの個人的な方針なのだが、水掛け論や解決の糸口のない問題に関わって、穴を掘り続けることは時間の無駄だと考えている。もちろん、論争の途上での弛まぬ研究から誰も気づかなかった資料の発見が促されることもあるかもしれないが、それよりも遥かに確実な材料が用意できるルートが他にあるのであれば、わたしは躊躇いなくそこからのアプローチを選ぶだろう。
この所在問題でもそれは変わらない。
確かに倭国の場所を、九州や朝鮮半島、或いは他国の地かもしれないと想像を巡らすことは楽しいかもしれない。ロマンもある。九州王朝説などを読んでいると感心するほど豊かな想像が展開されており、正直、わたしも倭国が九州である可能性を真剣に考えたこともあった。
にもかかわらず、結論として奈良周辺の地に「倭国」の中心地を定めたのは、ここまでに語った根拠だけを頼りに導いたのではなく、絶対的に否定できない「状況」があることを痛切に感していたからなのである。
如何せん「状況」であるだけにそれを学術的な根拠とすることはできない。しかし、わたしはその一点だけであっても「倭」の所在は奈良周辺であると云わざるを得ないと思っている。それ故、このルートからのアプローチを選んだ。

その「状況」とは何か、ここで投げかけておこう。
「倭」を他国や九州に求めようとする方に、次のことを考えていただきたい。
もし「倭国」がこの日本列島の国でなかったとするなら、或いは九州という辺境の地であったならば、なぜ、日本書紀や古事記は「倭」「倭国」という文字を奈良周辺の国名として史書の中に使用したのか。仮にその読みがこれまで常識とされた「やまと」だったとしても同じである。
なぜ、その「倭」という「文字」を奈良の地の名称に充てたのか。それは、日本国自身が後に「悪し」とし改めることとなるような文字であるのだ。そんな文字をなぜ使ったのか。もし論理的にその理由を説明できるのであれば、ぜひお教えいただきたいと思う。



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