倭国が縄文期から畿内を政治の中心として存在していたということは、東征のに対する認識を改めなくてはならない。
何故なら、神武は未開の地ではなく、倭国の中心領域に東征を行ったことになるからだ。つまり、神武東征のシナリオが冒頭から狂ってしまうのである。
そもそも、記紀はあくまで天皇家の歴史を記録したものに過ぎないということ。特に「日本書紀」はその編纂理念として「倭国の中の日本にまつわる歴史のみを」描いているため、限られた情報しか提供してくれない、という点も心得ておく必要がある。
事実、神武の物語は非常に狭い地域に限定されたものになっている。日向から西宮だけという、列島の大部分に目隠しをした断片的な記録でしかないのだ。
日本列島をジグソーパズルに例えれば、東征譚のピースは僅か数枚程度なのである。その時代、残りのピースはどのような状況だったのか。その部分なしには何も語れない。
たとえば、先代旧事本紀には神武たちが中ッ國に入る前の政変を伝えている。そのひとつの記事を見ただけでも、「神武東征」とひとくくりに語ってしまっている事件が、もっと深い背景と広がり持つ事変であったことが察せられるのである。
倭国の中心地に攻め込んだ戦い。そのまだ語られていない東征の真実は記紀以外の資料に残されている。
では、残りのピースを埋めるために収集すべき材料は何であるのかを考えよう。
その第一は、『倭国の統治体制』であろう。
東征という社会情勢を招いたのも、恐らく当時の統治体制が起因となったのであろうし、倭国の支配領域がどこまで及び、その領域をどのような形で統治していたのかも、最低の情報として探る必要がある。
その統治体制によってわかるのが『神武と倭国との関係』である。倭国は敵なのか味方なのか。その答え次第で、東征の意味は大きく変わる。また、神武がどのような立場にあったのかも、東征の動機解明には欠かせないだろう。
そして、最後は、東征当時の『社会情勢』である。先にも触れたが、先代旧事本紀が伝える政変なども踏まえ、東征は何を契機として発生したのか、何を目論んでの戦いだったのか、誰の意思でそれは行われたのか、などを明確にする必要がある。
■倭国の統治体制国家体制
では、順を追って進めるが、まずは神武が攻め込んだ倭国とはどのような国家であったのか、その統治体制をから見ていこう。
統治体制を探るにあたって、ひとつ仮説を設けたい。
それは「国家作用」、いわゆる、立法、行政、司法という政府機能の想定である。
古代という時代に「国家作用」という言葉を持ち出すと、時代錯誤的な印象を与えるかもしれないが、決してそうではない。要は「道理」の問題である。
感覚的に、古代と云うだけで、その時代のものはすべて未熟・未開であると考えられがちであるが、物事が成り立つには、規模や時代に関係なく、最低限の「構造」だけは必要になるということは何事においても云えることである。
たとえば、飛躍した譬え話になるが、「キリンの首は長い」という事象を例に採ろう。首が長い理由として、高い木の実や葉を食べるためだと云われた時代もあった。しかし理由の正否はともかく、首が長くなるという現象は外見形状だけの変化というような単純なものではない。頭の上げ下げだけで、それがもし人間なら極度の貧血で死亡する恐れさえある大きな欠陥を併せ持つのだ。そのためキリンの頭には血圧を一定に保てるようにワンダーネット(奇驚網)と呼ばれる網目状の血管が施されている。首が長くなることは表面的には小さな変化であるが、内部では大きな変革を伴って、長い首を成り立たせるための最低必要な基本構造を創り上げているのである。
それは国という形態にとっても同じである。国が成り立つためには秩序を保つ機能や、国家財政を確保する機能、国民生活を維持する機能など、国が国として存続するための基本構造が同時に備わっていなければ国は成り立たないのである。即ち、国の成立は「国家作用」と共に発生する、互いが影のような関係であるのだ。これまでの章で、倭国が実施したいくつかの制度や仕組みを取り上げてきたが、それらが考案され、流布されるプロセスも、すべて国家作用によって支えられていたと云える。
古代国家の国家作用は、もちろん現在と同じ構成ではなかっただろう。しかし、単純でシンプルであったかというと決してそうとは言えない。成熟度の差はあれ、同じ社会である。食糧生産、土器や道具の製造、運輸交通、教育、通信などなど基本的に必要なものは現在も古代も変わらない。
たとえば、先の章でも言及したが、古代の交通網や流通などは、ルールの制定だけに止まらず、治安や機関・設備の維持・管理が恒久的に必要となる。そのためには規律ある指揮系統を有する組織が必要不可欠になる。それは現在の国土交通省や通産省に該当する部門であったであろう。海路や陸路の整備は、いつの時代も国の生命線であるのだ。
この重責を課せられていたのは、神代の時代では、さしずめ素盞嗚神がその長官だったのかもしれない。
農林水産省も当然存在したはずだ。ただし、古代において「食」は「糧」であり「税」であり、国家の存亡を左右する大本であった。それを考えると、単なる食糧担当に止まらず、恐らく財務省も兼ねる最も大きな権力を有する役職として置かれていたのかもしれない。
このように古代に散りばめられた断片からも簡単に具体的な「国家作用」の存在が予測できるのである。故に、この仮説が事実レベルで正しいかどうかを史書のみを使って示して行きたい。
■食國政申大夫国家最高権力
手始めに取り上げるのは、直前に触れた「食」を司る官庁であるが、史書の記述を探ってみると、それはまさに予想した通りの形で記されている。
先代旧事本紀 天孫本紀 二年春二月
兒宇摩志麻治命此命橿原宮御宇天皇御世元為足尼次為申食國政大夫奉齊大神
旧事紀には「食國政申大夫」という役職が何度も登場する。記紀には一切見えない職位である。
旧事紀の中では、記紀にも登場する「足尼(すくね)」や「大臣」という役職も見えるが、「食國政申大夫」が最も重要な最高位の役職であるように記述されている。そのことは役職名からも窺い知れる。何故なら、先にも書いたが、「食」こそが国家の大本であるからだ。
日本書紀にもはっきりと次のような詔が記されている。
宣化天皇元年夏五月辛丑朔、詔曰、食者天下之本也。
人民の生活から国家財政までもが、すべて食に支えられていることを宣べているのである。
先代旧事本紀には、また、次のような記述も見える。
m申食國政大夫者今之大連大臣是矣
「食国政申大夫は今の大連・大臣である」という意味だ。
「大連・大臣」というと、記紀の中では役職のトップ、企業なら専務・常務に位置するものである。つまり「食國政申大夫」とは、日本書紀(正史)の中で最高の地位とされている「大連・大臣」を兼ねた役職であったことになる。まさにとんでもない大権である。
だが、考えればそれも十分納得できる。
「食」を司るということは、稲作や漁労・果樹栽培など国の財源を育成・開発・管理する役割を担うだけではない。「食」に関わるさらに重要なものとは兵糧である。「食」は「糧」「税」であると共に「兵」でもあることも忘れてはならない。
「兵」と言えば現代では防衛省だが、当時の兵は職業としての兵士でなく、食糧生産者が有事の兵を兼ねていた。生産者が兵であるということは、生産を司る監督庁が軍事までをも掌握していたことになる。つまり、前述の農林水産省・財務省が防衛省も兼ねて一体となった、それこそ国王級の、国を統率するほどの力を持った省庁であった可能性が十分考えられる。
それはある意味、このひとつの役職に国家権力の大部分が集中していたことを物語っているのである。
話は逸れるが、今紹介したこの記述には、さらに非常に興味深い内容が含まれている。古代の政治のレベルが予想以上に高度な領域にあるということがここから見てとれるのだ。
「食国政申大夫は今の大連・大臣である」とは、「食国政申大夫」という役職が「今」に至る或る時期「大連・大臣」の二つの役職に分離されたということだ。政治は成熟するに伴って、危険な要素をそぎ落とし、安定した運営を追及する方向に向かう。政治における危険な因子とは「権力の一極集中」である。力の偏重は「権力の濫用」を招くからである。そして、それを避けるべく一歩進んだ形態が「権力集中」の対極にある「権力分立」という考え方である。
倭国は、宇摩志麻治命の時代、食国政申大夫だけであった役職を、出雲色命の時代に二分化し、意味合いは違うが、現在でいうところの「衆議院」「参議院」のように、暴走に歯止めをかける機構を組み入れていたことがわかるのだ。
■その他の省庁国家作用
古代の「国家作用」を示す痕跡はこれだけではない。記紀や他の史書の記述を見てみよう。
日本書紀 神代 国譲りの段
即以紀國忌部遠祖手置帆負~、定爲作笠者。
彦狹知~爲作盾者。
天目一箇~爲作金者。
天日鷲~爲作木綿者。
櫛明玉~爲作玉者。
乃使太玉命、以弱肩被太手繦、而代御手、以祭此~者、始起於此矣。
且天兒屋命、主~事之宗源者也。故俾以太占之卜事、而奉仕焉。
いくつかの役職の任命記録である。
この数行の記述を信用する限り、神代という時代においてすでに行政組織を伴った国家体系が存在していたことは明らかである。
役職の内容も非常にリアルである、この時代ならではの特徴的なものとして忌部氏や中臣氏が任命された「~事之宗源者」という役職も興味深い。
また、当時の社会で根幹となっていたのは「衣食住」ではあるが、国家財源を確保し、富国を目指すためには経済の役割が重要である。そのため、上記の人事内容は主に「生産」を担う長官によって占められている。
ただその生産も多方面である。軍事にまつわる「楯」もあり、衣服や布製品の原料としての「木綿」もあり、直接的な財源である「金」や「玉」も見える。流通の章で「専売」について示唆したが、金や玉の生産加工が国家管轄であった証拠として、それが現実に行われていたことを示す記録がこうして残されているのである。
先代旧事本紀の神武東征の段にも、当時の省庁を伝える記述が残されている。一部を抜粋して紹介しよう。
先代旧事本紀 天皇本紀
復天留命率齊部諸氏作種々神寶鏡玉矛盾木綿摩等也
復櫛明玉命孫造新玉
復天日鷲命孫造木綿及麻并織布矣
復天宮命率天日鷲命分造肥饒地播殖穀麻矣
復天宮命更求沃壊地分殖好麻木綿永奉麻大嘗曾縁
復天富命於安房地之天太命社
復手置机負命孫造矛竿命
復天兒屋命孫天種子命解秡天罪國罪之事也
復日臣命率来目部衛護官掌其開門矣
日本書紀の記事に比べて旧事紀のほうが広範囲の組織を描がいており、組織構造に至るまでより詳しく伝えている。
簡単に組織図として整理すると以下のようになる。

全容でないにしろ、この図から倭国の政府構造がある程度想像できる。
こうして、「国家作用」の痕跡を探ってみると、国の運営を機能ごとに分割し、それぞれ懸案ごとに担当省庁に委ねるという政治手法は古い時代にかなりのレベルまで完成していたと云えるのである。
ここに紹介した記述は、これまでそれほど重要なものであると認識されて来なかったものだ。
先代旧事本紀は偽書的な扱いを受けたこともあり、その内容は編纂勢力(物部氏)が自身の栄光を誇示するために創作したものではないかなど、歴史の記録として真正面から取り扱われることもなかった。しかし、「国家作用」を仮想し、その視点から眺めると、史書の記事の中には、古代の政治形態がリアルに表現されていることが見えてくるのだ。
ことさら古代を過小評価するのではなく、同じ社会として理解すれば、「国家作用」とはいつの時代にも国家にとって必要不可欠なものであり、歴史を考察する際には常に意識すべきものであるということが実感できるのではないだろうか。
■統治範囲国家構造
次に、倭国が一体どこまでの支配領域をもっていたのかであるが、海外の国(中国)からも我が国の盟主であると認識されていたように、倭国はもちろん日本列島の覇者であるわけで、それが奈良周辺地域だけの小さな統治機関であったとは考えにくい。
たとえば、黒曜石や翡翠が列島全域に流通されていたこと、各地に残された神無月伝承、伊弉諾神・伊弉册神が造ったと云う大八洲、日本武尊が九州から東北まで安全に航海出来た事実など、倭国が、列島を統括する一つの統一国家であったことを物語る痕跡こそ多く見つかるが、「九州王朝」「吉備王朝」と云うように、地域ごとに独立(敵対)した大国が対峙するような分裂国家だったことを示すものは一切見えないのだ。
もちろん、魏志に書かれた「狗奴国」のように辺境の地で独立を保つ勢力が一時的に発生することはあったかもしれないが、一貫して我が国は「倭国」によって統治される統一国家であったことは間違いなく、その点からも、ここに示した「国家作用」の適応範囲は全国規模であったと考えられる。
以上のことは、希望的観測とか、思い込みで云っているわけではない。倭国の支配が全国規模であった証拠の一つが、倭国が任命した「役職」のひとつに残されているのだ。それは、誰もがよく知っている「わけ」である。
この「わけ」が何という役割であったのかが、常陸國風土記の冒頭にわかりやすく説明されている。
常陸國風土記
常陸国司 解 申古老相伝旧聞事
問国郡旧事 古老答曰 古者 自相模国足柄岳坂以東諸県 総称我姫国 是当時 不言常陸 唯称新治筑波茨城那賀 久慈多珂国 各遣造別令検校
「各遣造別令検校」(おのおの造や別を派遣して検校させた)とあるように「わけ」とは中央政府や有力氏族から「派遣」された特定地域を司る役人なのである。
定説では「皇族の子孫で地方に領地を与えられた者の称号」とされているようだが、何を根拠にそのような考えが出てきたのか不明である。
その考えが明らかに間違いであることは「わけ」の実態を探ればわかる。
例えば、誰もが知る稲荷山鉄剣銘の「乎獲居臣」も皇族とは言えないだろう。また、次のリストを見てほしい。
(人物) (地域)
若飯豐別命 岩手県
保呂羽山波宇志別 秋田県
天足別命 福島県
賀茂別雷命 新潟県
大鞆和氣命 埼玉県
阿八別彦命 千葉県
杉桙別命 静岡県
櫛日方別命 石川県
日子刺肩別命 富山県
比古佐和氣能命 岐阜県
朝廷別王命 愛知県
足鏡別命 三重県
天津石門別命 岡山県
天佐自之和氣大神 徳島県
天石門別命 島根県
白日別神 福岡県
十城別命 長崎県
「別・和気」の役職が冠された人物である。
この中にも皇族の地を引く者は見えない。「常陸國風土記」が伝えるように「わけ」は、皇族とは関係なく、倭国が定めた様々な制度やシステムのひとつとして生まれた地方行政の官職なのである。
そして、右の人物リストは「わけ」の広がりを示すために列挙したものだが、九州から東北まで同役職が列島全域に配されていることは一目瞭然だ。
さらにこのリストは、史書ではなく各地の神社に残る人物も多く含まれる。つまり「わけ」の制度が如何に地方の隅々にまで普遍的であったかということも同時に示しており、倭国の統制が全国的な広がりであったその証拠となっているのである。
■統治構造国家統制
史書の記述は、倭国の組織構造が、中央官僚の筆頭「食国政申大夫」を要として、その下に各省庁を設け、地方には「わけ」を派遣するという、中央集権を思わせる統治スタイルであったことを示していた。「中央集権」も定説では律令時代からとしているが、文献資料を見る限り、すでに神代という時代にその萌芽が見られるのだ。
ただ、「中央集権」と云っても、倭国のそれは少し違うようだ。記紀を含め様々な資料の中には、倭国が独自の体制で統治を行っていたことを示す記述が転がっている。いくつか提示してみよう。
(1)播磨国風土記揖保郡条
「上岡里。出雲国の阿菩大神、大倭国の畝火・香山・耳梨の三山相闘ふと聞きて此を諌め止めむと欲して上り来る時、此処に到る。乃ち闘ひ止むと聞き、其の乗れる船を覆せて坐しき。」
この播磨国風土記の説話は意味深いものがある。
中國(なかつくに)内での争いに、阿菩大神がわざわざ出雲から仲裁にやって来たという記事であるが、確かに「中國」が中央政府であることを考えると、政府内の政変に対し、鎮圧のため軍を出すことは十分あり得る話だ。
ただ、この出陣の目的は「諫める」ことなのである。
出雲と云うと国譲りが行われるまで倭国の盟主であった勢力である。もちろん、この事件がいつの時代かは特定出来ないが、時代の如何に関わらず「阿菩大神」が中央政府の政変を諫めることができる立場にあったことがこの話から伺える。
しかしそれは、裏を返せば中央政府の官僚クラスと云えども、地方の国主から諫められる地位でしかなかったことにもなるのだ。
これと似通った説話が日本書紀にもある。
(2)C寧廿三年八月
是月、吉備上道臣等、聞朝作亂、思救其腹所生星川皇子、率船師四十艘、來浮於海。既而聞被燔殺、自海而歸。天皇即遣使、嘖讓於上道臣等、而奪其所領山部。
設定は違うが、星川皇子の加勢に吉備上道臣等が駆け付けようとした話である。
この事件も、紛争が起きたのは中國(奈良)であり、紛争を起こした当事者も中國の人物であるのだが、それを地方の勢力が聞きつけて援軍を送ったという場面となっている。
星川皇子は吉備上道臣にとって娘婿ということはわかっている。阿菩大神と大和三山が如何なる関係であったのかはわからないが、三山のいずれかが出雲関係者であったのかもしれない。
どちらの事件も取るに足らない一節に見えるが、中國での紛争に反応して、彼らが軍事行動を起こした背景メカニズムは同じ根を持っていると云えるだろう。
それを端的に語るのが、やはり国譲りの記事だ。当時の構図をはっきりと伝えている。
(3)古事記上ツ巻から、国譲り
故、追往而、迫到科野國之州羽海、將殺時、建御名方~白、恐、莫殺我。除此地者、不行他處。亦不違我父大國主~之命。不違八重事代主~之言。此葦原中國者、隨天~御子之命獻。
国譲りとは、「高皇産霊が中國の主たる人員の派遣を迫るために遣した交渉者に対して、大己貴命と事代主は承諾するが、建御名方神ひとりが反対する。しかし建御名方神も結局戦いに敗れて信濃の地に退き、葦原中國は高皇産霊が権勢を揮える地となる」という話である。
この説話で着目すべきポイントは
@ 合議によって政権の禅譲が行われていたこと
A 大己貴命、事代主、建御名方、敗れた三神のいずれもが滅ぼされなかったこと
B 三神は中國ではない地に地盤を置いていたこと
この三点である。
国譲りとは、政権を奪う交渉であるわけだから、当然円満な会議とは行かない。だが、戦いは武甕槌神と建御名方との間で一度行われただけで、一貫して穏便に国譲りが進められている。
その結果、滅ぼされるような犠牲者は出ていない。事代主に至っては、内通でもしていたのか、大出世して葦原中國の統治を任され、後の「人代」にも高官排出勢力として登場するなど、後々まで越前周辺に支配力を維持し続けている。倭王を退いた大己貴命もそのまま出雲に本拠を置き続けている。建御名方は信濃に敗走したとされるが、逃げたのではない。退いたのだ。敗将として落ちのびたのであれば、縁も所縁もない土地で再び領主の地位を獲得することなど出来ないであろう。信濃は元々建御名方神の本拠地であり、中國の権力闘争から離脱することで、その後平穏に地元で生き長らえたのである。
似通った状況を伝える記事は、国譲りだけではなく、他にもいくつか見られる。
神武東征で敗退した長髄彦は、日本書紀、先代旧事本紀では饒速日尊または宇摩志痲治に殺されたとされるが、古事記では左記のように殺された記述は見当たらず、戦いに敗れたと云う気配もない。塩釜神社の伝承では、東北に逃げ延びたとも伝えられているらしい。殺されたにしろ、逃げたにしろ、この伝承から推測できるのは、長髄彦が東北に基盤を置く勢力から派遣された役人であったのではないかということだ。
古事記上ツ巻から、神武東征
古事記故、明將打其土雲之歌曰(歌謡略)如此歌而、拔刀一時打殺也。然後將撃登美毘古之時、歌曰(歌謡略)又撃兄師木、弟師木之時、御軍暫疲。
その他にも、平群真鳥、物部守屋、蘇我入鹿もある意味そうかもしれない。
平群氏も、真鳥が大伴氏によって弑されるのだが、その後も変わらず、依然として倭国の中枢の勢力という地位を維持し続け、東国(千葉)を本拠地に、物部守屋討伐軍としても、天武朝での国史の編纂者としても、存在感を示し続ける。
物部氏、蘇我氏も言わずもがな。物部氏においては、守屋は蘇我との政争に敗れて殺されるが、国家の威信を賭けた大戦である白村江においても主力部隊として参戦するなど、討伐によって衰退した形跡が見えないのである。
その理由はすべて、大化二年の記述が説明してくれている。
(8)大化二年三月辛巳
詔東國朝集使等曰。集侍群卿大夫及國造伴造並諸百姓等、咸可聽之。(中略)穗積臣咋所犯者、於百姓中毎戸求索、仍悔還物、而不盡與。其介富制臣闕名・巨勢臣紫檀、二人之過者、不正其上、云々。凡以下官人、咸有過也。其巨勢コ禰臣所犯者、於百姓中毎戸求索、仍悔還物、而不盡與、復取田部之馬。(中略)是、其紀臣・其介三輪君大口・河邊臣百依等過也。(中略)平群臣闕名所犯者、三國人所訴有而未問。
大化の改新の翌年、東国の氏族を召し、罪を問うている場面である。
ここに登場する八国の国史は
大化二年三月癸亥朔甲子 「故、前以良家大夫使治東方八道。」
の記事から続くものだが、過去のある時点に良家が大夫として東国に遣わされ、その時より今に至るまで東国を治めて来た勢力であると説明している。
面白いのは、ここに連ねられた人物だ。穗積、巨勢、三輪、平群の四氏は、定説では次のように云われている。
穗積氏=大和国山辺郡穂積邑および磯城郡田原本町保津、十市郡保津邑を本拠地とする氏族
巨勢氏=大和国高市郡巨勢郷(現在の奈良県御所市古瀬)を本拠とする氏族
三輪君(大神氏)=大和国磯城地方を本拠とする氏族
平群氏=大和国平群郡平群郷(生駒郡平群町)を本拠地とする氏族
このように、大和周辺が本拠地とされる氏族が、大化二年の記事では東国を治めていると書かれているのだ。たまたま大化の頃だけ東国に居たと云うのではないことは、「故、前以良家大夫使治東方八道。」の記事から明らかだ。
ただ、一見矛盾を抱えるように見える四氏の葦原中國における本拠地も、史書の記述を追ってみれば、あながち間違いではないことに気付くのだ。即ち、彼らは地盤となる本拠地を有しながら、中國にも同時に拠点を置いているのである。
以下の抜粋は日本書紀に現れる同氏族の記事を時系列に並べたものである。中國においても、本拠においてもその行動が共に現れている。
〇穗積氏 (内容/場所)
継体六年夏四月 : 任那國多利國守穗積臣押山 (任那)
欽明十六年秋七月 : 遣蘇我大臣稲目宿禰・穗積磐弓臣等、使于吉備五郡、置白猪屯倉。 (葦原中國)
推古八年春二月 : 新羅與任那相攻。天皇欲救任那。是歳、命境部臣爲大將軍。以穗積臣爲副將軍並闕名。 (本拠地)
孝コ大化五年三月 : 天皇、使大伴狛連・三國麻呂公・穗積噛臣於蘇我倉山田麻呂大臣所而問反之虚實。 (葦原中國)
天武元年六月 : 則以韋那公磐鍬・書直藥・忍坂直大摩侶遣于東國、以穗積臣百足・弟五百枝・物部首日向遣于倭京。 (本拠地)
天武十三年十一月 : 大三輪君・巨勢臣・平群臣・穗積臣、凡五十二氏賜姓曰朝臣。 (葦原中國)
〇巨勢氏 (内容/場所)
継体廿三年秋九月 : 巨勢男人大臣薨。 (葦原中國)
崇峻前紀
(用明二年秋七月) : 蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。(略)巨勢臣比良夫(略)倶率軍旅、進討大連。 (葦原中國)
崇峻四年冬十一月 : 差紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣、爲大將軍。 (本拠地)
皇極元年十二月 : 是日、小コ巨勢臣コ太、代大派皇子而誄。 (葦原中國)
皇極二年十一月 : 蘇我臣入鹿、遣小コ巨勢コ太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。 (葦原中國)
孝コ大化元年秋七月 : 於小紫巨勢コ陀古臣授大紫爲左大臣、於小紫大伴長コ連字馬飼授大紫爲右大臣。 (葦原中國)
孝コ白雉元年春正月 : 天皇即召皇太子共執而觀、皇太子退而再拜。使巨勢大臣奉賀曰「公卿百官人等奉賀。 (葦原中
齊明四年春正月 : 左大臣巨勢コ太臣薨。 (葦原中國)
天智二年春三月 : 遣前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍巨勢~前臣譯語(略)率二萬七千人打新羅。 (本拠地)
天武元年六月 : 山部王、爲蘇賀臣果安・巨勢臣比等見殺。 (本拠地)
天武十三年十一月 : 大三輪君・巨勢臣・平群臣・穗積臣、凡五十二氏賜姓曰朝臣。 (葦原中國)
〇平群氏(内容/場所)
雄略前紀(安康三年十一月) : 以平群臣眞鳥爲大臣。以大伴連室屋・物部連目爲大連。 (葦原中國)
"武烈前紀
(仁賢十一年八月) : 大臣平群眞鳥臣、專擅國政、欲王日本。 (葦原中國)
推古卅一年 : 即年、以大コ境部臣雄摩侶・小コ中臣連國爲大將軍。以(略)小コ平群臣宇志・小コ大伴連闕名。 (本拠地)
天武十年三月 : 天皇御于大極殿、以詔(略)大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。 (葦原中國)
天武十三年十一月 : 大三輪君・巨勢臣・平群臣・穗積臣、凡五十二氏賜姓曰朝臣。 (葦原中國)
〇大神氏(内容/場所)
雄略前紀(安康三年十一月) : 御馬皇子、以曾善三輪君身狹故、思欲遣慮而往。 (葦原中國)
敏達十四年夏六月 : 物部弓削守屋大連・大三輪逆君・中臣磐余連、倶謀滅佛法、欲燒寺塔、並棄佛像。 (葦原中國)
用明元年夏五月 : 穴穗部皇子、欲奸炊屋姫皇后、而自強入於殯宮。寵臣三輪君逆、乃喚兵衞、重巣宮門、拒而勿入。 (葦原中國)
舒明八年三月 : 是時、三輪君小鷦鷯、苦其推鞫、判頸而死。 (葦原中國)
皇極二年十一月 : 三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經、從焉。 (本拠地)
孝コ大化元年秋七月 : 百濟王隨勅、悉示其堺。今重遣三輪君東人・馬飼造闕名。 (本拠地)
孝コ元年八月 : 即以來目臣闕名・三輪色夫君・額田部連甥、爲法頭。 (葦原中國)
孝コ白雉元年春正月 : 使三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。 (本拠地)
天智二年春三月 : 遣前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍三輪君根麻呂(略)率二萬七千人打新羅。 (本拠地)
天武元年六月 : 爰國司守三宅連石床・介三輪君子首、及湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家等、參遇于鈴鹿郡。 (本拠地)
天武五年八月 : 是月、大三輪眞上田子人君、卒。天皇、聞之大哀。 (葦原中國)
天武十三年五月 : 三輪引田君難波麻呂爲大使・桑原連人足爲小使、遣高麗。 (葦原中國)
もちろん大化二年の記事を挟んだ前後の時代においても、この四氏が、中國と本拠地、どちらにもしっかりと根を下ろしている姿が見えている。
■大使館が集う地、葦原中國国家の中心地
葦原中國にも地方にも同時に領地を持つという構造は何を意味するのか。
何かと引き合いに出すが、神代の国譲りにはいろいろヒントが隠されている。物語の中に腑に落ちない点がふたつあるが、それが鍵である。
たとえば、国譲りであるが、高皇産霊が迫ったのは、葦原中國への人員派遣である。国譲りと題され、「葦原中國は天孫の治めるところ」とは言っているが、実際に国を渡せと迫った経緯はない。
もう一点、当時、最高位(倭王)の座に居たのは「大穴牟遅神」であることは間違いない。倭王であったからこそ、高皇産霊は中央政府の官僚人事を迫ったのである。
しかし、その大穴牟遅神はどこに居たのか。葦原中國には居なかったのではないか。彼がいた場所は出雲ではなかったか。
これらのふたつの光景から倭国独自の統治スタイルが見えてくる。
次の図はそのイメージを示したものである。各勢力が実際に本拠としていた地域がどこかは特定できないが、資料から読み取れる姿を図にしてみた。

この図で伝えたいことは、有力氏族はそれぞれに本拠とする領域を持ち、「王」はそこに居座る形で自国を統べ、その上で、倭国の運営機関である葦原中國という中央政府に家臣を送り、国の政を執らせているという構造である。
天孫降臨にしろ、この国譲りにしろ、その形にすっぽり収まってしまう。
おそらく、地域ごとに小国が並立していた古き時代から、後の完全な中央集権に向かう過渡期の体制だったのかもしれない。そして、各地の小国をまとめ上げる政治力を有し、経済・軍事に秀でた強国の王が倭王の地位に就き、政府のトップ官僚である「食国政申大夫」に自国の人材を任命して、倭国の政治を行わせていたのだろう。
その姿を反映しているのが、阿菩大神が三山を諫めるという場面であり、吉備臣の援軍であり、どちらの事件も葦原中國が共有の地であるからこそ、本国にいる部隊が、中國の代表者間で発生した政変のために駆け付けた形になっているのである。仮に葦原中國が特定勢力の本拠地であるとすれば、諫めるとか援軍とか、そういう行動は起こせないはずだ。
そのような軍事行動が可能であったのは即ち、中國なる場所は特定氏族(勢力)が本拠を置くような地ではなく、政治の中枢地として、各勢力が政治に参加するための高官を出し、彼らが住む「大使館(官邸)」が集う場所であったからであろう。そして、中央政府にいかに多く人材を送り込み、そこでいかに高い地位に就かせるか、それが、各勢力がしのぎを削る動機であったと云える。
神代のストーリーの中核をなす天孫降臨という説話は見事に当時の政情を映している。
葦原中國への降臨を執拗に推し進めたこと。まさに高皇産霊はその目的で葦原中國への人材投入を画策し続けたのである。それが記紀や旧事記が伝える一連の天孫降臨説話となって伝えられたのだ。
この中央政府という体制が理解できると、大化二年三月の記事が現実を非常にリアルに伝えていたことが実感できるだろう。そして同時に、これまでの定説が如何に構造的に可笑しいものであったかもわかるのだ。
そもそも、穗積、巨勢、三輪、平群の四氏とは、倭国の主力をなす巨大な軍事力を持ち、後の世に「朝臣」を賜るほどの大豪族であったわけだ。それほどの力を有する勢力が、奈良盆地内のほんの僅かな領域にしか本拠を持たなかったなどと、なぜ考えたのだろうか。
この四氏だけではない、日本海ルートの海神である和珥氏も定説は奈良盆地北部を本拠だとし、白村江の後将軍、倭国海軍の雄である阿倍氏ですらも大和国十市郡阿倍だとしている。もしそうであるなら、彼らはただの村長さんである。村長さんが国家の主力軍を保有できるわけがない。
阿部、吉備、穗積、巨勢、三輪、平群、これらの氏族がわが国を支えたということは正史が示す事実である。どうしてそれが可能だったのか、それは本拠地が定説に云うような奈良盆地の猫の額ほどの土地ではなく、別の地に大きな領地(財源を徴収できる土地)を所有していたからに他ならない。それ故の軍事力であったのだ。
【補足】
「葦原中國」という名称は正確には首都を意味するものではない。
日本書紀に「豊葦原中國」「吉備中國」という地名も登場することから、各地に中國があった可能性もあるのだ。
だとすると、「中國」とはたとえば各勢力の庁舎、つまり現在の県庁所在地的な意味を持つのだとも思えるが、雄略七年〜八年の記事には「新羅不事中國」「而大懼中國之心、脩好於高麗」という記述もあり、やはり、「政府機関」を指すとするほうが正しいのかもしれない。
史書に現れる中國が「豊」「吉備」「倭」以外にないことも併せて考えると、「豊」は外交施設、対外戦略拠点に適した地に置かれた政府機関、「吉備」は瀬戸内の海運の掌握機関、というように、倭国が機能に特化した機関として首都以外に置いた地方官庁であった可能性も十分考えられるのである。
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