■なぜ、神武が初代天皇であるのか地方国家のトップから国家の家臣へ
当サイトで説示してきた神武東征の実態は、神武は幾度となく発生していた倭国政権抗争のひとつに参加した一武将でしかなかったというものであった。肩入れした勢力が勝利したことで、神武も中央政府内で磐余地方の「官」としての地位を得る。そこから始まる彼の子孫の栄達史が記紀にあたる。

神武は、長髄彦討伐に参加することで倭国の中枢に組み込まれ、出世を遂げた。即ち、天皇家の歴史とは、神武が倭国の政治に参加する日から始まったのである。東征とは天皇家にとっては、自家の系図すら惜しげもなく捨ててしまうくらいインパクトに満ちた節目であったということなのだろう。
しかし、神武が初代である理由が「出世」であったとしても、出身地の日向や邇邇芸命などの先代を消し去ったことまでをも「出世」を理由とすることには無理がある。仮に天孫という血筋が倭国中央での役職就任に比べ価値が低かったのだとしても、捨て去る口実にはならないだろう。日向時代を捨てたことにはまた別の要因が隠されている。恐らくそれは古代と云う時代の血筋に対する我々の認識の甘さが起因しているのではないだろうか。つまり、これまで当たり前に信じられてきた、邇邇芸命、また以降に続く鵜葺草葺不合尊たちが神武(天皇家)の祖(血筋)であるという常識。それが疑わしいということだ。

邇邇芸命が高皇産霊の計らいで天孫降臨したことは事実であろう。そして、地方と云えども「天孫」として降臨した価値は決して軽くはないはずである。日向での邇邇芸命の地位が、倭国政府内でどれほどの位置にあったかはわからないが、それでも「天孫」という血筋は天皇家にとってはとてつもなく重いものであったはずだ。それは彼らが「天皇」と名乗ったことからも想像できるだろう。
それほど「天」に拘った天皇家が惜しげもなく何故「天孫」である祖と系図を捨てたのか。その理由は、天皇家と邇邇芸命たちが血のつながった一家系であるという考えからはまったく見えてこないのである。

ひとつ理に適う答えがあるとすれば、邇邇芸命たちは、天皇家が「天孫」の肩書を得るためだけの方便だったのではないか、ということであろう。
古代という社会では「子」と云うのは「実子」だとは限らない。特に神代に於いては、むしろ「後の後継者」または「部下」と云う意味に近い。たとえばよく目にする「成る」とか「産む・産まれる」という表現は曲者である。現実には「現れる」「台頭する」また、「姻族になる」など、政治的な関係構築と直結した言葉である。
典型的な例を紹介すると、素盞嗚神の子として大國主大神が産まれたとあるが、その大國主は八十~との戦いでは、素盞嗚の娘婿として登場する。また、それが「産む」であり、古代では産むという言葉で成立する「親子関係」は、実の親子ではなく、むしろ親分子分という関係に近いと解釈すべき場面もあるのだ。

神武たちも、鵜葺草葺不合尊の家臣団、或いは勢力下の地方氏族の一部であったのだろうが、決して血族ではなかったのだ。故に、日向という地も邇邇芸命という本来であれば誇っていいはずの始祖もあっさりと捨てたのである。いや、捨てたのではない。始祖でもない人物を系図にいれなかっただけのことなのだ。
神武たちは天孫たちの下支えをしていた集団から抜け出し、筑紫や宇佐、吉備など倭国の主要な地域での役人を経て、中央への進出を期して過ごしていたある時、 東征と云う勝利すれば出世が保証される戦いに参加する好機を得、積年の夢を実現したのだ。そこにおいては、邇邇芸命たち先代は何の関わりも持たない存在ではあったはずだ。ただ、中央に進出した神武にとって出自を語る場面では、多くの氏族がその出自を地位の高い人物に求めたのと同様、神武もまた、日向を支配していた邇邇芸命(天孫)の家系からの出であると仮託したのだろう。
もちろん、それは「嘘」ではない。そして当時としては一般的な行動だったはずである。

以上のことは一見個人的な解釈のように聞こえるかもしれないが、決して筆者が想像で語っているのではない。「記紀」がそう語っているのである。
一度、じっくり神代の記事に目を通してみればそれははっきりとわかる。邇邇芸命、鵜葺草葺不合尊から神武までの血筋を、記紀自身ですら直系ではないと否定の立場を貫いており、当該記事の内容は、神武に至るまでの日向の政治体制を淡々を述べているにすぎないのである。

海幸彦・山幸彦の物語で知られる火照命(海幸)の誕生に際し、古事記は邇邇芸命に「是非我子。必國~之子。(これ我が子に非ず。国つ神の子なり)」というセリフを吐かせ、それを恨んだ木花之佐久夜毘賣と邇邇芸命の関係はその時点で終わりとなり、神武系図へ続く火遠理命(日子穗穗手見=山幸彦)はその後に生まれる、つまり邇邇芸命の子ではないという設定なのである。
書紀は少し違う内容を伝えているが、邇邇芸命の血筋を疑う立場は同じで、「一夜有身。遂生四子(一夜にして四人の子を次々と孕む)」とし、火照命も火理命もまるで吾田鹿葦津姫(=木花之佐久夜毘賣)の連れ子であったかのように思わせる記述になっている。
つまりは、神武までの一連の系図として考えられている記紀の説話は、そのまま内容を素直に解釈すると、邇邇芸命から神武までをただの一言も一系だとは云ってないことがわかる。むしろ神武は、天孫の家系ではなく、海神から繋がる家系であると伝えているのだ。ここでも思い込みによる「誤解釈」が発生していたのである。

考えなくてはならないのは、そもそも記紀の目的は何なのか。何を云わんとしているのか。である。
それは云うまでもなく、あくまで神武を初代として表現することであるのだ。そして、天孫という肩書にあやかるために、系図の一員としてではなく、「天孫との親密な関わりの証」として邇邇芸命たちを登場させているだけで、そこに一系を捏造しようという意図は一切感じられないのである。
邇邇芸命も日子穗穗手見命も鵜葺草葺不合尊も血筋でないならば、彼らを始祖(初代)とする義理などどこにも存在しない。それが「神武が初代」であることの真の意味であると云える。



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