神代という世界は、天皇家以前の歴史を研究する上で非常に重要な資料であると私は思っている。
しかしながら、神代は多くの研究者から創作話だと考えられており、歴史研究の対象として真剣に取り扱われることがないという不遇な環境に置かれている。それは”神代の登場人物が「○○神」とされているから”という単純な理由からであろう。「神様=創作」だと短絡的に考えているのだ。
歴史は神武より始まる、という考えが生み出されたのも、日本書紀にしろ、古事記にしろ、神武の前に「神代」という、誰もが作り話だと解釈している「神話風の記録」が置かれていることが原因になっていることは確かである。それにより”「歴史」として記録され始めたのは神武からであり、それ以前の社会状況は民間などに言い伝えとして残された「神話」や「伝承」しか存在しなかった”そういう思い込みが生まれて来たのではないか。そして、さらにそこから”神武以前、また神武以外の世界は「記録された歴史」を持たず、列島には未開で無秩序な社会が広がっていた。よって、神武が我が国の最初の建国者である”というような、学術的な根拠を伴わない、思い込みだけの固定観念が生まれてしまったのだろう。
本サイトでは、神武を地位的に下位者だと位置づけた。何故なら神武の前には消し去り難い上位者が存在していたからである。その考えを証明するにおいて、ただひとつ障害があるとすれば、神武の「上位に立つ存在」が、今言ったように「神」と呼ばれる神代の登場人物である、という点であろう。
研究者は神代を「神話」と思い込んでいる。故に、神代の登場人物に対する意見はだいたい見当がつく。「神」は創作されたものであるため、歴史を考証するための素材とならない。そんなところだろうか。これぞ、神武を建国者とした思想の根源でもある。
しかし、そういう批判の仕方は、いずれにせよ間違っている。「神」が冠されているから「創作物」だと云うのであれば、「天皇」にしても「尊・命」にしても、あらゆる尊称が「創作嫌疑」の理由に成り得るのではないか。「神∴創作」は学問的な批判理由とは云えないのだ。
我々が研究者として採るべき態度は、安易に探究を放棄する後退的な解釈ではなく、一歩踏み込み、「神とは何か」、「なぜ、神があらゆる場面で登場させられているのか」という本質を探る姿勢でなければならない。「神」は神代のみに登場するのではない。人代にも平然と顔を出すのである。それをどう解釈するかについても、「神=創作」という考え方からではわずかひとつの試案さえも生まれてこない。 なぜ、史書という公文書の中で「神」は悠然とその地位を保って存在するか。そこを考えてこそ、歴史は正しい姿を現すのだと云える。
■記紀における「神」の扱い国家の閣僚クラス
神が架空と解釈されることに一役買っている元凶のひとつには、歴史の節目でよく見掛ける「神託」が挙げられるのではないだろうか。たとえば、道鏡の天皇位を示唆した宇佐神託などは、実在でない「神」という畏敬の存在に語らせることで、否定できない状況を作り上げ、反対意見を寄せ付けない手段として利用されている。
記紀においても神託という行為は見られる。中でも「神功皇后」の朝鮮半島侵略のくだりでは神託が絶対的な威力を有するものとして大きく扱われている。
確かに神託は後の政略では「手段」として利用され、その時点においては、神は創り出された手段のひとつである場合がほとんどだと思われるのだが、神が登場するのは「神託」の場面だけではない。それらは、天皇たちの姻族として、また彼らの行動を阻む実在の人物としても記紀は記しているのだ。
以下は神武以後の系譜記事である。
(紀)神武元年秋八月
天皇當立正妃。改廣求華胄。時有人奏之曰、事代主~、共三嶋溝杭耳~之女玉櫛媛所生兒、號曰媛踏鞴五十鈴媛命。
(紀)安寧紀
磯城津彦玉手看天皇、~渟名川耳天皇太子也。母曰五十鈴依媛命。事代主~之少女也。
(紀)懿コ紀
大日本彦耜友天皇、磯城津彦玉手看天皇第二子也。母曰渟名底仲媛命。事代主~孫、鴨王女也。
媛踏鞴五十鈴媛の系図をまず見てみよう。

ここで事代主は、媛踏鞴五十鈴媛の父親とされ、神武の義理の父として登場する。神を架空とすれば、これをどう解釈するのだろうか。
では、百歩譲って仮に事代主を架空だとしよう。であれば、必然的に媛踏鞴五十鈴媛も生まれて来ず、同じく架空となる。つまり、続く関係はすべて崩壊するのだ。ではなくて、媛踏鞴五十鈴媛を実在としてみよう。ならば必ず彼女には父親が居る。その父親は誰なのだ。
こういうことである。
認めようと認めまいと、媛踏鞴五十鈴媛には父が存在する。それを「事代主」であると史書のすべてが書いているのだ。にもかかわらず、「神」と尊称を与えられているというだけで、架空だと決めつけられてしまう。一体、どのような根拠を盾に、媛踏鞴五十鈴媛の父の存在までをも否定するつもりなのだろうか。
次の二例も同様である。
(紀)崇~六年
先是、天照大~・倭大國魂二~、並祭於天皇大殿之内。然畏其~勢、共住不安。故以天照大~
託豐鍬入姫命、祭於倭笠縫邑。
(記)雄略紀
天皇於是惶畏而白、恐我大~、有宇都志意美者、自宇下五字以音。不覺白而、大御刀及弓矢始而、脱百官人等所服衣服以拜獻。爾其一言主大~、手打受其捧物。
崇~六年の引用は、崇神の時世において一大イベントとも云える重要な記事である。天照大~を祀るか、倭大國魂を祀るかで大問題になっているのである。崇神としては天照大~を祀りたかったのである。しかし様々な障害が発生し、困り果てた結果、天照大~を別の地に移さざるを得なくなったという話である。
崇神は何を恐れているのか。もし「天照大~」「倭大國魂」が架空ならば何も恐れる必要などないのではないか。精神的な意味や祭祀上の神の選択だったとしても、どちらかを一方を選んだからと云って直接的に具体的な形で現実の場面に対して架空の神が何か問題を起こすことなどあるわけがない。にもかかわらず、この記事は、歴史上の出来事として、ひとつの史実として、「崇神には畏れる対象がいた」ことを伝え残した説話なのである。
天照大~・倭大國魂の二神を架空としたところで、この説話が抱える問題の解決にはなりはしない。つまり、この二神のどちらかを祀るように迫った外圧というもの、崇神を畏れさせたその「誰か」は消えてくれないのである。
神への畏れの問題は、もっと時代が進んだ、史家の間では完全な「歴史」として位置付けられている古墳時代に生きた雄略の説話にも同じように表われている(記・雄略紀)。
雄略は葛城山にぞろぞろ従者を引き連れて、恐らく彼の性格から想像すると不遜で驕った態度で山行を続けていたのであろう。しかし山で出会った一言主神を見て平身低頭、卑屈なほど遜り、従者がいるにもかかわらず、豹変した姿を恥ずかしげもなく晒すのである。雄略は架空の人物を畏れたのか。またそんな話を「史書」にわざわざ載せたと云うのだろうか。
雄略の段も崇神の場面と同じことが云えるのである。一言主神を架空に仕立ててみたところで、彼が強烈に「誰か」を畏れ、挙げ句、部下全員の衣服や持ち物をすべて献上したという恥辱に満ちた史実は消えないということだ。
それこそが、先ほど「神」が付けられているだけで否定することは間違いであるといったことの意味である。否定すれば解決するという安易な考えは停滞しか生み出さない。そうではなく、考えるべきは「神」とは何か、そこに踏み込むことが学問として正当な態度ではないだろうか。
■上位者としての「神」国家の上位者
では、「神とはいったい何か」である。
事代主神や一言主神といった人物が、その呼び名の通りに実在していたのかを証明する手段はない。しかし、肝心なことは、なぜそれらの存在を「神」として表現しなければならなかったのか、ということだ。
雄略たちが一言主神に遭遇した場面で、古事記が伝えようとしていることは、少なくとも「神」という言葉を隠れ蓑にして記述しなければならない「誰か」がいたという事実である。そして、実在でありながら「なぜ神とされなければならなかったのか」を解く鍵となるのは「記紀の資料性格」であり、天皇家の「立場」であろう。
つまり、記紀は天皇家を、その史書の中においては最上位者とする体裁を保たねばならなかった。故にかれらは押しなべて「天皇」であるのだ。しかし、現実はそうではない。畏れる相手が彼らに睨みを利かせていた。その状況を歴史として記録する時、どう表現すればいいか。歴史は簡単には歪めることはできない。その葛藤から捻出されたのが、「神」という万民にとっての「畏敬の対象」とされる存在だったのだろう。
もちろん、今ここに書いた「神という表現」を生み出した動機や経緯は「推察」でしかない。事実は全く違っていて、現在の世にも「おかみ(政府・行政)」という言葉が残っているように、元々倭国の上位者を「神」と呼んでいたのかもしれない。だとすると、この推察はとんでもない濡れ衣なのかもしれないが、ただ、どんな理由を用意しようとも結論は「神は上位者」という関係性にしかたどり着かない、それだけは変わらないのだ。
神(上位者)との関係性は、崇神と雄略の記事から、実に生々しく滲み出ている。特に雄略の場合がそうだろう。なぜ、彼はこのような大いなる「恥」を史書に残されることになったのか。雄略は、どちらかというと一貫して怖いもの知らずで、傍若無人の悪逆な人物として描かれている。その人物が、男として、また権威者として最も恥ずかしい行為を公衆の面前で晒すことになり、それが天皇家の史書に堂々と記録されているのである。それは何故か。
雄略が恥を承知で平伏さなければならなかった相手を考えた場合、それは「上位者」以外にないだろう。
神が上位者であると考えると、その他、神が関わる場面も一気に現実味を帯び始める。
(紀)應~四十一年春二月
是月、阿知使主等、自呉至筑紫。時胸形大~、有乞工女等。故以兄媛奉於胸形大~。是則今在筑紫國、御使君之祖也。既而率其三婦女、以至津國、及于武庫、而天皇崩之。不及。即獻于大鷦鷯尊。是女人等之後、今呉衣縫・蚊屋衣縫是也。
(紀)雄略九年三月
天皇欲親伐新羅。~戒天皇曰、無往也。天皇由是、不果行。
一つ目の記事では、胸形大~が、大鷦鷯(仁徳)が乞うた女人を横取りした話である。二つ目は、自ら新羅に出陣しようとした雄略を胸形大~が諫めて、出陣を取りやめさせた話しを伝えている。
ここで仁徳や雄略に命令し、従わせている「胸形大~」は表面上「神」という体裁をとっているが、明らかに両天皇よりも上位者であることがわかるだろう。このくだりも同様、「胸形大~」が神とされていることを理由に、その記事、またはその歴史までを架空とすることは出来ない。架空としたところで、仁徳が女工を誰かに掠め取られたことや、雄略が諫められ渋々出陣を取りやめたという事実は消し去ることは出来ず、両天皇が宗像地方の勢力の下位に甘んじていたという主従関係は依然維持され続けるのである。
しかも、このシーンは、~功皇后が北九州から応神を引き連れて河内地方に乗り込んだ経緯と見事なくらい重なる。応神の最終名称には「別」が付けられている。「別」とは派遣された役人を指す。応神が、自分の名に「別」という地位を誇らしげに冠しているのは、それが最終、応神が辿り着いた地位であったことを物語る。彼が自勢力内でどのような地位にあったかは特定できないが、倭国においては「別」と呼ばれる役人でしかなかったことを名称が示しているのだ。地方の役人であるわけだから、当然その地位に勝る上位者がいることになる。上位に居て、彼を河内に封國したのは誰か、その後ろ盾は、このシーンから胸形大~であることが容易に推察できるのである。
神が実在したことをもっと例で示そう。
これまでに紹介したシーンは、裏で糸を引く人物としての出現であったが、人代の中には、平然と具体的な現実の「人物」として登場する神も多い。
景行十二年九月 爰有女人。曰~夏磯媛。其徒衆甚多。一國之魁帥也。
景行十八年六月 天皇曰、是國有人乎。時有二~。曰阿蘇都彦・阿蘇都媛。
景行十八年秋七月 時水沼縣主猿大海奏言、有女~。名曰八女津媛。
景行廿八年春二月 唯吉備穴濟~、及難波柏濟~、皆有害心、以放毒氣、令苦路人。
景行四十年 秋七月癸未朔戊戌、天皇詔群卿曰、今東國不安、暴~多起。
仲哀八年春正月 是浦口有男女二~。男~曰大倉主。女~曰菟夫羅媛。
このように、まったく普通の登場人物でさえ、神とされている。さすがに、この記述までも架空とは出来ないだろう。ここに挙げた記事は、特に歴史の節目となる事件でもないのだ。架空の神の仕業として正当化しなければならない重要な場面でもない。日常的な世相の断片と云える話をわざわざ創作して、史書の中に挟み込む必要も感じられない場面なのである。しかるに、この記事の人物は「神」とされている。やはり彼らも天皇家にとっては上位者と考えなければならない。
さらにまた、「神」を追っていくと、興味深い現象に気付く。
神武東征の始めから、あらゆる場面に登場して来た「神」とされる人物が徐々にその機会を減らし、継体天皇あたりからは登場しなくなるという現象である。特に、命令者として天皇に指示を与える場面などは、雄略九年三月の出陣を止めさせる記事以降完全に消えるのである。何故そうなるのか、理由を察するに、天皇家が命令を受ける地位ではなくなった、そのようにも考えられるのだ。そして、さらに時代を経て、孝徳天皇に及んでは、大化元年、自らを「明~御宇日本天皇」と名乗るのである。神でなかった天皇が、自身の名に「神」を冠し、そこで自らを神と名乗ったのである。
大化を境に日本書紀の記述は一変する。国家を運営する立場からの記事が現れるのである。大化二年の改新之詔などはその典型である。国家経営への関与がそこから始まったかのように、畿内の守護、情報機関の整備、地租制度の再構築などが次々と指示され、実施されていくのである。法整備も実に細かく定義されてゆく。聖徳太子の十七条憲法が子供だましに見える程である。それほど露骨過ぎるくらいに、自らを神と名乗った途端、状況が変わるのである。
天皇家に指示する神が消え、やがて天皇が神を名乗り始める。この変化は、低位の神武から始まった天皇家の辿ってきた歴史を反映しているとは思えないだろうか。
天皇家の和風諡号からも同じように、地位の推移が伺える。
神武の名を見ても、その構造は 「神倭」+「磐余」+「彦」である。名称システムの項で説明を行っているが、神武の名は「彼が属する国名」+「彼が与えられた赴任先」+「官職」である。
まず云えること。神武は倭国の王などではなく、「磐余」の人物でしかない、ということである。もし「神倭彦」と名乗っていたのであれば、倭王である可能性もあるが、倭ではなく磐余という小さな地域を与えられた「彦」でしかない。その神武と比較して、舒明となると「息長足日廣額」=「勢力+倭国称号+自国称号+固有名」である。当時の倭王は誰であったか。隋書にある「天足彦」である。この倭王と同じ「足」称号を持つのである。さらに、神を名乗った孝徳は「天萬豐日」=「勢力+?+称号」だ。倭王と同じ「天」姓を持ち、日本国に相応しい「日」の称号を飾っている。
名称と云うものは「履歴書」として働き、地位を端的に語るものだ。神武から長い歳月を経て、王位へ辿り着いた変遷が名称の中に刻まれていることは当然であろう。
もちろん、記紀は天皇家の人物を初代から「天皇」と呼んでいる。
歴代天皇のすべてが「天皇」と表記されていたり、彼らの指示する行為が「詔した」とあることなどで、天皇家が初代神武より「君主であった」という考えがこれまでの歴史研究の「教義」とされてきたが、「或る代までの天皇称号」や「詔」などの表現が粉飾であることは、人物の相対関係や記事の主体者など、状況と照らし合わせば判断できることである。
ただ、誤解しないでいただきたい。改めて云うが、粉飾は造作でも虚偽でもない。天皇家の史書であるわけだから、自らを「天皇」とすることは何ら間違った行為ではなく、彼らにとっては実に自然で正当な表現である。彼らの一族、また彼らの配下にとっては、天皇と呼ばれた人物たちは紛れもなく「主君」であったのだ。倭国の君主は「大王」と呼ばれた。日本(?)の主君(のち君主)は「天皇」と呼ばれた(後にそう呼んだ)。ただ、それだけのことである。
そして、天皇たちにとって、倭国の実力者、つまり、彼らの上位者は「○○神」であったのである。
一般に(特に日本書紀では)神武以前を「神代=神話」とするが、神は神代や人代という区切りなど関係なく、天皇家の歴史と併存して後の時代まで存在した一つの上位社会であったと考えてよい。もちろんその考えは、私だけがそう思っているのではない。日本書紀の編者やその当時の知識人たちにとっても「常識」と云える認識であった。
それは、平安時代の官人、斎部広成が編纂した書「古語拾遺」を読めば認めざるを得ない。
古語拾遺とは、忌部氏と中臣氏との間に編纂当時生じていた地位・扱いの格差に対して、斎部氏の正統性を主張するために編纂された嘆願書のような史書である。斎部氏は、自らの辿ったこれまでの家系の歴史や地位・役割がどのようであったか、事実として積み重ねて来た事績を「古語拾遺」という歴史資料で述べているのである。訴えかけたのは日本政府に対してである。云うまでもなく、fictional writingを提出したわけではない。家系の存亡を賭ける覚悟で編纂した内容なのである。当然のこと、それは公文書という位置づけであり、政府高官の誰もが事実として認識している共有の歴史を土台として、忌部氏が我が国の発展のためこれまでどれほどに貢献してきた氏族であったのかを訴えるものとして作られたものだ。その公の文書で、忌部氏が歴年の事績の舞台として置いたのが、記紀で云うところの「神代」から始まる歴史フィールドなのである。
天岩戸では神器を捧げ持ち、殿門を守衛し。天孫降臨では天津神籬を持ち、葦原中國に降りた後は殿内の護衛に当たり。神武東征時においては神宝を作り、正殿・大幣訖を造作するなど、世々、白鳳四年神官頭に就くまでの氏族の功績を謳っているのである。それは、国学ではフィクションとされる日本神話の物語が、当時の知識人たちの間では公然と「歴史」として認識されていたことを示しているわけだ。
さらに特徴的なのは、日本書紀は神武以前を「神代」として別編成にしているが、古語拾遺、また他の史書はそんな区切りの意識もなく、連続する歴史として扱っている点である。天岩戸も天孫降臨も東征も、忌部氏から見ると自らが関わった一連の家系記録であり、倭国と云う国家の中で繰り広げられてきた「歴史」だとして書かれているのである。つまり、忌部氏にとっては「神武東征」は歴史的節目ではなかったということだ。東征を誇らしい史実と感じているのは天皇家だけであり、倭国にとっても忌部氏や物部氏にとっても東征は過ぎ去った歴史の一場面でしかなかったのである。当然、そういう意味で「神の時代」と「人の時代」を分ける節目という感覚もない。東征以前も同じ「人」が作った歴史だと云うのがごく一般的な常識だったわけである。
この神の問題も結局は記紀の編集手法が史家にそのような誤解を生ませたのであろう。他の史書では連続する歴史であったものを、記紀が、神武を初代としてその歴史を別建てとした結果、神武以前の歴史が「神代」として置かれることとなったもので、その仕立てが災いして「神(神代)」は創りもの(創作神話)だと云う思想が生まれたのである。ただ、記紀の弁解をしておきたい。記紀は後代の研究者を騙ますつもりなど一切なかったであろう。記紀にしても人代にしかるべく神を神として登場させており、ことさら神代を「架空」と仕立てようなどとは意図していないのである。神を架空と考えたのはあくまで浅慮の国学者たちであるのだ。
このように、固定概念の外側に立って各史書を冷静に見ると「神」が決して架空の存在でないことが理解できるであろうし、また同時に、神を実在と考えることでいくつもの謎や矛盾が霧散することもわかるであろう。
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