■倭国の変遷と天皇家天皇家が置かれた国家体系

神武から始まる天皇家は「もと小国」から、やがて倭国の代表になってゆく。
天皇家を含む日本が倭国体制の中でどのような変遷の後、倭国のトップとなり、日本を建国したのか。このテーマに関しては、膨大な作業にあるため、当サイトでは指標を示す程度にならざるを得ないことをご了承願いたい。

さて、日本の変遷史をどのように表現するか。最も簡単でわかりやすいのは目に見える形にすることだと考え、表にしてみた。冗長な解説から始めるよりも、導入は視覚表現の方が全体を把握しやすくてよいであろう。
表の見方は以下になる。

「横軸」は、倭国の王朝変遷である。
七世紀までは倭国が列島の支配者であった。その倭国も一勢力によって統治されて来たのではなく、王朝の交代が何度か起こっている。中国と我が国の史書、内外の資料から史実として確かなものだけを横軸に当てはめている。史書から伺える以外の王朝が台頭した可能性もあるが、「倭国」を描いた史書が見つからない限り、それは霧の中の話である。

「縦軸」は「地位」「身分階層」である。上下関係が描ければ役割は果たせるため極端に単純化している。
四段階の最高位は当然「倭王」であり、次が倭国の高官である。その下に各勢力の武将が来る。各勢力の主君(王・君)は倭国高官と同位としてもよいが、表の構成上その下位に置いた。
当初、日本はまだそれほど高い地位にない。何故なら、倭王とされる卑弥呼も倭の五王もタリシヒコも、日本とは別の勢力であるからだ。さらに天皇家イコール日本でもない。天皇家が日本の構成員ではあったのは確かだ。しかし、神武東征時に日本のトップであったかとなるとノーであろう。低位の天皇家が、いつの時代、日本のトップとなり、やがて倭国の最高位となったか、その遷移を縦軸に視覚的に表わしている。
天皇の紀年が西暦のどこに当てはまるか、また倭国のどの王朝に属するか、その正確な判断は不可能である。よって、そこは歴史上の「出来事」をもとに判断している。
以上を座標設定として、この表に、具体的な人物を配置した。



この地位変遷表では、無論、神武は一介の武将から始まる。そして、天武天皇以降は(或いはその数代前から)、我が国の最高位となったことは間違いないと思われるので、倭王と置いている。
天皇家が最高位になるまで、いくつかの昇進を示す段階がある。表の中では、孝霊、景行、舒明の代に躍進を見せている。躍進もあるが、降格もあるように見える。雄略、清寧がそうだが、倭国高官と各勢力の主君(ここでは日本王)は同格だと云ったように、彼らの位が下がったのではなく、活躍する場所が違ったと考えてもらえればいい。
ではここから、この変遷表を作成する上で、各天皇を配した地位が如何なる判定理由によって決められたものかを、時代を追って順次、簡単に紹介して行こう。


●孝霊から開化国家への黎明

孝霊以後の地位は彼らの諡号によって定めたものだ。
最も人物の素性を伝えてくれるのが名称であることはこれまで何度か述べてきた。名称には官位が組み込まれているため、各天皇の身の程を計る材料とすれば非常に有効である。
また、官位と云うものは、たとえば上野國金井沢碑にある「刀自」のように、地域によって独自の官位が使用されている場合もあるため、どの地域・勢力で使われたものかの判定もできる。
さらに、かつて、官位として使われていた称号が、王位となる場合もある。魏志は邪馬台国の道程にある国々の長官名に関しても記録してくれている。そこで我々にも馴染みある官位として「ミミ」「ヒコ」が見える。卑弥呼の時代には「ヒコ」は長官名であったわけだ。それが隋書の時代には「タリシヒコ」と云う倭王の称号(官位)となっている。
つまり、王位は、王を輩出した勢力の最高位、或いは最高権力者の称号がそのまま継承されている可能性が高いと云える。
神代、大国が支配していた頃、それは「主」であり、五王時代には「大王」となり、次の「ヒコ」王朝が終わり、天皇家が支配することで「天皇」となった。遷移を追うことで、そのような法則も見えてくるのである。

七代孝霊から開化までの三名は「日本根子」という和風諡号を持つ。これが彼らの地位を決めるカギとなる。

大日本根子彦太瓊尊
大日本根子彦国牽尊
稚日本根子彦大日日尊

この諡号は、続日本紀に登場する後代の天皇にも使用されているものであるため、最新の称号が初期の人物に冠されるはずがないという理由で、欠史八代を創作だとする根拠としても挙げられているものだ。
しかし、この官位がどれほどの歴史を持ち、どの勢力が、どのように使用しているか、そういう審査を経たならば、その考えが間違いであることに気付くだろう。
国産みの条で神世七代の神について触れたが、「根子」という称号はその七代の神の一人、惶根尊からつながる官位である。思兼神、阿遲高日子根、劔根、天児屋根、これらの「根」という官位は、「日(ひ)」という官位が「日子・彦(ひこ)」となったように、やがて「根子」という形に変化して行く。それが初期天皇名にある「日本根子」の原型である。
神世七代の神に起源を持つということは「根」は恐らく倭国の建国以前からすでに一部の勢力によって使用されていた官位であったと云える。
孝霊たちの時代、この「根」をいかなる勢力が使用していたかを特定するのは困難である。天道根命を祖とする紀氏に関連があるとも云えるし、和邇、春日氏の祖とされる難波根子武振熊命なども同じ職位を持つ。
官位そのものは「氏族」或いは「勢力」固有のものであったかもしれないが、このような氏族を越えた広がりを持つと云う事実から、帰属関係で成り立つグループが存在し、そこで共通に使われていたものであったと考えてもいいだろう。

武振熊命は神功皇后軍として忍熊皇子を討伐するが、この戦いに関与していたのは紀氏の武内宿禰であることから、和邇と紀・葛城は同じグループであった可能性もあるだろうし、或いはまた、グループは違っても、他のグループから派遣された人物が結果として「根」の官位を戴いたとも考えられ、宿禰という官位が「根」と同じ起源であることからも、「根子」は海洋民族の一派が受け継いだものだと云えよう。

そこで思いつくのは海原を治めていたとされる素戔嗚である。
この神は高天原から独立し「根国」を本拠としていたのではなかっただろうか。また、彼は娘婿に大國主を持つ。大國主の同族には大物主がおり、その子が大田田根子(おおたたねこ)なのである。
そして今先ほど挙げた武振熊命だが、彼は和邇氏の「祖」とされるが、むしろその逆で、和邇氏は武振熊より遥かに古い氏族で、因幡の白兎に現れる「鮫(わに)」とはこの和邇氏がモデルなのである。つまり、当時、軍船を無数に連ね、出雲周辺海域を支配していた豪族だったわけだ。
紀氏と和邇氏、また出雲と素盞嗚、これらが同じグループだったとは言えないが、政略的な婚姻が行われていたという、氏族間の結びつきを示す痕跡が「根」という官位から浮かび上がってくるのである。

では「根」は、どのような変遷にあったのか。その点を探ろう。
倭国の歴史上、「根」勢力が倭王になった形跡はない。開闢において日本書紀及び多くの一書が「ち・つち」を第一に据え、以下、「主」「日」と続き、「根」は神世七代の中でもほぼ末尾に置かれている。つまり「根」は倭国連合の中では、新参勢力であったことになる。
「根」の中央進出を示す記録は、思兼神からであろう。ただし、八百万神の頂点に立ってはいるが、高皇産霊の子、つまり配下勢力という位置である。
次に中央に現れるのは劔根、天兒屋根となる。天兒屋根は天富命と共に神祇を司り、また司法を行使するほどの地位を誇った。ただ、この時点では、高い地位にあったとしても、まだ当時は宇摩志痲治命を上官に仰ぐ立場でしかなかった。
その後も「根」勢力は、政権勢力とはならないまでも、高い地位を維持し続ける。平群真鳥が王位を狙えたことも、蘇我氏が権勢を振るえたのも、王位ではない証拠であると同時に、王位に近い力を持ったグループであったことを証明している。

このような「根」陣営と関係を築いた孝霊たちは、その繋がりを踏み台に地位を固めて行ったのであろう。日本、さらにその中の「根」勢力にあって、彼らが低い地位でないことは、「日本根子」という名称が示している。つまり、「根」グループ内の高い地位には居たのではないかという可能性を「日本根子」の称号は語っているのだ。まさに「寧為鶏口、無為牛後」を実践している時代なのであろう。


●景行から反正国家への足がかり

前項に続き、景行以後も彼らの官位が決め手となっている。ここでは「別」「宿禰」がその基準となる。

大足彦忍代別尊(景行)
誉田別尊(応神)
大兄去来穂別尊(履中)
多遅比瑞歯別尊(反正)
雄朝津間稚子宿禰(允恭)

「別」が、倭国、また或る勢力から任命された官職であることは、播磨国風土記が解説していたことだ。また、允恭の「宿禰」も、記紀でなじみ深い臣下の職位である。
それらの官位を名称に持つと云う時点で、彼らが倭王にはまだまだ遠い地位であることはわかるのであるが、同じ「別」「宿禰」でもランクがあり、要は彼らの官位ランクが中央政府に近いか遠いかという話である。

景行はその名が示すように「足(たらし)」勢力から封国を受けた身分であることが分かる。「足」勢力という視点から見ると、次に続く、成務(稚足彦)、仲哀(足仲彦)、そして神功皇后(氣長足姫)とその子応神もその一派である。
天皇の紀年は未だ特定出来ていないが、景行から応神の時世は、宋書に伝わる倭の五王と近い時代であることは確かだと云われている。ということは、当時倭国はまだ「足」とは別系の他勢力が支配する時代であったことになる。
彼らが属する「足」勢力の台頭は「アメノタラシヒコ」の出現まで待たねばならないのである。

ただ、その中にあって、「足」勢力が倭国の一翼を担う力を十分付けていたことを示す記録が残されている。倭の五王は上表文で述べているように、当時、国内の安定した運営と、朝鮮半島への進出を政策の柱としていたようだが、その方針に沿って、景行は、息子「倭武」と共に国内にしばしば発生する賊の討伐に功績を残し、神功皇后は新羅への出兵で軍功を上げるなど、倭国の主流勢力として積極的に参政していたことが記紀の記録から伺えるのである。
足勢力が倭王への階段を登る切欠は、前項の「根」勢力との協力体制を確立したことであろう。
神功皇后は父に氣長氏、母に葛城高顙媛という恵まれた境遇に生まれる。皇后の名は「氣長」姓であり、父方を本拠としていたのであるが、側近に紀國の武内宿禰を迎えることで、日本海側(敦賀湾)の勢力が、紀伊・尾張の太平洋側(伊勢湾・大阪湾)に強力な権益をもつ氏族と結びつき、二つの海洋氏族が連合した、まさに一大勢力が誕生するのである、
新羅派兵を倭国に提案したのは、紀國側であろう。
古事記では住吉三神が指示し、武内宿禰に命じさせたことになっている。住吉三神は「○筒男」という名が示すように「男」を官位とする「根國」のグループで、列島西部の太平洋海域(難波~高知~筑紫)を抑えていたと思われる。
敦賀からグルッと関門海峡を抜け、日本海側と太平洋側がひとつの勢力になることは、倭国史上なかったのではないだろうか。その結果が、応神の河内封國であり、以後の「別」人材の輩出につながるのであり、大勢力となった海洋氏族が後ろ盾となった「別」は、国王、または倭国高官クラスの力を持っていたのではないだろうか。そういう判断により、表の位置を定めたと思っていただきたい。

では、允恭の「宿禰」はどうだろう。
記紀の登場人物を見ると「宿禰」は紀国系を中心とした「根」勢力の官位だとわかる。当麻蹴速との角力や古墳の人柱を廃止したことで有名な野見宿禰も、出身は出雲ではあるが、自国では「襲髄命」と名乗り、大和・尾張に赴任することで「宿禰」の官を戴くのである。その他の宿禰も同じ結果である。背景が分かる人物を勢力別に整理してみた。

「紀」勢力の人物=大間宿禰、大水口宿禰、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰、平群木菟宿禰、的戸田宿禰、羽田矢代宿禰
「尾張」勢力の人物=大海宿禰、田裳見宿禰、忍山宿禰
「貴國」勢力の人物=五十狹茅宿禰、斯摩宿禰、大磐宿禰、韓子宿禰、紀大磐宿禰、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・小鹿火宿禰
「葛城」勢力の人物=盾人宿禰、砥田宿禰、葦田宿禰、玉田宿禰、坂合部連贄宿禰、菟上足尼命

右記にある「貴國」とは、朝鮮半島の国からみた「紀國」のことである。
この一覧を見ても、すべてが「根」勢力、その中でも「紀國」出身者がほとんどを占めているのがわかる。
記紀の中でも重要人物に対して付与され、一見、大臣や大連のような王位に次ぐ地位のように見えているが、任命範囲から見ると、中央政府である倭国が与えた官位ではなく、「根」独自のものであったと判断できるのである。

しかしながら、天武朝では「八色の姓」において、「真人」「朝臣」に次ぐ位で登場する。
ここで重要なことは、真人・朝臣が新しく設けられた階位であるのに対し、宿禰は、神武東征以前から存在した長き歴史と伝統を持つ階位であるという、その一点にある。
つまり、真人・朝臣を除くと、既存の階位の中での第一位なのである。それはひいては、「八色の姓」制定以前であったなら、宿禰が倭国の最高位となれた、その資格を有した官位だったのでは、という可能性を想像させるのだ。その解釈が決して空想でないことは、平群真鳥が王位を伺ったという歴史事実からも裏付けられる。

だが、それを可能とするのは、「根」勢力が王位を輩出するにふさわしい国力に達していたかが必要条件となるが、まさに時代は紀國(葛城)が権勢を振っていた時代である。百済・加羅など朝鮮半島運営は、一部に上毛野の名は見えるが、そのほとんどが紀・葛城陣営の寡占状態なのである。百済側ももはや「倭国」でなく「貴國」が我が国の「雄」だと意識しているのだ。
武内宿禰との関わり以来、仁徳は磐之媛を娶り、履中、反正、允恭は葛城襲津彦を外祖父とし、雄略も葛城韓媛を妃とし、「日本根子」を名乗る清寧を産んでいる。真鳥の政変直前のことである。天皇家も「根」勢力の威を借りねば成り立たないほどの時世であったわけだ。

そのような状況にあって、宿禰の官位を持つ允恭はどうであったのか。
それを判定するポイントは、「根」勢力である葛城氏と天皇家の上下関係である。しかし、その判定はすでに決していたはずである。先の章「神」の条で紹介した、雄略が葛城一言主神に平伏す記事は明らかに葛城氏が上位であることを示していたのではなかったろうか。仁徳は磐之媛にまったく頭が上がらず、雄略の時点ですら天皇家は葛城氏の風下にあったのだ。
そのふがいない現実から察すると、允恭の宿禰は、その時点での天皇家では出世頭であったかもしれないが、「根」勢力の同地位においてはそれほど高い位置にいたとは考えられないのである。

結局、「根」勢力は、王位には近いものの、真鳥の野望が阻止されたことで、その時点での王位獲得は成らなかったことになる。
その後に関して、中国側の史書には、倭の五王(西暦五〇二年)からタリシヒコ(六〇〇年)までの、約一〇〇年の間の記録がないため、宿禰という倭王が立ったか否かは断じることは出来ないが、蘇我氏も恐らく王位を狙ったのであろう。そして叶わず阻止されたことを勘案すれば、宿禰が王位となった歴史は存在しなかったと考えるのが最も妥当であろう。
さらに勘ぐれば、「八色の姓」を設け、真人・朝臣を新たに制定したのは、宿禰を最高位とさせないための政策だったのではと、そんな可能性も考えてしまうのだ。


●崇神と雄略まだ遠い国家

一旦、崇神へと「代」は遡るが、ここからは、官位と云う直接的な判定材料ではなく、状況から伺える「上下関係」に焦点を当てたものとなる。
崇神と雄略に関しては、すでに「神」の条で扱った内容を多く含むため、手短に済ませよう。

これまでも述べてきたが、記紀の記述には天皇目線で「詔」「召」「遣」などの言葉遣いが使われている。だが、それが天皇家を「最高位」とする根拠にはならないことは自明のことだ。位を決定づけるのはあくまで否定しようのない絶対的な主従関係である。それは表現を変えようとも粉飾を施そうとも決して変わることのない序列なのだ。

まず、崇神であるが、大國魂と天照大神の二神の扱いで苦悩するくだりである。
「神」の条では、崇神に畏れる上位者がいた点を採り上げたが、この話にはそこだけにとどまらない重要な展開が描かれている。次の一節だ。

「天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。」

崇神の宮は「磯城瑞籬宮」だ。仮に彼が倭王であるとすれば、そこが「都」であり、機能として国会議事の施設を持ち、そこで国家の意思決定がなされるはずである。
しかし、崇神は瑞籬宮ではなく、山の辺の道を歩いて、浅茅が原へわざわざ自分から出向くのである。
「苦悩している」のは崇神だけではなく、多くの「王」たち、いわゆる、八十萬神たちも同じで、そこで皆と会合し、対策を検討するのだ。会合の相手は「神」の尊称を付与された、崇神より上位に位置づけられる者たちであるわけだ。
大國魂と天照大神の二神の問題は、崇神の管理分掌を超え、八十萬というある意味倭国政府全体を巻き込んだものであったことをこの一節は示している。
この会合の結果、大物主神の意思も働き、「大田々根子命」を迎え入れることとなる。それを推し進めたのは「倭迹速神淺茅原目妙姬」「大水口宿禰」「伊勢麻績君」の三名だ。
ここに描かれた人事決定は、現在の企業で云うところの「役員会議」を経て行われたのである。
書紀は人事選考の過程を以下のように伝えている。

崇神七年秋八月
倭迹速神淺茅原目妙姫・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢、而奏言、昨夜夢之、有一貴人、誨曰、以大田々根子命、爲祭大物主大神之主、亦以市磯長尾市、爲祭倭大國魂神主、必天下太平矣。天皇得夢辭、益歡於心。布告天下、求大田々根子、即於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。

倭迹速神淺茅原目妙姬・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君の三名が夢に見たとした「大田々根子」擁立の流れに合わせて、崇神も同じ夢を見たと同調している場面の描写である。
裏で根回した中心人物は、大水口宿禰であったことは言わずもがなである。もちろん、崇神も抱き込まれたひとりである。だから、「夢」を見たと口裏を合わせたのだ。
茅渟縣から招かれた大田々根子を、倭国側は「諸王卿及八十諸部」が悉く参堂して出迎え、赴任の式典を執り行う。大物主神が倭国のトップであったかどうかは判定できないが、この話の中での最上位は大物主神である。そして、その次が大田々根子であることは、この大げさな式典が証明している。 そこで、崇神は如何なる地位の人物であったかである。
ここまでの書紀の記録を見れば、崇神の位置決定材料としてはもう十分であろう。
崇神は、八十萬神より明らかに位は低い。彼の地位として考えられるのは、諸王卿か、或いは八十諸部のひとり。政府を動かす地位にはなかったが、人事に賛成票を入れた立場として神浅茅が原の式典に参列したというストーリーなのである。
よって、納まるべき位置は高く見積もっても「日本王」であるという結果になる。
表上の崇神に関して補足しておくが、時代として、「卑弥呼」と同じ時間軸に置いているものの、「天照大神」或いは「倭迹々日百襲姬」と卑弥呼を同一視するといった意図は一切ない。神代が人代と並行する倭国の歴史であることから考えると、その可能性もないわけではないが、それを示す証拠はどこにもないため、言及は避けておきたい。

次は雄略だが、彼の位置判定も同様に絶対的な主従関係が基準である。
一言主神と雄略の関係も「神」の条に既出である。ここでも一言主神が倭王かと云うと、わからないとしておこう。
しかし、上下関係は相対的なものであるため、わからなくてもいいのだ。仮に倭王でないとしても、国譲り以降も「主」グループは衰えた気配がない。人代においても「主」の官位を持つ人物として、事代主、大物主、丹波道主、三輪君祖大友主、中臣連祖探湯主、來熊田造祖大酒主、一事主などが記載されているが、「主」であるかぎりこの全員がほぼ同じ地位であることは当然で、その結果、倭王から見れば臣下、乃至は国主クラスであることになる。そして、そのクラスの人物である一言主神に平伏す雄略はさらにその下、乃至は遥か下といってよいわけだ。これが否定しようのない絶対的な主従関係というものである。

以上のような相対的な上下関係を見る限り、云うまでもなく、雄略が宋書で有名な「倭王武」であるはずもなく、また江田船山の鉄刀銘や稲荷山の鉄剣銘にある「ワカタケル」であるという定説も即座に立ち消えるのだ。
それもそのはず、そもそも雄略の「稚武」という名称は「官位」を示すものであって、雄略の固有名でも何でもない。その証拠に同名の人物は記紀内にも、孝靈の子「稚武彦命」、日本武尊の子「稚武王、稚武彦王」など複数記載されているように、珍しくもない一般的な武将の官位なのである。
しかも、矛盾として挙げられているように坐する宮名も、銘文は「斯鬼宮」、雄略は「泊瀬朝倉宮」と云うように違っている。この違いこそ決定的なポイントである。名称システムで述べたように、名というのは当人のプロフィールを示すものである。「大泊瀬幼武」という名は「大(所属勢力名)+泊瀬(赴任地)+幼武(副武将)」であることを示しているのである。仮に「斯鬼宮」が「磯城」という地名を示していたとしても、雄略の履歴との接点はないのである。

もし銘にある「ワカタケル」に相応しい人物を史書の中に無理やり求めるとすると、唯一可能性があるのが、日本武尊=倭建命であろう。
国号の章で示したように「倭」は「わ」である。倭国支配下にあって、彼は「倭建=ワ(ガ)タケル」であったことはその名からも明らかだ。
そして彼の事績として、関東から九州まで遠征した経歴もまさに合致している。豊後・肥前国風土記、常陸国風土記を見ても雄略が一か所でも登場しているだろうか。現実という舞台で各国にその名声を轟かせている英雄は「倭建」以外にはいないのではないか。狭い地域の中で、兄弟で醜い殺し合いを行う程度の雄略とは人物の器も地位も実績も、すべての格が違うのである。
もちろん、「倭建」が活躍した時代と江田船山・稲荷山両古墳の造営年代(推定五世紀後半)は離れすぎているかもしれないが、資格としては十分満たされている。時代という点で景行の子としての「倭建」は候補から外れるとしても、そこに当てはまる人物としては、あらゆる点で雄略は相応しくないことだけは明らかであろう。


●欽明から元正へ国家のトップへ

いよいよ天皇家が倭王となり、やがて日本国が誕生する時代になる。
列島では、雄略から数代を経て変革が起こる。王統の交替である。
交替と云っても一般に云われる武烈~継体期のことではない。倭国規模での大きな変様である。我々はそれを海外史書により知らされている。「日出處天子」で有名な隋書の「阿毎多利思北孤」である。

「倭王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雛彌」

倭(俀)王は「天(アマ)」という「姓」を持ち、号は「大君(オオキミ)」と名乗ったと記されている。倭の五王とは明らかに異なる王朝が立ったのである。
この王朝交替は、天皇家にとっても大きな好機となった。これまで、政権勢力と中々距離を詰め切れない存在であった彼らが、新体制と同期するかのようにその地位が倭王と重なり始める。
そのことは欽明の諡号「天国排開広庭」にも表れている。「天」姓が突如として皇統に現れるのである。
天皇家はむしろこれまで「大国」との関連を築く努力を払ってきた。大足彦忍代別(景行)、大鷦鷯(仁徳)、大兄去来穂別(履中)、大泊瀬幼武(雄略)などがそうである。神代の記述の中でも「天国」は大きく扱われ、邇邇芸命なども「天孫」と呼ばれていたにもかかわらず、天皇家嫡流に於いて「天」を冠したことは欽明の代まで一度たりともなかったのである。
もちろん、「天」を冠したことが直ちに天皇家を倭王に結び付けたわけではない。欽明の時代には「天」王朝は立っておらず、まだその黎明期なのである。しかしながら、彼の背景に「天国」があることは疑いのない事実であり、そこを起点として天皇家の地位は大きく動き始める。そして、数代の後、天皇家はついに倭王となるのである。

誰の代で王位を得たのかは、この段階ではまだ特定しないが、アメノタリシヒコが天皇家とは明らかに別流であることから、それ以降の時代のどこかで天皇が倭王となり、やがて日本という国名を名乗ったことは疑えないのだ。であるならば、必ず欽明以降の歴史のどこかにその痕跡が残されているはずである。そこを最後に辿って行きたい。

そのために最初に注目すべきは、欽明に続く数代の天皇諡号、及び追贈諡号だと云える。
名称とは履歴書だと説いたが、突如「天」が名称に現れたということは、必ずそうさせた原因があったと考える他ない。「天」姓が、天皇家が属した国に関係していることは容易に推察できる。その属する国と関連する「姓」に変化が起きたことは何を意味するかである。
ひとつ仮説を立てるとすれば、単純な話、それが王朝交替の節目ではないのか、というものだ。

天皇は(当然のことではあるが)即位以前、また別の名を持っている。推古は「額田部皇女」、天智は「葛城皇子」、というように、その人物が所属する組織や居住する地など、つまりは、その人物を特定するため固有要素で成る名称で呼ばれている。そして即位した後は、改めて国家が定めた名称システムに沿って新たに天皇としての名称が宛がわれる。それが諡号である。
もちろん、諡号も即位前の名称同様に、国名など人物特定の要素が反映された形で構成されることになる。ここで諡号に焦点を当てたのは、天皇家がどのような勢力と姻族関係を築いてきたのか。如何なる氏族の下支えがあったのか、それがどのような変遷を辿ったか、と云う天皇家を取り巻く、或いは天皇家が取り込んだ勢力やグループを、名称から探ろうという意図からである。
そして、もし先の仮説が正しいのであれば、王朝交替は諡号の名称に表れた背景勢力によってもたらされたのではないかという可能性も見えてくるからである。
左記に、各天皇の姻族関係(たとえば外祖父など)と、今云った名称のシステムのルールから導き出してみた背景氏族等の関係表を作成してみた。


諡号 追贈 国名 派閥 背景勢力
欽明 天国排開広庭 奥津(和珥)
敏達 渟中倉太珠敷 奥津(和珥)
用明 橘豊日 紀伊(蘇我)
崇峻 泊瀬部皇子 紀伊(蘇我)
推古 豊御食炊屋姫 紀伊(蘇我)
舒明 息長足日廣額 奥津(息長)
皇極 天豐財重日足姫 吉備
孝徳 天萬豐日 吉備
天智 天命開別 近江大津宮
御宇大倭根子
紀伊(葛城)
天武 天渟中原瀛眞人 紀伊(尾張)
持統 高天原廣野日女 藤原宮御宇
倭根子
紀伊(蘇我)
文武 倭根子豊祖父 日本 紀伊(蘇我)
元明 日本根子天津
御代豊國成姫
日本 紀伊(蘇我)
元正 日本根子
瑞淨足姫
日本 紀伊(蘇我)



この表で、チェックすべきポイントがある。

①「天」に取って代わる「根子」称号の発生
天智は後代になって追贈されたものであるため対象から外すが、天皇の諡号から「天」の国名が消えた途端に、「根子」という称号が贈られるようになること
②天智~天武朝に発生した背景氏族と派閥の不整合
天皇家が婚姻などで姻族関係を築く場合、相手氏族と諡号からわかる所属グループとの関係は同調しているのが普通である。例えば欽明、舒明は諡号が「天」系で、背景も近江の天系氏族であり、「根」系の用明・推古は背景が紀伊となる。しかし天智・天武朝では「天」を冠しているにもかかわらず「根」となり、背景と姓が同調しない状態が発生していること
③大倭・倭根子が元明以降、日本根子とされたこと
「根子」称号は日本書紀にはなく、続日本紀が新たに記したものだが、書紀が国号を三種使っていたのと同じく、続日本紀も「根子」に冠される国名を「大倭」「倭」「日本」の三種で表している。何らかの成因が存在し、それに従って書き分けが行われているように見えること

以上のポイントが果たして王朝交替の痕跡と云えるのか、である。
仮説通り、諡号の変化が節目であるならば、「倭王」となったことを示す兆候が当該天皇の代に顕われていなければならない。
ただ、天皇家が「倭王」になるプロセスには、もうひとつ留意すべきことがある。前章の最後に述べたように、日本は倭国の一部であり、天皇家はその日本の一部であった。それを前提とするならば、倭王になるためには、まず日本の王でなければならないという条件が加わるのだ。
つまり、日本が宗主国となるタイミングと天皇家が日本のトップとなるタイミング、どちらが先であるかは別として、そのどちらもの表徴が存在するということになる。

その表徴は本当に刻まれているのか。史書を辿ってみよう。
とは云え、欽明から探り始めるのは無駄である。天皇家の一体誰からが「倭王」となる可能性があるのかを考えれば、推古までは省かなければならない。なぜなら、推古期には「阿毎多利思北孤」という誰もが認める天皇家以外の倭王が君臨していたわけだ。だとすると、推古はあり得ない。
また、天武の代、天皇家がすでに我が国の君主であったことも間違いないだろう。だとすると必然的に舒明から天武の間が対象となる。
舒明以降において、天皇家に変化が起こるのはどこかを探ってみよう。変化と云うのは、王位を戴く節目のことだ。必ず何かが変わり始める。
しかし難しいと思えるその作業も、取り掛かるや否やいとも容易くそれらしき記述に行き当たる。書紀にはそれを直接的に語る場面がものの見事に記述されている。大化元年の記事だ。
「神」の条でも、乙巳の変以降に起こる書紀記載内容の激変について触れたが、次の一節は政権交代が行われたことを天皇が自ら供述しているでは、と思わせるものである。大化元年八月の条にて、東国の国司を集めて詔を行う場面だ。

「天神の奏け寄せたまひし随に、方(まさ)に今始めて萬國を修めむとす・・・」

そこで以上のセリフが語られるのである。天神とは、「天」派閥であり、天照大神を祖神とする氏族連合である。
まさしくこのセリフが宣言される数代前から天皇家は自ら「天」を名乗り始めている。そしてその「天」勢力の後押しを得て、ようやく萬國を修める地位に昇ったと宣言しているのだ。また、同年七月、この詔の前月には

「天皇詔阿倍倉梯萬侶大臣・蘇我石川萬侶大臣曰、當遵上古聖王之跡、而治天下。」

と記されているように、これまでの倭王が積み重ねて来た輝かしい事績に恥じない政治をわたしもしてみせよう、と抱負を語る場面もあるのだ。
これらはもはや表徴などではなく、まさに倭王となった節目を伝える宣言だと云えるものではないだろうか。もしその推測が正しいのであれば、王朝交替をもたらした何らかの時代背景もセットとして残されているはずだ。そう考えると、この「セリフ」が大化元年に語られているのにも、もちろん意味があることになる。改元に至る過程に起きた政変では蘇我本宗家が滅ぼされている。背景として考えられるのはこの事件しかないだろう。

蘇我と云えば葛城系氏族の雄である。その蘇我が倒されたということは、乙巳の変とは葛城氏を滅ぼす目的の政変であったのだろうか。そのような誤解を与えるかもしれないが、全く違う。
天皇家が主権を獲得したことが明らかな天武朝以後に彼らが「どうなったか」を見れば、その理由は容易にわかる。彼らは、突然「根子」を名乗り出すのである。先程の諡号リストのチェックポイント①である。
「根子」を引き継いできた氏族グループはどこか。それは古くから紀伊葛城から尾張を含む「根」勢力ではなかったか。その勢力の称号を名乗ったのであれば、「根」は敵でなく、自身のグループということになる。
しかも、乙巳の変の首謀者である天智自身、葛城皇子と呼ばれたように葛城氏系の人物なのだ。
この状況を見る限り、乙巳の変の動機を説明できる理由はひとつしかない。勝った側も負けた側も同じ陣営であるということ、イコール「根」グループ内の内乱、という解釈しかできないのだ。

だとすると、またここでひとつの仮説が可能となる。
乙巳の乱というクーデターにより、天皇家がトップに就いた「根」という勢力こそが「日本」の母体ではないか。そして日本のトップとなったことで倭王に就任したのではないか、という仮説だ。
先程、倭王となるためには日本の王でなければならないとした、それが乙巳の乱で実現したということになるのだろうか。

あながちその仮説も、空論とは云い切れない。事実、書紀の記事には、乱の前に兆候と思わせるような記述を意図して差し挟んだ形跡が見られるのだ。いくつか例出しよう。

皇極元年春正月「大臣兒入鹿更名鞍作。自執國政」(入鹿、自ら国政を執る)
皇極十一月丁卯「天皇御新嘗。是曰、皇子・大臣、各自新嘗。」(皇子・大臣がそれぞれ別に自ら新嘗の行事を行う)
皇極十二月「蘇我臣、專擅國政」(蘇我臣、国政を恣にす)

なぜ、執拗に書紀は蘇我氏の専横を伝えようとしたのか。そしてその専横と見なされる行為は、入鹿が国政を執っていることなのである。しかしそれは「専横」と言えるのだろうか。国政を執るべきでない人物が国政を執ることなど現実にはありえない。国とは組織なのであり、一人が専横を揮える場ではないのである。
もし、天皇家が大君で、蘇我が臣下だとすれば(簡単だとは云わないが)王位の権限でどうにでも対処出来たはずだ。蘇我と争うとしても、他の臣下が結束してその任に当たってくれたであろう。
しかるに、矢面に立ったのは天皇家なのである。それも騙し討ちという弱い立場の者が使う下賤な手段によってである
。そう云えば数代前の崇峻は馬子にあっさり殺されているのだ。もちろん乙巳の変のようなクーデターといった物々しい事件ではなく、単に排除されただけである。
これらの歴史事実が示すのは、この時代にはまだ、天皇家の地位は蘇我を越える位置にはなかったのではないか、という可能性である。それ故に、成敗の理由として「蘇我の専横を阻止するため」という大義名分が必要だったのではないだろうか。
また、念を押すようだが、この大義名分は王位の者が吐く台詞ではないのも当然だ。臣下が臣下を、或いは上位者を誅した場合の言い訳である。

さらに、乙巳の変の際には、興味深い記述がある。

「入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。」

蘇我入鹿が斬られた際のセリフである。
「位を継ぐのは天の血を引く人物でなくてはならない。私のどこに罪があるというのか」と訴えているのである。それに対して、中大兄の言い訳は以下である。

「中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎。」

意訳すると「入鹿は悉く天を継ぐべきものを滅ぼし、日の位を傾けようとした。天孫を以て入鹿に代えようとすることのどこが悪いと云うのか」と反論しているのである。
まさに先に立てた仮説そのままではないだろうか。
「以天孫代鞍作乎」とあるのは、入鹿と天孫を取り換えて、天を継ぐ者にすると云っているわけであるから、暗に現在の日嗣(乃至は可能性は少ないが王位)が入鹿であると伝えているのである。
「鞍作盡天宗滅」とは恐らく山背大兄の殺害のことであろう。山背大兄が本当に天宗だったとは云えない。天宗になる可能性はあったのかもしれないが、あくまで中大兄側の言い分としてだけの天宗である。
次に入鹿の台詞だが、「臣不知罪」と云ったことにはふたつの背景が考えられる。ひとつは「天系の正統であるわたしが日嗣となったことのどこに罪があるのか」と正統性を訴えたのではないか、という可能性と、もう一つは「天を継ぐ資格がないものを排除したわたしのどこが悪いのか」と云うものだが、いずれに解釈しようとも、蘇我入鹿が正統な日嗣であり、中大兄側がその簒奪者である構図は変わらない。
また、「鞍作盡滅天宗將傾日位」の意味を考えれば、さらに状況が見えて来る。
「日の位」とは「日の神」を戴く「日本」の位であり、天を継ぐべきでものから「天宗」とは「天(倭王)」の血統であることがわかる。そして、せっかく「日本」が「天」を継ぐ機会に恵まれたにもかかわらず、その候補を入鹿に奪われたと云っていることから、この時点に於いて日本が天宗(倭王)を輩出する勢力となっていたこともはっきりと読み取れるのである。

ついでではあるが、ここでひとつ仮説を提案しておきたい。
それは「入鹿」が倭王(或いはそれに準ずる位)であった可能性である。
蘇我氏は代々宿禰の官職を世襲して来た。だが、入鹿は宿禰どころか、官位と言える職位を何一つ持たないのである。彼は終始「蘇我臣入鹿」という名で記載される。大臣や宿禰の位すら与えられていない。そのような人物がどのように国政を執ったと云うのだろう。
職位もなく国政を執れるのは唯一人である。それは「倭王」しかいないのである。



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