■古代史研究の鍵となる概念
九州説から鞍替えしたわたしは、九州論者と対峙する大和説支持者と同じように、天皇家こそが倭国の王者であり、邪馬台国の主だと考えるようになったのかと思われるかもしれないがそうではない。その理由も単純だ。何故なら邪馬台国の主を天皇家とする大和説も矛盾だらけであるからだ。それに関しては、九州論者の方も納得済みだろう。
九州も否定し、大和も否定するとはいったい邪馬台国をどこに比定しようというのか、という疑念の声が聞こえてくるが、ただ誤解なきよう断っておくと、わたしは邪馬台国が大和にあったという考えそのものを否定しているのではない。大和論者が考えるように天皇家と邪馬台国を結びつけること、その点を否定しているのである。
これから九州説がなりたたないとする理由をいくつか挙げ、邪馬台国の所在を含め論じていきたいと思う。
もし、それを否定できる、あるいは論破し得ると云うのであれば、その根拠を述べていただくのは大いに結構である。そのご意見に対しては時間のある限り返答、または反論を示させていただくつもりだ。
では、それに先立ち、非常に基本的、かつ重要なポイントをここで明確に定義しておこうと思う。まず、
@天皇家=大和朝廷=倭国=邪馬台国
という関係式。これが所謂、大和論者のベースとなっている考えだ。“日本書紀やその他の国内史書が語るように、神武東征の往古より日本列島の支配者は天皇家である故、海外史書との間に齟齬や矛盾は多々あれど、卑弥呼は天皇家系図の人物であり、邪馬台国も大和地方にあるのであ〜る“という内容を唱えるものだ。
しかし、大和論者も認めるように、中国側の史書と我が国の資料との間には大きな隔たりがあるのは否定しようのない事実なのである。卑弥呼が記紀に登場しないことだけではない。宋書の倭の五王、隋書の日出処の天子にしても記紀は一切記述していない。そのことは、畢竟、倭国と天皇家というふたつの団体はまったく別ものであると物語っていることになる。
つまり、最も自然な捉え方、かつ理性的な判断の基に、我が国の当時の支配者を求めようとすれば、基準点はそこに置かねばならないということだ。決して、天皇家こそが倭国(日本列島)の支配者のはず、という「はず」に依存した考えから始めてはならないのである。
よって、国内、国外、いずれの資料も基本的に正しいと置き、その内容に従って解釈するならば
A天皇家≠倭国
という関係式がここに公理として成り立つ。
蛇足ながら、史料批判において守るべきルールをひとつ再確認しておきたい。というのも、その常識であるはずのルールがこれまでほとんどの史家の間で無視されてきたが故である。
そのルールとは「資料はそれを第一とし、疑わしきことあらばその理由と根拠を示さねばならなず、それが示せない限り、記述されたところのすべてを尊重しなければならない」というものだ。
「天皇家=倭国」は明らかに資料と相反するものである。そして、長い国学の歴史において、「天皇家=倭国」を証明した説はただひとつも存在しないといういう現状を鑑みれば、資料は一言一句尊重されねばならず、「天皇家≠倭国」は動かせない基準点となるのである。
それでは次に、@の関係式の中の残された要素、B天皇家=大和朝廷、C大和朝廷=倭国、の判定に関して述べておきたい。根拠など詳細はおいおいこのノートに掲載してゆくつもりだが、ここではとりあえず結論だけを示そう。
B天皇家≠大和朝廷
C大和朝廷=倭国
Bは天皇家と大和朝廷が同一かどうかである。
もっとも大和朝廷と云うのは国学者の造語で、正式にそう称された王朝はない。しかし、大和周辺で列島の政治を司った組織は明らかに存在した。その政治組織をこれまでの国学に倣って、一応「大和朝廷」とすることにする。そのうえで「天皇家=大和朝廷」が成り立つかを見た場合、6・7世紀以前という範囲においては、天皇家と大和朝廷は決して等式では結べない。大和朝廷なる組織に属していたとは云えるが、そこを司っていた主体だったとは云えない、となる。
Cの大和朝廷と倭国の関係はどうであろう。こちらはイコールである。
以上、あまりにあっさりと書きすぎたかもしれないので、軽く触りとして根拠となる日本書紀の記述を掲載しておく。
■日本書紀が語る天皇の地位とは
崇神六年、百姓流離。或有背叛。其勢難以コ治之。是以、晨興夕タ、請罪~祇。先是、天照大~・倭大國魂二~、並祭於天皇大殿之?。然畏其~勢、共住不安。
崇神七年春二月(略)於是、天皇乃幸于~淺茅原、而會八十萬~、以卜問之。
崇神七年秋八月、倭迹速~淺茅原目妙?・穗積臣遠?大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢、而奏言、昨夜夢之、有一貴人、誨曰、以大田々根子命、爲祭大物主大~之主(以下略)
上記の引用は、崇神六年〜7年の記事だが、崇神(御間城入彦五十瓊殖)は誰の命令かはわからないが、天照大~・倭大國魂の二~を大殿に祭るように命じられる。しかしそれにより政争が起こったため、浅茅が原に出向いて、八百万の神々に諮る、そのくだりである。
最終的な判断を下し、指示を出したのは穗積臣、伊勢君、倭迹速~淺茅原目妙?で、茅渟縣(和泉)から貴人とされる大田々根子を召し、倭大國魂の祭主とし、天照大~は大和から追い出すこととなったのである。
この記事は当時の崇神の地位を如実に、実に正直に記録したものだ。彼は倭国の王とはかけ離れた低い地位にある。この政争ではまだ「ぱしり」の役どころでしかなく、何事も八百万の神々に判断を仰がねばならず、倭の姫君と穗積臣、伊勢君が行った折衝の結果を受け、大田々根子を召す係として描かれているのである。
そして当時の倭王はと云えば、それをほのめかす記述が同七年の記事に、はっきりと書かれてある。
「答曰、我是倭國域?所居~、名爲大物主~(答えて曰く、我は倭国領域を居所とする神なり、名を大物主神と為す)」
大物主が最高位の大王だったかは判定不可だが、倭国の神(王)だと語る場面がこのように明記されているのである。
以上、ほんの触りである。
記紀を天皇側の書だというフィルターを意識して読み解けば、記紀編者が如何に誠実に事実を記録してきたかが分かってくるだろう。
先のポイントを定義した根拠はこれだけでなく、まだまだ各資料の中に詰まっている。
ポイントの定義だけでは、展開がまったくわからないと思われたかもしれないが、上記の引用を見れば、多少なりとも定義の意味するところが分かっていただけると思っている。
それと、前述の引用記事、わたしは記紀等の資料を信じて原文のまま掲載した。今後もそれが基本的なわたし姿勢である。自分の想像を重んじて資料をないがしろにするのはもっての外。資料(史書など)こそが歴史の生き証人であると考え、もちろん資料を重んじた上での解釈は述べさせていただくが、多くは記事が伝えるままの状況を紹介して行くだけだと思っていただきたい。
最後に先のポイントをもう一度掲載しておこう。
1.天皇家≠倭国
2.天皇家≠大和朝廷
3.大和朝廷=倭国
このノートを書き進める中で、恐らく上記の関係式の意図がご理解いただけるようになるだろう
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