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古田武彦を偲ぶ:邪馬台国の最終解答 ―「やまと」という地名の謎―
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■「やまと」は特別な地
「やまと」を最後に採り上げたのには意味がある。
また、前項で触れることのできなかった、国号検証の冒頭で挙げた”「やまと」がなぜ国名とされたのか”という疑問への解答にもなるだろう。
もっとも、その疑問に関しては、「やまと」という国号がなかったと結論付けられたこと、つまり我が国は、海外の認識と同じく「倭国(わこく)」と8世紀以降の「日本(にほん)」、この二つの国号しか持たなかったということで決着はついているのではあるが、しかし、「日本」や「倭」が「やまと」と読まないことが判明したからと云って、「やまと」に関する根本的な問題点は何一つ消えないばかりか、国号の読みが解決したことによってむしろ疑問は大きくなったと云えるのである。
実際問題、国号から「やまと」は消えたかもしれないが、「やまと」という「場所」、その存在までもが共に消えたわけではない。「やまと」は記紀の歌謡や万葉集の中でも多くの場面で歌に詠まれており、明治時代、そこが「奈良県」と改められるまで「大和」という地名は近畿のど真ん中に泰然と残り続けて来たのだ。その根の深さこそが「やまと」が特別な地名であったことを物語っているのではないか。
■大和朝廷と天皇家
「やまと」は常に特別な存在であった、そう断言しても良いのだろう。そして、そこに今回の論点が潜んでいる。
「やまと」は確かに、倭国、またこの列島の住民にとっては特別だったと云えるが、では、日本国とってはどうだったのだろうか。
倭国も日本もその点は同じだと考えてしまうが、果たしてその認識は合っているのかを見てみたい。
上古以前のことは確定出来ないとしても、日本国と云えば、奈良時代以降は確実に「天皇家」の国家である。その天皇家の政権は一般に「大和朝廷」と呼ばれている。天皇家と大和がそのように親密につながっていることは取りも直さず「日本国」も「やまと」と関係が深いことを意味するわけだ。
しかし、そこにも国号問題と同じ「大きな勘違い」が潜んでいる。
天皇家は「大和朝廷」と呼ばれるが、そう呼んでいるのは、後の国学者だけであって、天皇家がそう名乗ったわけではない。ただ、日本書紀が天皇家の史書であるという先入観と、その史書の中で「朝廷」という国政の決定機関が描かれていること、そして先の国号で語ったように「倭・日本」を「やまと」などと訓付けしてしまったこと。それらが寄り集まって「大和朝廷」という造語が「創作された」だけのことなのだ。
だとしても、天皇の国政機関が「朝廷」であり、天皇が「やまと」で政治を執り行ったわけだから、仮にそれが造語であっても「大和朝廷」と呼ぶことに問題はないはずだ、と思われるかもしれないが、先ほど云った「大きな勘違い」とはまさにそこを云うのである。
問題意識を持って日本書紀を注意深く読み込んでほしい。そこで天皇家が「やまと」とどれほどの関係を持っているかを仔細に調べて見るのである。そうすれば、その実「やまと」という地は、天皇家にとってそれほどに謂れのある場所ではなく、むしろ、関係度から見ると、他の地域と比べてもつながりは薄いくらいであることがわかってくるだろう。
神武とて東征の後「やまと」に居を構えたわけではなく、功労の対価として与えられたのは「磐余」の地なのである。以後の天皇も、ページ下の図に示したように、崇神が唯一「やまと」地域に宮(邸宅)を置いたくらいで、他は奈良盆地の南部を中心に散在している。そしてその後、最終的に天皇家が自国の国名として採用したのは「やまと」ではなく「日本」であって、「大和」は畿内一国の名に成り下がっているのである。その事実に裏付けられることこそ、「やまと」は天皇家にとって、神聖な地でも、由緒がある場所でもなく、せいぜい畿内の一地方に与えた名称という程度の価値しかなかったこということなのである。
国学は天皇家に「大和朝廷」という架空の用語を冠し、我々も古代の王朝を「大和朝廷」として学習させられて来た。しかし、国学が定めたように、「大和○○」と呼べるような「やまと」に関係深い政府が現在に至る政権を受け継いできたのであれば、「やまと」は奈良の国名ごときに甘んじることはなかったであろうし、我が国は「日本」でなく、「大和」になっていてもよかったはずなのである。
しかし、そうはならなかった。万葉集などでは他の地方と比較にならないくらい多く題材とされていながら、何故か「やまと」は我々の了知とは逆に、天皇家とも、日本国とも、所縁という点に於いて親密性に欠ける地であったのだ。
それでも「やまと」は消し去られることなく、五畿に列せられる奈良の古称として残った。そこに「やまと」の秘密があるだろう。
■「やまと」に潜む奇妙な特徴
「やまと」に関心を寄せると、面白い事実にぶつかる。「やまと」の地名に注目して欲しい。もちろん「倭・日本」とは切り離してである。見るべきは、古事記の人名や万葉集の地名だ。
たとえば、人名では孝霊天皇の娘・夜麻登登母母曾毘賣命。地名は「山跡・夜麻登・夜麻等・山常・八間跡・山登・也麻等・夜萬登・夜末等・山戸・山処」などが見られる。
こうして眺めてみると、「やまと」が他の地域と明らかに違う特徴を持つことがわかる。「やまと」は古代社会の要とも云える地名であるはずだが、奇妙なことに、ただの一つも文字として正式な漢字表記がないのである。
国名問題の章で引用した「万葉集巻三 三一九 高橋虫麻呂詠不盡山歌一首 并短歌」を思い出していただきたい。その歌の中で「甲斐」「駿河」などの地名は現在とまったく変わらぬ表記で登場するのだが、「やまと」は「山跡」とされている。他の歌においても、難波や吉備や筑紫、山背(山代)など、皆、古来よりほぼゆるぎない固有の文字で表され、その表記が現在まで変わらず使用されているにも関わらず、大和だけは、山跡、山戸、山処など、地形呼称を思わせる借字であるとか、単なる音だけを表す、也麻等、夜萬登など、統一性の欠片もなく自由気ままな表記で記されており、その後も一向に正式な表記が定められる様子もなく、ようやく、「大和」に落ち着いたのは、律令時代になってからという異常な遅さなのである。
何故、そこまで「やまと」が正式な表記を持たなかったのだろうか。
単純に考えると、「やまと」などという地名を持つ地域は実際はなかったのかもしれないということがまず思い浮かぶ。だとすると、正式表記がないこともある意味納得できるのだ。
「やまと」の地に強く感じるのは、「やまと」とは地方の若者が首都東京に憧れるように、列島の住人にとって誰もが目指したいと思った場所だったのかもしれない、ということだ。その憧れの場所が「やまと」と呼ばれた場所・地域であったのではないか。そしてその地域はもともと国名や地名としてあったのではなく、地形名称が一種の通り名として定着した場所を指す言葉であった。国名でないが、人々の間では誰もが馴染んだ名称であり、万葉集に見られるように、歌謡や噂を通して、理想郷のように雅で風雅な、都を象徴する名として呼び継がれて来た。人々の印象に溶け込んだその名称が、結果的に本来の正式地名である「倭」そのものに同化し、「倭」の読み仮名として習慣的に被せられ、それが徐々に定着して行ったため、「倭・日本=やまと」という誤読につながる状況を生み出したのではないか、そう思えてならない。
■なぜ「やまと」は国名となったのか
「大倭(おおやまと)」という読みなどは正にその影響を受けた代表なのだろう。
奈良の地とその周辺、つまり葦原中國を含む地域はもちろんのこと、かつては「倭(わ)」の首都であった。その「倭」の一部である古より「やまと」と呼ばれた場所は「倭」の領域であると同時に「やまと」と呼ばれた地でもあった。そしてその「やまと」と呼ばれる地にいつの頃か倭国の省庁である「大倭(おおわ)」という機関が置かれた。
当初はその表記の通り「おおわ」として通じていた名称であっただろうが、「やまと」に置かれていた機関であったため、当時の民衆にとってはそのまま「おおわ」と呼ぶより、馴染みある「やまと」の呼称を付加する方がその所在が分かりやすかったのかもしれない。そのため、「大倭」は本来の正式な呼称ではなく、むしろ所在地の名を被せた「おおやまと」と呼ばれることが慣例となり、やがてそちらが正式な呼称となったのであろう。
「大倭(おおやまと)」と同じように、習慣的に使われていた呼称が正式名称となる現象として良い例がある。
東漢氏、西漢氏。この氏族は「東」「西」と表記されているが「やまとのあやし」「かわちのあやし」と読まれる。もちろんそれは「東=やまと」「西=かわち」という読みがあったからではない。11世紀〜12世紀というかなり時代が下った頃に編纂された「類聚名義抄」では「東西=やまとかわち」となってしまっているが、「東西」にはそのような読みなどは古今通してない。あくまで東は「ひがし」で西は「にし」である。
この両氏は本来は単なる「漢氏」であったわけだが、信貴生駒・葛城の山々を境に河内側と大和側に分かれて居住するようになった。その際に、区別上振り分けられて、西側は「にしのあやし」、東側は「ひがしのあやし」と名付けられたのだ。
しかし、人々の間では耳に馴染んだ居住地名で呼ぶことが分かりやすかったのだろう、正式な氏族名としては東西であるのたが、「やまと方のあやし」「かわち方のあやし」と呼ぶことが慣例となってしまい、時が経ち、それがそのまま現在に続く読みとして独り歩きしたという例である。
「やまと」に関しては、漢氏のような明確な経緯は残っていないが、「倭(わ)」から「やまと」に変化した痕跡だけは存在する。前述した「大倭」である。これは「おおやまと」と読む。しかし、元々は「おおわ」と読んでいたものである。
そのことは魏志倭人伝の以下の記述からもわかる。
收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之
交易を管轄する機能として「大倭」という行政機関(またその役人)が登場する。約してみると次のような意味となる。
收租賦有邸閣國 ・・・租賦を収むるに國に邸閣有り
國有市 ・・・国は市を有す
交易有無使大倭監之 ・・・交易の有無(租賦と商いの利潤)を大倭に監せしむ
地方の国には交易を行う「市」があり、そこでの収益を上納する「邸閣」がまた国ごとに置かれている。そして、その「邸閣」の上位にある省庁が「大倭」だとされているのだ。国ごとの税が集められる場所ということは、中央政府の財務を司る機関に該当するのだろう。中央政府とは当然倭国の首都である「やまと」のことだ。そこに大倭があるというのは日本書紀の記述とも合致するところだ。
つまり、魏志倭人伝の云う「大倭」と記紀にある「おおやまと」は同じものを指しているわけだ。
では、その大倭はどう読まれていたのであろうか。
海外では「倭」は「倭国」の「わ」であり、読みも「わ」である。「大倭」の「倭」も同様であり、これは云うまでもなく「おお」+「わ」と読まれる。もちろんそれは、倭国側から示された情報が「おおわ」或いは「大倭」であった故に、その表記となったのであり、もし「おおやまと」と伝えていたのなら、まったく違う表音表記を充てられていただろう。
このように三世紀前後の段階において、まだ公式な場では「大倭=おおやまと」という読みの慣習はなかったことが魏志の記述でわかる。しかし、それが時代を経て、古事記が記される頃には「おおやまと」と正式に読まれているのである。このことから、「大倭」の読みの変遷は、東漢氏、西漢氏と同じメカニズムであったことが推察せられるのだ。
「やまと」が歴史ある地であり、地名であることは間違いないであろう。しかし「日本(俗に大和朝廷と呼ばれる勢力)」との関連がないにもかかわらず、「大倭(おおやまと」などの名で我が国の歴史に登場していた理由は(もちろん確証はないが)以上のようなメカニズムがあった、そういう理由付けは一応可能なのである。
このように、「やまと」が歴史ある地で、憧れの場所であったことから、もう少し発展させてみると、古代史の謎の一つの答えも見えてくる。
■「やまと」と邪馬台国
また少し余談とはなるが、そう卑弥呼だ。
邪馬台国の在り処を奈良の地に求める研究者は「やまと」こそが邪馬台国だと説くが、確かに最も妥当な想定だと云えるだろう。妥当だと云うのは「邪馬台=やまと」の「音」だけではない、今見て来た「やまとが特別な場所」であったという理由からである。「特別」であることの確たる証拠はないとしても、現実に特別扱いされている地名であるのだ。もし、「邪馬台=やまと」が正しいとすれば、特別な理由が一気に氷解するのではないか。
国号問題で、倭国が正史に登場しないのは可笑しいと述べたが、邪馬台国も同様である。
魏志に我が国の都がある場所とされている地が、正史から抹殺されているとは考えられない。もちろん、日本書紀は倭国でなく日本の史書である。そこから考えると日本書紀が意図して「邪馬台」を記録しなかったとしても不当ではないが、日本書紀はためらいもなく倭国や大倭を記していた誠実さの実績があるのだ。その日本書紀が「邪馬台」だけを消し去るだろうか。そこが想像を掻き立てるポイントである。
そう思うと「やまと」こそが「邪馬台」ではなかっただろうか、と思えてならない。
「やまと」は天皇家とは実質関係のない地であるにもかかわらず、同時に様々な資料に登場していることも事実なのである。日本の史書である日本書紀が、倭国の都である「邪馬台」を記載する義理などないかもしれないが、日本にまつわる歴史だけを拾い上げて編纂したとしても、「都」の存在は何らかの形でそこここに顔を覘かせるはずだ。その名残りが「倭」の地名が「やまと」という読みをかぶせられた現象であり、「邪馬台」の影こそが「やまと」であったのかもしれない。
そうなると興味深い符号が見えて来る。「邪馬台」という表記だ。
「邪馬台」=「やまと」であるならば、魏志の時代、そこは卑弥呼が都を置いた場所でありながらも、当時から「やまと」は正式な地名表記を持たなかったことになる。つまり、万葉集などの「やまと」と「邪馬台」の間に「正式表記がない」という関係式が浮かび上がるのだ。
景行紀には「伊都縣道邊」という人物が登場するが、その地は魏志でも「伊都國」とまったく同じ文字で表記されている。つまり、景行の時世も卑弥呼の時代も、我が国はすでにれっきとした「漢字」での地名表記を使用していたことがこの部分で証明されるのだ。
倭国は、地名を伝える際、漢字を使って地名を中国側に伝えていた可能性が大きい。そしてそれは当然、倭国内にもシュアされた情報であったわけだ。故に、魏志と日本書紀の中で、同地名が同じ表記で記されているのだ。
それに反し卑弥呼の都は「音」でしか伝えられていなかった。それは日本書紀や万葉集などの「やまと」と共通する特徴である。山跡・山常・山戸・夜麻登。登場する場所でその場かぎりの文字で表されるという特徴だ。そのため、魏志編者は「やまと」を「音」を頼りに「邪馬台」と表記するしかなかった。
この「邪馬台」という表記は我が国の資料にないものだ。ないことで「邪馬台」は「謎」となったが、それは今言った正式表記の欠如に起因する。そう思えるのだ。
そして、「やまと」が古代より特別であったのは、卑弥呼に代表されるアニミズムの象徴である「巫女」が囲われていた聖地であったことも一因なのかもしれない。
そう云えば、「やまと」と呼ばれる地は大神神社のある三輪地域ではなかっただろうか。
そこは勢夜陀多良比売、倭迹迹日百襲姫、活玉依比売など巫女を想わせる女性と大物主神との婚姻譚が、語り継がれる土地であったはすだ。記紀はその話を自らの歴史ではなく、単なる説話としてサラリと扱っている。もし天皇家が、倭国の政治を担う立場であったならば、そのような男女の怪しい言い伝えを史書に載せる筋合いはないのだが、サラリとは云え、決してぞんざいではない扱いで掲載していることもまた、それが伝えなくてはならない、無視できない記事であったことを物語るのではないか。
以上が「やまと」と「邪馬台」の関係についてのあくまで個人的な考えである。
見ての通り根拠と云える材料は一切用意できない。また以降何か新しい証拠が見つかるという僥倖も期待できないだろう。
ただ、敢えて、主張できる論拠を挙げるとすれば、仮に一部の研究者が唱えるように、日本書紀、或いは天皇家がその国策として「倭国」の痕跡を消し去ろうと計ったのだと仮定しところで、我が国を縄文期から七世紀という永き年月にわたって統治した倭国と云う政府、その都「邪馬台」の痕跡を、完全にこの列島から一字たりとも残さず消し去ることが出来たかどうか。本当にそう云えるのかどうか、という点だ。それは風土記や歌謡だけではない、ありとあらゆる末端までである。
わたしは不可能だと思う。倭国が記紀に公然と現れているごとく、「邪馬台」の存在も確実に記紀に残っている。そう思うのだ。それは、地名の「音」という形で。
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