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古田武彦を偲ぶ:邪馬台国の最終解答
―国産み神話から読む倭国の黎明期―
■倭国の黎明期「国産み」
記紀の神代は神世七代の最後に生まれた伊弉諾・伊弉册による国産みで始まる。
国産みの説話で伊弉諾・伊弉册の二神は「淡路洲」をます最初に産み、次に、大日本豐秋津洲、伊豫二名洲、筑紫洲、億岐洲、佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の順で続く。
「国産み神話」とはこのようにして、まだ何もない混沌としたとした地上世界に大八洲(日本列島)を作り出した、というものだ。一般的には架空の話とされているのだが、元になった史実として考えられているのは、日本に稲作を持ち込んだ大陸系の弥生人が列島各地を支配下に置いてゆく過程を反映したものと云うことのようだ。
また、産み出された「洲」の比定も様々に行われており、その中でも、洲々を日本列島の構造にそのまま当てはめ、大日本豐秋津洲を本州、伊豫二名洲が四国、筑紫洲は九州を指すのであろうとするのが最も有力な説(定説)とされている。

これらの定説に対して、古田武彦氏は異を唱えた。
それぞれの洲は本州、九州、四国と云った「島」などではなく、地域(国)を示す地名だと考える立場をとるのである。
確かに、どこか等閑に思える従来説に比べて、氏が唱えるように、洲を国名とする方が記紀の記述に沿っていて上手く説明できる。普通に考えても、淡路、億岐、佐度以外が「島」でないことはその名称や現実の地理に照らせばすぐわかることであろうし、伊豫二名洲、筑紫洲は「島」と出来なくはないが、越洲、大洲、吉備子洲、これらは本州にある国であって、単独の島ではない。従来説では、それらの国が本来あるべき本州はすでに大日本豐秋津洲で使ってしまっているので、この三洲は本州から分離させなければならなくなるという無理が生じる。
そう云う点も含め、現実的に解釈するならば、国産みの説話というものは「島産み」と云ったあまりにも荒唐無稽な創世記に寄せて洲々の比定を行うよりも、古田氏が云うように「地理的事実」に沿った解釈を採ったほうが真の歴史に近いのであろう。

では、今更ではあるが、二神が産んだ国を、現在の県名で示しておこう。県名で示すと、どうしても今の県の位置、範囲に縛られてしまうが、もっと曖昧に捉えるのがよいだろう。

大日本豐秋津洲=奈良周辺
伊豫二名洲=愛媛
筑紫洲=福岡
越洲=新潟
大洲=島根
吉備子洲=岡山

以上は古田氏の説に従ってみたものだ。やはり、どう考えてもこれが国産み説話の正しい解釈だと思える。

神代には、誤解を招きやすい用語がそこかしこに見られる。それが神代を架空の匂いがする「神話」へと貶める原因にもなっているのかもしれないが、神代の冒頭、神の生成譚や国産みで用いられている「生む・産む」という表現などはまさにその元凶ではないだろうか。
「生む・産む」とは、「子供を産む」「作り出す」などという文字通りの意味を云うのではない。この用語は「他国と同盟する」「自陣に取り込む」といった自国領域を拡大してゆく行為を意味すると云った方が近いだろう。人物関係に於いても同じ傾向の用語があり、次の書紀原文のように

「伊弉諾尊、勅任三子曰、天照大~者、可以御高天之原也。月夜見尊者、可以配日而知天事也。素戔鳴尊者、可以御滄海之原也。」

「子」などは一見親子関係のことと思われるが、意味としては姻戚や主従関係または配下という関係になったことを示す用語として使われている。
実際の例を示すのが分かりやすいと思うので、その好例が大国主の説話にあるので紹介しておこう。日本神話としてよく目にする内容なのでご存知の方も多いだろう。

・大国主は兄神とされる八十神に襲われ何度か命を落とす(注-1)。
・救援を求めた紀の国の大屋毘古神(亦名:五十猛神※素戔嗚尊の子)に根の国へ行くように勧められる。
・出向いた先の根の国で出会った素戔嗚尊の娘の須勢理毘売命を娶るのことになる。

これが大国主の天下取りにまつわる伝承の大筋で、例の因幡の白兎もこのストーリーの一部なのである。ただし、この説話は日本書紀にはないものだ。日本書紀は国譲りの説話以外ほぼ大国主には触れておらず、素戔嗚尊との関係についても、一書のひとつに、伝承として紹介する程度に止まっている。その一書では大国主を素戔嗚尊の「六世の孫」としている。(以下が原文)

一書曰、素戔鳴尊、自天而降到於出雲簸之川上。則見稻田宮主簀狹之八箇耳女子號稻田媛、乃於奇御戸爲起而生兒、號C之湯山主三名狹漏彦八嶋篠。一云、C之繋名坂輕彦八嶋手命。又云、C之湯山主三名狹漏彦八嶋野。此~五世孫、?大國主~。篠、小竹也。此云斯奴。

このように古事記では娘婿であるのに、書紀では六世の孫なのである。この伝承は古事記が真実なのであろう。じゃあ、書紀が嘘をついているのかと問われれば、「否」である。書紀の言い分も少しも間違っていない。娘婿であろうが、関係上は義理の「息子」に違いないであろうし、娘とされる須勢理毘売命とて一親等の娘ではなく六世の孫なのかもしれず、だとするならば、その婿も「六世の孫」でいいのである。上代以前も政略結婚などは当たり前に行われていた政治手法であるわけで、そう云うことからも「子」という表現は「同勢力に属することになった」という関係を語る用語として理解する方がよいだろう。

(注-1)大国主は多くの別称を持っている。

「大國主~、亦名大物主~、亦號國作大己貴命。亦曰葦原醜男。亦曰八千戈~。亦曰大國玉~。亦曰顯國玉~。」

引用文は書紀の一書のひとつである。これらは一般に別称とは云われているが、そうではない。大国主のオリジナルの名称、つまり本名みたいなものなのである。大国主とはそもそも何かと云うと官位名でしかない。例えば現在の総理大臣のようなものだ。総理大臣が何代にも及ぶのと同じく、大国の主も同様に一代ではなく、何人もの人物によってその地位が受け継がれたのである。その中で固有名が記録として残っていたのが、大物主~や大己貴命なのである。

さて、そういう理解で国産みの説話が何を伝えているのかを考えてみると、産み出された国々、つまり「大八洲國」とは伊弉諾・伊弉册が他国を自国領として取り込むことで獲得した領域で、国々を産み出された順序とは、自ずと自国領としていった順序ということになる。
そこでである。国産みの説話の本質と云える問題点はその産み出された順序と範囲である。
最下の図を見ていただければわかるが、国産みの進行は近畿から始まり、日本海側に進む。そして、国産みが行われた領域から、何故か東日本がごっそり抜け落ちている。

もっとも、国産みも弥生時代の反映だとするならば、定説が語るように、水稲栽培の技術を持った弥生人が北九州から徐々に東国に進出していった、その過程を描いているからだろうと説明できるのかもしれない。しかし神代が記す国産みの開始地点は何故か「淡路洲」なのである。
日本書紀には編纂時参考にした各種の記録が一書という形で列記されているが、その一書のひとつには「大日本豐秋津洲」を一番とするものがあるが、他の一書の記述はどれもが常に「淡路洲」から始まり、稲作発祥とされる北九州「筑紫洲」をスタート地点とする例はひとつもないのである。
一見、西日本から弥生文明が浸透して行く状況を伝えているように見えた神代であるが、史書に記された国産みの記述を見る限り、弥生期の社会の広がりは、むしろ近畿から九州方面、そして裏日本へと進路を取っているとしか考えられないのである。






■神代は如何なる勢力の歴史か神代の国家
なぜ、国産みは「筑紫洲」ではなく、「淡路洲」から始まるのか。そしてまた「大八洲國」の領域から東日本がなぜ抜け落ちているのか。その疑問を解くために、まず取り掛かるべきは、神代を語り伝えて来たのは一体「誰」かという問題である。

日本書紀を見てみると、神代の中で、書紀編者はなんら躊躇うこともなく、「一書」という表現で複数の書に伝わったであろう内容を記述している。明らかに意図して、神代を伝える書が多く存在したことを後代の識者に伝えようとしているのである。
そして「一書」にはそれぞれ違いがあった。違っていたからこそ「一書」として併記したのであるが、この「一書」という表現は、史書編纂のために取り寄せた複数の資料の内容に様々な差異があったため、それを正確に残すべく併記されたものであろう。
その資料はどこから集めたのか。当然、各有力氏族が保有していた記録以外にはない。つまり、各氏族に伝わった内容に違いがあったのである。ただし、その違いとは、まったく異次元のことをそれぞれが語ったことからのものではなく、「同じ神代」という歴史を別の視点から記したことで生じた、いわゆる差分という程度のものである。

今、「同じ神代という歴史」と書いたがなぜ「同じ(共通)の歴史」だと言えるのか。それは「一書」群を眺めればわかることである。
手元に日本書紀があれば、改めて一書を見比べてほしい。違いと云ってもそれぞれにどれほどの開きがあっただろうか。部分が幾分違うだけでほとんど内容は似通っており、登場人物のちょっとした違い、扱われ方や登場させ方の違い、その程度の違いでしかなく、ストーリーという点や主人公など、根幹の比較においてはそれほど差がないのである。さらに、先代旧事本紀、古語拾遺という天皇家以外の勢力が記した史書に於いても、その内容のブレは同様に小さく保たれているのである。

下記の表は、神代記事の比較表である。先代旧事本紀は網羅的な内容であるため省いたが、四種の資料中、記紀、古語拾遺では、ほとんどのイベントが内容的に共通の記事となっている。



記事 日本書紀 古事記 古語拾遺 住吉大社
神代記
造化三神
神世七代
伊弉諾神伊弉册神
国産み
神産み
伊弉册神の死
伊弉諾神の黄泉逃れ
天照大神、素戔嗚、月読
根の国
高天原の誓約と暴挙
天岩戸隠れ
八頭おろち
素戔嗚と五十猛の植樹
大國主と八百万神
大國主と素戔嗚
大國主の神産み
大國主と少彦名神
天孫降臨
味耜高彦根
国譲り
日向三代



この比較表からわかることは、神代はどこか特定の氏族・勢力が伝え残した歴史ではなく、日本や旧事紀・古語拾遺を記した勢力が共通に属していた上位組織によって記された、その政府が独自に記した歴史であるということ。つまり、日本も他の氏族も上位勢力が伝え持った同じ「神代」という歴史を共有していた、そういう結論しか成り立たないことになる。
ではその上位組織とはどこか。答えはひとつしかない。弥生期以前から七世紀まで我が国の盟主であった国となると当然倭国である。これが理路である。

それは背理法によっても必ず辿り着く結論でもある。
神代が倭国の歴史でなく、日本でもいい、出雲でもいい、どこか一国の歴史であったとして考えてみるのである。そう仮定すると、必ずそれ以外の他国、或いは上位国である倭国の歴史が、同じような規模で並行して、それも国ごと、国の数だけ「神代」が残されていなければならないことになる。そのような「お話し」がどこかに残っているだろうか。
例えば、出雲に残る国引き神話や各国風土記の片隅にあるローカルな記録などのように、一度作られたものは必ず何らかの痕跡とともに残り、決して消し去ることは出来ない。国引き神話は倭国連合の一国であった出雲(大國)の歴史であって、統一倭国の歴史とは違う次元で進められたものだ。風土記に見られるそれぞれユニークな記事もどれもが地方政治を伝えるものである。そのレベルの歴史でさえ現在に至るまで消されずに残っているのである。神代がどこか一国の歴史であるならば、同時に他のどこかの国の神代も、風土記にあるような小さな記事ではなく、大きな「体系」として、また別種の「神代」という体裁で存在していなければならない。それが一切、どこにも残っていないことがすなわち神代が倭国の歴史から発祥していることを証明しているのである。

■国産みの舞台国家の興亡
国産みの舞台について検討してみる。これまで見落とされている重要なポイントである。

神代は天地開闢で始まると考えられている。世界にはまだ天も大地もなく混沌とした無が広がっていたと云う考えである。書紀も確かに「古天地未剖、陰陽不分」と一見混沌をうかがわせる書き出しで始まる。しかし、そういう意図は感じられるものの、事実はそうではなかったようだ。書紀はそこでも歴史を扱う態度として実に真摯である。伝わった記録を分け隔てなく収集し、そのまま記載しているのだ。書紀がわざわざ一書の体裁で書き残そうとした記録は以下である。

〔紀・一書第四〕高天原所生~名、曰天御中主尊。次高皇産霊尊。次~皇産霊尊。
〔紀・一書第十二〕伊弉諾・伊弉冉、二~、坐于高天原曰、當有國耶

古事記となるともっと簡明直截で、演出もせずストレートに事実を記述している。

〔記〕天地初發之時、於高天原成~名、天之御中主~。次高御産巣日~。次~産巣日~。

造化三神が成った場所を記紀は何処だと記しているだろうか。両書は共にその場所を「高天原」だとはっきりと書いている。つまり、神代は開闢を伝える物語と考えられていたが、混沌の世界に成ったのでなく、高天原というベースがしっかりあったことになるわけだ。

では、神が成る高天原という地はどのような場所であったのか。神代の記述によると、そこは、八百万神が合議を行う政治の舞台であり、素盞嗚神が水田を荒らした生産の地であり、まぎれもなく人が暮らしを営む現実の「大地」を有した領域だとされているのだ。三柱の神は「無」から生まれたのではなく、その時点ですでに「高天原」と名付けられた「認識された領域」に成ったことになるのである。そして三神に続き、神世七代まで「高天原」で産まれ続ける。
ただし、先にも書いたが、この「成る」「産む」という用語は親子のような血縁関係を示すのではく、むしろ帰属関係を表現するものである。造化三神から神世七代の関係もそれと同じである。内容そのものは天皇家系図、綏靖からの欠史八代のように、説話もなく、ただ神名の羅列で、神が次々と生まれてきただけに思えるが、そこで表現されている真の意味は、高天原という領域(政府)にいくつかの勢力が順に台頭(参政)してきた、そういう歴史を伝えているのである。

神代を倭国の歴史と云ったが、この国産みという短い説話の冒頭に後の倭国の勢力図がそっくり描かれていることに注目して欲しい。「名称」の構造に関しては「国号問題」の中で解説したが、神世七代に至るまでのすべての神の名は、後の世まで倭国を支え続けた勢力の「役職名」そのもので構成されているのである。

少し横道に逸れるが、その勢力構成に目を通してみよう。

○天御中主尊
「主」という官職は、大國主や事代主神、經津主などを輩出した勢力集団を指す。多くの一書がこの神を第一番に挙げていることから、倭国は原初より後の国譲りまでの期間(或いはそれ以降も)、「主」を最高位とする勢力が統括していた可能性があると云える。

○高皇産霊尊
この神は神武東征時には日神軍の首領として登場してくる。別表記で「高御産日」と書かれるように、官職・位階(以後、官位とす)が「むす+ひ」→「産+日」であることもこの神が「日神」の集団であることを表している。あの天照大神も「日神」集団に属していた経歴があるのだろう。そのため「大日貴神」と云う名を持つ。また、「日神」集団は、「日」に男女の別位を設けた「彦(日子)」「姫(日女)」の官位を組織に有しているが、魏志の長官名や隋書の大王名にその官位が見えることから、国譲りが契機とは言い切れないが、魏志の時代はまだ長官位でしかないが、その後、倭国内で力を増し、隋書の時代、倭王を輩出するまでの集団となったと考えられる。

○可美葦芽彦舅尊
この神は、表記上からはまったく関連性が見えにくいが、國之常立神や國狹槌尊と同族の神である。官職は「つち・ち」である。この「ち」はかなり古い起源を持つ語で、「おろち」や「みずち」など霊的な力を表す語としても使われる。また神代でも全域にわたって登場し、伊弉册神を焼いた軻遇突智神(かぐづち)、国譲りを迫った建甕槌神(たけみかづち)へとつながる重要かつ有力な集団であったと思われる。

○面足尊(おもたる)
面足尊は隋書にある天足彦の遠祖のひとつに相当する神だ。この神と天皇家の関係(婚姻など)は比較的早く、六代孝安天皇に始まり、一時途切れるが景行天皇に再び関係が築かれ、以後二代の間続いたようで、共に大足彦忍代別、稚足彦、足仲彦と「足(たらし)」の冠位を与えられている。そして、仲哀の妃が息長氏の姫である氣長足姫(~功皇后)となる。この集団に関して特記すべきは、天皇家の発展が「足」勢力との婚姻を契機に躍進するという点だ。垂仁まで彼らの妃の出身地は大和周辺の狭い範囲であったが、以降、丹波、紀伊、播磨など一気に広がるのである。「足」集団は、海洋氏族であるが、その繋がりが大きく役立ったのであろう。

○惶根尊(かえしね)
この神は最も「日本」との関わりが強いかもしれない。同族を列挙してみよう。思兼神(おもいかね)、阿遲高日子根(たかひこね)、劔根命(つるぎね)、天児屋根命(あまのこやね)と馴染みの神名が並ぶ。思兼神は云わずと知れた高皇産霊の右腕で八百万神の頂点に坐す高天原の高官である。阿遲高日子根は天孫降臨に登場し、劔根命は神武東征時の功績で葛城に坐した人物だ。そして藤原(中臣)氏の遠祖である天児屋根命(あまのこやね)は天孫降臨、神武東征、さらにその後の倭国統治に常に関わり続けた氏族である。

以上、原初の神について後の時代との関係に少し触れてみた。

この神代の記述をそのまま解釈すると、倭国の成り立ちというのは、天御中主尊の下に参集した集団の共同体から始まったと推察できるわけだ。そしてその舞台となっていたのは、記紀が供述するように「高天原」なのである。

ここで、一旦、神代の話題から離れて、客観的な資料として、古代における列島の人口遷移に関するデータを挟んでおきたい。もちろん国産み説話にも大いに関係がある。

■人口遷移が語る列島の勢力図
国力は生産力とそれを支える人口に比例する。技術的に大きく差がない縄文期において、列島の人口分布はそのまま地域の「力」を表すものとなる。
縄文から弥生にかけて人口がどのような変化を辿ったかを資料から見て行こう。
下図表はこれまでも様々な場面で紹介されているが、小山修三氏が、全国の遺跡の密度や質を基礎データに、地域特性・環境要素などを加えた数理モデルから算出した縄文から弥生時代の人口分布である。また、同データの数字を使って、次の図では人口推移を地域別の棒グラフにしてみた。


                 
縄文早期
(8100年前)
縄文前期
(5200年前)
縄文中期
(4300年前)
縄文後期
(3300年前)
縄文晩期
(2900年前)
弥生時代
(1800年前)
遺跡数 推定人口 遺跡数 推定人口 遺跡数 推定人口 遺跡数 推定人口 遺跡数 推定人口 遺跡数 推定人口
東北 249 2,000 801 19,200 1,945 46,700 1,824 43,800 1,645 39,500 597 33,400
関東 1,213 9,700 1,782 42,800 3,977 95,400 2,148 51,600 321 7,700 1,768 99,000
北陸 52 400 175 4,200 1,026 24,600 654 15,700 214 5,140 370 20,700
中部 377 3,000 1,055 25,300 2,995 71,900 918 22,000 250 6,000 1,503 84,200
東海 278 2,200 209 5,000 550 13,200 317 7,600 275 6,600 987 55,300
近畿 35 300 72 1,700 118 2,800 183 4,400 88 2,100 1,934 108,300
中国 53 400 54 1,300 51 1,200 98 2,400 84 2,000 1,050 58,800
四国 30 200 18 400 10 200 111 2,700 21 500 538 30,100
九州 243 1,900 233 5,600 221 5,300 419 10,100 261 6,300 1,877 105,100
全国合計 2,530 20,100 4,399 105,500 10,893 261,300 6,672 160,300 3,159 75,800 10,624 594,900
 





ただし、このデータは、発見済みの遺跡を対象とし、遺跡の数の多さが人口算出の基準となっているため、公平に地域ごとの人口ボリュームを物語るものではないと断っておきたい。
たとえば四国の人口を見ていただくと、縄文期を通して僅か200〜400人となっている。一般的に人口を試算する計算式には「人口支持力」というファクターが使われることが多い。環境が持つ食料供給能力や平野部の居住可能面積の比較などによってその地域でどれほどの規模の人口を支えられるかを算出するのである。その視点から見れば、四国が極端に他地域と劣っている点は認められない。海産物が豊かな漁場にも恵まれているし、平野部も少なくない。どの項目も西日本の他地域と四国の間に大きな差がないことを考えると、このデータが公平性を欠いていることがわかる。四国に限らず、他の地域にもそういった誤差があることも十分考えられる。多くの場面で引用される資料であるが、これがそのまま縄文期からの人口変移だったと云うことでなく、ひとつの目安と捉えて、人口ボリュームの相対的な規模を比較するデータとして活用するにとどめるのがいいかもしれない。本稿もそれを理解した上で、引用させていただいた。

このデータからはいろんなことが見えてくる。
紀元前5000年頃、九州南部を襲った鬼界カルデラ大噴火は九州に壊滅的な被害を及ぼし、その火山灰は遠く中国・四国地方まで届いた。その影響を裏付けるように、縄文中期に九州・四国地方の人口は激減しており、縄文早期・前期以前からすでに東日本に大きく偏っていた人口の比重が、さらに極端な差となって縄文後期まで続いている。その格差は、弥生期に全国的に人口分布が平均化されてきたことによってようやく解消されるが、これは、九州が再び生活の場となり、さらに稲作技術も陸稲から水稲へと進化し、水稲に適した気候の九州に稲作がいち早く根付いたことで、東日本優位であった食糧生産能力の地域格差が縮まったこと、またさらに縄文晩期から弥生にかけ気候の寒冷化に伴う環境変化が影響したこと、以上の要因がもたらした結果だと思われる。
人口推移のデータはもちろん単独で得られたものであるが、このように気象学や地学など科学データの結果と見事にリンクしているというのは当然とは云え、非常に興味深い。

さて、以上のように人口の推移を追ってみたが、何か感じることはないだろうか。わたしは人口データを初めて見た時、列島勢力の遷移として従来から語られている定説が頭に浮かんできて、おや、っと疑問を抱いたのだが。
われわれが聞き知っているのは、水稲の導入にからんで大陸から押し寄せた弥生人によって縄文人が駆逐された、そんな大変動が縄文から弥生時代にかけて起こったというシナリオである。
しかし、人口の推移を見る限り、列島の構造に影響を及ぼすような大きな変動が起こった表徴は微塵も表れておらず、列島は依然として、近畿から東日本の地域に依存した形で国力が保たれているのである。私がまず感じたのはそのことへの疑問だ。

「古田武彦を偲ぶ(13)」にて白村江の戦いに於ける遠征部隊が近畿・東日本からの徴兵によって成り立っていたことを指摘したと思うが、人口からの見た状況も白村江の歴史事実が示す結果を裏打ちしているということになるわけだ。
この符号は、弥生人の出生定説のような「思い付きの考え」とは質がまったく違う。事実と事実のシンクロという絶対的なものである。

ここでは詳細を紹介しきれないが、実は、今、導いた「日本列島は石器・縄文時代から弥生・古墳時代を通して近畿・東日本を中心に発展してきた」という考えを科学的に支持する研究結果が次々と示されている。
縄文人と弥生人に違いはあるかという問題に関する研究は「国立遺伝学研究所」によってなされているが、もちろん結果は従来の定説を否定するものだ。また稲作に関しても古代米のDNA鑑定により朝鮮半島との関係は皆無だとわかっており、朝鮮半島には日本の古墳期以前の稲作文化が見られず、今ではむしろ日本から稲作技術を学んだのではないかとさえ云われている。つまり、稲作と共に弥生人が朝鮮半島から渡ってきたという説はすべての根拠をすでに失っているのである。詳しいことを知りたい方はネットでググってもらえればいいだろう。

では以上のことを踏まえて、国産みへと話を戻すことにする。

■「なぜ」への解答
それでは、このテーマの冒頭に記した以下の「なぜ」の疑問に対する答えを導く作業を手短に行いたい。

(1)なぜ、国産みは「筑紫洲」ではなく、「淡路洲」から始まるのか。
(2)「大八洲國」の領域から東日本がなぜ抜け落ちているのか。


これまでのポイントを整理してみよう。

@神代は倭国の歴史である
A造化三神誕生時には、すでに高天原という領域が存在した。

神代からわかるのがこの二点であった。そこに前項で紹介した人口データからわかる歴史的事実を重ねてみよう。

B我が国は往古以来、東日本を中心として発展してきた。
さらに、中国の史書「論衡」にある次の記述からの事実も付け加えよう。

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第十八)
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五十八)

この記事からは

C縄文晩期、海外では我が国は倭国として認識されていた。

ということが示される。

以上、@〜Cのポイントが向かう先が同じベクトル上にあるのがわかるであろう。
そして、これだけわかりやすい条件が揃えば、二つの疑問点に対する答えは自ずと見えて来るのではないだろうか。
A国産みが何もない世界からではなく高天原と云う領域を起点に始まったことと、B縄文期から存在する国家があったということ。また、@Cその国家が「倭国」であったこと、以上を照らせば、答えは以下だと云わざるを得ない。

(1)の答え:大八洲から東日本が抜けているのは、そこが高天原と呼ばれた、すでに自国の領域だったから

(2)の答え:国産みが「淡路洲」から始まるのは、高天原領域に隣接する地を起点に国産みが行われたから

以上が答えである。考えるまでもない結果であろう。
一旦答えがわかると、大八洲國から東日本が抜け落ちているのは当然のことに思えてくるはずだ。抜け落ちている東日本こそ倭国の原領域だっただけのことだ。国産みとは文字通り、新たな領土を切り拓いてゆく行為である。その行為の対象から現時点の自国が抜け落ちているのは当たり前のことなのだ。そして、東日本を起点に領地を広げる、或いは他勢力と関係を結んでゆく際、最初に手を付ける場所がいきなり遠方の地となることは少ない。まずは隣接する地である。そして西日本統一を目論む時、拠点とするにふさわしい地は、交通の要所である難波津であることも自然なことだ。

下図はその過程を日本地図上に置いてみたものだ。
ただし、侵攻の順路は資料の記述に沿ったものだが、仮置きだと解釈してもらいたい。もちろん、実際の国産みも記録された順番通りに進んだのかもしれないが、侵攻の進路が一筆書きのような道筋を辿ったというのも現実的ではない気がする。高天原から放射状であったことも考えられる。また、侵攻と書いたが、それらが戦闘によって為されただけではなく、政治的な交渉で戦うことなく臣従させたこともあっただろう。いずれにせよ確実に云えることは、国産みとは、原・倭国に西日本の各地が服して行ったプロセスを伝えるものだということに尽きる。










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