「修身教授録」について
 さて半年の東京生活を了えて大阪へ帰ったわたくしの収穫は、研究所における講義内容などとは、まったく天地を距てるほどに違ったものであって、それは前にも述べたように、少なくとも研究所で接した東京の学者のほとんどは、耳を傾けて聴くに値いするほどのものはなかったということである。しかもそれでいて、自分らが首都にいるが故に、己れを高しとする傾向が、ほとんど共通的に見られたのである。かくしてわたくしの唯一の収穫は、真の学問は結局一地方にあって、絶対自立主体性を確立して生きる他なしということだったのである。
 そしてそのような考え方が、まず授業の上に現われたものが、即ちのちに「修身教授録」として公にせられたものである。
 即ち「修身教授録」は、わたくしが専任教諭として、大阪に移り住むことになったので、授業時間が多くなり、その為に、それまでほとんど専攻科の哲学と倫理だけを教えていたのが、今や本科生をも教えねばならなくなった所産である。しかし、それも最初のうちは、「専攻科生なら何とか、かつがつ教え甲斐もあろうが、本科の三年生(17才)などという程度の低い生徒たちに、何を話したって始まらぬではないか」と考えていたのが、一たん教えてみて、そうしたわたくしの考えが、いかに誤りだったがということが分って、わたくしは愕然として驚いたのである。
 即ち真の学問というものは、外側からは見えない地下工事的な最下の基盤から固めていったものでなければ、真の力にはなり難いことを、痛身徹骨知らしめられたわけである。
 かくしてわたくしは、一般には学問の都と考えられる京都の地を去って、唯一人大阪の地に住むことになり、天地の間ただ一人立つことになったと共に、さらに半年の東京生活によって、真の学問をするには、結局地方にあって、真実の生活をすることによってのみ可能だということに、ようやくにして目覚めそめたのである。
 尚この「修身教授録」が、のちに芦田恵之助先生によって世に出たさい、東京の人びとでいち早くその意義を認められたのは、前記の金原省吾氏であって、氏はわたくしに向って、「よし将来恩の形而上学≠読む人は少なくなっても、あなたの修身教授録≠読む人は絶えないでしょう」といわれ、当時のわたくしとしては、あまり有難くなかったが、自来三十年の歳月がたってみると、さすがにこのコトバは、ある程度当っているようである。
 また、その他では、池上幸二郎氏と森銑三の二氏があり、森銑三氏の一文は、本「全集」第十巻の「附篇」の中に収められているが、しかも森さんにこの書を紹介せられたのは、他ならぬ池上幸二郎氏である。森銑三氏が、わが国の徳川時代の学者に対する「人間研究」の上では、最高権威たることは、比較的に知られているが、池上氏は上総における崎門の学統の流を汲む人であって、和装本の国宝修理の権威として、その道の人には知られている方である。
 即ちわたくしのいわゆる真の「在野の読書人」である。(「森信三全集第25巻」209頁から)
 
再び「修身教授録」について
 さて「修身教授録」については、すでに述べたように、浜口内閣の緊縮政策のために、高給嘱託の整理を機として専任教諭となったが、しかし、専攻科の哲学と倫理だけでは授業時間が余るところから、本科一部生の修身科を教えることになったためである。
 では何ゆえ当時としては、ほとんど絶対視せられていた修身教科書を使用しないで、勝手に自分の考えを話したかという当時の事情の委曲については、すでに「全集」第八巻から第十巻までの「解説」に詳述したことゆえ、ここにはそれを繰り返えさないが、要するにわたくしとしては、いわゆる当らず触らずの微温湯みたいな当時の教科書を教えることは、だいいち生徒に対して気の毒であり、相すまぬと考えたが故であるが、同時にわたくし自身としても、そういうことには堪えられなかったからである。
 ではわたくしの話を、文々句々筆記して貰ったのはナゼかというと、それは教科書を使用しない以上、それに代るものを提供するのは、教師として当然の義務であると共に、さらに「森は検定教科書も使わないで、勝手な駄ボラを吹いているらしい」という非難に対して自己を守ると共に、さらに学校長に対しても、間接的に責任を負うという考えがあったのである。かくして、人生の生き方に対して、今や多少とも真摯に考え出したわたくしが、眼前に居並らぶ若い教え子たちに対して、人生の生き方のタネ蒔きをするつもりだったわけである。(「森信三全集第25巻」 213頁から)
 
森信三全集第25巻 218頁から
 同時にそのころの教育界では、芦田恵之助先生の「国語教育易行道」が世に出て、ひじょうに好評だったので、わたくしも早速一本を求めて拝見したところ、そこに書かれている教育観は、わたくしにとっては実に体質的な親近があるといってよく、全巻珠玉の好文字なのに驚いて、ついには一度先生の教壇を拝見したいと考えるようになり、最初に伺ったのが稲荷小学校だったのである。
 ところが何分にも天師における授業時間の間を車で往復した上に、多くの人々が取り巻いていたので先生とのご挨拶もいわば通り一辺のものであった。
 然るにその際わたくしのさし上げた「修身教授録」のプリントを後でご覧になられて、わたくしという人間の一端がお分り頂けたのであろう。
 その翌日か翌々日に、わたくしをお訪ね下さるとのことだったので、先生のような老大家には、わたくしの方からお訪ねすべきものと考えてその旨をお伝えし、当日鴫野校下の父兄の宅ではじめて先生と対座して、色々と話し合ったのであるが、今はその内容の記憶はない。しかしその後しばらくして、今度は先生が田辺の拙宅へお出でになられて、「修身教授録」をご令息の公平さんのやっていられる「同志同行社」で、ゼヒ出させてほしいとのことであったので、わたくしは次のような条件で、先生のご懇意をお受けすることにしたのである。
 その条件とは、(1)印税は一文もいらぬから、(2)その代り全五冊を出して頂きたい、ということであった。これはその後順調に行ったからよいようなものの、無名の一師範の教師の著書を、いかに無印税とはいえ、五冊揃えて出してほしいということは、ある意味ではこれほど非常識なことはないわけであるが、しかしわたくしをしてかような事を言わせたのは、実は「修身教授録」は、当時すでに自家出版で出すつもりで、大阪で五〇〇部、郷里の愛知県で三〇〇部くらいを予想していたからであって、つまりそのやり方によれば、全五冊を出すことは可能だったからである。しかるに「修身教授録」は、芦田先生のお蔭で、その後予想以上に読まれて、何でも五冊で十万冊くらいは出たとのことである。
 しかし最初の約束通り、わたくしは一文も印税は頂かなかったが、その代りにわたくしは、それに幾層倍もする無形の印税を頂いたわけであって、それは即ちわたくしのような者が、全国の心ある教育者とのご縁ができたということであって、それは戦後満洲から引き揚げて以来現在にも及んでいるわけである。                                     もどる