問題
宮沢賢治は孤立している、と言われる。確かにそうだ。彼の前後には彼が登場する流れを見出せない。では彼は突然変異なのか。何の必然もなく、神に呼び出され、再び召されたのであろうか。そうではない、というのがここでの仮説だ。
宮沢賢治という現象は、1920年代という時代に明滅していた。つまり、'20年代が生んだのだ。彼の周囲や前後に類縁を見出せないのは、日本で'20年代を呼吸したのが宮沢賢治一人だったということだ。
(ここで注しておきたいが、正しくは彼一人ではない。いま生き残っているのは彼一人だけだというのが正確だ。日本の'20年代人を発掘し降霊する作業はそれはそれで必要だろう。)
さて、その'20年代である。この10年間に限るのかと言えば、実はそうでもない。ただ'30年代以降とは違う。'29年からの世界恐慌、そしてこれへの対応が始まった'30年代とはやはり違う。では'20年代の手前はどうか。これはよい。'20年代で意味させようとしているのは20世紀の始まりなのだ。20世紀が始まり、ある頂点に達したのが'20年代の謂いである。
(この頂点とは、'10年代より総体として高いという相対的な高みである。'30年代につながっていく高まりはあるが、これは変質を始めたと見做しここでは除外する。なお、変質とは、新世紀の始まりという意識ではなくなったことをいう。)
1920年代の世界
さて、賢治の日本だ。当時日本は、日露戦争(1904〜05)を経て、第一次世界大戦(1914〜18)の好景気、大正デモクラシーの時代にあった。第一次世界大戦は拡大ヨーロッパの内戦という面が強かったので、遥か東方にあった日本は実戦には巻き込まれず、むしろ後方補給基地として経済活況を享受さえしていた。
いや、賢治の時代にとってそれ以上に枢要なことは、大正デモクラシーの性格にも散見されるような世界文化の共有という現象である。賢治は東北日本という地にあるからこそ見えるのだ、と言わんばかりに世界文化を自在に咀嚼、吸収していた。東京にあっては見えないものを確実に見ていた。
20世紀の始まり、ヨーロッパは奇妙な予感に包まれていた。世界は変わるかもしれない、という予感。途中に第一次世界大戦という大きな痛手を蒙りはしたが、このことはヨーロッパというものの限界を認識させ、むしろ世界意識を深めることとなった。
新世紀、来るべき未来がやっている。事実、世界は大変貌の予兆に満ちていた。たとえば、アインシュタインの相対性理論、プランクの量子力学、フォードによるモータリゼイション、ライト兄弟による飛行機の登場、等々。
とりわけ、芸術分野の百花斉放ぶりは凄まじかった。キュビスム、未来派、表現主義、ロシア・アヴァンギャルド、ダダイズム、シュルレアリスム、バウハウス、等々。
思想面でも、プラグマティズム、論理実証主義、神秘主義、深層心理学、現象学的存在論、構造主義言語学および記号論、等々。
そして、レーニンの、人類初のロシア・ソヴィエト革命!
科学・技術、芸術・文学、思想・宗教の各分野にわたり、われわれの20世紀はその輝かしい未来をラプソディー(狂詩曲)のように歌っていた。新世紀。まさに世界は、新たに始まろうとしていたのだ。
賢治は東北日本・イーハトブにいて、そんな新世紀の風を吸っていた。
「反文学」としての「心象スケッチ」
ここにある、デンマーク(アンゼルセン)−イギリス(L. キャロル)−インド(タゴール)−ロシア(トルストイ)−日本岩手県(宮沢賢治)、という連鎖は、賢治の世界意識の共有のあり方をよく示している。
賢治の詩や童話は、自ら「心象スケッチ」と呼び、一般的な分類を拒否している。実際、当時の日本の詩(北原白秋、萩原朔太郎、中原中也…)や童話(「赤い鳥」が典型)とは違う。賢治は「反文学」を志向していたのだ。
「反」とは何か。20世紀の始まりにおいて、世界を革命するために目指されたのは、前世紀までのやり方を捨て去り、ラジカルにゼロからやり直すことであった。そのためにまず、既成概念を破壊することが行われた。「反文学」、「反演劇」、「反芸術」等である。
賢治も、既成の言葉や分類では言えない「何者か」(こうとしか言いようがない)を目指し、「心象スケッチ」と呼んだのだ。
モダニズム、テクノロジーそしてエキゾチズム
賢治には、モダニズムがよく指摘される。テクノロジーとも親密だ。ここには機械や技術への信頼がある。20世紀は前世紀の科学の蓄積のもと、技術が花開いた時代である。先にあげた自動車や飛行機のほか、映画、無線通信、ラジオなども人類の前に始めて姿を現した。
賢治の世界に登場するのは、もう少し古目のテクノロジーたちだ。汽車、信号機、電信柱など。そして賢治の世界を支えるのは、当時の科学知識である。天文学、鉱物学、気象学、地質学、農学など。賢治は20世紀人として、テクノロジーによって世界を変えようとした、あるいは変えられると信じていた。たとえば「グスコーブドリの伝記」。
エキゾチズム。実はこれも20世紀始まりの世界文化だ。前世紀までの海洋志向が内陸志向に変わった。東アジア人のいう「西域」、ヨーロッパ人のいう「中央アジア」だ。ここに隣接する北インドとチベットもその対象となる。因みに、20世紀神秘主義の聖地は、北インド・ヒマラヤに位置づけられる「シャンバラ」だ。西域・中央アジアへは、ロシア・ソ連隊などが、日本からも大谷光瑞探検隊が向かっている(光瑞はのちに東京・築地本願寺建造のパトロンとなる)。
賢治の作品では「北守将軍と三人兄弟の医者」が西域物の代表作だ。思えば、賢治の心象ドリームランドは西域を中心に広がっている。内陸は、おそらく人間にとって、海洋以上に未知で不可思議・不可解なファンタジアなのだ。イーハトブ=陸奥(みちのく)も、未知のくにであり、内陸のくになのである。
カーニバルから四次元世界へ
始まりはカーニバルである。祭り、祝祭の時空間。永遠の現在(いま)であり、どこにもありどこにもない土地(ところ)。王が奴隷となり奴隷が王となる。男が女になり女が男になる。見えないものが見え、話せないものが話し出す。わからないことがわかり、わかることがわからなくなる。
そして、四次元世界。20世紀の四次元世界はファンタジーではない。アインシュタインという一人の男が取り出した科学だ。20世紀始まりのヨーロッパはこの四次元世界に本当に沸き立っていた。われわれにはわからない次元から未知の手が伸び、われわれの三次元世界に何かを入れたり出したりしている。そんな喩えで四次元世界が語られた。
その四次元世界から、われわれの三次元世界を見てみる。すると、どんなふうに世界は宇宙は映るであろうか。そういう思考実験が数多く行われた。とりわけ、芸術の分野において。
賢治の四次元宇宙もそういう思考実験といえる。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
詩集「春と修羅」序
ただ、賢治の四次元は仏教的だ。一つ一つの存在を、宇宙の大きな生命の照明現象と捉えている。
このように、20世紀の始まりはルネサンス時代であった。綜合の時代であり、全人芸術の時代であった。そういう全存在人(分業人が反対語)にとって、世界は変わらなければならないものであった。しかも、四次元的に。
賢治はロシア・ロヴィエト革命後、「羅須地人協会」なるものを構想する。その活動の中で賢治は述べている。
農民芸術の興隆(何故われらの芸術がいま起こらねばならないか)
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され 然も科学は冷たく暗い
芸術はいまわれらを離れ 然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善 若しくは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行きわれらの美をば創らねばならぬ
芸術もてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ来たってわれらと交れ 世界よ他意なきわれらを容れよ
「農民芸術概論綱要」
ここには、四次元世界における新しき人間像がある。
1920年代の運命とその後
最後に、1920年代、つまりは20世紀の始まりの運命を記しておく。
ドイツにはワイマール文化という美しい花が確かに咲いていたが、いつしか第三帝国下のナチス文化というあだ花へと変貌する。
ナチスも、'20年代を呼吸していた。だから世界を変えようとした、ロシアで見事に成功したように。しかし見果てぬ夢と終わった。世界は思い通りには変わらなかったのだ。
その後は、われわれの世紀は壮大な夢を失った、いや夢を捨てた。現代はナチスの悪夢とともに、20世紀の四次元革命の夢をも捨て去った時代である。始まりの特質はすべて失われた。こうして現在の、どこまでも人間的で、どこまでも見通せるつまらない世界が始まった。それは人間の外部がない、限界のない、しかし実は見えない城壁に囲まれた三次元の時代である。
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