F.W.N.
ニーチェ『脱糞への意志』
▼1889年の遺された断想から
現代の危機は人々の貧しさである。ただし、心の貧しさだ。社会主義にはそこにつけこんだ。しかし社会主義では心は豊かにはならない。ルサンチマンを誰かに向け直すだけだ。小さき人の団結なんて何にもならない。見よ。彼らの排泄行為は、なるたけ小さく少なくしようとしている。出すものなんて、大してないのにだ。彼らは守る。誰からも自分の何物も奪われないようにと。けっ、糞を守っていればよい。
「社会主義と排便」
▼1894年の遺された断想から
デカダンはよい。デカダンだけが、神の死後のニヒリズムのなかでの生き方である。だから朝からデカダンしよう。だらしなく、無益にすごそう。注意しろ、警戒しろ。役に立つものには、道徳の鎖がつながっている。奴らには糞をぶちかませ。君のとてつもなく大いなる糞を分け与えよ。デカダンの悪臭をいっぱいこめて。
「朝のデカダン」
▼1899年の遺された断想から
くそ、くそ、くそ! クソが出ねえ。しかし思うのである。エリーザベトはどこへ行った、私を置いて。砂漠か。蛇を探しにか。
……
大きな糞をすると、糞にふさわしい小さな理性なんか、いっしょに飛び出してしまう。人間は自分のすべてをひり出せばよい。大きな理性はひり出せない。
……
うーん、気張れ! そうして道徳の彼岸へ飛び出そう、糞の彼方へ。糞の歴史。大いなる者は、大便する。脱糞とは仏教の解脱、ニルバーナだ。その瞬間、その快感は高き山の頂での澄んだ空気のおいしさ。私は夢想する、世界最高の山頂で、わがツァラトゥストラとディオニソスと並んで尻を突出し、世界に向かって脱糞することを。
「大きな理性と大便」
〈Sils Maria〉
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