吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

1997年9月号
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なぜ夜に自転車のライトを点けないのか

 子どもたちは塾通いによく自転車を使う。夕方に出かけ、帰りは夜になる。自転車を飛ばして、それぞれの家路を疾走する。その際、ほとんどの子どもがライトを灯していないのだ。

 自転車は歩いている私に音もなく近づく。あるときは、目の前にふっと浮かび上がるように現れる。またあるときは、後ろに気配を感じたかと思うと、にゅっと現れ、たちまち横をすりぬけていく。ベルも鳴らさない。とても危ない。

 自転車にライトが備えられていないのか。そんなことはない。通りぬけるどの自転車にも、きちんと備えてある。

 ライトを点けるのは、自転車に乗っている自分の視界を確保するのが一つの目的だ。そういうことでは、いまの道は確かに明るい。車道を走る自動車のライト、店舗の照明などで、自転車のライトは点けずとも、行く道はわかるほどにはほの明るい。

 しかしである。夜間にライトを点ける目的はそれだけではない。自動車でも同様だが、相手(歩行者や対向車など)に自分の接近を知らせ、事前に注意を発する意味がある。なぜなら、自動車などは高速であっと言う間に相手にたちまち接近するからだ。車に比べ目立ちにくいオートバイが昼間でも点灯を義務づけられているのもそのためだ。

 だから、子どもたち、若い人たち(さらには中高年の人の場合もあるが)、これらの人たちは公衆感覚というか、周りの人に気を使う、気遣うということが足りないのだと考えてきた。自分の道さえわかればよい、という人たちなんだと思ってきた。

 それに、点灯しない人の心理もわからないでもない。現代はぶっそうな時代である。通行人が突然に凶悪な犯罪者に変貌しないとも限らない。なるべく見つからないように自分を隠しておいた方が安全である。ひとまず、暗闇に自分を紛れさせるのが得策である。事故はめったに起こらない。というような心理が働いているように思う。もちろん、点灯する動作がじゃまくさい、わずらわしいという気持ちも働くのだろう。

 ところが、ちょっと違うんではないか、という気持ちが最近湧いてきた。

 そんな気持ちになったのは次の二つのことからだった。

 一つは、テレビドラマ「水戸黄門」のある放送でである。このときのストーリーは、老舗の跡取りで放蕩三昧の息子がようやく改心するというものであった。世間という旧共同体を自分の環境世界として認識している年代層、また年齢は若くともこれを会社勤務などを通じて身につけた人たちには人情ドラマとして見るに耐え、時には涙を絞りさえする。

 が、世間という旧共同体を自分の環境世界として認識していない人たち、できない人たちにとっては、このドラマはなんと目に映るであろう。ふと、そう思ったのである。

 おそらく、ひどく不可解な物語と見えるのではないか。世間という幽霊を認識できない彼らには、ありもしないものに呪縛されている、あたかも宗教劇か何かのようなものとしか映らないのではないだろうか。

 最大の問題は、価値観あるいはエトスを異にする双方が相手の見えている世界、また見えていない世界を互いに知らないことであり、わからないということだ。見える世界が違う、言葉が通じないのである。

 言葉といえば、言葉の変容についても触れておきたい。これが二つ目のことがらである。

 若者の言葉が変わってきている。もちろん、はやりの短縮言葉とか荒っぽい言葉遣いというようなことを言いたいのではない。語用の変容とでも言うべきことが確かに起こっている。以前には現実としてなかった文脈が現れ、一方では以前あった文脈がもはや現実ではなくなっている。生活世界の状況が変容しているのだ。

 しかし、ここでも先に述べたことが当てはまる。つまり、古い世界に棲みなれた人たちには新しい語法はナンセンスだし(つまり見えていない)、子どもや若い人たちには新しい語法のようにしか世界は見えないのだ。われわれは一つの世界を二つの言葉で見ているのである。

 ここで本題に戻る。以上のようなことから、自転車のライトを点けないということも若者の世界認識が背景にあるのではないかと思うようになったのである。自転車のライトを点けないことにも必然性がなければならないはずだ。

 まず思いつくことは、社会感覚というか、他人との関係のあり方についてである。「水戸黄門」の部分で触れたが、若い人には「人情」がわからない。このことと、私が主張する「ライトは周りの人のために点けるものだ」が交差している。おそらく、若者にとっては明瞭に「ライトは周りの人のために点けるもの」ではないのだ。

 どういうことか。世間という共同体はもはや壊れて存在しない。かといって、新しい「社会」はまだない。そんな浮遊時空間を若者たちは自明のこととして生きている。少なくとも、世間や共同体はないのだ。だから、彼らには顧慮すべき「世間の人」は存在しない(もちろん、友人たちは世間の人ではない)。

 若者たちが自転車に乗って疾走するとき、彼らはたった一人きりなのだ…。

*   *   *   *   *
97.09.05 追記

 う〜ん。そうだろうか。なにかしっくり来ない。考え過ぎではないだろうか。

 それに人倫感覚は普遍的なものではないだろうか。それが彼らに固有に欠けているということはないはずだ。ではなぜか?

 一つ思い浮かんだのが、身体感覚的なことだ。それはヴィークル、乗り物に対する感覚のことだ。

 古い世代にとっては乗り物に乗ることは意識的な特別な行為だった。が、新しい世代には無意識的な歩行に近い感覚の行為になっているのではないだろうか。つまり、自転車に乗ることが歩行に近い非常に身近な動作となっている。だから、古い世代なら自転車に乗るときに「まずライトを点けて」と意識するところを、新世代は歩くようにそのまま駆け出すのではないだろうか。歩くときはライトを持ってないのが普通であろう。
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なぜ駅構内の喫煙ルールを守らないのか

 まず、状況を説明しよう。

 いま、駅構内では喫煙エリアを除いては禁煙というのが普通である。愛煙家にとっては、そこに行けば吸えるというだけで十分な福音である(なぜなら、全面禁煙てのも十分アリだからだ)。にもかかわらず、不届き者がいる。喫煙エリアでないところで吸う。もっとひどいのは、ラッシュの人込みの中、わざわざ改札口付近で火を点ける奴もいる。これじゃあ、嫌われるわいな。

 なぜか。わざわざ喫煙エリアまで行くのがじゃまくさい。なるほど。改札をまもなく出るのだからいいではないか。ふむふむ。ほんとにそうか?

 私には、格好をつけているとしか見えない。たかが私鉄がつくったそんなルールにハイハイそうですかなんてできるかよ、バーカ! って感じ。つまり、オレは自由だ。と言いたいのだ。そんなにエライ自由人なら不自由な電車になんて乗るな、バーカ。と私は言いたい。

 えーっ。それとも、禁断症状が出ている末期中毒者なのか!? なら、しかたないか。
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