吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

1997年10月号
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混雑した電車内での諸々の鬱憤

 電車の中ではいろいろな人たちと時間と空間を共有し合わなければならない。特に混雑した電車では文字どおり鼻をつき付け合うことさえある。しばらくのたびの道連れだ。できれば嫌な思いなぞはしたくない。しかしながら不届き者はいる。

 まず言わなければならないのは、読み物を広げる輩(やから)たちである。かつての王者、新聞を大きく広げるタイプは減った。近頃は文庫本や週刊誌を持ったタイプだ。これらの読み物は空いた空間を見つけうまく広げれば、狭いところでもじゃまにはならない。私が非難したいのは空いた空間を探さず、いきなり自分で読書空間を勝手に決め「縄張る」タイプだ。何で縄張るのか。自分の両腕と背中でである。

 彼らを観察してみよう。腕の方はわかると思うが、両ひじを狭めるのではなくかえって押し広げている。あと、ポイントは実は背中である。背中が後ろに反っている。これで前後左右すべての空間を縄張れたわけである。実に迷惑な話だ。

 次に、最近とみに多くなったリュックサックを取り上げよう。少し前には若い女性が持つ巨大な布バッグに非難の目が注がれたが、いまは見かけないな。どうしたんだろうか。
 さて、リュックサックを背負った若者たちである。リュックは両手が空いて実に便利がよい。それをわざわざ背から下ろし手に持つというのは愚の骨頂ということであろうか。背負ったリュックのふくらみが胸にあるいは背中に押し当たり、気になって仕方がない。不思議なことに押している方は一向に気にならない様子である。

 このものぐさリュック族は、縄張り読書輩に比べて「意志的ではない」というのが特徴だ。後者は自ら縄張りをこしらえねばならない。つまり意志をもってしている。それに比べ前者の場合は自然とリュックで他人を押している。どちらも結果として回りのひとを圧迫しているのだが、この意志の有無の差は微妙だ。ものぐさリュック族は「罪」を逃れようとしているように私には思える。

 三番目に、出入口駐在員を弾劾しよう(お、ちょっと過激!)。まだ後ろに乗り込む人が大勢いるのに、奥まで入らずとびら付近に居据わる連中だ。奥じゃなくそこがいいんだろうが実にじゃま。障害物以外の何物でもない。これが、すぐ降りるからそんなところにいるんだろうと思ったら、終点まで行く。

 降りるときもじゃまをする。本人はじゃまをしているつもりはないんだろうが、居場所を動かないからじゃまになる。押されても人の流れに必死にあらがう。「私は被害者だ」という表情であらがっている。わかちゃあいないんだ。嗚呼。
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved