吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

1998年8月号
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飛んで火に入る夏の虫--朝日新聞の反省

朝日新聞はとても反省しているようだ。まあ、それはそうだろう。戦争終結まではあれだけ好戦気分をあおってきたのだから、朝日新聞の戦後はまだまだ続くのだ。というわけで今年も反省特集をやっている。

8月13日の夕刊一面トップ記事だ。リードを紹介する。
「太平洋戦争の末期、日本空襲時に国内各地に不時着地し捕虜になった連合国飛行士のうち、少なくとも百五十人が憲兵隊や地元住民らに処刑されるなどしていたことが、京都府立向陽高校教諭、●●●さん(五〇)の調査でわかった。」(後略。教諭の名前は筆者が伏せ字にした)

捕虜の処刑は国際法違反だ。にもかかわらず、日本人は捕虜を処刑していた。
これを読んで朝日新聞は読者にどう思えと言うのだろう。「平成昭和研究所所長」の話として「背景には、敵を無条件で憎むように仕向けていた当時の政府の方針があった。」(一部引用)とはあるが、朝日新聞自身の意見は一切ない。トップ記事の扱いにしてははなはだ無責任ではないだろうか。

大見出しに「捕虜の飛行士、半数が帰れず」とあるくらいだから、おそらく--日本人が国際法を守らず殺した。ひいては日本人は戦争中、法を無視した非人道的な行為をしていた、という証拠が(また)見つかった。だから反省しろ--と言いたいのだろう。そのこと自体は反省すべきだろう。だからこそ朝日新聞も事実を報道したのだろう。

しかし事実しか報道しないのだ。53年以上前の出来事を事実しか報道しないということはどういうことだろう。読者に十分な理解をさせないことになるとは考えないのだろうか。たとえ現代に進行中の出来事であっても、解説なしには理解を誤ることが多くある。もちろん解説自体が誤ってしまうこともある。それでもあえてその時点でのベストを尽くすのが公器としての使命であろう。

残念ながら朝日新聞は、読者たる日本人には世代を越えての反省を強いながら、自らはそうはしないらしい。前代の朝日新聞と現世代の朝日新聞とは別ものらしい。勘ぐりをすれば、当時の状況の中でこの出来事を解説すれば、自らの非も白日のもとに晒さねばならぬと恐れたのであろうか。しかしそれでは真の反省にはならないだろう。せっかく毎年反省特集をしているのだから、もっと実のある報道をしてほしい。講読料を毎月払っている読者が満足いく記事を書いてほしいものだ。

参考までに不満の内容を記しておこう。一言でいうと、この記事は公平さを欠く。この記事では無条件に日本人は悪者だ。これは状況を無視した性悪論だ。第一に、捕虜についての国際法の知識もっている日本人が当時どれだけいただろうか。第二に国際法違反の無差別爆撃を受けて、その攻撃した敵兵を平時の態度で取り扱える人間が当時どれほど日本にいただろうか。

国際法の知識については敗戦直後の流言飛語が参考になる。アメリカ軍は女性を犯し男性を殺したり奴隷にしたりするだろうと言われ、日本は一時パニック状態になった。こんな日本人に戦争捕虜の取り扱いについて知識があったとはとても思えない。もちろんこれについてはたちまち「当時の政府の責任だ」というような非難があることは認める。

しかしその非難されるべき政府を作ったのは他ならぬ日本人であり、とりわけ報道機関などの責任は大きいのではないか。「だからみんなで反省!」という声が聞こえる。はいはいわかりました。すべて日本人が悪いと言うことが大事なのですね。でも、朝日新聞も悪かったとなぜ言わないですか。それはかえって、国際法を知らない愚かな日本人をまた作ることにつながりはしないのでしょうか。
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アメリカ世界帝国のお有難い「自民総裁選」指導

 ご存知のように、参院選惨敗を受けて自民党の橋本総裁が退陣を決意し、新総裁選びとなった。結局、総裁選となって、現小渕首相が誕生したわけだ。ひと月たったいま、参院選惨敗の背景となった状況、すなわち不良債権不況が続いている。問題解決はこれからだ。ところで、総裁選前夜のアメリカの動きをご存知だっただろうか。あなたはこれをどう評価されるだろうか。

 総裁選2日前、7月22日報道の米FBR長官グリーンスパン氏の発言。
 総裁選前日、7月23日の報道。
 これを「日本格下げ」と、日本のマスコミ自らが報道した。もちろん、未だに格下げしたとの発表はない。

 同日の報道。
 そして7月24日を迎え、総裁すなわち新首相は小渕氏に決まった。
 これら一連の官民合唱は、英仏独などの西欧諸国や中国などの大国に対しては、おそらく行なわない「指導」だろう。また、これらは日本経済のための「指導」ではない。あくまでアメリカ経済のためにあるべき、しかもアジア経済の中であるべき日本経済への「指導」である。
 ご期待どうり、小渕首相は「日本発の世界恐慌を起こしてはならない」と「世界」のために日夜奮闘されている。世界とは、もちろんアメリカ世界帝国のことだ。
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アメリカと日本では違う「政教分離」

 日本の戦後憲法は政教分離を謳っている。これはもちろんアメリカ仕込みだ。だからアメリカ合衆国も政教分離を憲法で謳っている(憲法修正第1条・1791年)。ここまではよい。
 まず、日本の問題を2つほど挙げよう。一つは、毎年問題になる国会議員の靖国神社参拝だ。もう一つは天皇代替わりの際の大葬と即位式典である。これらは神道という宗教に国家が荷担していること、具体的には国費が神社に支払われているということが問題になっている。
 ここでアメリカとイギリスの「政教分離」を紹介する。
 米大統領の就任式はキリスト教のミサ形式で行なわれる。牧師立ち会いのもと、聖書に手を乗せ宣誓する。もちろん、讃美歌斉唱や牧師の祈祷もある。大統領の演説でも、しきりに「神」が呼び出される。アメリカの紙幣と貨幣には「神」という文字が刻まれている。ワシントンのアーリントン墓地はキリスト教式のもので、米国会議員たちはよく参拝する。
 念のために言っておくが、歴代大統領と同じく現クリントン自身もキリスト教徒だ。就任式前には、あるキリスト教会にわざわざ立ち寄りもしている。就任式は国費で運営されているから、キリスト教牧師への報酬も国費だ。アーリントン墓地は国営管理されている。
 次に、イギリスだ。国王戴冠式はウェストミンスター寺院で行われる。だいたい女王自身、英国教会(もと国教)の首長だ。日本で言えば、天台宗法主とか本願寺宗主みたいなものだ。その人が女王なのだ。では、戴冠式の費用は女王の自腹だろうか。それとも、ウェストミンスター寺院の無償奉仕なのだろうか。
 ついでに言えば、ドイツには宗教を党名にまで盛り込んだ政党「キリスト教民主同盟」がある。同党は連立により、現在政権党である(蛇足。だから、元「公明党」はけち臭いことはせずに「創価党」でよいのである)。

 さて、改めて「政教分離」を定義しよう。政教分離とは、「個別教会と政府の分離」(Separation of Church and State)すなわち国教を定めないという意味であって、「政治と宗教の分離」(Separation of Politics and Religion)ではない。ちなみに、ヨーロッパの宗教戦争は国教制度によって引き起こされた。政教分離はこの教訓だ。

 では、日本ではどうなるのか。明治から戦前まで、日本は神道を国教化した(正しくはこのときに「国家神道」という宗教を作り出した。この神道はそれまでの神道的なものとは似て非なる別ものだ)。天皇が政教一致の体現者であった。国教の首長であり、政府国家の首長でもあったのだから。神社は国営となり、神官は公務員であった。
 いまはどうか。国教はなく、天皇は政府はおろか、神道の首長でもない。また、神社はすべて民営だ。アメリカあるいはイギリスと同様の状態なのだ。つまり政教は分離されている。
 結論として言えば、国家式典を宗教式典として行なうことには何ら問題がないわけだ。もちろん、靖国神社参拝も各人の自由に決まっている。ただし、これは国家行事ではないから玉串料は自費でなければだめだ(参拝を法律で国家行事とすれば、国費だ)。まあ、問題はこれらを国民の多数が支持するかどうか、法律に賛意を示すかどうかなのだが。
 繰り返すが、ある特定の宗教宗派の信仰だけしか国民に認めないこと、またその宗教宗派の信徒にのみ特権を与えることなどが国教(=政教一致)の意味なのである。

 だから、靖国神社参拝に関する中国や朝鮮などからの批判は「政教分離」問題ではない、と言える。その参拝する姿が単純に戦争当時を思い出させるのだ。これは理屈とは別の、困った問題である。嗚呼。
(なお、アジアにはヨーロッパとは異なる宗教観があると思うが、これは機会があれば別に論じたい。)
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Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved