吉外井戸のある村
M'S CLINICAL SOCIOLOGY

1998年10月号
All IndexTop Page

「劇場社会」の愚かしさ--和歌山市保険金詐欺疑惑事件の報道から

 あらかじめ断っておくが、この事件そのものについて書きたいわけではない。書きたいのは、書かねばならないのは、この事件をめぐる報道とその観客、そして「劇場社会」についてである。
 周知の通り、10月4日未明の容疑者夫妻逮捕より、堰を切ったようにこの事件に関する報道がテレビを中心に垂れ流し続けられている。この加熱ぶりは神戸のあの小学生連続殺害事件以来のことだろう。確かに社会的な影響が大きい事件ではある。例の「亜ヒ酸入りカレー事件」と微妙に関係する事件であるからだ。
 しかし、これから先は、私たち自身の有り様をいま一度振り返ったのちに進むこととしよう。

▼日本はいつから「劇場社会」となったか

 さて、いつの頃からだろうか、社会ネタ(記事)が「ニュース」となったのは。以前は「三面記事」という言葉がいささかの蔑みを含んでいた。ニュースとはあくまで政治や経済に関するような、「公の情報」のことであった。「私の事件」は、新聞の添え物として「三面」に載っていたわけである(これがいけないと言っているのではない。もう少しお付き合い願いたい)。
 二十六年前(1972年)になるが「浅間山荘事件」というものがあった。この初めて、テレビで「事件」が生中継された。このとき視聴者は「恐怖しながら」テレビを見ていた。「楽しんで」見るような余裕はなかった。少なくとも「観客」ではなかったはずだ。
 その後、二十二年前(1976年)になるが、ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕された。この頃からだろうか、日本社会が「劇場」と化していったのは。ちなみに、十四年前(1984)に写真週刊誌『フライデー』が創刊され、十一年前(1985年)にテレビ朝日『ニュース・ステーション』の放映が開始されているから、これまでには「日本の劇場化」の環境整備は完了している(1980年前後か)。

▼劇場社会の出し物とは

 劇場社会となった日本では、「ニュース」こそが最高の娯楽である(ニュースという意味の方がいつのまにか逆立ちしている。三面記事の事件こそがニュースである)。観客は娯楽を求めてニュースを見る(読む・聞く)ようになったのだ。各テレビ局なんぞは、さながら芝居小屋だ。客集めに四苦八苦した挙げ句、ウソさえもニュースだ。
 それでも、そんなニュースの基本は「事件」(社会ネタ)であった。しかし「田中角栄元首相逮捕」劇以降、それまであまりニュースにならなかった政治ネタも人物批評(政治家のこき下ろし)を中心に十分通用するようになった。また、「選挙速報」はマスコミ十八番(おはこ)の政治ネタだ(こんなもの娯楽でしかない)。さらには、長らくニュースとはならなかった経済ネタも、ついにバブル以降、ご存知のような状況だ。このところ、株価や円相場がニュース(=事件=劇場の出し物)にならない日がないくらいだ。

▼ニュースの野蛮さと麻薬性

 では、なぜニュースが娯楽となるのであろうか。それは「映画」ではないからだ。作り物(バーチャル・リアリティー)ではなく、いまや希少となった「生」の娯楽だからだ。生は「なま」であるとともに、生身の人間、現にいま生きている人間という意味だ。
 娯楽としてのニュースは「真偽」が問題ではない。「重要な」ニュースであるかどうかは、集客力があるかどうかだけだ。観客をいかに熱狂させるか。観客の喜怒哀楽をどれだけ激しく揺さぶることができるかだ(ベクトルの強度だけが問題で、どこを向いているかではない)。
 いまや、劇場社会・日本には、まことにありがたいことに世界中からニュースがやってくる(もちろん、勝手に入ってくるわけではなく、「報道機関」(マスコミ)が日本という劇場にニュースを引きずり込んでいるのだが)。ダイアナ元皇太子妃の事故死と葬儀、クリントン大統領のセックス・スキャンダルなど、国内事件以上の喧しさだ。これらの「報道」を「ニュース」として日本社会に垂れ流すことがどれほど愚かしいことか、読者諸賢はお考えになったことがあるだろうか。ニュースのからくり(知らなくてよいことを「ニュース」として流している)に気づいてもよい頃ではないだろうか。

▼劇場社会のおそろしい末路

 件の和歌山の事件がいま垂れ流されていることに、どれほどの意味があるだろうか。要するに私たちは覗き見を「させられて」いるのだ。これは恐ろしいことに麻薬のようなものだ。ニュースを見るという何気ない生活スタイルの中に、他人の生活を覗き見することを自分に習慣づけることが含まれているということなのだ。
 劇場社会は無用なニュースで、観客に退行的で退廃的な教訓を洗脳のように与える。すなわち、事件を起こすような人間や社会に関わってはいけない。自己防衛せよと。つまり、個人の孤立をますます強める効果をもたらしている。かえって、バーチャル・リアリティーへの逃げ込みを煽っているのである。そうして、現実の人間に涙したことのない人間が『タイタニック』という映画を観て、感動の涙を流しているのだ。

head

ギャンブルと日本人--ギャンブルで「自己責任」を学べるか

 先日、サッカーくじ法案が成立した。大方の国民が賛成だからだろう。これはいまの日本人の意識を表現していて、たいへん興味深い。今日はこれを肴にしてみたい。
 私の立場を表明しておく。サッカーくじには別に反対はしないが(賛成でもないが)、これで「自己責任」を学べるなんてバカなことを言うな、ということだ。

▼サッカーくじ推進論者の言い分

 まず、サッカーくじ推進論者の言い分をまとめておこう。ポイントは次の3つだ。
1.「ギャンブル=悪」は偏見にすぎない。犯罪に直接つながるわけではなく、健全な娯楽である。現にサッカーくじは、〈世界各国〉で健全に営まれている。
2.サッカーくじは、文部省所轄ではなく〈民営化〉すべきだ。スポーツ振興団体の自主財源とすることが、サッカーを(野球のような)過度のコマーシャリズムから守ることにもつながる。
3.サッカーの勝ち負けを考えることは、情報を収集・分析し、自主判断する人を育てることになる。(強弁すれば)サッカーくじは日本人に〈自己責任〉を育てる教育手段でもある。
(4.未成年者のくじ購入は、賛否論者とも反対。)

▼ギャンブルにもいろいろあって

 さて、ギャンブルと言えば何を連想するだろう。宝くじ、競馬、パチンコ、といったところがまず相場だ。ただし法律では、宝くじと競馬は「賭博」で、パチンコは「娯楽」である。それから、カジノ系の賭博としては、トランプ、ルーレット、スロット・マシーンなど、日本・東洋系の賭博としては、花札、サイコロ(ちんちろりん)、麻雀などがある。その他、野球や相撲の賭博など、まあ、賭博にしようと思えば何でもできる。
 本格的な賭博には「胴元」が存在する。宝くじでは政府や各自治体、競馬ではJRA(そして非合法のノミ屋)、パチンコやカジノでは店が胴元である。ところが賭博には、仕組みの作り方にもよるが、胴元にとって確実に儲かるものとそうとは限らないものとがある。
 たとえば、宝くじや競馬など(今回のサッカーくじもこの部類)は確実に儲かる、胴元にとって最も安全な賭博なのだ。これに比べると、パチンコは胴元にとって「絶対」安全とは言えない賭博だ(現実にはよく儲かってしかたないのだから、胴元にとっては「確実」な賭博だが)。ノミ屋やちんちろりんなんて、もう危ない危ない。まさに「博打」だ。

▼公営ギャンブルの論理と目的

 ご存知のように、宝くじや競馬賭博の「私営」は禁じられており、「公営」ギャンブルだけが認められている(パチンコなどの「娯楽」という抜け穴はあるが)。「私営」が違法であり「公営」が合法である論理はこうだ。
 私営ギャンブルの禁止とは、結局、胴元の禁止を意味する。なぜなら胴元は確実に儲かるからだ。このような稼ぎ方は社会の中でフェア(公平)ではない、というのが胴元禁止の根拠だ。
 では、賭け手の方はどうだろう。賭け手は全体としては儲からない仕組みになっている。だからこそ、少数の当たり組には大きな配当が返ってくるのだが。賭け手の側だけ見ると、絶対有利な儲け方ということはならない(むしろ自ら損をするためにしているようなものだ)ので、社会の中で儲け方としては公平だ(少なくとも不公平ではない)ということになる。そこで、公共団体が胴元の公営ギャンブルが成立するわけだ。
 つまりは、公営ギャンブルは絶対に儲かる収益事業にすぎない。早い話が、政府などの胴元に賭け手となった国民は巻き上げられているのだ。このサッカーくじでは誰が胴元になるか知らないが、そういうものだということだけはしっかり理解しておく必要がある。

▼ギャンブルはどういう社会的意味をもつか

 次に「ギャンブル=悪」論であるが、ギャンブルそのものに善悪はない。問題は胴元の存在とギャンブルによる「一攫千金型」人間の発生である。
 確実に儲かる度合いの高い賭博が、もし自由化されれば、暴力団は安泰であろう。もちろん、異業種からの大企業参入も必至である(話題の長銀が宝くじや競馬をすれば再建も夢ではない!?)。〈民営化〉とはそんなことではない、とすぐさま反論が返って来ようが。しかし、特定団体にこれを認めるということはそのようなことなのだ。「経営」体としてはマトモなものではないことだけはおわかり頂けると思う。
 宝くじでは必ず当選者がいる一方、それ以外の賭け手は損をしている。確率的に公平だとされる宝くじでも、買う戦略がある。ましてや競馬などでは知恵を絞って、勝ち馬を見つけるわけだ。それでも結局のところは、天を味方につけた者、運を手にした者だけが勝者となる。一喜一憂を楽しむ小さな賭けは確かに娯楽であろう。しかし、負けが込んでいるところに、一挙に大金をせしめた人を見た日には、今度は自分こそと思うのも人情であろう。かくして、絶えず一攫千金を夢見る人間が誕生する。
 ギャンブルは、こういう人間類型を恒常的に作り出さざるを得ない。少なくともそういう傾向性を与えざるを得ない。これはマトモなことであろうか。諸賢の判断を乞いたい。

▼日本人はギャンブルを楽しめない?

 ところで、「日本人はギャンブルを楽しめない。これは自己責任が身についていないせいだ」とノタマウ人がいる。
 この言い方は一種の強迫だ、と私は思う。ギャンブルを楽しめない人間は低級なのだろうか。自己責任ってそれほどすばらしい考え方なのだろうか。大いに疑問だ。
 確かに歴史的に見ると日本人にギャンブル志向は弱いだろう。たとえば、生業については商業より農業重視、すなわち農本主義的だった。額に汗してこつこつ積み上げるような生き方をよしとしてきた。そして、現代の国際経済でそれが通用しないこともわかる。しかしビジネスがギャンブルだとは思えない。
 まず、日本人の農本主義的な志向だが、これは「一攫千金型」人生の否定だと思う。この伝統もいまや揺らいではいるが。「アメリカン・ドリーム」はカリフォルニアでの金鉱発掘、次いで石油発掘の一攫千金に由来する。日本人は伝統的にはこれを志向しなかったのだ。

▼ギャンブルはビジネスの母か

 次に、ビジネスとギャンブルだが、基本性格としてビジネスは主体的な活動であり、これに対してギャンブルは客体的なものだ。宝くじや競馬では、賭けに参加することを除けば、全く客体に依存する。パチンコでは玉を打つという主体的な行為は確かにあるが、これにより客体が変化することはない。一方、ビジネスは主体的な行為により客体を変化させる活動だ。
 実際、大企業家とは賭博としてのビジネスに成功した者のことだ、とは誰も言わないだろう。確かにビジネスにも大きな岐路となるような重要な判断があるだろう。それが予測不可能で、いわゆる「賭け」とならざるを得ないこともあろう。しかしそれが常態では決してないはずだ。
 もしそのようなビジネスがあるとすれば、現在の国際経済の有り様こそがそうである。重商主義から資本主義を立ち上げた西欧経済は株式や為替相場という投機的な経済を育てたが、いまやそれは「カジノ資本主義」とでも呼ぶべき化け物と豹変しているのだから。
 冷静に思い起こそう。経済は投機的もの、ギャンブルであったか。我が国の近代企業家の端緒と言ってよい旧三井財閥の始祖・高利は一か八かで商売したのだろうか。運を天になぞ任さず、主客の条件をよく判断し、主体的に人事を尽くした結果が成功につながったにすぎない。言わば、成功するべくして成功したのだ。もちろん、これ自体が凡人のなし得ることではないが。
 西欧においてもそうであったはずだ。保険すら、統計的な計算ずくで行なわれてきた。決して、どうなるかわからないというようなギャンブルとは根本的に異なるビジネスだ。少なくとも、そうであった。

▼サッカーくじは自己責任を育てるか

 人によれば、西欧ではギャンブルを娯楽とし、しかもそれが自己責任も育てているそうだが、本当にそうだろうか。これも冷静に考えてみよう。
 事実として、西欧ではそれなりにギャンブルが盛んなのだろう、また庶民はこれを娯楽として楽しんでいるのだろう(日本でもすでにそうだとも言えるが)。しかし果たして、これが人生を豊かにしているのだろうか。もちろん、幸福なぞ一義には定義できるわけもないので、それはそれでよい。ギャンブルは庶民の楽しみ、娯楽としてよい。が、勧めるべき娯楽だろうか。積極的には勧めるべきものではないからこそ、未成年には「娯楽」にすぎないパチンコをも含めて禁止されているのではないのか。
 さらに言えば、ギャンブルがもし本当に〈自己責任〉を育てる教育的に有用なものなら、親が金を出してでも、未成年者にこそ是非ギャンブルは奨励されるべきものだろうに。

▼自己責任論の本質とは何か

 それにしても、この流行りの〈自己責任〉は何としよう。言葉はカッコイイがその内実は、日本では無関心の理屈づけにすぎないし、アメリカでは自分勝手の横暴の表現にすぎない。
 アメリカは〈自己責任〉でイラクに攻め込み、スーダンにミサイルを打ち込んだ。日本では〈自己責任〉で自殺し、〈自己責任〉で人を殺す。〈自己責任〉で脳死を死と認め、生きた臓器を提供する。まことにお目出たい限りだ。
 自己責任。これが「無責任ではない」という意味なら何ら異論はない。自分の行為には責任を持つべきだ。しかし自分で責任をとるから何をしてもよい、という開き直りを意味するなら、話は違う。それはかえって無責任だ、と私は思う。
 人間には残念ながら、責任を取り切れないことが数多くある。自己責任論とは、つまるところ、自分をあるいは世界を人間がコントロールできるという思想なのだ。
 でも、明らかなように人間は自然環境をコントロールできないし、一国の経済(崩壊した旧ソ連を見よ)はおろか、世界経済なぞコントロールできるはずもない。
 個人としてでもまた人類としてでも、その人間に本当に責任がとれることには自己責任があるべきだろう。しかし、これが万能ではないことははっきりと認識しておかなければならない。
 結論として、駄目を押しておく。私も認めるが、ギャンブルは直接犯罪にはむすびつかない。が、これと同様に、ギャンブルも自己責任の教育には直接つながらないのだ。当たり前のことだ。

▼西欧模倣主義は無用だ

 最後に、日本以外の国で、特に西欧で盛んなことを我が国に導入しなけれなならない必然性は何もない。また、民営化が成功するという保証はないし、ましてやその万能論の如きはアホの言い草だ。自己の言うことに責任をとれない者が誰かに責任を押しつけているのが、嘆かわしいことながら、いまの日本の姿である。

head


◆ 読者からのご意見 ◆

Andy Ohwada 様 から

前略、
 初めてメール差し上げます。貴メールを楽しませて戴いています。以下引用しましたが[mansonge 注:略]、間違いがあると思います。
 競馬事業が赤字に悩んでいます。取材をして見て下さい。日経ビジネス誌でも、地方自治体の赤字問題として最近取り上げられました。
 「公営ギャンブルは絶対に儲かる.............」と言うのは神話です。私に言わせれば、役人は無能なビジネスマンと言えます。役所がビジネスをやって成功するのは経済が大成長のさなかであって順風な時にかぎられます。
 依って、サッカーくじを成功させるには、民間に運営させなければ大赤字になって税金の補填が必要になります.......と私は思っています。
草々
head

Copyright(c)1998.06.27,Institute of Anthropology, par Mansonge,All rights reserved